出立の日


 ぱちりと目が覚めた。昨日はなかなか寝付けなかったというのに、カーテンの隙間からはまだ夜明け前の薄い光しか射していない。

 頭上には、まだあの写真がある。

 寝返りをうって目をつむっても、あのはしばみ色のまなざしが、ハスキーな声が脳裏に浮かぶ。うう、と唸ってもう一度身体を回転させても、あの甘酸っぱい匂いがほのかに香る気がする。

 ベッド上でごろごろ回転しているうち、私はまた浅い眠りに落ちていた。


 次に起きたときには本格的な朝の時間帯で、エリカから聞いていた出立のスケジュール通りなら、彼女はすでにチェックアウト済みだろう。確実に時を重ねる時計を見つめていると、じわじわと後悔の黒い波が心を浸していく。

 気付けばスマートフォンをタップしながら廊下に出ていた。自分の行動の意味をよく理解しないまま、私は電話をかけていた。

 ほどなくして電話に出た声が、


『アンナ――』


と言いかけたのを遮って、


「返事しなくていいから、ただ、黙って聞いて!」

『――――』


 何も言わせたくないのは、私が臆病だからだ。でも、今この瞬間だけは自分を奮い立たせる必要がある。深呼吸して、伝える。


「すぐ駅に行くから私を待ってて!」

『……』


 それから、やはり怯えがまさって言い足す。


「ううん、もしかしたら待たせるかもしれないから――そしたら、行っちゃっていいから」


 むこうが口を開こうと息を吸う気配も断ち切って、


「とにかく、私も駅へ行くから。だから――」


 待ってて、とまた言いそうになり、慌てて電話を切った。

 部屋へ戻り、無造作に荷物をまとめた。同室の人へろくに挨拶もせずスーツケースと共に部屋をまろび出てエレベーターへ乗り込む。

 信じられないほどの遅さで階数表示の数字が減っていくのを見上げながら、胸のなかでつぶやく。


 ――これは恋なんかじゃない。

 恋なんかじゃない、けど。

 会いたい。

 もうちょっと、エリカと一緒にいたい。


 予定より数日も早いチェックアウトだけど返金はできないよ、と確認されるのをもどかしく何度も頷いて了承し、ホステルを飛び出てトラムへ乗った。窓の外を流れる景色を見るうち、あっと気付く。

 ベッドの天井にあの写真を忘れてきてしまった。泣きたくなりながらトラムを降り、スーツケースを引きずって駅へ走る。


 どうか、どうか――。

 神様。あなたがあの子を愛さないなら、どうか――。



 ベージュ色の大きな駅舎が見えた。交通網の中心で、観光スポットでもあるその駅前にはたくさんの人が行き交っている。

 横断歩道で信号に捕まってしまい、車の波の向こうへ必死に目を向け、ある姿を探す。


 そのとき、近くの古い教会から鐘が鳴り響いた。

 信号が切り替わって車の波が途切れた先、階段の上に、ピンク色の派手な開襟シャツを着た、細身の姿を見つけた。

 いくつもの時計が並んだその駅舎の下で、その人はこちらへ片手を挙げている。サングラスで目は見えないけれど、紅い唇がニッと大きく笑みの形を作っていた。

 安堵で足がすくみそうになる。だが、この街の信号は変わるのが早いから、慌てて歩道を渡る。

 

 階段を降りてきた彼女が「おはよう」と言う。「おはよう」と返す。そして、私のスーツケースを細腕で階段の上まで運んでくれる。


「さ、行こか」

「うん……」


 何でもないように歩き出す彼女の隣へ並び、スーツケースを押して駅のなかを歩く。


「まさかアンナがついて来てくれるなんて」


 ちらりと顔を向けて言う彼女の目が見えないから、不安が胸を駆け上ってくる。


「……ついて来ても、よかった?」

「もちろん!」


 白い歯を見せ食い気味に返事をした彼女へ安心した私は、調子にのって言い募る。


「か、勘違いしないでよ。これはね、エリカに泣かされる女の子を一人でも減らすために、私が監視役としてしばらく付くってことで」

「えー泣かせたことはないつもりだけど」

「あんたの知らないところでいっぱい泣いてると思う」

「そうかな」

「そうだよ」


 二人分のスーツケースがごろごろと音を立てるのを背景に、彼女とまたこうして喋れているのが泣きたくなるくらい嬉しい。

 彼女は口角を悪戯っぽく上げ、こちらを覗き込むようにして言った。


「でもじゃあ、自分はたくさんの女の子に会えなくて寂しい思いをするかもしれないね? その分は、誰かがハッピーにしてくれるってことかな?」


 息を押し殺して答える。


「……私がするわよ」

「ん? 聞こえなかった、なんて?」


 立ち止まったこちらを振り返って彼女は聞き返した。私は息を吸い込み、大声で述べる。


「私が、エリカを幸せにする!」

「あはは、なんかプロポーズみたい」


 お腹を抱えて彼女は笑った。それから口元に微笑みを浮かべてこちらへ歩み寄る。そして、サングラスを頭の上へ押し上げ、その瞳を見せた。


「一緒にいろんな景色見て、楽しいことしようね」


 そう言うと、私の肩を抱き寄せ、頬に軽くキスをした。


 ――あの写真が手元にないなら、これからたくさん、二人で写真を撮ればいいのだ。


 フラミンゴが一面プリントされた派手なそのシャツの胸元を掴んで引っ張り(彼女の目が驚きに開かれて、胸がすく)、私はかかとをあげてエリカの紅い唇を奪った。





(完)



≪このお話は、10ccの『I'm not in love』という曲から着想を得て書きました≫

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恋なんかじゃない話 東海林 春山 @shoz_halYM

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