私の世界が始まったとき
たれねこ
私の世界が始まったとき
世界は実は五分前に始まったのかもしれない――。
そんな仮説を知ってからというもの、私は世界の見え方が変わった。
今まで他人の気持ちが分からなかったり空気を読めずに困っていたのは、きっと世界が五分前に作られたとき、そういう風に私が作られたからだ。
目が悪いのも、友達がいないのも、クラスから一人浮いてしまっているのも、世界がそのように私を設定したからだ。
そう思うと辛いと思っていた世界は、平坦なものへと姿を変えた。
そして私は、以前にも増して勉強や読書にのめり込んでいった。新しい知識を得るということに、初期設定から自分で新しく積み上げたものという実感と達成感を感じることができたからだ。
私の世界は五分前に生まれ、自分の中だけで完結したもの――そのはずだった。
そんな私の世界に異変が生じたのは高校に入学して、半年が経ったころだった。私は机に入れられていた手紙で放課後の誰もいなくなった教室に呼び出された。
教室にいたのはクラスメイトの男子で、名前はたしか――、
「
私の問いかけに彼は向き直り、真っ直ぐにこっちを見つめてくる。
「
静かな教室の中で、私は人生で初めて好意を伝えられた。
私はその言葉を受け止めつつも戸惑いを感じていた。好意を向けられる理由が分からないのだ。
きっと藤戸の気持ちも、世界と同様、五分前に生まれたものかもしれない。時間が経てば修正されてなかったことになる程度のものかもしれない。
「ごめんなさい。ほとんど話したこともないあなたの言葉も感情も信じられないので、返事はその……できない」
「えっと……俺はフラれたの?」
「保留……かな」
「そっか。突然告白されたんだから、きっと正しい反応だと思うよ。返事はゆっくりでいいから。イエスでもノーでも、ちゃんと答えてくれたら嬉しいかな」
藤戸はそう言うと笑顔を向けてきた。爽やかだけど、放課後の教室同様寂しさを感じてしまう曖昧な表情。きっと曖昧なのは藤戸の表情じゃなく、私の気持ちの方だ。
その日から、私は
藤戸はいつも誰かに囲まれていて、クラスの中心みたいな存在で、みんなと楽しそうに笑っていた。名前と同じで
授業態度はいたって真面目で、ふいに目が合うと、藤戸は私にだけ分かるようにふっと表情を緩ませた。その瞬間だけは、先生の声もチョークが黒板を叩く音も遠くなった。
放課後、私は掃除当番で教室の掃除をしていると、当番でもない藤戸がふらりと教室に戻ってきた。
「陽太じゃん! なになに? 忘れ物か?」
「ちげえよ。気が向いたから手伝いに来たんだよ」
藤戸はクラスメイトの男子とそんな言葉を交わした後、自分の机に鞄を置いて、ロッカーから
「三枝さん。あいつら、ふざけるから掃除進まないでしょ? 手伝うよ」
藤戸はさっき話した男子が手を止めて談笑しているのを
「ありがとう、藤戸君」
「いえいえ」
それから藤戸は私の隣から談笑している男子に声をかけて、上手く乗せながら掃除を手早く終わらせる。その姿をずっと横目で見ていて、頼りになるいいやつだなと思った。
それから数日後。休み時間にトイレの個室にいると、
「そういや、藤戸君の話聞いた?」
「えー、なに? なんの話?」
そんな声が聞こえてきた。きっと鏡の前で話している声だろう。今までだと耳に届かなったそんな会話も”藤戸”という名前を聞いて、耳を傾けてしまう。
「三年に読モやってる先輩いるじゃん?」
「ああ、いるねえ」
「その先輩が藤戸に告白したんだって」
「まじで?」
「しかも、好きな人いるからって、断られたみたい」
「好きな人って、誰なのかな?」
「分からないけど、藤戸が好きになるんだから、かわいい子なんじゃない?」
「そっかあ。藤戸のことはいいなって思ってたけど、諦めるしかないかな」
「藤戸狙いとか、あんた無謀すぎ――」
笑い声とともに声は遠くなっていった。話を聞く限り、藤戸はモテるらしい。
私は個室から出て、手を洗いながらぼんやりと鏡を見る。
伸びた前髪に、特別な手入れやセットもしていない地味な髪型。そして、見た目を気にせず安いからと買った銀縁眼鏡。
自分でも分かるほど魅力がないそんな姿に、藤戸が好きになってくれる要素はないように思えた。
きっとあの告白は罰ゲームか、一時の気の迷いか、そうでないなら世界が生まれた時に生じた不具合なのだろう。
その日の昼休み。私は藤戸に告白される以前の平穏を取り戻したくて、弁当を食べ終えると、本を手に図書室に向かった。奥の席に座り読書にふけっていると、ふいに向かいの席に人の気配を感じた。顔をあげると、そこには藤戸がいた。ここ数日、昼休みは男子たちと談笑したり、体育館などに体を動かしに行っていたのに、今日に限って一人で私の前に座っている。
「何しに来たの、藤戸君?」
「好きな人を追いかけるのに、理由がいる?」
藤戸は私を見つめながら、さらりとそんなことを言うので、なんだか照れてしまい視線を自分の手元に落とす。今までなら、誰に何を言われても心が乱されることはなかったのに、藤戸のことになると私はどうにも落ち着かない。
「そうだね。でも、私のことを好きになった理由は知りたいかな」
視線を藤戸に戻すと、今度は藤戸が視線を
「最初は何事にも流されないところが、かっこいいなと思ったんだ。俺は周りを気にしてばっかりで、求められる言動をしてるだけだから。そんな俺からすると、三枝さんは自分の世界を持ってるみたいですごいなと思ってたんだ。あとは、眼鏡や前髪で分かりにくいけど、かわいい顔してるところとか、授業中の真剣な横顔とかも好きかな。他には――」
藤戸の口からは次から次にと、私の好きなところが出てくる。恥ずかしくて照れくさくて、やめてほしいと思うと同時に、もっと聞かせてほしいとも思ってしまう。
しかし、どんなに好きということを伝えられても、藤戸の本当の気持ちまでは分からない。
藤戸は一通り喋り終えると、満足そうな表情を浮かべていて、ふいに目が合った。
「ねえ、今日は俺もここでのんびりしていいかな?」
「好きにしたらいいよ」
藤戸は座ったまま近くの本棚から本を取り出し、それに視線を落とした。私も読書を再開させるが、すぐに集中が途切れてしまう。
今までなら誰が自分の正面の席に座っていても全く気にならなかったのに、それが藤戸となると読書の手が進まない。仕方なく顔を上げると藤戸と目が合った。もしかすると、藤戸も同じように落ち着かないのかもしれない。
次に本から視線を上げた時は藤戸とは目が合わなかったので、そっと本を読む藤戸の姿を見つめた。
本を持つ手は男の子らしく大きく、手の甲は骨ばって血管が浮いている。ページをめくる指は細長く綺麗だった。そして、俯き加減になっているせいか、まつ毛が長いことがよくわかる。鼻筋は通っていて、少しだけ高い。
私の視線に気づいたのか藤戸は顔を上げると、柔らかく微笑んだ。藤戸がかっこいい部類だということは、いかに周囲に対して鈍感な自分でも分かる。
読書が全く
「じゃあ、俺は先に教室に戻ってるよ」
藤戸はそう言うと本を本棚に戻して、歩き始めた。その後ろ姿に、
「待って!」
と、無意識のうちに立ち上がり声をかけていた。藤戸は私の声に足を止め、「なに?」と向き直る。しかし、呼び止めたものの、何かを伝えたいのにそれが言葉になってくれなかった。
「早く戻らないと、授業に遅れちゃうよ?」
藤戸は焦る様子もなく柔らかな笑顔をただ私に向けてくれる。そのことで私はまだ藤戸と一緒にいたいという自分の気持ちに気付いた。だから、精一杯の勇気を振り絞り、言葉を絞りだす。
「――明日も、またここで」
私の言葉に藤戸は驚いたような表情をしていたが、次の瞬間には彼の友人たちに向ける笑顔とは全然違う、自然な笑みを浮かべていた。
「うん。また明日の昼休みもここで」
藤戸はそう言うと、つい数秒前より軽い足取りで図書室をあとにした。
私も椅子を直したりして、少し遅れて教室に向かいながら、藤戸の笑顔を思い出していた。思い出すだけでも、胸の奥が締め付けられる感覚がする。
私はあの笑顔を見たとき、藤戸のことが信じられると確信できた。それと同時に、初めて恋に落ちた。
きっとあの瞬間に世界が始まったのだ。そう思わないと急激な心境の変化に説明がつかない。
教室に戻ってくると、藤戸は授業が始まるまでの短い時間でも友達に囲まれていて、その中でも視線は私を追っていることが分かった。そんな藤戸にそっと微笑みかけると、その瞬間だけは紛れもなく二人だけの時間を共有できた気がした。その証拠に、藤戸は話を聞きもらしたらしく、そのことで周囲と笑い合っている。
そんな笑い声を聞きながら、藤戸の焦る姿を横目に、私の口角は自然と上がってしまう。
きっと藤戸と彼の友達の間では、そんなやり取りを何回もしていたのかもしれない。だけど、私は知らなかった。それはきっと私が世界五分前仮説を言い訳にして、周囲を――世界をちゃんと見てこなかったからだ。
これからでも、私は世界に関わることができるだろうか。できるなら藤戸と同じ世界を私も見てみたい。それが何分前に始まった世界か分からない。
だけど、そんな世界に関わるために、私も一歩を踏み出してみよう。
まずは放課後に、眼鏡をコンタクトにして、美容院で髪を切るところから始めてみよう。
翌日――。
昨日の努力のせいで視界が広く、世界は鮮明に私の目に映る。
今まで誰も私のことを気にしなかったはずなのに、今日は視線を感じる。学校に着いて、教室に入った途端、時間が止まったようにクラスメイトの注意は私に集まった。
コンタクトはいつでも外して眼鏡に戻すことは出来るが、髪はそうはいかない。前髪が短くなったせいで、人と目がよく合うし、俯いても目元は隠せない。
「おはよう!」
いつものように藤戸が登校してきて、友達に挨拶をする声が教室に響く。広くなった視界のおかげで、私の目はすぐに藤戸の姿を捉えて離さない。
藤戸は教室に入ってすぐに、私の方をちらりと見て固まった。そういう反応をするということはやはり似合っていなかったのかなと、気持ちが
そのまま藤戸は扉近くの席の友達と何やら小声で話し始めた。教室のどこからか小声で話す声が聞こえるたびに、陰口を言われているのかもと不安になる。
似合ってない、急に色気づいて気持ち悪い、そんな中傷をされているのだろうか。
それはきっと自意識過剰で、被害妄想に駆られているのだろう。
私はそんな雑音を聞きたくなくて、注目されているという事実から逃げ出したくて、いつものように本に目を落とす。
そのとき、ふいに足音が近づいてきて私の席の前で止まる。顔を上げると、藤戸が立っていた。視線が合うと、藤戸はそっと目を逸らし、頬を掻いている。それからゆっくりと視線を合わせ直し、小さく息を吐いた。
昨日も藤戸は同じようなことをしていたなと、図書室の匂いとともに思い出す。たしか、私のことが好きな理由を尋ねた時だ。きっとこれは、大事な何かを伝えようとすると自然に出る藤戸のクセのようなものなかもしれない。
そう思うと、心が少しだけ軽くなり、藤戸の言葉を静かに待った。
「えっと、三枝さん。よく似合ってるよ。かわいいと思う」
その言葉に心が満たされる。藤戸にそう言われたくて、テスト前の一夜漬けのような努力をしたのだ。今日も朝から母親にお願いして、今まで興味がなかった化粧にも挑戦した。髪もしっかりとセットした。
その努力を誉められたのだから、返す言葉は一つしか思いつかない。
「――ありがとう」
私は今までにないほど穏やかな心境で、熱い気持ちを抑えながら心に従って自然に笑みを浮かべる。藤戸は顔を真っ赤にして、小声で「じゃあ、また昼休みに」と口にするので、それがなんだかおかしくてクスクスと笑ってしまう。藤戸は落ち着かない様子のまま自分の席に戻り、さっそく友達たちに囲まれていた。
それは私も同じで、今まで話したことのなかった女子に囲まれ、「急に変わって、何かあったの?」「藤戸と何話してたの?」と、詮索されるが、突然の私に対する周囲の変化に戸惑っていると、予鈴が鳴り、そのことで私は解放された。
こうして、私の世界は急変した。そのことに落ち着かないまま、気が付けば昼休みになっていた。私は平穏を取り戻したくて、弁当を食べ終えると、本を手に図書室に向かう。
昨日と違うのは、教室から出る間際に藤戸に視線を送ったこと――。
人気者の藤戸は抜け出すのには時間が掛かるだろう。
私は図書室で一人、昨日と同じ席に腰かける。
そして、本を開かないまま図書室の扉と時計に交互に目をやる。
きっと藤戸は五分もしないうちにやってきて、「ごめん、待たせた?」と申し訳なさそうにしながらも、嬉しそうに微笑みながら私の前の席に座る。それに対して、私は「時間まで約束していなかったし、気にしなくていいよ」と、聞きようによっては棘のある返答をしそうだ。それ以外の言い方が分からないのだから仕方がない。
そして、藤戸なら「こうやってまた二人きりになれるのは嬉しいよ」だとか、甘い言葉を言ってきそうだ。
その言葉にときめきながら、周りに人がいないことを確認して、今度は私から伝えるのだ。
「ねえ、藤戸君。私もキミが好きだよ――」
きっとその言葉を伝えれば、私の世界はまた新しく始まり、いっそう色づいたものになるだろう。
だから、藤戸を待つこのもどかしい時間さえも、思いを募らせ、私が勇気を振り絞るための時間だとすれば、大事なものに思える。
私の恋は始まったばかりで、新しく世界が始まるまであと――――。
私の世界が始まったとき たれねこ @tareneko
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