「頭がいい」ということ
頭のよさとはなんなのだろうと最初に疑問に思ったのは幼稚園の年長組のころであった。ちょうど世の中はオウム真理教のニュースが飛び交っていて、まだ世の中をよく分かっていない子供心に「オウム真理教は怖い団体」ということは理解していた。
ある日幼稚園で遊んでいると、同じクラスの子に、
「(本名)ちゃんは頭がいいからオウムに狙われるね」と言われた。頭がいいというのはあくまで幼稚園の子供の尺度なので、現状自分で自分が頭がいいとは思っていないのだが、とにかく続ける。なんで頭がいいとオウムに狙われるのか。もしかしたら相手はオウム真理教の幹部にすげぇ大学を出たような輩がいることを知っていたのかもしれない。しかし頭がいいといってもいくらなんでも幼稚園の子供を狙いやしないだろう。わたしは、
「なんで?」と訊ね返した。なんで頭がいいとオウムに狙われるのか分からなかったからだ。
「だって頭がいいから宝物のありかとか知ってるから」と、そいつは返してきた。
さっぱり意味が分からなかった。
オウム真理教は別に宝物を狙って行動する団体ではないということはぼんやりとながら分かっていた。しかし子供向けコンテンツの悪いやつはだいたい宝物を狙って人をさらうわけで、そこから誤解したのだろうな、というのはいまなら分かる。しかしそのときは、「えぇ……宝のありかなんて知りませんし……」と思ってげんなりするしかできなかった。
単純に、「頭がいい=宝物のありかを知っている」というのは、要するに「頭がいい=情報を持っている」という解釈だといまのわたしは考える。
しかし情報を持っている、というのは頭がいいということではない。例えば藤井聡太二冠がタイトル戦でどんなランチを食べたかの情報を持っていても、それでは自分自身の将棋に勝つことはできない。
それから小学校に上がって、今度は「頭がいい=学校の勉強ができる」の価値観と出会った。
勉強はそれなりにできた。しかし多動とかそういういろいろと問題を抱えた子供だったので、自分より成績のよくないやつに「あいつはバカだ」と言われるようになった。
要するに普通でないことをそいつらは「バカだ」と認識したわけで、わたしはそいつらより勉強ができるのだと思ってバカ呼ばわりに反論した。
わたしはよく知らないのだが母氏いわく「あんたの小学校のころの先生、福祉関係に相談してみろって言ってたよ」とのことだったので、やはりわたしは変な子供だったらしい。
勉強がどんなにできてもバカ呼ばわりされる苦悩の六年間を過ごし、ようやく中学に入ってちゃんとした友達を得た。そのころは「勉強すれば成績がドンドンよくなる」ということに気付いて、すごく真面目に勉強した。数学が足を引っ張らなければ定期テストの平均点は九十点に届いたかもしれない。ついでに言えば理科の気象の問題と電気の問題も死んでいたのだが。
テストの答案を返却するとき成績のいい順に呼ぶ先生もいたので、あのバカ呼ばわりしてくるやつらにもそれなりに成績の良さは伝わったのだと思いたい。
そういえばふと思い出したのだが、わたしは中学校で「毒草を食べてみた」という植物の毒について書いた本を朝読書のときに読んでいたのだが、変なやつらに「食べたの?」と訊かれた。食べたらこんな当たり前に教室にはいない。病院にいる。ヘタしたら墓にいる。このときも(なんだこいつら)と思ったが、それはさておき。
話を戻す。この「頭がいい=学校の勉強ができる」という価値観の破綻を端的に表現しているのがドラえもんののび太くんだと思う。のび太くんは学校の勉強が苦手だ。どうすれば取れるのか分からない0点のテストをしょっちゅう持って帰る。しかし、ドラえもんのひみつ道具を活用する様子を思うと、そう頭が悪いとは思えないのである。
たとえば大長編の「のび太の日本誕生」を読むと、のび太くんは動物を生み出せるひみつ道具を活用してドラゴンやペガサスやグリフォンを作る。バカではできないことだ。しかし、のび太くんは学校の勉強ができないばかりに、みんなにバカだバカだと言われている。
「学校の勉強ができる」というのはあくまで「知識を持っている」ということに過ぎない。たとえば金底の歩が強力な防御手段だという知識も、必要な局面にこなければ役立たないし、囲いを作る知識だって相手がいきなり攻めてきて囲う前に詰むや詰まざるやに持ち込まれたら無意味である。
だから「知識を持っている」ということは、決して「=頭がいい」ではない。もちろん知識があることは頭がいいことの条件ではあるが、ダイレクトにそれが頭のよさとイコールではない。
中学後半からわたしはどん底ヘドロ生活をして、それがちょっとずつ超絶明るいおばちゃんの日常につながっているわけであるが、明るいおばちゃんになった今、「頭がいい」と思うのは、公民館の将棋道場にやってくる将棋がメチャクチャに強い人々である。
主におじさん、ときどきおじいさんや若者もいるが、その将棋がメチャクチャに強い人々は、ここまで挙げてきた「情報を持っている」「知識を持っている」という条件のほかに、「考える力がある」とか「記憶力がある」とか、そういう条件もクリアしている。
「考える力がある」というのは、もちろん将棋で一番必要な素養である。いまの局面から、どうすれば自分に有利な展開に持ち込めるのか考える力というのは、やはり一朝一夕に身につくものではない。無数の詰将棋を解き、無数の将棋を見て、無数の将棋を戦い、鍛えていくしかない。それは頭脳の筋トレと言えるだろう。
この間公民館で駒落ちで将棋を指していて、しばらく考えて思いついた手を指して、「やっぱりこれっておかしいですかね?」と訊ねると、上手の、つまり相手のアマ有段者の若者は「いえいえこれはいい手ですよ。第一感これでした」と答えた。第一感、ということは、相手がどんな手を指してくるのか考えるときも、相手がいちばんいい手を指してくると考える、ということだ。相手が私のようなドヘボであっても、である。この若者はまったく油断せず、相手がいちばんいい手を指してくることを念頭に置いて指しているのである。ビックリとしか言いようがない。
「考える力」のほかに、「記憶力」という違うベクトルの力がある。こっちは一番指し終えて、ぱぱぱと戻して「本譜はこの局面で、」という話を当たり前に始める力である。
わたしも将棋を教わりだして三年経って、それなりに記憶力は向上した。しかしそれは印象に残った局面を部分図で覚えている、という程度のものである。トホホである。
わたしはこの若者がどういう職業でどういう学歴なのかは知らない。しかし人に教えたり、多面指しで初心者をまとめて指導できる若者なのは分かる。そして、「棋士・藤井聡太の将棋トレーニング」という話題が出てくると「ああ、あの藤井くんがすごい喋るっていうやつ」という情報を持っており、最終盤「はいここから三手詰めです」と言える知識も持っている。
そしてなによりすごいのは、そういう境地に至るまでに自分が経てきた道をよく理解し、それを人に勧められることだ。ちなみにわたしは普段ニンテンドースイッチに将棋を教わっているのだがコンピュータが時々変な手を指す、と言ったら、
「うーんコンピュータは人間とちょっと価値観が違うらしいから……なるべく人と指したほうがうまくなりますよ! たとえばウォーズとかオススメです」
と言われたのだった。そして道場から帰宅して、ツイッターをひらいて「道場でウォーズを勧められたけどやるか悩む」とツイートしたところ、フォロワーの昔将棋ガチ勢だったひとに、「ウォーズは三分とか十分の切れ負けだから一手三秒とかで指さないと負けてしまうので、相手に時間を使わせるための強引な手が頻出する」という情報をいただき、いまプレイ動画を見て悩んでいるのであった。ううーんどうしようかな~! わたし長考しちゃうんだよな~!
もちろん、いくら「考える力」があっても、それは将棋に例えるならルールを知らなきゃ無意味だし、「記憶力」にしたって同じである。
どうやら「頭がいい」ということは、「情報を収集できる力」「知識を得られる力」「考える力」「記憶力」といった、複数の要素がかみ合ってできているもののようだ。人間の脳みそは不思議である。
もしかしたらまだまだ「頭がいい」の要素はいろいろあるのかもしれない。
そして、「頭がいい」ということは学歴とかいうくっだらねーものとは無縁である。学歴がなくても頭のいい人はたくさんいる。わたしの祖父は中卒だったが山のことに精通し、食べられる植物やそうでない植物についてとても詳しかったし、鳥の名前にも詳しかった。これを頭がいいと言わないでなんというのか。
ときどき自分の頭の悪さに嫌悪感を覚えたりもするが、少なくともわたしは毒草の本を読んでいる人に「食べたの?」とは訊かないし、部分図ながら局面を覚えることもできる。意味もなくなにかを批判しているのをそれってどうなんだろうと思うこともできる。
バカでも頭のいい人間でもない、ただ文章を垂れ流す変なおばちゃん、というのがわたしの正体である。
以上、頭がいいとはなんなのか考えてみる実験でした。
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