第三章

 三人は会話を交わしながら歩き、会社から十分程の場所にある居酒屋に入った。当然奥の個室を選んで座る。先にビールを頼み料理もいくつか選んで注文してから、取り敢えず乾杯をした。

 一息ついた所で、英美が口火を切った。

「早速だけど、何故久我埼さんに絡むの? 三箇さんらしくないから聞くけど、あの人と何かあった? いつから知っているの?」

 ビールに口を付けていた彼はジョッキを置き、大きく息を吐いてから説明し出した。

「いずれ話す機会があると思っていたけど、あいつがこの名古屋ビルに来るとはね。これも何かの思し召しだ。あいつの化けの皮をはがせと、誰かが言っているんだろう」

 浦里が口を挟んだ

「化けの皮ってなんだ。もしかしてあの死に神とかいう噂の事か」

「ああ。奴は犯罪者だ。俺の目に狂いはない。十年前からそう思っていた。久しぶりに奴の顔と目を見たが、間違いない。あれは人を殺したことのある人間のものだ」

 これにはさすがの英美も、言わずにはいられなかった。

「死に神って噂を信じて、久我埼さんに突っかかっているの。それは余りにも酷くない? あの人が三箇さんにどんな迷惑をかけたっていうの?」

 浦里も同意した。

「そうだよ。それにしても周りに人がいる前で怒鳴りつけるのは、やりすぎだろ」

「そんな単純なものじゃない」

 三箇の声が大きくなり、表情が変化し出した。完全に怒っている時の顔だ。その目はとても恐ろしかった。

「十年前って会社に入っていない頃よね。三箇さんまだ警察に、」

そこまで言ったところで英美は気が付いた。

「もしかして県警にいた時、一宮の支社長が亡くなった件を担当していたの?」

 浦里は黙っていた。どうやら知っていたらしい。以前彼が三箇のプライベートな事に関わるから自分で聞け、と言っていた意味がここで理解できた。

少し間を置いて三箇が答えた。

「ああ。十年前、久我埼の上司だった一宮支社長の美島みしまさんが亡くなった時、俺は県警の刑事課にいて当初は担当していた。その時久我埼に会っているんだ」

「で、でもあれは病死だったんじゃないの? 確かに亡くなった場所が病院じゃなく自宅だったから、変死扱いになって警察が会社にも来たとは聞いたけど。結局事件性は無かったんだよね?」

「俺の上司達はそう判断した。だが俺は未だに信じていない。あの人は病死なんかじゃない。殺されたんだ。そして俺は当時疫病神と呼ばれ、前の部署でも上司が亡くなっているという久我埼に事情を聞いた。その時に確信したんだよ。奴は人を殺したことがある人間だとね。判るんだ。超えてはいけない線の向こう側に行った人間の目には、独特のものがある。俺はそれを感じ取ったんだ」

「ちょっと待て。さっき当初は担当していたと言ったな。途中で外れたと言うことか」

 浦里が質問を挟んだ。その様子から、彼も全てを詳しく聞いている訳ではないらしい。そこで英美はしばらく聞き役に回ろうと考えた。三箇は説明し始めた。

「ああ。外された、と言った方が正しいだろうな」

「それは、病死だと上が判断したことに逆らったからか」

「それもある。だが表向きは被害者と親しい関係にあると分かったから、との理由だった」

「被害者と面識があったのか? 亡くなった美島支社長と?」

「母親の従兄にあたる。俺から見ればいとこ違い、というのかな。それだけじゃない。俺が母子家庭で育った話は前にしたよな。俺達親子は、あの人から相当世話を受けた。経済的支援も含めて、だ」

 説明によると彼の母方の祖父には近所に住んでいる歳の離れた弟がいて、その一人息子が美島だという。つまり母親の旧姓も美島だ。 

 二人の年が近かったことから、幼い頃より親しく兄妹のように育ったらしい。しかし彼の母親が結婚して父方の三箇姓を名乗り、住所も少し離れたことから、二人の関係はしばらく遠ざかっていたという。 

 その後彼が十歳の時に事故で父親を亡くし、母子家庭となった。その頃母の両親は既に病気で亡くなっていて家も処分していたらしく、実家に戻ることができなかったそうだ。

 彼は父方の義父母に請われ、三箇姓のままでいたという。父には妹がいたけれど嫁に出ていた。そこで三箇が男だったことから、姓を継いでくれるだろうと考えたらしい。

 とはいうものの珍しい姓ではあったが、代々名を継がなければならないほどの裕福な家でも、特別な家系でもなかったそうだ。それどころか貧しい一般家庭に過ぎなかったが、昔は地域などによる考えもあり、こだわる家が少なくなかったらしい。

 だから三箇姓を名乗ったはいいが、義父母から特別に援助を受けてはおらず、家計は苦しかったそうだ。そんな状態を見かねて助けてくれたのが美島だったという。三箇親子を美島の母一人が住む実家の離れに、無料で住まわせたらしい。

 美島の父も亡くなっていた為、損害保険会社に勤め全国を転々とする一人息子としては、母親を近くで見てくれる人が必要だった。三箇親子は経済的に苦しかったため、家を借りたりすれば家賃がかかる。そこで互いのニーズが合ったのだろう。

 三箇の母はパートに出て働きながら、特に障害などなくまだ元気な美島の母の様子を見たり、話し相手になったりするだけで良かったそうだ。また三箇という子供がいたことも、美島の母を喜ばせた。

 結婚して子供も二人いる美島だったが、仕事で各地を転々としていたので、頻繁には実家へと戻ってこられない。そうなると美島の母は、実の孫達ともなかなか会えなかった。 

 その代わりと言っては何だが、美島の母にとって三箇が孫のように思えたのだろう。おかげでとても可愛がられ、いろんなものを買ってもらうこともできたようだ。

 美島は住む場所を、無料で提供してくれただけではない。それなりの高給取りだったこともあり、母親の世話をしてくれるからとの名目で仕送りもされていたという。そうした経緯から三箇にとって美島は、経済的にも精神的にも支えてくれた人なのだ。

「ドラマや小説から得た知識だけど、事件の関係者に身内がいると私情が挟んだり冷静な判断ができなくなったりする恐れがあるので、捜査から外される場合があるとは知っている。でも最初は担当していたんだろ」

「姓は違ったが、関係性はすぐに上司へ報告したよ。でも家で亡くなったから変死扱いとして警察が動くことになったけれども、当初から病死の可能性が高いとされていた。だから特に問題はないだろうと、その時は上も判断したんだ」

「それならどうして、殺人なんて話が出てくるんだ」

「死因は急性心不全だったが解剖した結果、その原因が心筋へのデング出血熱のウィルス感染だと判ったからだ」

「デング出血熱って、蚊を媒介として感染する病気の事か? 以前東京の代々木公園かどこかで感染が広まった、例のやつだよな」

 デング出血熱を引き起こすデングウィルスは人から蚊、そして人へと感染するものだ。致死率の高い重症の病気を起こすこともあるが、ただウィルスに感染しても直ちにそうなる訳ではないらしい。 

 初めて感染し発症した場合は、まずデング熱と呼ばれる三十八~四十度の急な発熱が始まり、関節痛や筋肉痛、嘔吐などを引き起こすけれども、大概は治るという。

 しかしデング出血熱とは、ウィルスに感染して発症した患者の一部が、解熱して平熱に戻りかける頃に突然重篤化し、ショック症状を起こすものだ。

 致死率はかつて一~二割とも言われていたが、適切な治療が行われれば一%~数%になると言われている。ただしデング出血熱で起こるメカニズムは未だ解明されておらず、不明な点が多いらしい。その為有効な治療薬はなく、あくまで症状を緩和するしか方法はないという。

 現在はマレーシアやフィリピン、ベトナム、シンガポールや台湾などの東南アジアで多くのデングウィルスが流行している為、それらの地域からの入国者や帰国者が日本国内で発症するケースは増えているようだ。

 空気感染はしないと言われているが、有効な医薬品などが確立されていないため、予防策は蚊に刺されないようにする等、消極的な対応に留まっているのが現状らしい。

 三箇がそう説明しながら答えた。

「国が指定する第四類感染症にあたるウィルスだから感染元はどこか、彼が亡くなった家や勤めていた会社はもちろん、彼の行動範囲内で感染が広まっていないか、一時は騒ぎになった」

「だから警察が会社にまで来た、って話が広まっていたのか」

「実際にウィルスが拡散されていないかを調べたのは、市の保健所だ。しかし会社にいる人達に美島さんの日頃の行動範囲などの事情を聴いたりしたのは、警察の仕事だった」

「それで感染元は判ったのか。ウィルスが広まったなんて話は、聞いたことがない。十年前でもそんなことが日本であったら、大きなニュースになっていただろう。でもそんな記憶はないぞ」

「それはそうだ。結論から言うと、家や会社も含めてどこからもウィルスは検出されなかった。よって国内感染でないと判断され、外部には公表されなかった」

「そんなことってあるのか」

「第四類感染症だと、公表するかどうかは自治体の判断に委ねられるからだ。騒ぎが大きくなり、下手に恐怖心をおあって混乱しない方が良いと考えたのだろう」

「そんな事があったのか。でもそれって隠蔽じゃないか」

「そうでもない。基本的に感染症は第一類から五類とその他に分類される。一類が最も重大で、エボラ出血熱やペスト等がそうだ。致死率が高い、または感染力が強い三類までは、比較的厳密な行動指針が示されている。だが四類から下だと、やや規準が甘い。だからケースによっては、個人情報の保護が優先されるようだ」

「どうしてそんなことになったんだ」

「国内感染かどうかで、対応が大きく別れるからだ。それは発症前の二週間以内に、海外渡航歴があるかどうかで決まる。美島さんの場合は、死亡する約二週間前に夏季休暇を取って、家族でフィリピンへ旅行していた。そこで何かウィルスの入った物を口にし、帰国してから発症したのだろうと結論付けられたんだ」

「二週間前にフィリピンで? そんなにデングウィルスは潜伏期間が長いのか?」

「通常は七日間程度のようだ。ただ最短で二日、最長で二週間とも言われているらしい。だからそうした結論を出したのだろう」

「でも家族は誰も、感染していなかったんだろ?」

「ああ。もちろん美島さんが帰国してから接触したと思われる会社の人達や、取引先の人達から血液採取して検査したが、誰一人として見つかっていない。それどころか美島さんの会社の席や家でも、ウィルスは発見できなかった。だから感染が拡大することはないと判断されたんだ」

「フィリピンのどこで感染したかも、判っていないのか」

「さすがにそこまでは調べられない。だからどこでウィルスが入り込んだか不明のまま、彼は病死と処理された。もちろん事件性もないとされ、警察の捜査も途中で打ち切られてしまったんだ」

「国内で感染した可能性は無かったのか。蚊が媒体となることが多いんだろ。全く関係のない人が国内にウィルスを持ち込んでいて、その人の血を吸った蚊に刺された可能性だってある」

「もちろん確率として、ゼロではない。当時東南アジアのどこかでデング熱に罹り、名古屋の病院で入院していた人物が他にもいたことが確認されている。しかしその人は、中部国際空港内で感染の疑いがあると診断され、病院へ直行していた。しかも美島さんが成田空港経由で帰国した後、その人は完治して退院したようだ。よって感染ルートではないと判断された、と聞いている。だが個人情報保護の為、病院側から名前等は教えられていない」

「だったら病死じゃないのか。それなのに殺人だと決めつけるのはどういう訳だ?」

「考えてもみろ。感染先が不明なだけでなく、どこからもウィルスが検出されなかったんだ。しかも感染元と疑われているフィリピンから帰国して、二週間も過ぎた後だぞ。すぐに発症しなかったというのは理解できる。それでもそんなに長く体内にウィルスを抱えていたなら、どこかで検出されるはずだ。血液や体液との接触で広まるものらしいから、唾やくしゃみをすれば、その飛沫先でウィルスが発見されるだろう。歯を磨いたら歯ブラシなどに付着するだろうし、コップなどにも付いているのが普通じゃないか。小便などもそうだ。しかし家や会社の洗面やトイレ、机周りなども全て調べたが出て来なかった。それが余りにも不自然ではないかと、警察内でも疑問を持った人達はいたんだ」

「どういうことだ? 誰かが意図的にウィルスを美島さんに感染させたとでもいうのか」

「そうでないと辻褄が合わない。彼の体内だけでしか見つかっていないことから考えると、おそらく飲み物か食べ物で彼の口から摂取させたのでは、という意見が出た。俺もそう考えていた内の一人だ」

「それでも感染してから、最短二日で発症するんだろ? その間にウィルスが広がる可能性だってあっただろ」

「専門家によると摂取して体内奥深く取り込まれ、ウィルスが心臓に達して発症したとすれば、飛沫しないこともあるらしい。だから毒殺と同じで、誰かが彼の口にウィルスを入れた可能性が高いと俺は考えている」

「しかしどうやってそんなことができる? 毒ならどこかから入手できるだろうが、デングウィルスを手に入れるなんて、そう簡単にできる訳がないだろう」

「ああ。だから美島さんが亡くなった頃、東南アジア等の海外へ渡航していた人物が社内にいないかを探したんだ。現地で何かしらそういうものに触れて、持ち込んだ可能性があるからな」

「それが久我埼さんだったと言うのか?」

 浦里の問いに三箇は首を横に振って、溜息を吐いた。

「いや、違う。あいつには海外への渡航歴自体が無かった。パスポートすら持っていなかったんだよ」

「だったら他に怪しい人物はいなかったのか? 例えば家族はどうだ。一緒にフィリピンへ旅行していたんだろ? 子供達は無理だとしても、奥さんだったら可能だろう」

「真っ先に疑われていたさ。美島さんが高給取りだったこともあったし、自身が生命保険も扱う保険会社にいたことで、高額な契約に加入していたからな。だけど海外から持ち込んだとしても、どうやったのかと考えれば、そう簡単にできることでもない。それに扱い方を間違えると、下手をすれば自分自身が感染してしまう。しかし色々調べたが、生命保険だけでは動機として薄く、決定的な証拠も見つからなかった。だから奥さんは容疑者から外された」

「どういうことだ?」

「一時的に得られる高額な生命保険よりも、経済的には会社で働いて高額な給与を貰い続けた方が得なはずと考えられたらしい。年収は一千二百万円以上あったようだからな。しかも夫婦仲に問題は見つからず、動機もないと判断されたんだ」

「他に容疑者はいたのか?」

「美島さんの周辺にいる社員や取引先などで、海外渡航をした人間をピックアップした。すると十数人程、フィリピンではないが同じ東南アジアに夏季休暇を取って旅行していた女性社員がいた」

「それ位はいるだろう。実家暮らしで独身の事務職なら、それなりに経済的な余裕がある。毎年必ず海外旅行に行く事務職は、俺が知っているだけでも数人いるからな。廻間さんの周りにもいるよね」

 話を振られた為、英美は頷いて答えた。

「私はもっぱら国内旅行派だけど、海外へ毎年のように一人旅する事務職は結構いるよ。総合職だって年に一回は、家族でグアムとかハワイに行っているって話を聞くしね」

「らしいな。当時も調べている内に、そうした事情を知って驚いた。警察だとそれほど給与は高くないし、休暇も長く取れない人の方が多い。改めて美島さんの働いている会社が大きく、恵まれているんだなと思い知らされたさ。だから子供を二人も抱えているというのに、俺達親子へ経済的支援する余裕があったんだと納得したよ」

「それでも社員の中に、疑わしい人物はいなかったんだろ?」

「ああ。全く見つからなかった」

 そこで英美は思い出し、尋ねてみた。

「そういえば二課の七恵さんは、一宮支社にいたんじゃなかった?」

「いた。当時は独身だったから柴山ではなく、旧姓の木幡こはたさんだったけどね。事情聴取もしたから覚えているよ。だから警察を辞めてこの会社に入ってから、数年後に彼女が再就職でこのビルへ来た時は驚いた。こんなところでまた会うなんて、と思ったよ」

「もしかして他にもいるんじゃないのか? 当時事情を聞いた社員の数は相当数いただろうから」

「確かに俺がここへ入った頃はまだいた。だけど今はもうほとんどが異動や退職でいなくなってしまったから、当時の事を知っているのは柴山七恵さんを含めて、数人くらいしかいないんじゃないかな」

 英美はそこで首肯した。

「彼女が総務課に配属された久我埼さんを、やたら大きな声で死に神呼ばわりしていたのは、そういう理由があったんだ」

「それはそうだろ。当時疫病神扱いされていた久我埼が再びこっちへ戻ってきて、しかも同じビルの同じフロアに来たんだ。良い思い出ではないだろうし、嫌うのも無理はない」

「妙に肩を持つわね、三箇さん。七恵さんの事情聴取の結果はどうだったの? 彼女は疑われたりしたの?」

「いや、確か彼女はパスポートを所持していたけど、渡航歴は無かった。だから早々に容疑者リストから外されたと思う」

「渡航履歴が無いのに、パスポートを持っていたの?」

「彼女は当時既に、結婚が決まっていたらしい。それで新婚旅行用に取得していたと話していたはずだ。確かその後しばらくして、寿退社したと聞いた覚えがある」

「この会社に再就職してから、彼女と話をしたのはいつ?」

「久我埼がこのビルに現れた時、少しね。彼女も驚いていたよ。SC課と事務職は接点がほとんどないし、あの当時の事情聴取した刑事がこの会社にいるとは想像もしていなかったんだろう。例の紛失事件の件で騒ぎが大きくなった時も、彼女から話を聞いたんだ」

 ここで黙っていた浦里が話を戻した。

「それで柴山さんも含めて社員の中に怪しい人物はいないし、奥さんの疑いも晴れた。それなのに、何故久我埼さんが容疑者だと思っているんだ?」

「刑事の勘さ。これは事情聴取したものでしか分からない。あいつには渡航歴も無く、疑われる要因は少ないはずだった。それなのにやたら怯えていた」

「それは上司が亡くなったのが、二回目だったからじゃないのか。それで疫病神呼ばわりされたんだろ。警察からも疑いの目を向けられたら、怖がるのも無理はない」

「いや、そうじゃない。あいつの目は、隠したいことがあると物語っていた。だから挙動不審に陥っていた。それで俺は、奴のことを調べ出したんだ。しかし途中でストップがかかり、捜査から外された。身内の人間が亡くなったことで冷静さを失っているから、公平な捜査はできないという理由だ」

「しかし犯人が久我埼さんかは別として、警察の中で病死だと判断するのは疑わしいという声が上がっていなかったのか」

「その頃には捜査も行き詰っていたから、病死で片付けようという空気が流れていたんだ。俺はそれを阻止しようとしたんだが、邪魔だったらしい。上の方針に逆らう奴だと言うことで、邪険にされた。だから俺は独自に調べ始めたんだ」

「外されたのに、個別で捜査していたのか」

「そうするしかなかった。しかも殺されたのは俺の恩人だ。高校を卒業して警察学校に入り、警官になって家に生活費を入れられるようになるまで、美島さんの世話になった。そして彼の母親が病気で亡くなったのを機に、俺達親子は別の部屋を借りて住むようになったんだ。そこでようやく援助も必要なくなり、しかもそれまでいた宮城から地元の愛知に異動で戻って来た。だからこれから恩返しする番だと思っていた矢先に、あの事件が起こった。俺が警官から念願の刑事課に抜擢されて、二年目に入った年だ。あの人が突然亡くなったと聞いて呆然としたよ」

「独自に調べて、何か見つかったのか」

「不審な点はいくつか判った。久我埼の前の職場で上司が事故死した件でもそうだったが、奴は美島さんとも相性が良くなかったという証言が、複数から得られた。だから気に食わない上司を殺したいと思っていたとしても、おかしくは無い。実際にそう思っていた上司が事故死したのだから、同じように死んだらいいのにと考え、殺人を思い立った可能性はある。あいつには動機があったんだ」

「その事故って、十五年前に起こった件だろ。俺は前の職場が京都だったから、そんな話を聞いたことはある。でも同乗していた久我埼さんも、相当な重傷を負ったらしいじゃないか。運転していたのは上司だったし、スピードを出し過ぎてカーブを曲がりきれなかった事故だったはずだ。それに上司と反りが合わないなんて、良くある話だろ。他に美島さんを恨んでいそうな社員はいなかったのか? 部下の中で一人だけと相性が良くない上司なんて、まず聞かない。一人現れれば他にもいたはずだ。その点はどうなんだ」

 痛い所を突かれたらしい。彼は浦里の質問に顔を歪めた。

「調べる内に、俺の知らない美島さんの姿が見えて来たことは確かだ。俺達には神様のように見えたあの人も、仕事場では厳しかったらしい。特に営業の管理職となってからは、上からのプレッシャーもあったんだろう。部下を叱咤することは良くあったようだ」

「それなら美島さんを憎んでいた社員は、久我埼さん以外にもいたんじゃないのか」

「いや、殺すほどの動機があった社員は見つからなかった。だから俺は久我埼しかいないと睨んだんだ」

「こんなことを言うと失礼かもしれないが、敢えて言わせてもらう。当時三箇さんは警察に入って五年目、刑事になってまだ二年目だったんだろ。さっき言った刑事の勘や、人を殺した人間が分かるというその目は信用できるものなのか。俺達の会社で入社五年目、二か所目の職場で二年目と言えば、新人とまでは言わないまでも中堅とも呼べない程度だ。本当にその勘が確かなのかが俺には分からない」

「周りからもそう言われたよ、それでも俺は奴が過去に人を殺したことがある人物だということと、美島さんが只の病死でないことだけは間違いないと信じている。ただそれを結びつけるものが見つけられなかった。だからといって安易に捜査を打ち切り、病死で終わらせた警察のやり方が許せなかったんだ」

「だから辞めたのか」

「ああ。この会社で賠償主事の募集があることを知り、面接を受けた。無事採用され、このビルで働くようになって九年目になる。二人の前だから白状するけど、あの事件の真相を明らかにする目的で俺はここへ就職することを決めた。内部にいれば、何か情報を掴めると思ったからだ。他にも美島さんのいた会社が、どういう場所だったかを知ろうとしたことも、理由の一つではある」

 衝撃の告白に英美達は言葉を失った。そこまでの執念を持っていたことなど、初めて知った。だからこそ、ここ最近彼の行動がおかしかった意味がすとんと腑に落ちたのだ。

 しかし彼は自虐的に笑った。

「だけど肝心の相手は会社を長い間休職し、復職したと思ったら大宮SC課へ転勤してしまった。だから調査らしいものなんてできなかったに等しい。まず自分がここでの仕事に慣れることで必死だったこともある。ただ部署は違うが、美島さんがいた会社がどういうところだったのかは、八年以上いてかなり理解したつもりだよ」

「最近はまだマシになったが、十年前だったら営業の支社長ともなれば相当大変だったと思うよ。上からは数字のことでぎゃんぎゃんと言われながら、勤務時間も守れ、あれもしろ、これもしろと様々なプレッシャーを受けていたはずだ」

「そうだな。そうしたストレスから、美島さんも部下を怒鳴ったりして嫌われていたのかもしれない。そんなことも知らないで、給料が良いからと好意に甘えていた自分が情けないと思ったよ。高収入もそれこそ心身を削り手に入れたものだと、痛いほど判った」

「それでどうした。途中で捜査するのを諦めていたところ、突然目の前に再び久我埼さんが現れたからまた動きだしたのか。だからやたら突っかかる真似をして、揺さぶりをかけていたってことなのか」

「半分は当たっている。時が経つにつれて得られる情報も少なくなった。それに自分の仕事で精一杯になった俺は、やがて久我埼のことを忘れようと思った。だが六年前にまた奴の上司が事故に遭ったと聞いたんだ」

 彼はその頃夏風邪をひいて、二日ほど会社を休んでいた時だったという。事故の件を聞いたのは、翌々日の事でとても驚いたそうだ。そしてSC課ではゲリラ豪雨で被害を受けた現地の応援要員を募っていたらしい。

 そこで彼は立候補し現地に一週間ほど滞在したという。その時仕事の合間を縫って大宮の警察署に出向いたり、病院へ運ばれた管理職の周囲の人達から、色々な事情を聞いたりしたそうだ。

「だが結局、何も得られないまま帰って来た。そして今に至っている。奴は向こうの職場でもしばらくして休職した。だが三年半の長い休職を経て再び復職し、あろうことか俺達のいるビルへとやってきた。これは何かの縁だと思ったよ。神様か美島さんが導いてくれたんだ」

 だから久我埼を再び問い詰め、犯人であることを自白、または何か重要な事を喋らせようとしたのだと彼は打ち明けてくれた。そしてその反応から断言した。

「やはりあいつが無実である可能性は低い。十年ぶりに見たが、間違いなくあいつの目は、意図的に人を殺した人間のものだ。それを隠そうとする、狡猾な犯罪者の態度だと確信した」

 会話が堂々巡りし始めたが、三箇が久我埼にこだわる理由が明らかになった為か、浦里は忠告した。

「最近の奇妙な行動については理解できた。だけど俺は課長に言われたからだけじゃなく、三箇さんの事が心配なんだ。とにかく気持ちを抑えて、派手な動きは控えるようにしないか。いくら挑発しても、良いように解決するとは思えない」

「そうよ。恩人が殺された可能性があって、許せない気持ちは理解できる。でも三箇さんはもう刑事じゃないし、犯人を探すことがあなたの仕事じゃない。だから会社ではできるだけ、その気持ちを抑えて。だからって美島さんの死を忘れろと言っているんじゃないよ」

 英美の意見に、浦里も頷いた。

「そう。俺だってそんなことは言わない。警察を辞めてこの会社に就職までしたんだ。事件の真相をはっきりさせたいと思う気持ちまでは止められない。だから素人がどれだけ出来るかは判らないけど、その件について調べ直すことには協力するよ。その代わり廻間さんが言ったように、会社では表向き大人しくしていた方が良い」

 英美もそうだが、三箇もその発言に驚いたらしい。

「お前、そんな事を考えていたのか」

 浦里は、再び首を縦に振りながら言った。

「ついさっきだけどね。今までの話を聞いて、俺は真相究明に協力したいと思った。だからこそ、慎重に動かないといけない。これから単独で行動することだけは辞めてくれ」

 しばらく三箇は何かを考えていたようだったが、結局頷いた。

「判った。ありがとう。これから動く時は、浦里に相談するよ。確かに捜査権のない俺が、一人で動くことに限界は感じていた。でも過去に拾いきれなかった新たな情報を得るには、他の人の力が必要だ。もう一人で無茶な事はしない。その代わり協力してくれるか」

「もちろんだ」

 英美は二人のやり取りを聞いて悩んだ。出来るだけ面倒な事に首を突っ込みたくはない。しかしこの場の流れから、自分だけ知らない振りをすることはできなかった。そこで止む無く言った。

「分かった。私も協力する。その代わり、無茶はしないと約束して。いいわね」

 すると三箇は喜んだ。

「本当に廻間さんも協力してくれる? それはとても助かるよ。事務職からの情報も得たいと思っていたんだ」

 しかし彼とは対照的に、意外そうな顔をした浦里が忠告して来た。

「おいおい。そんな事を言って大丈夫か? 無理しなくていいよ。厄介な噂話に付き合うってことなんだから」

 だが今更前言撤回は出来ない。その為英美は開き直って言った。

「しょうがないじゃない。二人がやるって言っているんだから、私が協力しない訳にもいかないでしょ。それに三箇さんが言ったように、事務職の女性から情報を聞き出すには同じ女性がいた方が良いと思うから」

「じゃあ、ここにいる三人でこの件については情報を共有しよう」

 浦里の提案に頷いた後はいつもの飲み会の雰囲気に戻り、雑談に花を咲かせた。しばらく飲み食いした後、明日も仕事があるからとそれぞれ解散したのだった。

 次の日から月末最終日まではお互い仕事で忙殺された為、その話題を口にすることは無かった。話が出たのは月が替わってからだ。

 少しずつ通常業務に戻りつつあった月初げっしょのある日、席に付いていた浦里が突然切り出した。

「あれから三箇さんと、何か話しをした?」

 パソコンの画面を見ながらだったので、何気ない会話を装うためだと理解する。英美も同じく画面を見ながら答えた。

「してないよ。浦里さんは?」

「俺もしてない」

「何かあった?」

「そういう訳じゃないけど、あれから色々考えてはいたんだよ。協力するとは言ったものの、どうすればいいのかって。どう思う?」

「それは私も困っているの。話を聞くと言っても十年前のことでしょ。総合職ではまず知っている人は残っていないと思うから、後は事務職になるよね。だけど七恵さん以外だと、祥子さんとかほんの数人くらいしかいないんじゃないかな。スタッフさんとかで、当時一宮支社にいた人が今こっちにいたらいいけど、まずその可能性はないと思うから」

「そうだな。その限られた事務職やスタッフさん相手に、俺の立場でいざ聞くとなるとどうやって切り出せばいいのか分からなくてさ。向こうにとっては何で今更、それに何故あなたがそんなことを聞くのって反応されるのは、目に見えているからね」

「そうなのよ。総合職の浦里さんより、まだ私の方が聞きやすいでしょうね。でも普段から噂話を避けていた私が、急に態度を変えて根掘り葉掘り聞くのも不自然でしょ」

「それはそうだな。どうすればいいんだろ」

「どうしよう。悩ましいよね」

 英美はそこで何気なく席を立ち、パーテーション越しに隣の課にいる七恵の姿を探した。やはり突破口としては、彼女から始めるしかないと思っている。

 だが普段からそれほど親しい会話などしない間柄だ。それどころか正直苦手なタイプで、どちらかといえばお互い嫌っている部類に入っていると思う。だから苦慮しているのだ。

 そんなことを考えながらぼんやりと眺めていたら、突然電話に出ていた二課の事務職の一人が大声を出した。

「え? またやったの? 八月になったばかりだよ?」

 それを聞きつけた二課の次席の手塚課長代理が彼女に近寄り、声を出さず何事かと尋ねていた。そこで彼女は受話器の口を抑えて答えていた。

「また平畑ひらはたさんが、事故を起こしたみたいです」

「またか? 怪我は?」

「単独事故で、本人に怪我はないそうです。ただ社有車が動かなくなったそうです」

「この電話は平畑からか?」

「はい」

「俺が話す」

 そこで保留ボタンを押し、手塚は自分の席に戻って電話を取った。

「手塚だ。どこでやった? 今どういう状態だ? 警察には連絡したのか? 車が動かないのか? レッカーは依頼したのか?」

 矢継早に質問を浴びせている。口調は徐々に厳しくなっていった。課長も含め二課の他の総合職は外出しており、手塚しかいない。しかし席に付いている事務職達は皆、口を揃えて騒いでいた。

「今度やったら、免停になるかもって言ってなかった?」

「今回は単独の物損事故だから減点にならないと思うけど、もう外へ出しては貰えないだろうね」

「先月はなんとか無事故だったんだけど、八月に入った途端いきなりでしょ」

「もう駄目じゃない? 運転ができない営業職なんて、使えないでしょ。外に出られないなら、中で何をするの? 何もできないじゃない。事務の知識だってまだまだなんだから」

「総合職って入社する時、免許の有無を確認されるって言っていたよね。免許のない人は内定した後、入社までに取らないといけないって聞いたことがある」

「営業に向いてないのよ。人事もどうしてあんな人を採用したかな」

 辛辣な言葉が飛び交う中、浦里も聞こえたのか同じく席を立ち、心配そうな顔をして二課の様子を見ていた。

 昨年の七月、二課に配属された総合職の平畑は今年で入社二年目だ。彼は運転が苦手なのか、異動して来たばかりの時に事故を起こした。それも今回のような単独事故だった。

 その時は気を付けろよ、相手がいなくてよかったなといった程度で済んでいたが、その後がいけなかった。彼は同月に複数回は起こさなかったけれども、隔月で事故を起こし続けてきたのだ。

 しかも中には追突事故もあった。幸い相手の怪我は軽かったようだが、人身扱いとなったために免許も減点されている。これまでそうしたことを繰り返し、先々月には配属されてから六回目の事故を起こした。つまり一年で六回起こした計算になる。

 その為今度人身事故を起こしたら免停になるかもしれないと、厳しく注意を受けていた。例えならなくても事故を起こせば運転禁止、と通告されていたことを英美達も知っている。

 営業職で、車が運転できないとなれば致命的だ。総合職は担当代理店の元へ、車で移動して訪問するのが常だ。電車だけで行ける先などごく限られている。

 特に名古屋は道路が広い分、車の数も交通量も多いだけでなく、荒い運転をすることで有名だ。県では交通事故死者数が全国で十数年連続一位という不名誉な記録も持っている。

 その為、決して運転がしやすい地域で無い事は間違いなかった。だからといってほぼ二カ月に一回事故を起こす程かと言われれば、そうではない。

 それに平畑が起こす事故は全て、自分の過失が百%のものばかりだ。巻き込まれた事故というものは一度もない。これまで大きな人身事故を起こしていない点だけが幸いだった。

 しかしこんな事が続けば、いずれ起こるかもしれない。そうなってからでは遅いのだ。保険会社に勤める者が死亡事故を起こした場合、会社を首になることもある。第一、社会的にも示しがつかない。

 ただ英美からすれば、彼に同情する点もあった。車の運転技術がないことも原因だろう。しかしそれだけではないと思っていた。

 というのも彼は配属されたばかりでしかも一番下だったこともあり、毎日のように遅くまで残業をしている。かつ雑務までこなしていると聞かされていた。はっきりいってこき使われているのだ。

 その為日頃の睡眠不足がたたりり、運転中の集中力が欠ける一因となっているのでは、と考えていた。しかも二課の職場は雰囲気が良くない。だから彼は会社が辛い所だと感じているに違いなかった。

 といって事故を起こしていいはずはない。そこで彼には酷かもしれないが、配置転換をして別の部署に異動させた方が良いのでは、と思わずにいられなかった。

 配属されてまだ一年しか経っていないが、運転できない営業職がいては事務職も他の総合職も困る。外出禁止令が出たなら、彼の担当している代理店は他の総合職が代わりに受け持って回らなければならない。総合職一人当たりの負担が増えれば、ただでさえ今抱えている仕事に余裕が無いので、フォローも疎かになるはずだ。

 そうなると厄介事は、事務職が受け持つことになる。しかし彼女達は基本的に電話対応が主だ。面と向かって話をしなければ解決しないものや、書類の受け渡しがスムーズに行われるか否かで、仕事の質が変わってくる。

 そう考えると早期に、出来れば十月異動に間に合わせて後任の総合職を呼んだ方が良い。彼はしばらくの間、外出する機会がまずない部署に配置することもやむを得ないだろう。

 そうした話は、一課の総合職の間でも出ていたようだ。逆の立場だったらそうするしかないだろう、と話している様子を耳にしたことがあった。

 だがこの問題は、英美達が考えているような事態に向かなかった。平畑が会社に戻って来た時には、二課長の飯島も外から帰ってきたようだ。

 手塚から報告を受けた課長は、直ぐにどこかへ内線をかけていた。後で聞いた所では、どうやら早坂はやさか名古屋支店長に連絡していたらしい。

 しかしその後そこで出された結論なのかは不明だが、少なくとも二課長は平畑を異動させるのではなく、退職させようと画策しているとの噂が広がったのだ。

 というのも事前通告通り、本人に今後の外出禁止令を告げただけでは済まなかった。どうやらこのままこの会社にいていいのかと本人に尋ねたらしい。今回の件で二課の他の社員だけでなく、代理店にまでも迷惑をかけることになったことを滔々とうとうと説明したという。  

 さらにこれまで一年間働き、自分に適性があると思うかと問うたそうだ。その上彼の親も呼び、今後の事をよく考えて欲しいと通告までしたと耳にした。

 英美は噂について、浦里に尋ねた。

「平畑さんが辞めさせられるかもしれないって、本当なの?」

 するとはっきりとした答えが返って来た。

「辞めさせることは無理だ。人身事故を起こした訳でもない。クビに出来る程、決定的な問題もない。ただ営業社員としては、不適格だと言わざるを得ないだろう」

「だったら配置転換すればいいじゃない。それこそ同じフロアにある総務課だとか、東京本社だったら、営業企画部とか種目業務部だとか、車で外回りしない部署はいくらだってあると思うけど。外に出なければいけない場合があったとしても、東京だったら地下鉄だとか電車が何本も通っているから、なんとかなるでしょ」

「俺もそう思う。だけど二課や上の方はそう考えていないみたいだ」

「どうして? 確かに事故以外にも仕事上のミスも多いとは聞いているけど、まだ入社二年目でしょ。多少できないことがあるのは当たり前じゃない。それに彼は確か大学は良い所を出ていたよね。頭は良いんだから、内勤だったら十分やっていけると思うけど」

「理屈はそうだけど、現実問題としては難しいかもね。人事異動はそう簡単に認められ無いらしいから」

「どういうこと?」

「事故や病気で社員が亡くなったり長期休職して欠員が出たり、自己都合等で会社を辞めたりした場合の人員補充は、比較的早くしてくれる。でもそうでない場合は、なかなか難しいみたいだよ。だって本人の資質の問題もあるだろうけど、配置を決めた人事部が悪いのか、配属先の管理職が適正に指導していたのか、あるいはその上の部支店長に問題は無かったのか等、責任問題の所在がどこにあるかを問われる。だから簡単にはいかないらしい」

「それがどう関係してくるの?」

「要は明確な異動理由がないと、人は簡単に動かせないってこと。だってこいつはちょっと合わないからって、簡単に異動させられるようだったら、人事としても収集がつかない。だからそう簡単には動かせない。だったらどうすればいいか。一番簡単な事は、今回のケースだと自主退職して貰うことだ。そうすれば欠員事由となるから、次の異動がしやすくなる。管理職の責任や人事部の責任にもならない。自己都合による退職ならね」

「それって酷くない? 自分達の地位や規則を守るために、人一人会社から追い出す訳?」

「酷いと言えば酷い。だけど最終的に判断するのは平畑だ。さすがに会社も、無理やり辞めさせることはできない。組合もあるし今の時代下手な事をすれば、会社全体に影響が出てしまうから」

「そうよね。さすがに無理やり首は切らないよね」

「だけど暗示をかけるように、自主退職を促すことは出来るだろう。現に今、親を絡めてそう仕向けているらしい」

「やっぱり酷いじゃない。私から言わせれば、二課の職場環境や指導にも問題があったと思う。他の部署だったら、やっていけるんじゃないかな」

 浦里だったら同意してくれると思ったが、彼は頷かなかった。

「それは分からない。二課にも問題はあったと思うよ。でも彼がこの状況で会社に残り、他の部署でやっていけるかどうかなんて、誰も保証できないんじゃないかな。今回の件で、彼がこの会社に嫌なイメージを持ったかもしれないし、自分でも向いていないと感じているかもしれない。そんな状況で他の部署に行って頑張れるかと言えば、そうならない確率は高いと思うよ」

 意外な反論を受け、英美は戸惑いながらも反発した。

「それはそうだけど、まだ入社二年目じゃない。判断するのは早いと思うけど」

「もちろん部署によって良し悪しや、合う合わないなどの問題はある。でも基本的にはどこの部署も忙しいし、大変だと思う。だから安易に、他所だと大丈夫だとは言ってあげられない。営業以外の部署に異動しても、またミスを重ねて叱責されるかもしれないだろ。そんなことが続けば、下手をすると体を壊したり心を病んでしまったりする可能性だってある。冷たいように聞こえるかもしれないけど、そうなる前に辞めると言うのも一つの選択肢だと俺は思う」

 彼の言い分にも一理あるとは思った。しかし平畑を辞めさせようとしている周りの人間達は、彼の事を第一に考えているかといえば疑問が残る。ただ自分達の保身の為に綺麗ごとを並べながら、彼にプレッシャーを与えて追い出すつもりだとしか感じられなかった。

 そんな話をしている時、フロアに古瀬が現れた。浦里との打ち合わせが入っていたらしい。支店ビルの三、四階はスぺ―スを有効利用する為に、外部の人々達も使用できる貸し会議室が作られている。 

 その為ツムギ損保の各フロアに応接室はあっても、会議室が無い。使用したい場合は貸し会議室を抑えることになっていた。そうすれば、使わない間はただの空きスペースにしか過ぎない空間を無駄にすること無く、収益さえ上げられるからだ。

 しかし古瀬くらいと言えば失礼だが、プロ代理店との簡単な打ち合わせなら、わざわざ貸し会議室を抑えることはない。応接間で十分だ。

 今のタイミングだと恐らく七月末成績の総括と、八月に入っての月間計画の確認、そして九月末までにいくら成績を積み上げられるか、お尻を叩くのだろう。

 加えて、第一支社の緒方さんとのトラブルの件も片付いていない。英美は浦里の後について、応接間に向かう彼に挨拶をした。そこで普段ならスタッフさんに頼むお茶出しを自らやり、彼らの元へと運んだ。そんな姿を見て古瀬が言った。

「廻間さんにお茶を出して貰うなんて光栄ですね。それとも何か、無理なお願いでもされるのかな。怖いな」

 ふざけて震える振りをしていた為、敢えて乗っかった。

「そうなんです。九月末までに生保の新規が十件成約しないと、古瀬さんの担当からはずされてしまうんです。引き続きお付き合いしたいと思って貰えるのなら、頑張って下さいね。お願いしますよ」

「十件ですか。それはさすがに無茶でしょ。怖い事を言うなあ。え? 嘘だよね? 浦里さん、そんな事言わないよね。聞いてないよ」

 そこで浦里も調子を合わせ、真剣な表情で答えた。

「実はそうなんですよ。今日お呼びしたのは、そのことをご説明しなければいけなかったからなんです」

「冗談でしょ? 冗談だと言ってよ!」

 本気で焦り出した彼の姿を見て、英美が先に笑ってしまった。それを見て浦里も表情を崩す。それで嘘だと理解したらしい。安心した顔に戻って言った。

「もう、驚かさないでよ。ただでさえ面倒な事に巻き込まれて、大変なんだから」

「ごめんなさい。緒方さんの件ですよね。計上はまだ止めていますけど、早く方向性が決まるといいですね。今日は私も浦里も古瀬さんの味方だと伝えたくて、顔を出したんです」

「有難うございます。でも今はそれだけじゃないんです。全く違うレベルなんですけどね。先程ここの近くに住んでいる、例の松岡さんから連絡がきて、大事なペットがいなくなったから探すのを手伝ってくれと頼まれたんですよ。無下に断る訳にも行かず、近辺に住んでいるお客様や知り合いには声をかけておきます、と言っておきましたけど。面倒でしょ」

「この辺りってオフィス街だから、住宅地は少ないですよね。それに地価も高いでしょうから、結構なお金持ちのお家じゃないですか。居なくなったペットも、すごい血統書付きの高い犬だったりするんじゃないですか? もしかして盗まれたのかも」

「廻間さん、そんなに先走らないで。俺は先日訪問して知っているけど、あそこは防犯もしっかりしていたはずだから、それは無いんじゃないかな」

「浦里さんの言う通りで、セキュリティはしっかりしている家だし、来客中で在宅していた時だから盗難はあり得ないと言っていました。ただ来ていた客に見せるため、一度ゲージから出して戻した際、テコ式の鍵のかけ方が甘かったらしく、逃げだしたようです。いつもなら丈夫なデジタル錠を併せて掛けるところを、つい失念したみたいだと言っていました。しかもいなくなったのは、犬じゃありません。それがまた厄介なんですよ」

「何が逃げたの?」

「それがですね」

 古瀬が耳打ちしてくれた内容を聞き、二人は同時に溜息をついた。

「それは確かに厄介で、面倒な案件だ。下手に広める訳にもいかないですね。居なくなりましたので探してくださいって、写真付きのチラシを張ったり配ったりもできないでしょ」

「そうなんです。だから浦里さんも、廻間さんの冗談に付き合っている場合じゃありません。仕事の件もそうだけど、知恵を貸してください。今日はその件でも打ち合わせしたいと思ってきたんだから」

「すみませんでした。じゃあ、廻間さんは申し訳ないですけど席に戻って貰えますか? 打ち合わせも長引きそうなので」

 浦里の言葉を受け、英美は頷いて古瀬に挨拶をして部屋を出た。まだまだやらなければならない仕事にとりかかる。その途中で二課の事務職達が、こそこそ話をしている内容が聞こえた。結局、平畑や彼の両親もすぐには結論を出せなかったらしい。

 そこでしばらくは営業職でありながらも、内勤をして様子を見ることになったという。ただ会社としては、結論を先延ばしにしただけだ。これからも彼に有象無象の圧力をかけ、自主退職へ向け働きかけるに違いない。

 これからお盆の時期になり、取引先の企業や代理店も休みに入る。ただ金融機関である損保会社は、土日祝日が休みで平日も通常通りの営業だ。その為社員達は交代で、五日間の夏季休暇を取得していた。

 土日や山の日の祝日を合わせれば、最高十連休にすることも可能だ。お盆の時期は多くの代理店が休みだから忙しくない分、社員も少なくなる。

 しかし何か突発的なことが起きた時に対応できるよう、管理職か次席のどちらかが在席する課支社が多かった。一課では次席の遠山課長代理が、毎年家族揃ってハワイに行くことを恒例にしていた。 

 そこで子供達の学校の部活休みと合わせなければならず、お盆に夏季休暇を取っている。その為土田課長がお盆に出社する為、早くも来週から休みを取ることになっていた。

 事務職ではリーダーの加賀が、同じような理由で家族や親戚の集まりがあるからとお盆に休むことは決まっている。よって事務職では二番目の年次である英美が出社することになっていた。

 しかし夏季休暇と言っても、八月に皆が取らなければいけない訳ではない。時期をずらして取得する人もいた。一気に休みを取ると、それはそれで仕事が回らなくなる。それにお盆の時期に休んで旅行へ行こうとすれば、どこも混んでいてしかも料金は割高だ。

 その為九月や十月に休みを取得する社員も少なからずいる。英美もその内の一人だった。ここ数年は月末月初が忙しいこともあり、十月の第二週辺りで休みを取るようにしている。しかも独身の為、毎年気楽な一人旅を企画していた。

 海外は余り好きではないため、行先はもっぱら国内だ。去年は京都、一昨年は北海道、その前は仙台を中心に回った。今年は栃木の日光周辺を散策するつもりだ。

 予定は十月の第二週だから、紅葉が一番きれいな時期より少し早い。しかしその方が混雑はしないし、ホテル代などの料金もやや安くて済む。確か浦里も、十月の第三週に休む予定だったはずだ。

 九月は上半期の締めだから忙しく、休み難いからだろう。そこで十月に取得する計画を立てようとしたが、担当代理店が英美と多く重なっているため、彼が一週ずらしてくれたのだ。

「別にどこへ行くか全く決めてないから、俺はいつでもいいよ」

 彼も一人身だが、一人旅にはあまり興味が無いらしい。出身は神戸で、実家には両親と長男夫婦とその息子が住んでいるという。兄弟二人で仲は悪くないと聞いているが、独身の次男としては、休みだからと言ってなかなか帰りづらいそうだ。

 その為名古屋に着任して最初の二年は、この周辺を散策して回ったらしい。去年は久々に実家へ帰ったと聞いたが、今年は帰らないという。といって特にあてもないようだ。

 彼の前任地が京都だった為、英美が去年京都に行くと決めた際には色んな穴場の店や観光スポットなどの情報を教えて貰った。おかげで楽しい旅行を満喫出来た為、お礼としてお土産を買って渡した。

 その時に教えられた場所が余りにも良かったこともあり、英美はつい軽口を叩いた。

「すごく良かったよ。でもご夫婦だったり恋人同士で来ていたりする人が結構いたから、もしかして浦里さんもデートで使った場所なんじゃない?」

 すると彼は曖昧な態度を取ったため、聞いてはいけなかったことらしいと思った覚えがある。どうやら京都で何かあったようだ。しかし詳しくは三箇を含め、誰も聞けていなかった。

 英美も人の心配をしている立場ではない。長い間実家暮らしを続けていたため、両親達もいつ結婚するのかと焦り出し、煩い時期もあった。だがそれも三十を過ぎるといつの間にか治まった。それはそれで有難くもあり、寂しくもある。

 三十二歳にもなれば、さすがに周りは既婚者が多くなった。それだけではない。年齢を重ねると将来子供を産もうと思えば難しくなる。

 早く結婚してもスタッフさん等既婚者の女性達の中には不妊治療して、大変苦労している話をよく耳にした。そう聞く度に早く結婚しないと子供が産めないのではないか、と焦ることもあった。

 英美だって独身主義を貫いている訳ではない。ただタイミングがなかなか合わずにここまで来てしまっただけだ。これまでも付き合った男性はいたが、転勤により異動するタイミングで別れを切り出された経験もある。

 加えて親や地元の名古屋から離れることに、若干抵抗があったことは確かだ。その為過去の経験も踏まえ、転勤が多い総合職との社内恋愛には、慎重にならざるを得なかった。

 といって他に出会いがあるかと言えば、なかなかない。自然と接する機会は社内の人間か、取引先の代理店ばかりになる。そんな中で今一番仲が良いと言える独身者は年下だが同じ課の浦里、年上ではSC課の賠償主事の三箇だ。

 地元に住む三箇は悪い人ではないけれど、学歴は高卒で給与面でも英美の方が高い点がネックと言える。結婚すればまず間違いなく共働きになるだろう。

 また彼には先月初めて聞いて知ったように何か隠し事というか暗い影を持っていて、全てを明かさない何かがまだあるように感じていた。それ以前に英美の事を悪く思ってはいないようだが、女性として見ているか疑問だ。積極的にアプロ―チをしてくる気配もない。 

 一方の浦里はとても性格が明るい人物で、仕事が出来て頭も給与も良い。背も高いのでひと昔前で言えば三高に入る。ただ年下のくせに横柄な態度を取る点に加え、転勤族であることが問題だった。 

 英美にとって過去のトラウマが影響し、一歩前へ踏み出せないのはそのせいだろう。彼もそのことを知ってか興味が無いのか、踏み込んでこない。

 彼は今年で名古屋での勤務が四年目になる。そろそろ転勤だろう。そう思うと今の状況では、二人の間に急展開が無い限り難しい。

 そこまで考えた所で英美は我に返った。七月が終わり八月に入ったとはいえ、仕事上ではまだホッとすることはできない。安心して気が抜けるのは、八月に入って約一週間が過ぎた後だ。

 というのも、七月の締め切り最終日までに計上した書類の中で不備があった場合、それらを訂正する締切猶予が翌月の第六営業日までだからだ。つまりそれまでに不備を失くさなければ、七月の成績にはならない。

 事務職は間違いなく書類を計上できるまで、月をまたいだ月初めは先月の仕事をしていた。時間も限られているため忙しいだけでなく、翌月に繰り越してはいけないと、大変なプレッシャーがかかる。

 それに対し総合職は月が替われば、月初めに目標数字を立てることへと意識が向かう。今であれば上半期の締めとなる九月末までに、いくら積み上げられるかを確認するのだ。

 つまりもう次の動きに向かっている。そこで事務職とは時間的にも精神的にも差が生じていた。もちろん総合職だって七月の数字が確定しなければ、翌月以降の数字の立て方も変わってしまう。

 よって間違いなく締め切りまでに計上が終わるか、気にはしている。それでも基本的には、自分達の手を離れたと考えている人が多い。後は事務職の仕事だと言わんばかりの態度を取る人もいた。

 しかし一課では、普段から互いにコミュニケーションが取れているため、問題が起こることは少ない。何かあれば総合職に相談し、不備を消す仕事を手伝ってくれたりするからだ。

 時にはどうしても時間が足りず、無理に計上しようとすれば負担がかかる、またはトラブルが生じると判断した場合、翌月に繰り越すことを了承してくれたりもした。

 しかしこれもそれなりに成績が良いなど、余裕があるからこそできるのだろう。無い場合は、数字をずらさないことに神経を注がなければならない。

 事務職や総合職の仕事がそこに時間や労力をかけると無理が祟り、月初めから皆疲弊する。すると事務職は、その月にしなければならない計上の仕事が遅れだす。総合職もスタートダッシュが出来ず、あらゆる仕掛けが後手に回ってしまう。

 そうした悪循環がさらなる数字の低迷を招く。それが職場の雰囲気を沈ませ、空気が悪くなり仕事も面白くなくなるという負のサイクルが生れるのだ。

 各課支社の数字は、パソコンの画面上で確認できる。一課を含めた六課支社を統括する名古屋支店の支店長席と呼ばれる部署が、各課支社の数字の進捗状況を確認してまとめていた。

 そこで芳しくない課支社があれば、支店長席の統括課長が事情を尋ねたり発破をかけたりする。その相手は課支社長に直接することもあるが、大抵は数字の取りまとめを行う各次席に集中した。

 数字が狂ったり目標と大きくかけ離れたりすれば、容赦なくお叱りを受けるらしい。まさしく隣の二課がそうした状況にあった。平畑の問題だけではない。数字も含めて様々な問題を抱えているため、二課の手塚は六課支社の中で最も標的にされていたのだろう。

 そのストレスが部下達にも伝わり、より悪化していることを本人は気付かない。課長の飯塚と揃って他の総合職にプレッシャーを与え、委縮させている。事務職への辺りも厳しい。だからこそ七恵などは社内の噂話を大声で話してストレスを発散し、できない社員を非難するのだろう。

 だが問題は、それだけで済まなかった。手塚の日頃の行動がおかしいとの噂話が、代理店経由で耳にするようになったのだ。支店の代理店は、基本的に名古屋市内に点在している。よって部署は違っても、行動範囲や担当エリアが重なることなど珍しくない。

 その為他部署の代理店も、一課の代理店や総合職の顔を知っていたりする。古瀬と第一支社の緒方などがそうだ。当然その逆もあった。そこで聞こえてきた情報によると、手塚と思われる人物が平日の営業時間にパチンコ店へ出入りしているとのことだった。

 それだけなら外回りの途中でトイレに行きたくなり入店して借りただけ、ということもありえる。コンビニやスーパーなどがないと、そうしたケースも稀にあると浦里も言っていた。

 しかし休日に競馬場でよく見かけるとの話に加え、平日の場外馬券売り場でも目撃したとの情報まで流れ始めたのだ。さらには最近金遣いが荒くなり、高級腕時計をしているだとか、靴やスーツなども良いものばかりに買い替えているらしい。社内の一部ではそのことが評判になっているという。

 手塚は既婚者で子供も二人いるそうだが、名古屋へは単身赴任で来ている。課長代理だから年収も一千万円は軽く超えているだろうし、自由にできるそれなりのお金を持っていてもおかしくはない。 

 それに一人暮らしだと暇を持て余す為、日頃の仕事のストレスをギャンブルや買い物で解消している可能性もある。しかし好意的に考えればそうだが、そこは金融機関会社に勤める社員だ。代理店や取引先の企業や個人の顧客達など、日頃から多くの眼に見られていることを意識して行動しなければならない。

 手塚の件で周囲が危惧し始めた頃、飯島の耳にもそうした噂が届いたらしい。騒ぎはそれだけで済まなかった。これまでの手塚の行動を不審に思った支店長席が、告知なしの社内監査を行ったのだ。

 毎年各課支社には最低でも支店による予告なし監査一回、本社による予告監査が一回必ず行われる。だが通常は、夏季休暇を取る社員が多い八月に入ることはまずないと言われていた。

 しかし事態は急を要すると判断したのだろう。二課に入った予告なし監査では、相当入念に調べたらしい。特に手塚が担当している代理店や取引先企業に関しては、通常ではまずやらないだろうと思われる規模の代理店まで広く調査されたそうだ。

 すると複数の小さな代理店で、不正なお金の引き出しが確認されたのだ。つまり彼は計画的な使い込みを行っていたらしい。小規模の取引先なら、検査は担当者レベルに任せられる。そのことを利用し、いくつかの代理店に適当な理由を付けてお金を引き出させていたようだ。

 後でお金は補充されていた為、完全な使い込みでは無かったという。しかしそれは代理店がお客様から預かっているお金だ。戻せばよいと言うものでは無い。

 過去にも英美の担当していた代理店で、一時的に五万円が引き出されて一週間後に戻されていることが監査で判明した。その人は保険業法違反で、代理店を解約させられている。

 個人のお金とお客様から預かった保険料とは、絶対に混同してはならないとの決まりがあるからだ。そのことを社員が知らないはずはない。逆にそんなことをしないよう、指導する立場なのだ。

 それなのに代理店を騙してお金を拝借して流用し、後で戻すと言う手を使うなど言語道断だった。課長代理までになった総合職がやることではない。

 どうやら会社は、手塚に自主退職を促したそうだ。彼はそれを受け入れ、八月末退職が決定したという。これは二課や名古屋支店にとって、大きな失点だった。飯塚や早坂支店長も、管理責任が問われるところだろう。

 しかし蓋を開けてみると、彼らが只では転ばない策士だったと判った。八月末で退職する手塚の後任を、早急に手配するよう人事へ依頼をかけるだけでは終わらなかった。

 同時に事故を連発していた、平畑の後任の手配までも取り付けたという。通常ではなかなか認められないが、どうやら平畑の教育に問題があったことを、人事部や中部本部長へ訴えたらしい。要するに全ての責任を、辞める手塚に押し付けたのだ。

 彼の指導が悪かったため、平畑は業務に支障をきたすほど精神的にも疲労してしまい、事故を連発させたとの筋書きを作ったという。さらに指導していたものを退職させれば済む話ではなく、これ以上二課にいると平畑の会社人生に悪影響を与えると説得したそうだ。 

 人事部や中部本部としても管理責任が現場にあると認めるならば、今の時代若者の退職率が高くなる中、せっかく採用した高学歴の人員を手放すことは避けたい。

 双方の思惑が一致し、二課は十月の異動で次席クラスの代替要員を他県から、新人レベルの総合職を部店内から配置することに成功したようだ。

 そのかわり、九月は次席一名が欠員し、平畑も内勤のままであるため他の総合職には負担が増すこととなった。それでも十月には手塚の代わりが補充され、さらに足手まといだった平畑を追い出し、代わりの人員を確保できるのだ。

 そう考えるとひと月だけの我慢だと、二課の人達は皆思っただろう。ちなみに平畑は十月から、同じ階にある総務課に異動が決まりそうだという。

 平畑の代わりは名古屋支店管轄の一宮支社にいた、彼と同じ二年目の総合職が配置されることになったらしい。名古屋支店のある中部本部内における人事異動の権限は、本社の人事部より本部長の意向が通りやすいため、そうした措置が取られたそうだ。

 そこで平畑を迎える総務課では、中堅の総合職を代わりに一宮支社へ異動させたという。飯塚や早坂は手塚に対する管理責任を問われる分、平畑に対しての教育責任から逃れることで挽回したと言える。

 英美は後にそれを聞いた時、大きな会社組織が抱える闇と呼ぶのか、大人の世界の怖さと卑劣さを感じた。それでも会社を辞めるよう圧迫されることから逃れられた平畑の事を考えると、結果的には悪くなかったと思える。

 今度の総務課では、上司や同僚との関係がこじれないことを願わずにはいられない。会社では上司を選べず部下も選べないだけでなく、同僚だって同じだ。高学歴者が揃い、プライドの高い総合職は少なくない。

 学歴コンプレックスを持つ総合職もいて、新たな職場でも平畑が男の醜い嫉妬を受けないとは限らないだろう。だがそうならない可能性もある。

 英美のいる一課だって配属された時は、それほど良い職場だと思わなかった。しかし時が経ち人も入れ替わる中で、ようやく今の自分にとって居心地の良い環境が作れているだけだ。

 それに英美は良くても、他の職員にとっては全く異なる印象を持つことだってあるだろう。人それぞれ相性があり、組み合わせの良し悪しも千差万別だ。

 そうした理由もあり、定期的な人事異動がなされるのだろう。そこでこの十月に浦里や三箇が異動してしまったらどうしよう、と考える自分がいた。いや、英美自身が一課からいなくなることだってある。

 三箇は長い間支店ビルにいるが、転居を伴わない異動なら有り得る役職だ。例えば、出先である豊田支店のSC課に移ることもあるだろう。

 浦里に関して言えば、北は北海道から南は沖縄と、全国各地が異動対象先だ。場合によれば海外だって可能性はゼロでない。そう考えた時、今いる時間を大切にしなければいけないのだと、今更ながら考えさせられた。

 と同時に、自分が彼らに少なからず好意を持っていると気付かされた。といってどちらが好きなのかは分からない。と言うより決められない自分がいた。

 慌ただしい問題が次々と起こる中、前へと進むことしか頭になかったが、一つ一つ乗り越える間にも時が進んでいることに、英美は複雑な思いを抱き始めたのだった。

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