2日目


 結局ほとんど眠れないまま朝が来て、ベッドの中でうとうとしていたら昼近くなってしまった。寝ぼけまなこをこすって、共用の洗面所兼シャワールームへ向かった。予定していた観光地巡りのいくつかは明日以降に回すべきだろう。歯を磨き、顔を洗って洗面所を出ようとドアの取っ手に手を伸ばしかけたとき、先んじて扉が大きく開かれた。入ってきたのは、あの男。


「え?」


 共用とはいっても、男女で洗面所は分かれているはずだ。思わず呆けた声を漏らした私は目を泳がせて視線を下ろし、続いて「あ」とまたも息を漏らした。

 薄着のタンクトップ一枚のその胸のあたりは、豊満というわけではないけれど、そこには確かになだらかな膨らみがあった。

 はにやりとした。


「昨日は名乗らなかったよね。名前はエリカ。エリとかエリック、リッキーって呼ぶ子もいるよ。君の好きなので呼んでよ」


 寝癖のついた頭で、けれど爽やかに、ニコ、とそいつは笑ってみせた。

 ……私の勘違いを察知していて、そして絶対に面白がっている。


ね」


 なるべく無感情にひと言だけ返し、


「君の名前は――」


なんてしゃべっている彼女の横を通って部屋へ帰った。



 ああ、もう、まじでなんなの。

 朝(もうほとんどお昼だったけど)からむかつくやつの顔を見て、声を聞いて、笑われて、最悪な一日の始まりだった。そんな幕開けのせいで、街を歩いていても、カフェでひと休みしていても、趣味のいい雑貨屋を覗いていても、あの憎たらしい笑顔がちらついた。

 夜になってまっすぐ宿へ帰るのもなんだか癪で、ホステルの近くの目についた洒落たバーへ入った。クラフトビールを何本か飲んだ頃、


「やほ。朝ぶりだね」


ワイングラスを持った、憎たらしい笑顔のあいつ――エリカが隣のカウンター席に腰掛けた。


「ビール好きなの?」

「……」


 今回はきちんと無視を決め込んでやる。黙って瓶からグラスへビールを注いでも、


「次、それ頼んでみようかな。苦いやつはあんまり得意じゃないんだけどどうかなあ……」


こちらの手元を見やって、呑気につぶやいている。私はため息をつき、カウンターに並ぶボトルのひとつを指差して言う。


「……軽いのが好きなら、あの黄色いラベルが飲みやすいと思う。トロピカルな香りが嫌じゃなければ」

「おおいい感じ。次はそれ頼も。ありがとね」


 笑みを深めて鼻歌をうたうように彼女は言った。それから、


「お腹空いてる?」


 小一時間ほど前すでに夕食は済ましている。空いてはいない、けれど――


「……軽いものなら食べられる」


 私の返答へ嬉しそうに目を細め、彼女は新たなビールとソーセージのプラッターを注文した。全然軽くないんだけど。

 お酒とソーセージをつつきながら、お互い今日回った場所の情報を交換する。彼女も一人でこの都市へ旅行しているらしく、その前はここから飛行機で一時間くらいの島でしばらくのんびりしていたらしい。旅行好きという共通点は、かんに障ることにそれなりに話を弾ませた。


「あ、そういえば昨日君が言ってたカフェ、行ってみたよ。夕方行ったら空いててゆっくりできた」

「そう、よかった」

「君のおかげ」


 テーブルに頬杖をついてこちらを見る彼女の白い頬にはわずかに朱が差していて、唇はますます紅く、くすんだ黄色の瞳は潤んでいる。――この瞳を、太陽の光の下で見たらどんなに綺麗だろうか。

 息が詰まりそうになって、私は食べたくもないソーセージにフォークを伸ばした。


「あ、ねーおにーさん。気になってたんだけど、このカメラ何?」


 彼女はビールサーバーか何かの機械の上に載っているポラロイドカメラを指して、カウンターの向こうのスタッフに訊いた。ひげもじゃの彼は、


「あー、これね。誕生日の人の写真撮ってあげるっていうサービスがあんの、うち」


それを聞いた途端に彼女は目を輝かせて、


「わお、ほんと? 偶然! 今日誕生日なんだ」

「おお、おめでと。じゃあ一枚」


ひげの間から歯を大きく見せて、彼はいそいそとカメラを構えた。

 あっという間にフラッシュが焚かれて、ごついカメラからアナログな写真が排出された。差し出された写真を受け取り、彼女は明るく礼を述べている。

 ひげのお兄さんが他の客に呼ばれて離れたのを見計らい、隣の彼女へ疑いたっぷりに尋ねる。


「さっきの、ほんと?」

「何が?」

「誕生日って」

「ううん」


 悪びれもせず、彼女は即座に否定した。呆れて二の句が継げないでいたら、


「でも、いい写真撮ってもらえたじゃん」


 浮かび上がった写真の中では、ご機嫌そうに笑う彼女が、目を丸くした私の肩を抱き、寄り添うみたいに頭を傾けている。

 文句のひとつもぶつけてやろうとした瞬間、


「あーっエリ!」


お手洗いから帰ってきた風の女性が、大きな声を上げた。続けてことエリカの腕を引っ張って、


「もうあんたはすぐふらふらするんだから。女ばっか口説いてないで、わたし明日帰るんだからちゃんと付き合ってよ」


 スツールから引きずり降ろされた彼女は「わかったわかった」なんて言いながら、「ごめん」とこちらへ苦笑いを向け、数枚の紙幣をテーブルに置いて歩き出す。

 引っ張られていく彼女は振り向いて、騒がしい店内でも届くよう声を張り上げた。


「君の名前は?」

「……アンナ!」


 私も口の横に手を当てて名乗る。


「アンナ、またね」


 腕をぶんぶんと振って彼女はがやがやとしたテーブルの一角へ連行されていった。


「……」


 残されたのは、もう冷えたソーセージの食べかけと、くしゃくしゃの紙幣の隣に、一枚の写真。

 あいつ――エリカは、嘘をついてまで撮らせた写真のことなんか頓着せず、置き去りにしていった。ぴん、と指で弾いた写真は、まだ半分ほど中身のあるグラスに当たり手元へ跳ね返ってきた。写真には、にこにこと余裕の笑みを見せているエリカと、みっともなくアルコールで赤らんだ顔の私。……これを置きっ放しにして退店するのは、個人情報的によくないよね。顔、ばっちり写ってるし。

 グラスに残っていたビールを飲み干し、支払いを済ませる。



 シャワーも終わらせて、ドミトリーの部屋へ帰った。まだ消灯するほど更けた時間ではないから、部屋の灯りは点いている。私以外の三人も起きている様子だ。

 ベッドに寝転がってぼうっとしていると、初日から気になっている上段のマットレスにへばりついたニコちゃんマークみたいな染みが目に入る。いつでも自信に満ちた笑みをうっすらたたえている人間が思い浮かんだ。


「……」


 のろのろと身を起こし、鞄からあるものを取り出した。先ほど持ち帰ってきた写真を、上段ベッドのマットレスを支える細いメタルの隙間へ差し込んでみる。

 枕に頭を預けた視線の先では、鬱陶しい染みが隠れて、その代わり忌々しい笑顔がある。

 ふふ、と我知らず笑い声が漏れた。

 同室の他の人に訝しまれないよう、二の腕を口元に当てて、写真を見つめる。次に会ったとき、「写真を返して」なんて言われやしないだろうか。この写真は――汚い染みを隠すのにちょうどいいから所有していたい。

 でも……この写真には私も写ってるんだけどな。ちょっとは欲しがってほしい、と矛盾した気持ちもわずかに湧く。


 これ以上余計なことを考えたくない、と寝返りをうって、まだ明るい部屋のなかで私は目をつむった。


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