5日目-7日目


 夢中でお互いの唇を貪っていたけれど、陽気な酔っ払いの集団が近づいてきたのを契機に私たちは宿へ帰ることにした。ベンチから立ち上がったエリカは、ふた口ほどで残りのケバブサンドを食べきってしまった。彼女は口をもごもごさせながら、「いやほんと、ケバブ買ってきてよかったわ」などと言っている。


「アンナもいただけてしまうとは」

「馬鹿」


 彼女の肩を軽く小突いても、どこ吹く風でエリカはからからと笑っている。

 片腕に残りのワインとビール、もう一方の手は私の手を握って、彼女は鼻歌をうたいながら歩き出す。ホステルの近くまで走る系統のトラムを目指し、私たちはゆっくり歩いた。

 街の観光スポットとしても有名な、古く趣のある駅舎のそばを歩いているとき、エリカは「あ」と声を上げた。証明写真を撮れる小さなボックスを指差して、


「記念に撮ろう」


と彼女は言った。


「何の記念よ」


 どうせ、『キス記念』だとかのたまうのだと思ったのに、彼女は小さく笑って、


「うーん。自分たちが出逢えた記念、かな」


なんてつぶやくから、私たちは所詮、旅先でたまたま少しの時間を共有しているに過ぎないのだ、という事実を実感する。数日もしないうちに、エリカと私はそれぞれまた違う場所にいるのだろう。


「人間ふたりには明らかに狭そうだけど、いいんじゃない」


 自分でも可愛げのない言い方だと感じたのに、それでもエリカは嬉しそうに頷いた。

 狭苦しいボックスへ意気揚々と乗り込んで、飲み物も適当な場所へ置いてしまうと、備え付けの小さな椅子に彼女は座り、


「おいで」


と自らの腿の上をぽんぽん叩いて腕を広げた。


「……」


 確かにそうする以外に二人の人間がこの狭い場所に収まる術はないため、私はおとなしくその膝上へ座ることにする。ついさっき散々抱きしめあったけれど、写真撮影のために煌々と明るい室内で密着するのは、また格別の恥ずかしさがあった。カメラでその様子が捉えられて、目の前の画面に写るのだからなおさらのこと。

 しかし、カメラに向かっておかしな顔をしてみせたり、キメ顔のエリカを笑ったり、狭い室内で大騒ぎしているうちにすっかり気持ちはほぐれてしまった。写真を撮るあいだですでに笑い疲れ、撮った写真を確認してさらに笑い疲れ、私たちはまだボックスの中にいた。エリカの膝の上に座っているのがすごく自然な感じで、それも私は嬉しかった。


「あ、そういえば、バーで二人で撮ってもらった写真」


 今しがた撮ったばかりの三枚綴りの写真を手に、エリカは思い出したようにつぶやく。


「あれ、どうした?」

「――知らない」

「そっか。お店に取りに行ったら保管してくれてないかなあ」

「どうだろね」


 あの写真は部屋のベッドの上にずっとあるが、今さら「自分が持っています」なんて言えなくて、素知らぬ顔をしておく。……別に、どうでもいい写真なんだけど。

 心中は、嘘をついた気まずさと、彼女があの夜のことを覚えていたことへの確かな喜びがないまぜになっていた。――こんなにも彼女に対して無防備に心を動かされてしまう危うさで、ため息が出る。

 エリカは膝の上に座る私の髪を梳いて、穏やかな目をこちらへ向けている。ストロボ代わりの人工的な眩しい光が、薄茶の瞳の中に白の丸い輪っかを作っている。彼女の両肩の上へ預けていた腕を下ろし、その晒け出されたくびれを撫でる。シャツを絞って剥き出しにした細い腰は完全に女の子のそれで、小さなおへそはただ可愛らしい。


「アンナ、くすぐったいよ」


 おへそや腰を撫で回されるのにたまらず身動いだエリカが、反撃とばかりに私の首筋にも次々と唇を付けていく。


「……エリカ、他の女の子にもこういうことする?」


 吐息とともに思わず問いかけた自分の言葉をすぐに悔やんだ。こんなことを言っていい関係じゃない。彼女の心は離れてしまうに違いない。

 エリカの肩におでこを預けたまま、後悔に動けないでいたら、


「君がそれを望まないなら、しないよ」


エリカの凪いだ言葉が耳に届いた。のろのろと顔を上げて見た彼女は、優しい微笑みを浮かべていた。だから、精一杯の勇気を振り絞って、わがままを伝える。


「……しないで」

「わかった」


 彼女は私の頭を何度も撫でた。しかし、つかの間ののち、彼女はふと、「ところで」と口にした。


「アンナはいつまでここに滞在するの?」

「……」


 それはまるで、私がいなくなった途端契約満了とばかりに他の女の子とイチャつきます、と宣言しているも同然だ。非難を込めてじとりと睨めば、


「か、確認しただけだよ」


 たじろいだ様子の彼女に、ふん、と鼻息と答えを返す。


「あと五日間の予定。エリカは?」

「三日後に、XXヘ行く予定」


 彼女はここから飛行機で一時間半ほどの距離にある都市の名前を挙げた。

 あと数日で、私たちは離れることになる。明るく白い箱の中に、しんみりとした沈黙が降りた。けれど、エリカが頬を緩めてその沈黙を破った。


「――あと二日間、ずっと二人で過ごさない? レンタカー借りて、日帰りで海まで行ったりしてさ」


 思わぬ提案に、目の前の彼女を見つめてしまう。


「……いいの?」


 声すら掠れて聞き返した私にエリカは苦笑をやり、


「だめかな?」


と言った。

 エリカが誘ってくれたのは、気まぐれだ。きっと一人で街を見るのに飽きて、色んな子と知り合うのにも疲れたからだ。

 でも、その彼女の気が変わらないうちに急いで私は答える。


「――いい!」



 そうして私たちは最後の二日間を二人で遊び倒した。



 一日目は、早朝から車を借りて、何キロも続く海沿いの道路を走った。

 色褪せない往年のヒットナンバーも最新のポップソングもごちゃまぜで、車のなかで一緒に歌ってはスナック菓子を食べた。海が見え始めたら歓声をあげ、窓を全開にして風を浴びた。

 晴れ渡った空と海がどこまでも続いて、どこまでも行けそうだった。

 ときどき車を停めて有名なスポットで写真を撮ったり、白い波が岩を洗うのを飽きもせず眺めたりした。海の見えるレストランでシーフード料理をのんびりと食べ、灯台の上から海のただなかにいる感覚を味わった。

 あっという間にサンセットの時間になって、黄金色に燃える太陽が空も海も眩しいほどに輝かせるのを、海風のなか、エリカと身体を寄せて暗くなるまで見つめた。



 二日目も二人で早起きをして、スカイダイビングに挑戦した。

 「やっぱりやめておく?」なんて怖気付いたエリカの背中を押し、空を飛ぶための講習を受けた。事故があった際の免責事項の書類にサインするときと、飛行機から次々と空へ吸い込まれていく人たちを目の前にしたときには、私も実のところ後悔の念が沸き起こったけれど、それでも一度飛んでしまえば――そんなのは吹っ飛んでしまった。

 空へ身を投げた瞬間はきゅっと心臓が縮み、そのうえものすごい速さで地面へ落下しているのに、空の真っ青のなかに身を浮かべていると、上下がわからなくてまるで宙に浮かんでいるようだった。直前まで絨毯みたいに見えていた一面真っ白な雲に身体を突っ込んだ途端、冷たい粒がゴーグル越しに顔じゅうへ当たって痛かった。

 背中にいるインストラクターの人がパラシュートを開くと、がくんと身体が天へ引っ張られ、ようやく重力や引力の存在を感じた。視界には、地表がGoogle mapのごとく小さく幾何学模様で並び、うっすらと湾曲していて、地球は本当に丸いんだ、と思った。

 無事降り立ったビーチでエリカと再会したとき、私たちは駆け寄ってハグし合い、ばかみたいに大笑いした。


 空から地面に戻ってきたのはまだ午前中も早い時間帯で、そのあとは街をゆっくり歩いて土産物を探したり、アイスクリームを食べたりした。

 午後を過ぎてからは大きな公園を散歩した。世界中の植物が植わっていると謳うその公園は、まるで秘境の地のような太い幹の大樹や、亜熱帯を感じさせる色鮮やかな花、濃い緑の葉がそこかしこで活き活きとしていた。

 この街に来るまで見たことのなかった白黒の細い鳥や、海鳥、南国でしかお目にかかれないような緑と黄色の派手な鳥も自由に闊歩し、飛び回っていた。たまに会話が聞き取れないほど鳥たちのさえずりは賑やかで、そのたび私たちは笑った。


 傾いていく太陽の下、芝生の上で私はエリカに膝枕をしていた。

 この二日間、ずっと一緒にいて、共に笑い、食事をした。今はときおり言葉を交わすくらいで、太陽の暖かい光や風を、私たちは黙って感じている。

 朝には数キロもの上空にいたのに、今はこうして、あの小さく見えていた街のなかにいるのが信じられなかった。

 旅先で知り合った人と旅行の話をするときに、スキューバダイビングや、バンジージャンプ、スカイダイビングを経験したことがあるか、というのは話題にのぼるトピックのうちのひとつだ。エリカと私はもうすぐ別れるけれど、誰かとそんな話をしてスカイダイビングのことを思い出すとき、エリカは私のことも思い出してくれるだろうか。


 膝の上に寝転がる彼女は、気持ちよさそうに目をつむっている。そのまぶたにかかる前髪を、私は指先で梳く。西陽が彼女の栗色の髪を蜂蜜色に輝かせる。


「――エリカ」

「ん?」

「私ね……」

「うん」

「素直になるのが下手なの……」

「……ふーん?」


 相槌だけは肯定とも否定ともつかない調子だが、エリカの目尻は緩んでいて、表情は雄弁にその本心を伝えてくる。むかつくと言えばむかつくが、その優しいまなざしに私の心はどうしても震えてしまう。


「だから、ね」


 の光を受けてきらきらする瞳を見下ろしながら話す。


「私は――エリカのことなんて好きじゃない」


 彼女の目が悪戯っぽく煌めいた。


「……その真意はつまり――?」


 上半身を曲げ、エリカの耳元へ口を寄せる。この数日のうちですっかり親しく感じるようになったオレンジの香りが鼻腔をくすぐった。その匂いも、心を満たすこの感情も、胸を甘く、息苦しくさせる。

 これを素直に伝えたら、きっともう少し楽になる。だから、吐息にのせて言う。


「――エリカが、好き」


 楽になるはずだった心臓が、鼓動を速く打っている。落ち着くためにも、殊更のろのろと身体を起こした。私が身を起こすのに合わせて、エリカはこちら側へ寝返りを打ち、私の腰を抱きしめた。その顔は見えない。

 彼女の香りが移って、自分の身体からその匂いが立ち昇ることにくらくらする。


「……」


 勇気を振り絞って伝えた私の言葉を、彼女は微笑んで受け止めるか、余裕綽々で同じ言葉を返してくれると思ったのに、沈黙しか返ってこない。つかの間不安が胸をぎったが、私のお腹へぴったりと顔をくっつけた彼女の耳は、赤い。

 真っ赤なその耳をいじってみるけれど、エリカはなおも口を閉じたままだ。


「な、何か言ってよ……」


 たっぷり数秒沈黙を続けてから、彼女は私のお腹に顔を当てたまま、もごもごと応えた。


「――君は信じないかもしれないけど。自分はアンナのこと、すごく大切に想ってる……」

「…………」


 彼女の呼気がじんわりとお腹を熱くする。胸がますます苦しくなる。

 だから、本心から外れた軽口を叩く。


「……エリカの素行が悪すぎて、簡単には信じられないかなあ……」


 ふっふっふ、と彼女は笑った。ぱっと仰向けになって彼女は言い放つ。


「今ほど自分の日頃の行いを悔いたことはないね」


 いまだに耳と頬は赤みを帯びているけれど、見慣れた笑顔を浮かべていた。

 私も芝の上へ身を横たえ、真正面から彼女のはしばみ色の瞳を見つめた。

 唇が少し触れるほどの軽いキスをして、ぎゅっと彼女へ抱きつく。彼女は優しく私の頭を何度も撫でた。

 そのうちにエリカは、私のボトムの中にするりと手のひらを入れてお尻を触った。彼女は意外そうに目を丸め、


「アンナ、パンツは紐派なんだ?」

「今日はたまたまだし、楽ちんだから」


 エリカはにっと白い歯を見せて、


「うんうん、非常にいいねえ」


パンツの紐を引っ張った。


「ちょっ……ここ外!」


 慌てて私は彼女の腕を掴んで引きずり出した。


「外じゃなかったらよかった?」

「……」


 にやにやと訊くエリカを睨みつけ、言葉の代わりに、痛いくらいに抱きしめてやる。


「あはは、痛い痛い」


 巻きつけた両腕の力を緩め、彼女の鎖骨へキスをひとつ落とした。彼女はこちらの頭をそっと抱き寄せ、低く呻いた。

 それは、寂しさと残念さが混ざった吐息だった。

 言葉にされなくてもわかる。

 この時間が終わっていくことを、彼女も惜しんでいる。


 でも、これが限られた時間だからこそ、今、私はエリカの心を独り占めに出来ているのかもしれない。


 ――だから、


「明日、見送りはしないからね」

「うん。アンナ。おやすみ」


 ホステルの部屋の前で、私たちは最後の挨拶を交わした。


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