3-4日目


 街を歩き、ときどきカフェに入ったり、レストランで軽く食事をとったりしながらエリカとたくさん話をした。

 彼女は旅先で気に入った場所があったなら、適当なレストランに働き口を見つけ、シェフとしてしばらく滞在しては違う都市へ移る生活を続けていること、料理の腕前にはわりと自信があること、パクチーが嫌いなこと、ビールよりワインが好きなこと、ワインは赤より白が好きなこと、私よりふたつ年下なこと、新しい街へ行くたびに、古着屋を覗いて派手なシャツを買って集めていること。そんなようなことを知った。

 途中、ベトナム料理屋さんでフォーを食べたとき、パクチーを抜いてもらうのを忘れたと、眉毛を八の字にして箸でいちいち取り除いており笑ってしまった。いつもは余裕たっぷりに煌めいている瞳が頼りなくなっていて、エリカは本当に年下なんだ、と実感が湧いた。


 陽の光がオレンジ色を強めだした頃、「ちょっとごめんね」と言って彼女は電話に出た。数歩距離をとって話している彼女に背を向け、なんとはなしに自分もスマートフォンを触ろうとして、はたと気付く。ボトムスのポケットに差し込んでいたはずが、そこに携帯電話はなく、ジャケット、お尻も叩くがそれらしい感触が返ってこず、冷たい予感に慌てて鞄の中へ手を差し込んで――指先にカツン、と求めていた硬さを感じ、ほっとしたのもつかの間、ふとあることが頭に思い浮かんだ。


「お待たせ」と言うエリカに振り返る。


「昨日知り合った友達が、今夜クラブ行こうよって。その前にご飯でも食べようかって話なんだけど、アンナも来る?」

「うーん……」


 多少心が惹かれなくもないが、せっかくの今の穏やかな気持ちを台無しにしたくないという考えもあった。付いて行ったところで、エリカの女癖の悪さを目の前にしてまた辟易するのがオチだ。


「いいや。遠慮しとく」

「そっか。じゃあ、今日はありがとね、楽しかった。また――」

「それより」


 手を上げかけたエリカを遮って言う。


「私のケータイ見つけられないんだけど、ちょっとかけてみてくれない?」

「わ、大変だ。番号は?」


 伝えた番号に彼女がコールして数秒、震えだしたスマートフォンを鞄の中から探し当てて取り出す。


「ああ、あったあった。よかった。ありがとう」


 大袈裟に安心するふりをして礼を伝えると、エリカが優しく笑いかけてくる。


「ほんとによかったね。ところで、エリカって名前がどう書くかというと――」


 彼女は名前の綴りを一方的に述べ、続けて、


「アンナはどういう字?」


と尋ねながら、自らのスマートフォンに目を落としている。淀みない流れに、私の言葉はむしろ不機嫌に詰まる。


「……私の番号、登録しろなんて言ってない」


 エリカはわざとらしく意外そうに口を丸め(サングラスの下の目も丸くなっているに違いない)、


「最近変なところからかかってくること多いから、知らない番号には出ないようにしてるんだけどな」

「……恨みを買った女からのいたずら電話じゃないの」


 せめてもの反撃にそう言い返したら、


「そんなわけないよ。お互いハッピーな時間しか過ごしてないもん」

「ハッピーな時間のあとこそが問題なんじゃない?」


 口元の笑みを貼り付けたまま、彼女はほんの一瞬黙り込んで、


「――とにかく。じゃあ、今の番号から電話がかかってきても、とらないってことでいいかな?」


 邪気のなさそうな笑みを振りまいて私に確認する。

 年下だと微笑ましく感じたのは失敗だった。この女、私の計略なんて最初からお見通しの、百戦錬磨である。

 とてつもない敗北感に泣きたくなりながら、私は片手を差し出した。


「――ケータイ貸して」


 おとなしく自分の名前をちまちま入力している私を、きっと彼女はにまにまと見つめている。




 翌朝、少し遅めの朝食を終えてホステルのダイニングルームでコーヒーを飲んでいると、寝癖のついた頭でよろよろと部屋へ入ってくるエリカが見えた。割安で簡単な朝食のセットを提供してくれる厨房のスペースが、すでに営業時間を過ぎてシャッターを下ろしているのを目の当たりにした彼女は、あからさまにショックを受けて立ち尽くしていた。そして、肩をしょんぼりと下げてスナック菓子の自動販売機の前へよたよた歩いていく。彼女は、朝食をチョコレートバーやクッキーで済ませるつもりだろうか。

 私は椅子から立ち上がり、自動販売機のボタンの間で指を彷徨わせている虚ろな目をしたエリカへ声をかけた。


「おはようエリカ。二日酔い?」

「――アンナ。おはよう。うん、ちょっとだけ……」


 酒焼けでますますハスキーな声になったエリカが弱々しく笑みを浮かべた。


「そんなのを朝食の代わりにしちゃうの?」

「うん……朝食のサービス、終わっちゃったみたいだから……」

「シェフなら自分で作ればいいのに」


 このホステルは共用のキッチンスペースを備えており、鍋や食器も借りられるうえ、ルールに従って管理すれば食材も大きな冷蔵庫で保存できる。


「自分だけのためにごはん作る気起きないんだ……」


 覇気のない顔で応える彼女に同情心が湧く。


「私が作ってあげよっか?」


 そう言うと、エリカの瞳が煌めく。


「え、アンナが? いいの?」


 にわかに生気を取り戻した彼女が可愛く見えてしまう。にやけそうになるのを咳払いでごまかして、


「料理のプロへ振る舞うには、少し自信がないけど。食欲はある?」

「アンナの料理が食べられると思ったら、俄然食欲が湧いてきたよ!」


 ニコニコとご機嫌そうな彼女を見続けているとつられて笑顔を浮かべてしまいそうだったから、「じゃあ適当なところで座って待ってて」と言い残してキッチンへ向かった。

 ほどなくして出来上がった簡単な食事を振る舞ったところ、エリカはちょっと前までの幽鬼じみた佇まいは噓みたいに、もりもりとよく食べた。


「美味しい! 美味しいよアンナ! 天才! 今すぐシェフになるべき!」


 言葉こそ大げさで、本当に調子がいいんだからと思わされるが、箸が止まらないとばかりに口いっぱいに頬張り、満面の笑みで言われると悪い気はしない。惚れ惚れするような食いっぷりを見せ、自分の作った料理を見事に平らげていくエリカを見ながらすするコーヒーは旨かった。

 とある提案を思いつき、なんと誘うべきか思案している間に、エリカは食事を終えてしまった。食欲を満たした彼女の薄茶の瞳は、いまやとろんとしている。


「ありがとう、アンナ。美味しかった。君は救世主」

「どうも」


 あくびと一緒に大きく伸びをしたエリカがゆっくり瞬きをして言う。


「もう一度寝直そうかな。お腹いっぱいで眠くなっちゃった」

「――昼夜逆転しないようにね」

「がんばる」


 食器をシンクへ持っていくエリカを見送って、部屋へ帰るエレベーターを待ちながらそっとため息が出た。

 二日も続けて一緒に街を回るなんて、やっぱり飽きちゃうよね。


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