3日目
昨夜は早めに眠ったからか、妙に朝早く目覚めてしまった。シャワーでも浴びて時間をつぶそう。同室の他人を起こさぬよう、化粧ポーチとタオルを手にそっと部屋を出た。
今日はどこへ行こうかな。湯に打たれながら、まだ行っていない場所と、同室の人や街の人から新たに聞きかじった名所を頭のなかでリストアップする。
まだ外も仄暗い時間帯だから、シャワー室に他の利用者はいなかった。けれど、洗面所の扉が勢いよく開かれる音がして、はしゃいだ黄色い声とぱたぱたという早足の音がシャワールームに響いた。朝から元気だなあ、と思いながら熱い湯を浴びていた。ほどなくして少し離れた場所から別のシャワーの音が加わった。入れ替わるようにして私は、きゅ、とシャワーを止め、身体を拭き始める。シャワーの音に混じって、まだ甲高い声がする。友達同士で隣り合ってしゃべっているんだろうか。身体を拭き終わる頃にはその話し声はしなくなって、でも……シャワーの水音に混ざって、なんだか――荒い呼吸のようなものが聴こえる気がするのだ。服を身につけつつ、聴覚を研ぎ澄ませる。
間違いない。これは……何らかの性的な行いが……進行中である――!
朝から元気かよ……。こっちが恥ずかしくなりながら、個室を出る。ざっとシャワールームを見渡すが、利用中で扉が閉じられているのはひとつだけだ。風紀が乱れている。なんて宿泊施設だ。
洗面所のエリアへ移動して化粧水などをつけていると、シャワーの音が止んだ。距離が離れたから、淫らな気配を聴き取ることはできない。まだここには他人がいますよ、というアピールのために、コスメ用品をわざとガチャガチャいじって音を響かせる。ヘアドライヤーも最大出力でごうごう言わす。髪を乾かし終えて歯磨きへ移ったところ、くすくす笑いの混じった会話が聴こえてきた。
そして、そのとき確かに可愛いらしい声が「エリック」と名前を紡いだ。
「……」
嫌な予感がする。歯ブラシを持つ手に力が入り過ぎないよう、注意を要した。鏡の中の自分は、渋い顔つきをしている。
シャワー室のほうで扉が開く音がして、ゆっくりとした二組の足音が近づいてくる。角を曲がって鏡に映ったのは、二人の女。そのうち一人と鏡越しに目が合う。
「あ、アンナ。おはよう」
初めて見る女と手を絡めた濡れ髪のエリカが、鏡の中からなんの躊躇もなく笑いかけてきた。
「誰?」
エリカにしなだれかかった女が甘ったるい声で尋ねる。
「アンナっていう子だよ。こっちは――」
傍らの女を紹介しようとした彼女を尻目に私は、「ペッ」と勢いよく口の中の歯磨き粉を洗面台に吐き出した。
「……」
無造作に口をゆすいで再び水を吐く。ぐい、と唇を腕で拭い、鏡に向かって言い捨てる。
「あんたのオンナ全員覚えてたら、脳のスペース足りなくなる」
「……」
私はのしのしとタイル貼りの床を横断して洗面所を出た。
お腹の底でどろどろと煮え滾っていた感情は、カフェでコーヒーをテイクアウトし、公園の芝生の上で鳥のさえずりを聴きながらぼうっとするうち、霧散していった。太陽が燦々と強さを増していく。
果物や生鮮食品、衣服やアクセサリーなど雑多なお店が立ち並ぶマーケットをうろうろしたり、ヨーロッパ風の建物のアーケード内にぎゅっと詰まった趣味のいいお店を回るうち、人いきれにやられてしまった。新鮮な空気を求めて彷徨っていたところ、古ぼけた教会が目に入った。この街はいたるところに教会があるから、ふらっと入るのにも勇気がいらない。
扉を引いて入ると、まずひんやりと冷たい空気を感じた。外ではぎらついていた太陽光は、ステンドグラスとアーチ状の大きな窓を通して、柔らかく教会の中を光で満たしていた。大理石の床を靴底が叩く硬い音が、高い天井へ吸い込まれていく。
石像や宗教画、石造りの柱を装飾する細かな模様それぞれになんらかの意味があるのだろうが、あいにく門外漢でそれらを味わう知識がない。それでも、ちびた蝋燭がゆらゆらと炎を揺らしている様子や、背筋を伸ばしてベンチに腰掛けるまばらな人たちを見渡していれば、不思議と心は凪いでいく。自分も後方のベンチに座って息をつく。ずっと奥の正面には、くすんだ銀色の管が立ち並んだ威風堂々としたパイプオルガンがあった。修理か調律のためか、ここからは見えないどこかで誰かが時折それを一音か二音鳴らしている。賛美歌など奏でなくとも、音の響きそれ自体がなんだか神々しく感じられるから不思議だ。
飴色の木でできた、おそらく懺悔室といわれるボックスのうちのひと部屋の上部で、赤いランプが点いていた。もしかして、誰かが今まさに”懺悔”をしているのだろうか。と思った瞬間、ランプが緑色に変わって、中から若い男性が出てきた。あまりじろじろ見るものでもない、と急いで視線を逸らしたけれど、下衆な好奇心がうずいてしまった。
――人はどんな心の葛藤を抱えて、あの狭い部屋でそれを吐露するのだろうか。そしてそれを聞き届ける聖職の人たちも、ときには誰かに聞いてほしい悩みを持つものなんだろうか。
そのぼんやりとした考え事は、同じベンチに誰かが腰掛けた振動で断ち切られた。自然と視線をやった数メートル先には、もはや見慣れた顔の人。エリカが「や」と小さく片手を挙げた。何か刺々しいひと言を放ってやろうかと一瞬思ったが、この静かな空間では鋭く激しい感情を露わにするのはためらわれて、また同時に突然どうでもよくなり、私はため息をついた。
「……行く先々であんたに会うけど、もしかして私、尾行されてる?」
「まさか。縁があるってことでしょ」
調子いいことを言ったあとはそれ以上無駄口を叩く様子もなく、彼女は口を閉じて正面へ顔を向けている。これまでと違ったその雰囲気に呑まれ、私のほうが会話の糸口を探して、そっと話しかけてしまった。
「――こんなところ来るんだ、意外」
彼女はちらりと流し目を寄越して、
「そう? ずっとクリスチャンだったんだけどな」
ふっと笑ってみせた。その寂しげな口元と目が気になって、さらに質問を重ねる。
「今は違うの?」
「……教えから外れた道で生きてるから」
「……」
彼女は前を向いたまま、淡々と言った。
「親とも縁を切ったよ。というより、切られたようなもんだけど」
何も言えないでいると、彼女は自嘲の色を濃くした笑みを頬に刻み、遠くの十字架を見つめながらつぶやいた。
「こっちが好きでもさ、受け容れてもらえないことはあるよね。”彼”は……自分みたいな人間のこと、好きじゃないみたい」
そのとき、窓の外を鳥か何かが
「――泣かないで」
咄嗟に懇願するように言った私のほうへびっくりした顔を振り向かせ、
「泣いてないよ」
とエリカは言った。それでも、その瞳には未だ翳りが差していた。私はひとつ深呼吸して、ゆっくり語りかける。
「あなたの神様のこと、私はよく知らないけど。誰を好きになるかであなたのことを否定するような神様は、そんなに慕ってあげることもないんじゃないかな」
目を丸くして聞いていた彼女は、口を小さく開け、閉じ、それから優しく微笑んだ。
「……ありがと」
涼しかった教会を出ると、相変わらず強い太陽光が街に降り注いでいた。
隣のエリカを仰ぎ見る。榛色の瞳は太陽の光を集めて爛々と輝いていた。やっぱり、お日様の下で見るそれはずっと綺麗だった。
けれど、彼女はひょいとサングラスをかけてそれを隠してしまう。
「何か予定ある? 一緒にちょっと散歩しない?」
「……いいけど」
もうちょっと、太陽を浴びたその瞳を見たいから。だから、仕方なく私は頷いた。目が隠れていてもわかるくらいに彼女はニッと唇を引き上げて笑った。
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