5日目
昨日の朝に食事を振る舞ってから、エリカと会っていない。あれだけ毎日どこかしらで遭遇していたのに、昨日から今夜に至るまでまったく彼女の姿を見かけなかった。
スマートフォンを何度も確認してみたが、新着メッセージは何もない。ベッドの上に挟んでいる写真を見上げる。エリカは相変わらず憎たらしく笑っている。
――もしかして、もう旅立った?
ホステルなんて、仮の宿みたいなものだ。長居せずにまた新しい場所へ行った可能性もある。でも、何も言わずに? 私の連絡先なら登録してあるのに。ここで知り合った子にいちいち連絡していたらキリがなくて、黙って出て行ったのかも。そもそも私のことなんて思い出さなかった可能性だって――。
彼女が連れていた女の子たちに、共通点はあったかな。好みとか、あるんだろうか。
どんどん塞ぎ込んでいく気持ちに加え、建物の外から聞こえてくるノイズが苛々を募らせる。二段ベッドが二つ縦に並んだ他はロッカーと、各々のスーツケースでいっぱいになった狭い部屋のなかを苛立ちと共に横断して、細く開いていた窓を大きく広げた。うるさい音の原因を見定めようと暗闇の中を見渡すと、ホステルの入り口の辺りでスケートボードに乗っている人がいた。ジャンプを練習しているようだが、挑戦するたび失敗して盛大に道路と板をぶつけて騒がしくしていた。原因を知ってますます苛立ちが強まる。
だが、そのスケボー青年の近くでたむろっている数人のなかに見慣れたシルエットを認めた。あっ、と声が出かかって口を押さえる。男性たちに混じっていると華奢さが目立つ。あれはエリカだった。初日に、なんで男の子なんて勘違いしたのか、不思議なくらいだった。
急いでスマートフォンを手に部屋を出て、屋上へ向かった。人のいない一角へ移動し、短く息を吸い込む。
よし、私は今、お酒を飲みたい。そう、お酒を。
それから、つい最近登録したばかりの連絡先へ電話をかける。息を詰めた数秒間ののち、彼女はあっけらかんと電話に出た。
『やーアンナ。どうしてる?』
「うん、元気だよ。エリカ、今時間ある?」
『うん、どうしたの?』
「あのね、私、お酒買いに行きたいんだけど、付いてきてくれない?」
『今? 全然いいよ』
「よかった。ありがとう」
『じゃあ、ロビーで会おう』
「うん、じゃあまた」
お酒が飲みたくなったけど、一人じゃ怖いから誰かに付いてきてほしかっただけ。別に――エリカと会いたかったわけじゃない。
二人で歩いてリカーショップへ向かった。
「ちょっと遠いけど、ビールの品揃えがいいお店があるんだ。アンナ、ビール好きでしょ?」
「――うん」
よく見て、よく覚えてるんだなあ、と思う。これが女たらしの秘訣か。
にやけるのと、口を尖らせたくなるので迷って、気を紛らわせようと、エリカの珍妙な柄シャツの裾を引っ張った。
「なにこのシャツ」
半分にカットされ、中心に丸い種を見せたアボカドがシャツを埋め尽くしている。
「かわいいでしょ。今日見つけた」
得意げにエリカは振り返って、見せつけるように両腕を広げた。ボタンを留めていない開襟シャツの胸元はスポーツブラが当たり前のように見えていて、シャツの裾を結んだお腹は涼しそうに薄い筋肉とおへそを晒していた。
「……お腹出してると、風邪ひくよ」
「おばあちゃんみたいな口ぶりだね」
彼女はくすくす笑った。
今日みたいな格好だったら、初めて出会ったときに私は彼女のことを勘違いしなかったはずだ。その場合、もっと素直に女友達として仲良くなれていただろうか。
夜の街を少し歩いて辿り着いたお店は、彼女の言った通りビールの品揃えが充実していた。
「お礼にエリカの飲みたいもの買ったげる。ワインの白?」
私がそう言うと彼女は嬉しそうに目を細めた。
帰りは荷物が重いからということで、トラムに乗った。なんて切り出そうかそわそわしていたら、エリカは微笑みながら、
「このあとどこで飲む?」
と訊いてきた。
――誘う手間が省けてほっとするけれど、一緒に飲むのが当然みたいな口ぶりは、それはそれでむかつく。それでも、つまらないことに抗議するのはやめておいて、
「ホステルの屋上のラウンジとか?」
「うーん。でもあそこだと、いろんなやつがたまってるから……」
思案顔のエリカが、ちょうど停留所で止まっているトラムのドアの外へ目をやって、ぱっと表情を明るくした。
「あっ、そこらへんのテーブルで飲んじゃおうよ」
そう言うなり私の手を引き、ステップを駆け下りて道路に着地した。直後に背後でトラムの扉が閉じて発車する。チンチン、とベルが鳴った。
「もう、唐突なんだから……」
この街のレストランの多くは道路にもテーブルを出していて、客は太陽や風を楽しみながら食事ができる。たいていのレストランはもう閉店しているが、外のテーブルは出しっ放しだ。私たちは手頃なテーブルへ荷物を下ろして、乾杯をした。グラスがないことなんかお構いなしにエリカはボトルから直接ワインを飲んだし、栓抜きなしにビール瓶の蓋をテーブルの角で手品みたいに開けてみせた。
薄暗い街灯だけを頼りに、ガタガタするベンチとテーブルに座っていても、穏やかな夜の風が心地よかった。
ややして、彼女は立ち上がって言う。
「あそこのお店でケバブサンド買ってくる。アンナも食べる?」
「お腹空いてない」
「おっけ。すぐ帰ってくるけど、知らない男とかに付いてっちゃだめだからね」
ウィンクをして、道路の向こうのお店へ軽やかに向かう彼女の後ろ姿を見送る。
まったく調子のいい性格で、今までなら遠ざけていたタイプの人間なのに。どうして、こう――。
悶々としながらビールを飲んでいるうち、すぐにエリカが帰ってきた。紙に包まれたケバブサンドを手に、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。可愛くてずるい。
テーブルの向かいへ座り直し、エリカはケバブサンドにかぶりついてはボトルを傾けた。
「エリカは実に美味しそうに食べて飲むねえ」
「実に美味しいからね。食べる?」
首を振って否定を表す。
それから、むしゃむしゃと動かす彼女の口元にクリーム色のソースが付いているのを見つけて、私は自分の唇の横をとんとん、と人差し指で叩いた。
「ん」
彼女は中指で口のあたりを探ってソースを絡め取ると、指先を唇にやった。唇よりももっと紅い舌が一瞬覗いて、それからふっくらとした唇に細い指先が包まれた。私の目を見つめながら指先を引き抜いた彼女の口元から、ちゅぱ、と小さな音がした。
粗相を指摘された子どものような無邪気さと、誘うような妖艶さがその瞳に混ざって光り、私の肌を粟立たせる。
大口を開けてエリカは再びケバブサンドにかじりついた。もぐもぐしている彼女の唇のそばにはまたソースが付いている。今度も同じ動作で示そうと手を自らの顔へ伸ばしかけて、私はふとテーブルに視線を落とした。それから思い直して腕をエリカの顔へ伸ばす。手のひらを彼女の頬へやって、親指でそっとソースを拭う。彼女は咀嚼をやめ、なされるがままになっている。
咄嗟に、ある衝動が沸き起こる。私はソースの付いた親指を、そのままエリカの唇へ這わせた。そして、ぽってりと紅い唇をまるで蹂躙するみたいに親指で割って、彼女の口内へ親指の先を捻じりこませた。
彼女は瞳をすうっと弓なりに細めた。それは野生の獣を思わせる鋭さを湛えていて、私は思わずぞくりとして腕を引きかける。けれど、素早く彼女は私の手首を捕らえた。
私の手首を握ったまま、彼女は咀嚼を再開させ、間もなくごくんと嚥下した。それから、紅い唇を開いて舌を伸ばし、私の親指を口に含んだ。ゆっくりと頭を上下させて、彼女が私の指を
思いがけず熱っぽい吐息が漏れ、それを聞いたエリカは口角を嗜虐的に引き上げて私の指を解放した。そしてこちらの手を包み、目をつむって手の甲、指先にそっとキスをしてくる。
手に頬を寄せながら彼女は流し目を寄越し、テーブル越しに小さく囁く。
「そっち行っていい?」
「……」
「嫌なら行かないよ」
黙り込む私の手に相変わらずキスを送ってくるから、声が震えてしまわないよう気をつけて答える。
「……嫌じゃ、ない」
彼女はにこりと笑むと、私の隣へ回ってきて腰掛けた。両脚でベンチを挟み込むようにして座り、テーブルに頬づえをついた彼女の身体はとても近い。
「食べる?」
彼女はケバブサンドを手に取り、そう尋ねた。
「……お腹空いてないってば」
眉根を寄せて拒否する私に、彼女は微笑みかける。
「――口ん中同じ味がしないと、エリカはケバブの味がしたって覚えられちゃうじゃん? それはいやだな」
「…………」
私は熱くなる身体から熱を逃すためにひっそりと息をついて、ケバブサンドを持つエリカの手首を掴み、それに大きくかぶりついた。私がのろのろと咀嚼する間も、彼女は至近距離で私の目を愉快そうに見つめていた。
最後の塊を吞み下したとき、エリカは手を伸ばして私の口元を拭った。その指が私の唇に触れたから、唇を開き舌を伸ばしかけた瞬間、彼女の手が離れてしまう。エリカは見せつけるように自分の口元へ指を運び、中指をしゃぶった。
顔が火照って、耳まで痛くなるのを私は感じた。睨みつける私へにっこりと笑顔を返し、彼女は言う。
「アンナ、可愛い」
――欲しいのは、そんな言葉じゃなくて。
「ほっぺた、触っていい?」
――その目に見つめられると、頷いてしまう。
手のひらをそっと私の片頬へ添わせた彼女は、榛色の視線を私へまっすぐ向けて、また質問を重ねる。
「ハグしていい?」
――そうしてほしいとかじゃなく。ただ、頷いてしまう。
腕を広げたエリカに抱きしめられる。オレンジみたいな、爽やかな甘い香りに包まれた。抱きしめる力はそんなに強くないのに、うまく呼吸ができなくて、私の胸は苦しくなった。こちらの肩に頭を
――勘違いしないで。これは、恋なんかじゃなくて。
鼻先を私の首筋へ擦り付けながら彼女は顔を寄せ、耳元で小さく囁いた。
「――キスしていい?」
ただ頷いてしまうのは悔しくて、身をよじって私は聞き返す。
「いつもこうなの?」
「こうって?」
「……いちいち訊くの」
――私がケバブを食べた瞬間から、同意してるのは明らかなのに。
するとエリカは表情から艶っぽい雰囲気を霧散させて、苦笑いを浮かべた。
「いつもは違うよ。君の場合は、嫌がられて逃げられたくないから慎重になってる」
そんな風に笑ったら、魔法が解けてしまう。その瞳で見つめて催眠をかけてくれないと、私は頷けないのに。
「……逃げないよ」
だから私は自ら動いて、エリカの後頭部に手を回し、唇を重ねた。
その短く刈り上げた髪は、チクチクするけど柔らかくて、公園のよく手入れされた青い芝生みたい、と私は思った。
でもすぐに、唇と舌が感じる気持ちよさで、そんなのどうでもよくなった。
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