4. 人魚が空から落ちていく
◆
人間のちっぽけな処理能力は、日々無数に起きる自殺を凡庸な悲劇とくくってしまう。それぞれにどんな理由があって、どのような状況で死を選んだのか、ことごとく汲み取れるのは神さまの所業だ。仕方ない。
日本が自殺大国と呼ばれ、自殺者が珍しいものではなくなっても、その一つ一つには命の重みがかかっている。
数の飽和は苦しみを薄めない。薄くならないから、人は凡庸のレッテルに逃げなきゃいけない。あたしもそっち側にいられれば良かった。経済だの政治だの天災だのの不安がありつつも、平穏で退屈な毎日が続けば。
甘泉カナの死でそれは終わった。
自殺志願者へのお約束として、〝遺される側の気持ちを考えろ〟ってやつ。あたしはその気持ち、よぉーく知っている。知ってて、これを選ぶ。
生きていなければ、カナのことを思い出すことさえできない?
そうかもしれない。でも、思い出は劣化していく。色あせて、ぼやけて、勘違いして、生きてるあたしの新陳代謝にのみ込まれて、心の垢になって散っちまう。
あたしはそれが嫌なんだ。
思い出すことも忘れることも怖いから、でっかい汚いカサブタの下で、もういないあいつの思い出が殺される前に、あたしはこの世から消えてやる。
やり残したたった一つのことを終えれば、もう何も怖くない。
◆
人魚が空から落ちていく。海に還ることのない魚身が、月の光にきらめいて。水に広がるような青い血を引きながら。
あたしの顎の下で、人魚の白い体がボロボロと崩れていくのが分かった。タンパク質を感じさせない物質が、軽い泡のようにちぎれて上へ飛ばされていく。
人魚姫は泡になって消えたんだ。カナの人魚も、このまま泡になればいい。あたしは、あたしじゃなくなるままに、カナの思い出といっしょに消えていく。
だってあたしの親友は死んだんだ。いいことも悪いことも出来なくなって、いいことも悪いことも起きなくなることは、死の絶望的な所であり救いでもある。
それを、渡し守は勝手にカナを剥製にして、人魚に変えて穢した。この空を見上げるたび、あたしの思い出のカナは、人魚になった嘘のカナで上書きされてしまう。
あの存在を知ったまま、生きていくことも、他の場所で死ぬこともあたしには出来なかった。だから、あたし自身が人魚になってでも、そいつを葬ってやる。
(人魚の血って、魚の味じゃないんだ)
強いていえば植物をすり潰した汁。もしかしたら、紫陽花の葉や花や茎から、こういうのが作れるのかもしれない。
あたしとカナの人魚はかなり高いところまで昇っていて、黒い小舟と渡し守の姿が見えるまでしばらくかかった。
あいつはまさかこんなことされるとは思っていなかったらしく、フードと前髪に隠れた顔は、それでもびっくりして見えた。
なんて爽快な気分だろう。抱きしめたカナの人魚はもうほとんど形が残っていなくて、あたしはどんどん地面が近づいていくのを心待ちにしていく。
世界がぜんぶ吹っ飛ぶような衝撃があった。
宇宙が始まる前みたいに真っ暗になった。
それなのに、あたしはまた目を覚ました。
「君、何をしているんだ!」
顔を照らす懐中電灯のまぶしさにうめく。体が重たくて、これが生きてる人間かと呆然とした。いつの間にか雨が降っていて、濡れた制服が冷たく気持ち悪い。
――人魚って――もしかして、生き返ったり、できる?
――体が残っているならそれも出来るかもね。
なんてことだ。ああ、なんてことだ。
あたしは屋上で寝っ転がっていて、知らない背広のおっさんに顔を覗きこまれていた。この雑居ビルの中で見かけた、テナントの従業員だろうか。
おっさんは怒ってると言うより、心配しているような様子で、親切そうに「立てるか?」と訊いてくる。あたしは立ち上がろうとして、足にまったく力がはいらず転んでしまった。膝を打つコンクリートの鈍い痛みが走る。
現実だ。ほんとうに生きている。陸から上がった人魚姫みたいに、足がぜんぜん言うことを聞かない。
渡し守も、人魚たちも、もうどこにも見えなかった。
そこからは、あれよあれよと大騒ぎだ。しゃべろうとしても口が上手く動かなくて、頭もぼうっとして、いつもより夜勤が早めに終わった母が遺書を見つけた。しばらく学校を休んで、慌ただしく、そして静かに毎日が過ぎていく。
あたしは完全に、死ぬ機会を逃してしまった。その間に、心のカサブタはゆっくり治ってしまっているらしい。
ああ、神さま。
それでも生きろって言うんですか。
立ち直ってしまえなんて、お願いだから言わないで。
タキシードミー・マーメイド 雨藤フラシ @Ankhlore
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