2. 渡し守のアクアリウム
「説明するより見てもらった方が早いよね。ほら、あれ」
あたしが反応できないでいると、渡し守は小舟に置いてあったカンテラを持ち上げた。高く掲げられたその明かりを追うと、上の方を何かが横切る。
鳥にしては、もっとゆっくりとして、ぬるりとした動きだ。
「上をぐるっと見回してみてよ」
渡し守のカンテラから、放射状に柔らかな光が広がった。黄色い火の色が、海のような青に染まって、じめじめした梅雨の夜空を染め上げる。
あたしは思わず、自分がどこに立っているか混乱して低い柵を握りしめた。金属の冷たさが、ぺとりと手のひらにくっついても、どこか遠い感触。
青い光に夜空は晴れて、星がきらめく中に、たくさんの人魚が泳いでいた。
あたしの頭のずっと上で、流れるような曲線を描く体が、三日月のような尾ひれを持つ魚身をくっつけて、思い思いに動き回っている。
水も足場もない場所を、カエルみたいに両手でかいたり、氷の上みたいにすべったり、さらにクラゲみたいにふわふわ漂って、どんな姿勢も思うがまま。
泥じみた灰色の町には目もくれず、涼やかに澄んだ空の上で、ゆっくりと沈んだり浮いたりして、ひどく気持ちよさそうだった。
歳はあたしとそう変わらない。当然のようにみんな裸だけれど、いやらしいと言うよりは、それが自然なことに思えた。ぱっと見た感じ、三十人ぐらいはいそうだ。
渡し守が嬉しそうに言う。
「本物の人魚は空に棲むんだ」
魚は海に、人は陸に。ならば、その両方である人魚は陸でも海でもなく空に。そう考えると納得はいく。
「人魚って、人間がなるものなの?」
「だって、あれは魂の
剥製、という言葉が意外だった。
「だから俺のことを剥製師と呼ぶやつもいる。個人的には、渡し守の方が好きかな。人間の岸辺から、人魚の岸辺へご案内」
「それより、魂を剥製にするって、どういうこと?」
自殺しにここへ来たのに、さすがに異常事態すぎて、あたしは一旦それを置いておくことにした。死後の世界だの霊魂だのが実在するなら、自分の死に方について考え直す必要がある。あたしは死後に存在し続けたくないのだ。
「幽体離脱って聞いたことあるかな? 生きている間に魂が抜けて、勝手に動き出すってやつ。人から抜けた魂が、動物や虫、そして人魚の形を取ることがある」
怪談か昔話で聞いたことがある。蝶々は人の魂だ、とか。
「体が生きているからそのうち戻るけど、世の中にはそれを捕まえて、変身した形に固定してコレクションする悪い連中がいるんだ。俺は違うけど」
「どう違うの」
「死んだ人の魂だけもらっています」
渡し守は偉そうに胸をそらした。イラッとして、舌打ちする気持ちで口を開く。
「勝手に魂持っていくなよ」
「そう言われてもね。体は君たちが法律でちゃんと管理してお葬式しているけど、魂は放ったらかしじゃないか。死んでいるから、もう本人の意志もないしね」
「えっ」
魂があることと、死後も意識が続くことは別なのか。
「どういうこと?」
「生命は総合的な現象だろう。手や足や内臓みたいにバラバラのパーツに分けることは出来るけど、すべてのパーツや霊魂がそろって、初めて一つの人格を形成する。だから魂と体が別々に分かれた時点で、それはもう元の命じゃないんだ」
「そんなの、魂なんて言っても物と同じじゃない」
「魂はただの物質だよ。まだあんまり知られてないけど」
「じゃあ、何のために魂があるの!」
私は思わず叫んでいた。この世の幽霊や怪奇現象が魂の実在から起きているとすれば、なんて興奮していたのに。
もしかしたら、またカナの魂に会えるかもしれないと思ったのに。
「魂がなぜあるかは俺も知らない。ただ、あるからには自然界で何かの役割を果たしているんだろうさ。もしかしたら輪廻転生というのも、人間の魂が微生物の魂に分解されて、また還元されていくことかもしれないな」
人魚が泳ぐ夜空を見上げる。彼女たちが銀色の魚身をくねらせると、カンテラの青がきらきらと冷たく反射した。長い髪は穏やかな風にふわりと広がって、重力の縛めも、社会のしがらみも、何もない自由を満喫しているようだ。
分厚いガラスにへだてられた水族館の魚とは違った、もっと間近に迫った自分とは異なる生き物の息吹きを感じる。あたしが立っている所から、ほんの50mか、100m上空。天国みたいな景色の中、活き活きと躍動する綺麗な剥製たち。
「……人魚って、何をやるの?」
「別に。泳ぐだけ。死んだ時に人間もやめているから、人間らしいことは何もしない。しゃべったり、考えたり、食べたり、寝たり。この空にはクジラやサメもいるから、襲われたら殺されることもあるけどね。死にたいほど辛いなら、どうかな」
渡し守はこちらを覗きこむように、背をかがめた。何の邪気もない単純さと、己の愛しているものを心ゆくまで味わおうとする、貪欲さの混ざり合った青い瞳。
「君はきっと美しい人魚になる。つやつやした長い黒髪、裏側に汚れを溜めていない透き通った肌、水鳥みたいにすっきりした体つき。素晴らしい!」
そういう自分好みの死者を集めて、上半身裸、下半身魚の人魚に変え、それが自由に泳いでる様を見て悦に浸る。かなり気持ちが悪い。
仕事だか趣味だか知らないが、こいつは剥製集めが大好きなのは分かった。
「死ぬ方法は君にお任せするけど、苦しまず綺麗にやる方法なら知っているから、手伝ってもいい。人魚になってくれるかな?」
「お断りします」
この空を泳ぐ三十数匹の人魚たちは、つまり渡し守のアクアリウムなのだ。死んだ後こいつのペットになるなんて、絶対にごめんだった。
「こっちは一人で勝手に死ぬんで、あたしの魂も人魚にしないで。生前にちゃんと断っていれば、OKでしょ?」
「ンン……それはそうだけど。じゃあ、俺は放っておけないなあ。人魚になってくれるなら別だけど、君みたいな若い子が世をはかなんで死ぬのは悲劇だ!」
「はぁ?」
しまった、こいつ自分の趣味以外にはまともな善人でいたいらしい。今日は家に帰って出直そうか。改めて、他にちょうど良い死に場所を探すのは面倒だった。
「そもそも、なんで死にたいのかな君は」
「……親友が先週死んだの。つまんない交通事故で」
はぁ、とため息をつくと、憂鬱があたしの口からだーっと流れ落ちる気がした。
「それはご愁傷様。君たちがどれだけ仲の良い友だちだったかは知らないけれど、それは少し性急すぎないかな。もう少しゆっくり考えた方が良くないかい?」
「ゆっくり考えていたら、立ち直っちゃうでしょうが!」
ああ、もういいや。話したくはないが、話さないとこいつは消えてくれないかもしれない。だったらもう、ぶちまけてしまおう。
「PTSDって言うでしょ、心的外傷、心の傷。あたしは今、心が怪我して血ぃドバドバ流れてる状態なんだろね。そのまま失血死してくれれば楽なんだけど、心も体も勝手に生きようとして、なんかカサブタ作っちゃうの。わかる?」
渡し守は何も言わず、小舟の上でたたずんだまま聞いている。
「そのでっかいカサブタの下で、あたしの中に残ったカナの思い出が殺されそうになってんの。〝立ち直る〟ってそういうことでしょ。もういないあの子が、まだいるあたしの中で、別のものに変わって劣化しちゃう。あたしが生きるために。あたしが死んでないために。だから、立ち直りたくなんかないんだ」
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