3. 紫陽花タブレット


 あたしは立ち直るのが怖い。過去形でカナを語るしかなくなったことに慣れて、あいつがいないことが当たり前になって、ろくに思い出しもしなくなることが。

 あいつのことをふと考えて、「そっか、死んじゃったんだ」と苦しい気持ちになってしまう方が、最初からいないものとしてしまうより、ずっとずっとマシだ。


 死んだものはどこにもいないんだ。本当に、宇宙の果てまで行っても、どんなに銀河の彼方まで探しても。あたしが知らない所で、あたしがいない所で、寝てたりソシャゲしたり音楽聞いたりラーメン食べてたりしていたのは、生きていた間だけ。もう、何もしていない。どこにもいない。なんにもない。あいつはいいことも悪いこともできなくなったし、いいことも悪いことも起こらなくなった。


 死ぬって、そういうことだ。決して取り返しがつかない永遠の欠損。

 喪失、とも言うか。その単純な原理が、カードゲームのジョーカーみたいな、特殊なタグみたいな、唯一無二の絶対ルールが、耐えられない。


 だから天国とか宗教とか、人間はいっしょうけんめい〝死んだ人は今もどこかにいるかも〟〝私のことを見守ってくれているかも〟と自分をなぐさめたんだ。

 現代以前の社会は命が軽い世界で、実際に子どもはよく死ぬし、ヨボヨボのご老体まで生き延びるのが難しかったりしたけれど、そんな世界でも一人一人が向き合う誰かの死はつらかったんだろう。


 でも、あたしには不要だ。もし奇跡が起きるなら、事故の瞬間あいつの隣にタイムトラベル&テレポートしていっしょに死にたい。

 嘘、あいつが実は死んでませんでしたー、って、ひょっこり出てきて欲しい。



「あたしだって、死ぬのは怖いんだ。でもそれ以上に、カナがいないこの先を生きていくのが怖いんだ。そんなことはしたくないし、生きなくていいなら何でもする。となったら、死ぬしかないじゃん?」


 泣きもせずにあたしはベラベラとしゃべり倒した。渡し守は真っ直ぐ立てたオールのしっぽに顎を乗せて、フーンとそれを聞いていた。

 あたしが息つぎのために言葉を切り、もうだいたい言ったかなと思った所で、彼が発言権を取る。


「カナ、というのは君の親友だね。フルネームを聞いてもいいかな」

「……甘泉カナ」


 聞いてどうするのだろうと思いながら答えた。


「お嬢さん、その親友、ここにいますよ」


 え、と狼狽したあたしの声は、どれだけ間抜けだっただろう。よっこいせ、と渡し守はオールにもたれていた体を起こし、背筋を真っ直ぐ伸ばしてカンテラを掲げた。

 青い光がちかっちかっと信号のように点滅して、遠くから徐々に一匹の人魚が近づいてくる。それは、忘れもしない、見間違えるはずがない。

 きちっと切りそろえた茶色いおかっぱ頭に、そばかすの散った小さな顔。あたしもほとんど見たことのない裸の上半身は、あばらが浮いていた。


 その下半身は、生前のカナとはまるで違う魚に置き換わっている。近くで見ると、銀色だと思った鱗には真珠のような虹の輝きが乗っていた。

 ああ、カナ。お前こんな所でおっぱい出して。もっと小さいと思ったらちゃんと丸みがあるな。人魚ってへそは消えないんだな。そんな、どうでもいいことばかり、ポンポンポンポン頭に沸いてくる。渡し守はさぞかし勝ち誇っただろう。


「君が人魚になってくれるなら、もう親友とはお別れしなくていい」

「なんてこった」


 あたしはそれしか言えなかった。なんてこった、なんてこった!

 心がすうっと冷えていく。かちかちと脳が静かに確実にこの後どうしよう、という手順をはじき出して、あたしは一も二もなくそのプランに従うことを決めた。

 カナの人魚は自由気ままに、再びどこか離れた場所を回遊しに行ってしまう。


「人魚って――もしかして、生き返ったり、できる?」


 あんまり期待せず、あたしは悪あがきに訊いてみた。


「体が残っているならそれも出来るかもね。幽体離脱の場合なら、そうだ。でも、生き返れるものを俺はコレクションしたりはしない。言っただろ、剥製だって」

「そっか」


 念のため懸念事項をつぶしてせいせいする。もう迷う理由はなかった。


「分かった、あたしは今すぐ人魚になりたい。死んでから、どのぐらいかかるの?」

「やった!」


 渡し守は小さくガッツポーズした。うざったいが、放っておこう。


「生きてる内から人魚になるって言ってくれるなら、俺から薬を渡すよ。それを飲むと息が止まって、魂が抜け出る。体が完全に死ぬまでは、しばらく人魚になった君のまま意識が続くから、少しの間は親友とも空で逢える。楽しんで」

「良かった」


 それだけ聞けば、何の問題もない。


「じゃあ、カナの人魚を近くに呼んでくれる?」

「お安いご用さ」


 再び掲げられたカンテラの青い光は、水中から見上げる太陽のように美しかった。


「これで君と親友は、永遠に一緒だ」


 渡し守が出した薬は、紫陽花の形をした青紫色のタブレットだった。味気ない錠剤でいいのに、変なところで凝っている。それとも、この形にも意味はあるのか。

 これを飲めば、あたしはすぐに死んで、人魚になる。


 水なしで大丈夫だよと言われ、口に入れるとすぐ溶けた。花のようなほの甘い味と、かすかな潮の香りが広がる唾液を、ごくりと飲み下す。

 一秒、二秒、数えていると、ふと数字が分からなくなるほど眠くて、あたしは自分が崩れ落ちたことにも気づけなかった。


 眠気が覚めると、あたしは鉄柵の少し上に浮かんで、寝転がった自分自身を見下ろしている。体の中身が空っぽになったように軽くて、ふわふわと現実感がない。

 自分と世界の間に一枚膜が貼りついて、あらゆる感覚が遠ざけられてしまったような、夢の中のような気持ち。寒くも暑くもなくて、頭がぼうっとする。

 足を動かそうとして、視界の端に大きな魚のひれが見えた。魚の体でどうやって動けばいいのだろうと思ったけれど、あたしの体は――いや、魂は、もう泳ぎ方を知っているらしい。少しその場を回ってみると、思った通りの場所に動かせる。


(カナ)


 あたしの体が死ぬまで、どのぐらいの時間が残されているかは分からない。少なくとも数時間は大丈夫だと渡し守は言っていたが、個人差も大きいそうだ。

 目の前にいるカナの人魚に、あたしはゆっくりと近づいた。空中に真っ直ぐ立って、幸せそうにニコニコしている。

 手を伸ばすと、真似するようにあちらも手を出した。指を絡めて引っぱると、何の抵抗もなくカナの人魚はあたしの胸にすっぽり収まる。

 以前は感じたシャンプーの匂いはしない。その代わりに、どこか紫陽花のような青臭い花の香りがただよった気がした。


(カナ、あんた、こんな所で何やってんの)


 こうなったのは渡し守のせいだけれど。少しだけ彼女に逢えて良かった。あたしはぎゅっとカナの人魚を抱えて、くるくるとその場で回りながら空へと昇っていく。

 尾ひれが互いに絡まって、鱗ごしに伝わる魚身の存在感に不思議な気持ちになった。二足歩行の生き物とは違う、しなやかに流れるような構造物。

 裸でカナを抱きしめているはずなのに、視界以外ぼやけた感覚では、服を着ているみたいに生々しさがなかった。


 茶色い髪に手を入れて、指の間をさらさらとこぼれる毛の感触を必死で拾う。もう火葬場で燃えてしまった、存在しないはずのもの。

 人形のように無抵抗なカナの人魚から少し体を離し、あたしはその顎をつかんだ。くい、と上向かせると、白い喉が月明かりに照らし出される。

 その喉笛へ、あたしは力の限り噛みついた。

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