恋なんかじゃない話

東海林 春山

1日目

 ――これは恋なんかじゃない。

 だから、勘違いしないで。



 長旅を経て辿り着いたホステルは覚悟していたよりも小綺麗だった。同室の女性たちも感じがよく、いびきのひどい人間もいなかったし、ベッドもただひとつ気になる点を除けば寝心地がよくたっぷり眠れたので、張り切って午前中から街へ観光に行くつもりだった。

 受付の人から観光マップをもらって玄関を出ようとしたとき、ドアの向こうに大きなスーツケースを引いた細身の人が現れた。きっとこれからチェックインするんだろう。扉の横に退いてその人が入ってくるのを待っていたら、彼はドアを押さえて私が先に出られるようにしてくれた。


「ありがとう」


 小さく礼を述べて横を通りすぎるとき、爽やかだけれど甘い匂いがふっと香った。それに誘われ、着古した大きめの青いネルシャツから覗くほっそりと長い首、それに続く細面の顔へと視線を向ける。白い肌との対比で目立つ、紅いふっくらとした唇がきゅっと引き上げられ、キャップの下のはしばみ色の瞳が自信ありげにきらりと光った。

 なんとなく急いで顔を背け、外へ出た。途端に強い陽光が目を射る。出かける前からサングラスをかけておけばよかった。そうすれば、私の動揺ももうちょっと見えにくかっただろうに。

 少しだけ速くなった鼓動を感じつつ、地図を広げて気持ちを切り替えた。



* * *



 今日散策するエリアのなかで目星をつけていた観光地やカフェを巡り、早めにホステルへ帰ってきた。一日中、足が棒になるまで歩いた疲労感と、太陽をさんさんと浴びた健康的な眠気は、充実感をもたらした。無理をして街を見ることもない。どのみちここには十日間滞在する予定だし。

 共用のシャワルームで湯浴みをしている際、ダイニングルームの黒板で告知されていたイベントのことを思い出した。今夜、このホステルの屋上でささやかなDJパーティが行われるとか。行ってみようか。自分はあまり人付き合いのいいほうではないが、それでも長旅をするうち、いささか人恋しくもなってきた。

 シャワーを終えて化粧をするか一瞬迷って、その代わり丁寧にヘアドライをした。

 帰ってきていた同室の一人に参加してみないかと声をかけてみたけれど、明朝早く出かけるから、と断られてしまった。


 パーティの開始時刻から45分ほど過ぎたのを見計らい、スマートフォンだけ尻ポケットに突っ込んで屋上へ行った。チープな電飾と小さなテーブルたちに灯されたキャンドルだけを光源に頼った暗いそこには、わりとたくさんの人間がすでにひしめいていた。ターンテーブルを回しているのは、先ほどヘアドライヤーを貸してくれた受付のお兄さんだ。少々のお金と引き換えに取得した飲み放題の権利を行使して、瓶ビールを手に薄暗い片隅へ移動した。

 元から友人同士なのかわかりかねるが、皆一様にリラックスした様子で笑ったり、踊ったりしていて楽しそうだ。これが全員ここで初めて出会って爆速で打ち解けているだけだったらどうしよう。……どうもしないが、自分のコミュニケーション能力のなさに落ち込むだけだ。

 ――でも、愉快そうにさんざめく人の気配や唐突に盛り上がっては弾ける笑い声、下心を携えて囁きを交わす二人組の醸す空気などを、傍観者として感じるのは好きだ。この国では違法であるはずの植物を誰かが嗜んでいるらしき、鼻をつく強烈な匂いだけは閉口するけれど。


 柵に両腕を載せ、ゆるい風に当たりながら街をぼんやりと眺める。高い建物はないから、遮られることなく街の灯りが一望できた。ビールをゆっくり飲んでは、見知らぬ人たちの笑い声に耳を傾ける。好きな曲が流れて、わずかに身体を揺らす。心がじんわりとほどけていく。

 すると、横合いから、


「楽しんでる?」


と、掠れた中低音の声がした。

 穏やかなひとときを邪魔された煩わしさから口を引き結んで振り向けば、線の細い中性的な青年がいた。風にそよぐ長い前髪の隙間から覗く、こんな暗い場所でも朗らかな光を湛えた榛色の目を見て気付く。今朝、玄関でドアを譲ってくれた人だった。無視してもよかったが、恩義があるから小さく答える。


「……まあ、それなりに」

「うんうん、いいね。かんぱーい!」


 こちらの無愛想な返答を気にした風もなく、彼は自身のボトルを持ち上げて陽気に笑う。仕方なく瓶を軽くぶつけ、申し訳程度に口をつける。視線を街並みへ戻した私の隣で、彼は柵に両腕と顎を預けてこちらを見上げ、なおも明るく言葉を続けた。


「観光で泊まってるの?」

「うん」

「今日はどこに行った?」


 面倒くさいと感じたけれど、なぜだか黙ってやり過ごす気にもなれず、今日訪れたいくつかの場所を口にした。


「ああ、そこのカフェ行きたいと思ってたんだ。どうだった?」

「おしゃれな空間だったし、店員さんの感じもよかったけど、お客さんが並んで待ってたから、長居する気にはなれなかったかな。料理は……サーモンのエッグベネディクトを食べたけど、そこそこ美味しかったと思う」

「なるほど。じゃあピークどきを外して行ってみようかな」


 紅い唇を綻ばせて笑みを絶やさないその顔から目を背けてビールを数口飲む。沈黙が落ちて、早くどこかへ行ってくれないかな、と思ったそのとき、囁くように彼が言う。


「髪、触っていい?」


 ぎょっとして振り向き、当然拒否を表明しようと口を開いたのに、その不思議と暖かい色の瞳に覗き込まれると、私は、


「――いいけど」


と答えていた。

 彼は腕を伸ばして私の肩のあたりから髪に指を通し、何度か丁寧に梳いた。


「綺麗だね」


 前髪のかかった目が、満足そうに細まる。私は息を呑み込む。その長い前髪とは対照的に、短く刈り込んだサイドの髪の毛を見て、私もそれを触りたい、と思った。ふわふわと浮ついた気持ちに任せ、その要望を口にしかけ――


「リッキ〜」

「わ」


 タンクトップ一枚の女性が、彼の後ろからのしかかるようにして抱きついた。


「こんなとこにいたぁ」

「重い重い」

「あー正直者」


 よろけてじゃれつく二人から素早く離れる。胸にせり上がる苦々しさを、ビールの苦味で打ち消す。なんであんなこと、私は口にしようとしたんだろう。

 歩きながらぐっと瓶を傾けて飲み干し、適当なテーブルにとんとそれを置き、スピーカーの前で我を忘れて踊っている一群のなかへ身体を滑らせる。目をつむり、頭を振って足を踏み、音の粒を浴びてびりびりと震える肌の表面を汗で湿らせた。


 そうしてしばらく脳を空っぽにして音で満たした私は、冷たい空気を求めて非常階段のほうへふらふらと歩いていった。一日中歩き通したうえに踊り尽くした脚はもはや使い物にならなくなっている。今夜はよく眠れそうだ。

 階段へ腰を下ろしてスマートフォンに目を落とした。ややして、遠くの音楽に混じって何やら妖しげな音が届くのに気付く。液晶画面から顔を上げて耳を澄ませば、いた吐息と水音と、睦まじい声。そっと身を乗り出して覗いた階下の踊り場では、二人の男女が抱き合ってキスをしていた。

 うわ、と思ってから、あることに気付いてさらに、うわ、と顔を歪めた。女性を壁に追い詰め背中を向けているその男は、榛色の目のあいつだ。しかも相手の子は、どうやらさっきの女の子とは違うようだ。

 ――女なら誰でもいいのかよ。

 うんざりとした気分の一方で、二人から目が離せない。女性の片腕はきつく彼の背中をかき抱き、もうひとつの手は彼の後ろ頭へ差し入れていた。さっき、私が触りたいと思った刈り上げられたその髪。

 ふっと緩んだ私の手のひらから、スマートフォンが滑り落ち、あっという間に階段を転げ落ちていく。甲高い音が鳴り響き、二人はもちろんこちらを見上げた。彼の大きく開かれた明るい色の瞳と視線が合ってすぐ、それはするりと弓なりに細められた。ちょっとは気まずげにしろよ。

 ようやくうるさい音を奏でるのをやめたスマートフォンは、最悪なことに彼らの足元でうずくまっている。彼が女の子から離れてひょいとそれを拾い上げるから、私はため息をついて階段を降りていった。


「画面、割れてないよ。よかったね」


 爽やかにそれを差し出す彼へ、不本意ながらも礼を言おうとして、彼の元々紅い唇が、他人の口紅でさらに紅く色づいているのを見つけた。奪い取るようにして電話を受け取り、その身体を押しのけ建物の内部へ続く扉を開けて中へ入った。


 最悪。

 苛々しながらエレベーターのボタンを連打して、やっと到着したそれに乗り込み、異常にのろまなスピードで数字を減らしていく階数の表示を睨みつけてはさらに苛々した。すでに消灯したドミトリーの部屋では、誰かが高らかにいびきをかいている。

 最悪。

 手荒く着替え、共用の洗面所で雑に歯磨きをして、さっさと二段ベッドの下に潜り込んだ。身体は疲れきっているのに、なぜか眠りに落ちることができない。ソロで鳴っていたいびきが二重奏になって、ますます眠れない。

 最悪。

 まぶたを開き、はあ〜、と嫌味たっぷりにため息をつけど、いびきの主たちが演奏を止めることはない。視線のちょうど先、二段ベッドの上段のマットレスには、薄茶色い染みがぼんやりと広がっていて鬱陶しい。しかも、その染みはなんだかニコちゃんマークのように見えるのだ。

 あいつ、へらへらしやがって。目をぎゅっとつむって寝返りをうっても、あの瞳の輝きと、熱い吐息の気配、後ろ頭を抱いた白い指先が脳裏をちらつく。


 あの短い栗色の髪の毛は、どんな感触なんだろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る