千本桜
あの夜から、大輔は人目も気にせず桜子を校内で探すようになった。自分が担当する日本史の授業中、職員室の窓辺から見えるグラウンドに散る体操服の中。
探しもとめているのは、自分だけではない。板書する背中にジワリとささる熱をおびた視線。廊下ですれ違いざま、たった一秒交わった狂おしい視線。
決して自分だけの思いすごしではない。大輔は夢の中の人物が誰だか、明確な確証を持った。九朗と呼ばれる
時の流れを泳ぎきり、この現世で巡り合った。再びふたりきりで相まみえることを夢想する。
朧月夜の晩がめぐってきた。
山桜はすっかり花を散らし、花びらの残骸が地面を白く輝かせていた。
その上に桜子は桜を見あげ、静かに立っていた。
大輔の気配に気づいたのか、声をかけぬともくるりと振り返った。その刹那、制服のスカートがふわりと広がる。その揺れがしずまぬ間に、大輔の胸に飛び込んできた。
「お会いしとうございました。源九朗義経さま」
「我もじゃ、静」
朧月夜の曖昧な光に照らされるふたりの姿は、白い水干姿の白拍子と
源義経とその愛妾静御前。八百有余年前、吉野山での今生の別れ。その時ふたりは、来世の出会いを誓い合った。
この令和の世に運命的な再会をはたし、ふたりは涙にくれる。
「この吉野より移植された山桜の下での邂逅。なんという因果であろうか」
義経は両の手を静のあごにそわせ、その愛しい
「はい、まことに」
静の右手が、義経の左手を慕わし気におおう。
「こうなれば、一時もおしい。この世でも我ら未来永劫、共にあると誓い合おうぞ」
「ええ、そのように」
小ぶりな唇からもれる吐息のような応答とともに、静は義経の唇へ誓いの刻印をおとす。右手の人差し指が、義経の左手の上をツツッとなぞり、薬指にはめられた銀の輪をカリッとひっかいた。
「では、奥様を殺してください」
快楽に沈みかけていた大輔の体は、無様なほどぎくりと硬直する。
「妻とは今、別居状態だ。何も殺さずとも、すぐに離婚は成立する。それからでも……」
そう言い訳する声に、桜子はくらいつく。
「嫌でございます。前世であなた様にはご正室がいらっしゃった。現世でもわたくし以外に愛する女が生きているなど、たえられません」
「しかし……」
逃げ場を失い言い淀む大輔へ、桜子は冷淡な笑みを向ける。血のように真っ赤な唇が、薄く開いた。
「お約束を果たしていただけましたら、わたくしは再びあなた様の前に姿を現しましょう。それまでしばしのお暇を……」
そう言うと、大輔の腕の中にいた桜子は煙のように掻き消えた。あとには、散り落ちた花からたちのぼる芳香だけが残る。
秋元桜子は
*
山桜が再び芽吹く季節、大輔は通学路そばの公園の前にいた。あの別れより、もうすぐ一年がたとうとしている。その間、一日も欠かさず桜の
公園奥の山桜は真昼の陽光をあび、茶色い新芽と白い花が今にも咲きそうだった。
二本の足はもつれながら、桜の下へ急ぐ。例年ならば、まだ蕾もつけない時期なのに。今年は大輔の気持ちを汲み取ったように、開花が早い。
キョロキョロとあたりを見まわしても、誰もいない。自然と肩は落ち、目が落ちくぼみ頬のこけた顔で空を見あげる。
薄闇の山桜は
「今年は、花をつけるのが早いですなあ」
突然聞こえてきたその声につられ横を向くと、ひとりの老人が立っていた。
「そうですね」
そっけなくしわがれた声で答える大輔に、老人はしつこく話しかけてくる。
「さっき熱心にこの山桜をご覧になっていた。何か思うところでもおありかな?」
「去年いろいろありまして……」
「ほう、どんなことですか」
平日の昼間、暇を持て余している老人に付き合う必要などない。大輔は午前中、所要のため休みをもらった。用事をすませ、今から学校へ向かうところだった。
しかし、老人の温厚なしわの刻まれた顔を見ていると、つい言葉がこぼれた。
「生徒がここで、姿を消してしまいました」
「ここで失踪されたんですか。それは偶然ではないかもしれませんよ」
老人の含みのある言い方がひっかかり、大輔は聞き返した。老人は山桜を見あげて言う。
「この山桜の下には妖狐が住みついていて、女に化けると昔から言われている。おやっ、あなた顔色が悪いですね。どうしました」
「……いえ、なにも」
みるみる顔色を失い、がくがくと体を震わせる大輔。老人はそれを無視してしゃべり続ける。
「妖狐と桜といえば、
ここまで言い、老人はくるりと振り返り妙に赤い口の端をにゅっとあげた。
「今年はことのほか早く、美しく咲きそうだ。いい肥やしを埋めてくれたのでしょう。ありがたいことで――」
老人の姿はにわかにかすみ、跡形もなく消え失せた。
半年前、行方不明となった妻の捜索願いを、大輔は警察に提出してきた。心配する妻の父母にせっつかれて。
誰もいない真昼の公園に、どさっと人の崩れ落ちる音が響き渡る。
山桜に
その年の山桜は二人分の血のおかげか、ほのかな薄紅色の花を咲かせた。
了
通学路の千本桜 澄田こころ(伊勢村朱音) @tyumei
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