第七章

 翌日英美が出社すると、予期していた通り土田課長に呼ばれた。応接室へ来るようにと指示され、椅子に腰を下ろしたところ尋ねられた。

「忙しいところすまんな。ただここ最近、奇妙な噂が広がっていてね。総務課に久我埼が着任したからか、十年前に彼が一宮支社にいた頃のことを調べている社員が数人いると聞いた。どうやらSC課の三箇とうちの浦里らしい。廻間さんもその中に入っていると小耳に挟んだが、それは本当かな」

 彼は当たりが優しく、声を荒立てるような姿は見たことが無い。しかし笑いながらもその眼は鋭く、実は厳しいともっぱらの評判だ。今回もまさしくその通りの振る舞いだった。 

この人の前で嘘は通用しない。浦里もそう感じたという。その為英美は正直に話した。

「はい。本当です。三箇さんから相談を受け、十年前の事を覚えていると思われる人に話を伺いました」

「ほう。それは誰ですか」

「二課の柴山さんと業務課の板野さん、それとうちの課の加賀さんの他に、もう辞められていますが、今は佐藤さんとおっしゃる加賀さんや柴山さんと同期だった方の四人です」

 課長は深く溜息を吐き、ソファにもたれながら言った。

「本当だったのですね。しかし浦里にも質問したが、廻間さんまでどうして三箇に協力するような行動をしたのですか」

「それは先ほど課長が言われた通り、久我埼さんの配属がきっかけです。三箇さんが過去の事件を思い出し、こだわり始めました。しかも久我埼さんが犯人だと疑うような言動をしだしていたので、浦里さん達と一緒に止めました。今は警察官ではなくこの会社の人間なのだから、下手な行動は慎んだ方が良いと忠告しました。それは七月末のことです」

「それは良い忠告だったと思います。しかしそんなあなた達が、どうして彼の行動を手伝うような真似をし始めたのですか?」

「しばらくは彼も大人しくしていました。しかし最近久我埼さんが総務課長から叱責を受け、会社を休まれました。ご存知ですよね」

「ああ、知っている。それがどうした?」

「そのことがきっかけになり、いろんな噂が立ち始めました。彼がこちらに異動して来られた頃もそうでしたが、その時以上にこのフロアの雰囲気が悪くなったと思います。その影響を受けてか、三箇さんは再び昔の件をはっきりさせたいと言いだしました」

「それで協力するようになったのか」

「はい。ただし私達は犯人探しが目的ではありません。あくまで三箇さんが納得し、これ以上こだわらないようにしたかっただけです。そうしないと久我埼さんがこのビルにいる限り、いつまでも彼は悩み苦しむと思いました。それだけではありません。妙な噂がはびこり、フロアの空気が淀んだままになることは良くないと考えました。このままでは長い休職を経て復職した久我埼さんの症状も悪化しかねません。これはこのフロアだけではなく名古屋ビル全体、いえ会社全体の問題だと思ったのです」

「それは大袈裟じゃないかな」

「本当にそうでしょうか。偶然とはいえ、三人もの管理職が事故に遭ったり病気に罹ったりしています。そうなると次も起こるのではないかと、社員は不安になるでしょう。現にそういう空気が流れています。それに当事者である木戸総務課長はどう思っていらっしゃるか、ご存知ですか。やはり気にされているのではありませんか」

「そ、それは、多少気にはしているようだが」

 言葉を濁したところを見ると図星のようだ。そこでさらに続けた。

「気にされて当然だと思います。ですから私達は第一に、三箇さんの気が晴れる程度のことはすると彼に約束しました。ただし社員である自分達ができることなど、ごく限られていることは理解してもらいました。その上で何も出てこなかった際には、この会社でいる以上、きっぱりと忘れて貰うことを条件にしたのです」

「なるほど。言っていることは判る。しかし三箇が割り切れたとしても、先ほど言っていた問題は解決しないのではないかな」

「はい。三箇さんが落ち着いたとしても、他の方が噂を流し続けて不安に思うような職場環境なら、問題だと思います。それこそ私達がどうにかできることではありません。それは会社全体で、少なくともこのビル内の管理職の方のお力が無いと、収まらないのではないでしょうか」

「どういうことだ」

「このような噂が流れ、一人の総合職がまるで苛めに遭っているかのような状況を改善するのが、上の方の役目ではないでしょうか」

「言葉が過ぎないか」

 土田課長の笑みが消え、口調が変わっていた。それでも言わずにはいられなかった。

「そうじゃありませんか。私達の行動を非難し注意されるのなら、他人を誹謗中傷するような陰口を叩いている人達にも、同じようにしてください。私達は、気持ちよく仕事をしたいだけです。ただでさえ忙しく厳しい中で働いているのですから、余計な事に捉われたくはありません」

「余計な事に自ら首を突っ込んでいるのは、君達の方じゃないのか」

「それはこれ以上悪化させないようにするため、止む無くやっていることです。しかし私はこれ以上、誰かに話を聞きまわることはやめます。この二日間で、自分に出来ることはしたつもりです。それで三箇さんも納得してくれましたから」

「そうなのか? 三箇もこれ以上調べることは止めるんだな?」

「いえ、それはまだだと思います。私の役割が終わっただけです」

「だったら、彼や浦里はまだ続けるつもりか」

「それは、本人達に確認していただくしかありません」

「昔の事を調べ始めたのは、三箇を納得させるのが目的だったな。つまり廻間さんはこれ以上調べなくていいと了承しただけで、過去の調査自体まだ諦めていないということか」

「恐らく私が聞いてきた話だけで、気が晴れていないことは確かだと思います」

「一体、どんな事を聞いたんだ?」

「十年前の一宮支社で、支社長が亡くなられた時の状況などを覚えているかを伺いました」

「廻間さんと話した人の名前を聞くと、板野さんを除いて柴山さんとその同期から事情を尋ねたようだな。それはどうしてだ」

「私が面識のある方で当時の事を良く知っているのは、柴山さんだと思いました。ですから最初に話を伺ったのです。しかし余り詳しくは教えて頂けませんでした。その後十年前の事を知っている、当社で長く働いている方は誰かと考え、板野さんに伺ったのです。それでも詳細なことは分かりませんでした。そこで他に十年前の事をご存じの先輩方を紹介していただけるようお願いしましたが、いないだろうと言われました。そこで柴山さんの同期の加賀さんなら当時彼女を通して何か聞いていないかと考え、伺ったのです」

「なるほど。そこから既に辞めている他の同期にも話を聞いた訳か」

「はい。加賀さんも余りご存じなかったようでした。そこで板野さんに尋ねたように、他の方で昔の事を知っていそうな人を教えて欲しいとお願いしました。すると柴山さんと昔仲の良かった佐藤さんと言う方を紹介していただきました。そこでお話を伺ったのです」

「それで廻間さんはどう思った?」

「当時は一宮支社をはじめ、かなり混乱していて大変だったことは分かりました。後、亡くなった支社長にはパワハラやセクハラをしていた疑いがあり、あまり評判も良くなかったようですね。でもそれは三箇さんが刑事だった時、既に調べて分かっていた事です。支社長が亡くなった件で三箇さんが把握していた以上のことは、出てこなかったと言うのが現状です」

「そこまで調べて、廻間さんはもう良いと言うことになったのか。後は三箇次第ってことなんだな」

「そう思っていただいて構いません」

「廻間さんは、それでいいのか?」

「どういう意味でしょうか?」

「廻間さんはこれ以上、調べることはしない。でも三箇はまだ納得していない。それでいいのか、という意味だ」

「私のできることはしました。後は彼がどこで納得するかです。もちろん行き過ぎた調査をするようなら、私達からも注意します。でもその前に課長達には、私達が動いた意味を理解していただきたいと思います」

「理解はできる。だが会社の上司として、黙認はできない。廻間さんがこれ以上首を突っ込まないというのなら、今回は注意だけにしよう。だが今後、社内で犯人探しのような真似は慎むように。君達は皆、この会社の社員だ。やるべき事は、過去の件を探る事ではない。営業は営業の仕事を、SC課はSC課の仕事をする。そうじゃないか。違うか」

「いえ、その通りです」

「浦里には既に忠告をしたが、三箇も含めてこれ以上勝手な行動を取るようなら、なんらかの処分は覚悟してもらう。だから廻間さんからも、二人にはそう言って止めさせて欲しい」

 厳しい口調で言われたため、驚いた英美は思わず尋ねた。

「何らかの処分とは、どういうことですか?」

「浦里なら、まず考えられるのは異動だ。彼はここに来て、丸四年が経とうとしている。時期的に考えても、ここから離れれば下手に動くことも出来なくなるだろう。これは本人にも伝えた。彼もそれは覚悟の上だ」

「どこかに左遷する、と言うことですか?」

「うちの会社で、左遷という言葉は無い。どこに異動しても栄転だ」

 確かに総合職の間で、そう言われていることは知っていた。しかし実際には規模の小さい課支社、例えば総合職が二人または三人しかいない出先へ異動する事は、左遷に近い扱いだとも言われている。

 それでも行けと言われれば、どこにでも赴任するのが転勤族の定めだ。それに小さな課支社でもそこで実績を上げれば、再び大きな課支社へと戻されることがある。実際これまで、そういう経歴を持つ総合職はいた。だから安易に、左遷とは言えないのも現実だった。

「浦里さんが異動ということなら、三箇さんもそうなるかもしれないってことですか?」

「三箇の場合は賠償主事だから、異動させるにしても全国各地へという訳にはいかない。それにこの会社へ転職して来た目的が目的だ。下手をすれば、自主退職を促される可能性もあるだろう」

「退職ですか? それは余りにも厳しすぎませんか? 何か仕事上で、支障をきたす事でもあったのですか?」

「七月に久我埼と揉めた件がある。あれからは大人しくしていたようだが、今回のように動きだした理由が問題だ。今後支障をきたす恐れは、十分あるだろう」

「ではここ数日の間で、何か問題を起こしてはいないのですね」

「ああ。だが彼の行動が原因で、仕事上何かトラブルが起きることがあった場合、処分の対象になることはSC課長から伝えているそうだ。それは本人も了承しているらしい」

「本当ですか!」

「聞いていないのか。しかし今の話からすると、彼が今後何らかの動きをすることは間違いなさそうだな。そうなれば問題を起こすことも十分にあり得る」

「問題が起きなければいいのですね」

「理屈ではそうだが、無理だろう。昔の事を探っていると広まっている時点で、久我埼にとっては既に苦痛を感じているはずだ。しかも彼は過去に刑事だった三箇から、事情聴取を受けている。本人がまだ疑われていると考えても仕方ない。その影響で彼が再び体調を崩し長期に会社を休むことになったら、誰が責任を取ればいい。総務の木戸課長やSCの牛久課長か。それとも私か浦里や廻間さんか」

 畳み掛けるように問われ、英美は言い返すことが出来ず、言葉を詰まらせた。

「そ、それは」

「そういうことだ。先程廻間さんは苛めのような環境を作っている会社が悪い、と発言をしていたね。じゃあ三箇や廻間さん達のしていることは、久我埼がどう思うかを考えて行動していると言えるのかな。言えないだろう。だからだよ。彼を疑っている訳ではないという言葉に、信用性はない。それぐらいの事は判るだろう」

 うかつだった。これまで想像しなかった訳ではない。ただ久我埼が犯人でなければ、調査自体に問題はないと思っていた。逆に反応があれば三箇の言う通り、疑わしい事になる。だから良いと考えていたが、甘かったようだ。

 どちらにしても彼にとって昔の事は、忌まわしい出来事に違いない。だからこそあの事件の後、彼はうつ病と診断されて一年半休職しているのだ。その時の事を思い出すような事件が、大宮SC課に異動した後も起こった。それで彼は二度目の休職を取り、三年半休んでいたのだ。

 そう考えると今回のことで、彼が再び体調を崩す可能性は十分にある。英美達は、そこまで考えが及ばなかったことを思い知らされた。いや実際にはなんとなく気付いていたものの、目を瞑っていたと言うのが正しいかもしれない。

 黙っていると、課長が口を開いた。

「今日の所はここまでにしよう。廻間さんは、先程自分が言った事を守って下さい。もうこれ以上、この件について誰かから話を聞きだしたりしないように。いいですね」

「判りました」

 そう返事はしたものの、今後祥子が昔の件を知っている誰かを紹介してくれるかもしれない。また昨日話した佐藤も、何かを思い出して連絡をくれることもあるだろう。

 しかしその場合は、こちらから積極的に聞き出した訳じゃない。先方が何か言い出したことを聞くだけだから約束違反にはならないだろう、と勝手な解釈をして自分の心を抑えることにした。

 席に戻ると、心配そうに浦里がこちらを見ていた。しかし今は勤務中だ。下手に話していると、揚げ足を取られかねない。だから口だけを動かし、“あとでね”と呟いた。それで彼も理解してくれたようだ。それ以上は何も言ってこなかった。

 引き続き黙々と仕事をこなし、昼休みは他の事務職と別れて一人で取ることにした。その間に土田課長とのやり取りを、サイトに書き込んだ。すると、同じく昼休みにサイトを覗いていたらしい三箇が反応した。

 “浦里さんを異動させると言ったのですか? 本当に浦里さんはそう言われたのですか?” 英美がそれに答える。

 “浦里さんが言われたかどうかは、まだ本人に確かめていないので判りません。でも確かに課長が私にそう言ったし、本人にも伝えたようです”

 すると外出中で外回りをしていたはずの浦里も、お昼休憩を取りながら見ていたらしい。二人の会話に割って入り、書き込みがされた。

 “廻間さんの言う通りです。でも俺の京都での調査も同じく頭打ちで、これ以上の情報は得られそうにありません。だからこれ以上首を突っ込みようがないので、しばらくは大人しくしています。だから心配することはありませんよ”

 どうやら古瀬も見ていたらしく、参加して来た。

 “三人は俺の事を黙っていてくれているみたいだね。こっちには何も言ってこないから”

 彼は昔の事を知っている代理店などを中心に聞いているようだが、その相手は一宮支社のテリトリーだからか、課長達の耳には入っていないようだった。それに彼の場合は英美達と違い、調査していることを周囲に広める必要が無い。

 その為話を聞いた人には、しっかり口止めをしていたことが幸いしたようだ。しかし彼が調べた情報も英美が聞いた話と重なる部分が多く、特別目新しいものが無かったことも事実だった。それでも三箇はこれで十分だと書き込んでいた。

 “後はこちらで調べる。三人共十分に調べてくれた。これは強がりでも、今後の処分に対して気を使っているからでもない。本当に助かった。十年前では聞き出せなかった事も、いくつか出てきている。それに京都の件で、何も出て来ないのはしょうがない。あれだけの大事故だったにも拘らず、警察は事故として処理した。しかも十五年も前の事だから、当然だろう。でも今になってからこそ気付いた点もある。これ以降は俺の出番だ。といっても無理はしないから、心配しなくていい。調べた結果が出たら、またここへ書き込む。だから皆は、それまでしばらく待っていてくれ”

 その後の英美達は彼の言う通り、動きを止めた。そして当の本人も、会社では表立った動きをしなかった。恐らく陰では調査をしていただろうが、会社の人間には分からないようにしていたのだろう。 

 さらに周囲の空気が徐々に変わったことも影響した。十二月という忙しい時期だったからか、くだらない噂をしている暇もなくなったらしい。いつの間にか騒ぎは収まり、久我埼も会社を休まずに仕事を続けていた。だからだろう。英美は完全に油断をしていた。

 事が動いたのは年末間際だった。久我埼の方から社宅の管理会社と話をしに行くから同行するように、との誘いを三箇が受け応じたらしい。どうやら彼が七月にクレームを出していた件のようだ。

 その件は、浦里も全く知らされていなかったという。しかし総務課の一部の事務職達が聞きつけ、噂は流れた。それを耳にした七恵が小声で話しているのを、英美はたまたま聞いてしまったのだ。

「これは何かあるわよ。今度は上司じゃなく、昔の事を嗅ぎまわっていた気に入らない人を殺すつもりかもよ」

 内容が刺激的だった為、さすがにいつもの騒ぎ方では無かった。だからか大きく広まりはせず、おそらく総務課長もそこまで考えていなかったから、仕事を任せたのだろう。

 だが英美達は話を聞いた途端、これは危険だと感じた。その為浦里と共に久我埼と二人きりになるのは止めた方がいいと、三箇に忠告した。業務時間中に話せなかったので、時間外に呼び出して説得を試みたのだ。しかし彼は首を横に振った。

「以前俺が住んでいるマンションの騒音が酷く、住民のマナーも管理会社の対応も悪いと総務課に文句を言ったことがあるだろ。騒音などは大袈裟でなく本当の事だ。それについてようやく動きだしただけさ。心配しなくていい」

 それでも浦里が疑問を投げかけた。

「でもどうしてその件を、久我埼さんが対応することになったんだ。確かあの時は後で総務課にいる別の総合職が出てきて、話は治まったはずだろ」

「そのはずだったよ。だけどその彼は、例の玉突き異動で一宮支社に異動しただろ。だからあの件も含めて社宅関係の仕事は、久我埼が担当することになったらしい」

「それが今になって、動き出したのはどうしてだ」

「俺が聞きたいよ。前の担当者が管理会社に注意してくれたおかげで、一時は静かになった。しかし最近になって新しく入った住民がいて、またうるさくなり始めていたのは間違いない。それにマナー違反が完全に無くなったわけじゃないから、総務課が動いて改善してくれるのなら助かる」

「三箇さんから、またクレームをいれた訳じゃないんだな」

「ああ。でも新しく担当になった彼がその後問題は無いか、確認でもしてくれたんだろう。そこで他の住民からも、管理会社に問い合わせがあったんじゃないかな」

 今度は英美が質問した。

「総務課から、わざわざそんなことをするものなの?」

 浦里が代わりに答えた。

「普通はしないよ。だからおかしいって言っているんだ。妙だろ。それほど仕事熱心だとは言えない久我埼さんの方から、そんなことを言い出すなんて。しかも相手は三箇さんだ。普通なら面倒事は避けたいと思うはずじゃないか。これは一部で囁かれているように、罠なんじゃないか」

 しかし三箇は笑って答えた。

「総務課として、やるべき仕事をしただけじゃないか。それに困っていることは確かだ。こっちから余計な事をするな、とは言えないだろ。大丈夫だって。そんなに心配しなくても、一応用心するから」

「だったら、これだけは約束してくれ。十五年前の事がある。車の運転は彼にさせろ。三箇さんは運転席に座らない方が良い。それとシートベルトは必ず締めてくれ」

「彼の説明によると管理会社へ寄って担当者を拾ってから、俺のマンションに来る予定らしい。だから総務課の車で彼が運転すると言っていたから大丈夫だよ。心配してくれて有難う。気を付けるよ」

 結局彼は英美達の制止を振り切り、久我埼の誘いに乗ったのだ。しかし悪い予感は的中した。その日は休日出勤した久我埼が車を出して運転したという。

 三箇の住むマンションへ迎えに来て助手席に乗せ、そこから管理会社へと向かったらしい。事前打ち合わせを行い、先方の担当者が運転する車と一緒に、再び三箇のマンションへと移動したそうだ。

 到着した後、管理会社の担当者によって騒音や住民のマナーの酷さがどの程度なのかを確認したという。そこで三箇の言う通り、問題点があると判断されたらしい。管理会社の担当者は日を改めて、一部の住民に注意喚起することを約束したそうだ。

 問題なのはその帰りだった。普通なら三箇はそのまま自宅に残っても良かったはずだ。しかし三箇が社有車を運転し、会社まで戻ろうとしたという。突然体調が悪いと久我埼は言い出し、社有車を戻さなければいけないから運転して欲しいと三箇に頼んだからだ。

 まるで十五年前の事故の時と同じだった。そこでおかしいと気付くはずだが、三箇は了承して車に乗り込み、彼を助手席へ乗せて車を走らせたという。

 トラブルが起こったのは、名古屋高速に乗ってしばらく経った後だった。スピードを出し過ぎてハンドル操作を誤ったのか、二人が乗った車は壁に激突して事故を起こしたのだ。当然警察車両の他に救急車も来て、二人は病院へと搬送されたらしい。

 しかし幸いなことに、二人とも軽傷で済んだ。なぜなら三箇が咄嗟の反応で、ブレーキハンドルを引いて減速したという。その為それ程の大事故にはならなかったのだ。

 事故の原因は、突然ブレーキが効かなくなったからだった。どうしてそのようなことが起こったのか。その理由はすぐに明らかとなった。

 というのも三箇は社有車に乗り込む際、仕掛けを施していたからだ。気分が悪いと言って助手席でうずくまる久我埼を労りながら、その隙にこっそりと簡易で取り付けられるドライブレコーダーを後部座席の上にある手すりに設置し、車内の様子を隠し撮りしていたという。

 そこに映っていたのは、車内に散乱していたペットボトルの内の一つが、助手席に座っていた久我埼の操作で、ブレーキの下に入り込むよう事前に細工されていた様子だった。

 高速道路の直線でスピードを出したタイミングを見計らい、うずくまっていた彼は座席の下にあるブレーキペダルに引っ掻けられた、透明な釣り糸を引っ張ったのだ。

 足元に敷かれている車のフロアマットの下を通し、糸の先は後部座席に散らばっていたペットボトルと繋がっていた。それがペダルの下に挟みこまれ、ブレーキを踏みこめないようにしていた。

 つまりは久我埼が意図的に起こそうとした事故だったことを、映像が捉えていたのだ。彼の仕掛けによりブレーキが効かなくなった車は減速することが出来ずに、高速道路の壁へとぶつかった。

 しかし三箇の機転を効かした咄嗟の行動により、スピードが落ちて軽い自損事故で済んだのだ。その結果三箇の証言を聞き映像を見た警察は、十五年前に起こった京都での事故でも同じ手を使ったのではないかと、久我埼を尋問したらしい。

 そこで彼は素直に自供したという。恐らく今回の計画を実行しようと決めた時から、こうなることを覚悟していたと思われる。

 彼が自白した内容によれば、最初に配属された京都東支社の一人目の上司は良かったそうだ。しかしその次の支社長が門脇に代わってからは、地獄のような日々が続いたという。お前のような奴は辞めてしまえ、と毎日のように罵倒されていたらしい。

 その影響からノイローゼにもなりかけて、ストレスからくる体調不良も起こした。実際に会社を辞めることも考えたという。しかし一方では理不尽な上司に怒りを感じ、また母親の介護にお金がかかる現実の事を考えると、それはできなかった。

 そこで自分が仕事中に死ねば、労災や会社入社時に半強制的な形で加入させられた生命保険の死亡保険金が手に入る。それらのお金さえあれば、母親の生活が困ることはないだろうと考えたそうだ。 

 と同時に、憎い上司も巻き添えにしてやろうとあの事故を起こしたらしい。その結果、自分は奇跡的に助かったのだという。その為大怪我を負いながらも這いずり、仕掛けられた糸を回収して上着の中に隠したようだ。

 警察も最初から仕掛けられた事故などとは疑っていなかったこともあり、彼は病院へ搬送された後、無事誰に見つかることなく糸の処分ができたという。その時の成功体験を生かし、自分の過去を調べている邪魔な三箇を、同じ手で殺そうと考えたと告白したらしい。

 名古屋に配属されて間もない頃から、何か起こる度に死に神と陰口を叩かれた為、会社生活に嫌気が差したそうだ。さらに社有車の件で課長から注意された時は、過去の悪夢がよみがえって再び体調を崩したため、限界を感じていたという。

 その上十年前に美島支社長が亡くなった際に事情聴取をした当時の刑事が、同じ会社に転職してまで自分が殺人犯だという証拠を集めていると聞き、我慢できなくなったらしい。まさしく三箇が目論んでいた作戦に嵌ったと言える。

 だがここからは想定外だった。彼が殺人を意図的に起こしたことは、あくまでその二回だけだと主張したのだ。周囲で噂されている美島支社長の病死や、大宮での時任課長の事故はあくまで偶然であり、自分の仕業ではないと強く否定したらしい。

 確かに美島や時任にも、門脇の時と同じようにパワハラを受けていたことは認めた。死んでくれないかと、心の中で何度も思ったことは間違いないと証言しているという。

 けれど美島が突然病にかかり亡くなったと聞いた時には、本当に驚いたらしい。しかもただの病死ではないかもしれないと一時警察が動き、自分が疑われ出したので恐ろしくなったそうだ。

 美島の死をきっかけに、門脇の件まで調べられたらどうしよう。そう毎日怯えていたせいで、警察が病死だと結論付けた後も安心できなかったと証言した。いつ京都での事故が意図的なものだったとばれ、自分は逮捕されるかもしれないと恐怖を感じていたそうだ。

 眠れない夜が続き、食欲も減退した。仕事も手につかない状態が続き、やがて体の調子を壊して会社に出られなくなったという。そして病院へ行ったところ、精神内科を受診するよう薦められたらしい。そこでうつ病と診断され、休職をすることになったというのだ。

 その時初めて、会社の福利厚生制度の手厚さに気づいたらしい。当時入社九年目だった久我埼は、病気や怪我で長期に会社を休んだとしても、それまで使っていない有給を全て消化させた上で一年半までは、ほぼ全額に近い給与が振り込まれるとの説明を受けた。

 美島の後に来た支社長が持ってきた休職制度の説明書には、入社十年以上であれば三年半まで給与が支払われると書かれていて、二十年以上ならその期間は五年になることを知った。

 しかしその期間が過ぎても復職できないようなら、退職せざるをえないとも書かれていた。そこで少なくとも経済的不安が取り除かれた久我埼は、休職期間一杯を使って体調を戻すことに専念したそうだ。そして無事復職を果たしたという。

 だがそこに待ち受けていたのは、過去に上司を二人も死なせている疫病神というあだ名だった。その言葉が再び彼を苦しめたらしい。体調も再び悪化し始めたそうだ。

 それでも同じ病気や怪我だと二年の期間を経ていなければ、給与が支払われる長期休職はできないとの規定があった。その為どうしても体が動かない時には、一年間に与えられた有給の範囲内で会社を休み、それ以外は無理を押して出社し続けたらしい。これも母親の介護にかかる経済的な理由があったから耐えられたという。

 そうしてこんな会社にはいたくないと思う気持ちを押し殺しながら、なんとかごまかしてこれまで勤務してきたそうだ。しかし上司は選べない。会社もそんなに甘くなかった。

 休職明けの復職後は優しかった同僚や上司も、時が経てば変わる。しかも次の職場はこれまでずっと営業だったのに、事故処理を行うSC課だった。

 新人の時に多少研修で経験していたものの、勝手が全く異なる仕事に戸惑ったらしい。さらにはこれまでの経験や知識が通用しない世界だ。新たに覚えることが沢山ある。

 その上周囲にいた人達が入れ替わった途端、仕事に慣れない久我埼に対し、同僚や上司は冷たかった。また大宮SC課に配属されて最初の上司だった時任は、明らかに久我埼を辞めさせようと仕向け始めたそうだ。

 それでも最低、復職してから二年は我慢しなければならない。そんな時だった。時任のことも美島のように死んでくれないかと思っていた矢先に、彼はゲリラ豪雨で増水した用水路に誤って落ちた。結果二度と会社に戻ることはなく、代わりの課長がすぐに配属されたのだ。

 その時も当然のように社内では久我埼を疑うような噂が流れ、あだ名は死に神へと変わった。憎い上司がいなくなってくれたことにホッとする一方で、再び彼は怖くなったという。さらにはそのタイミングで母が痴呆症に罹った心労も重なり、二度目の長期休職を余儀なくされたのだ。

 しかし今度は入社十三年目で復職から二年以上経っていたことから、最大三年半の休職が許された。しかも同期達より昇進も遅れ昇給も劣っていたにも拘らず、年収は九百万円近かった。

その為手取りでいえば六百万円以上手にすることが出来たらしい。会社生活で辛い目に遭うことが多かった代わりに、大きな会社に入ったことで福利厚生がしっかりしていたことは幸いだったと言える。

 おかげで今度は三年半かけてゆっくり体調を整え、かつ支給される給与で母親の施設における介護費用等を支払うことが出来たそうだ。

 ようやく体調が落ち着き、復職して今度は内勤でストレスの少ない部署への異動を希望していた。すると八カ月後に総務課への配属が決まったのだ。

 しかし問題は勤務地だった。かつての所属とは少し離れていたけれども、一宮支社長が亡くなった中部圏内の、同じ愛知県内にある名古屋ビルだ。

 しかも一宮支社で一緒だった、当時のことを知る七恵が同じフロアにおり、久我埼の事を死に神呼ばわりしたことから周囲が騒がしくなった。

 さらには当時刑事として事情を聞かれたあの三箇が、何故か一つ下のフロアに賠償主事として勤務していると知り驚いたという。その上彼は社宅でトラブルがあったなどと、いちゃもんをつけ始めた。 

 挙句の果てには、美島を殺したのはお前ではないのかと詰め寄られ、狼狽したのだ。それだけではない。最近になり、他の同僚の力を借りて過去の事件を調べ始めているらしいことを耳にした。

 余りにも執拗な彼に対し、久我埼の心は再び不安定になった。加えて社有車の中が汚れていることを木戸課長に注意されたことで、うつ病の症状が再燃し始めたのだ。

 このままではいずれ、門脇を殺したことがばれてしまう。しかも次に休職するには、あと半年以上の期間が必要だ。それまで自分の精神は持たない。

 そう考えた時、どうせ疑われているのならば三箇の口を封じようと思ったらしい。美島や時任は偶然だったが、門脇の時のようにすれば事故死として処理される可能性は高いはずだ。同じ手を使えば疑われるかもしれない。

 しかし他に思いつかず、過去に成功した経験を信じるしか方法は無かったそうだ。それにもし失敗して自分が死ぬことになっても、それはそれでいいと覚悟していたという。

 その為久我埼は以前三箇がクレームを入れていた管理会社へ問い合わせをし、まだ問題は完全に解決されていないことを知った。そこで彼を誘いだす作戦を考え、事故を起こすことを目論んだらしい。 

 彼は自死しても良いと思う程、精神的に追い込まれていたのだ。会社生活だけでなく、自分の事さえ分からなくなった母の世話をし続けることにも疲れてしまったのだろう。

 それでも美島や時任はあくまで病気と事故であり、自分は関わっていないとの主張は変わらなかった。警察としても明らかな証拠がなく、すでに処理した案件だ。十五年前の自動車事故の件さえも、過去の判断を覆して殺人だったと立証できる物証は何も残っていない。彼の自白だけが頼りだ。

 これでもし本人が起訴後に自白した内容を覆して殺人を否定すれば、罪に問えるかどうかも怪しいとの声さえ上がったという。それでも警察は、三箇に対する殺人未遂と傷害罪で久我埼を逮捕した。その後十五年前の事故については改めて捜査してから、再逮捕する方針らしい。

 では本当に他の二件は、病死と事故だったのか。三件目は三箇も調べていく内にそうかもしれないと思ったようだが、二件目は絶対違うと彼は信じていた。

 だったら誰が犯人なのか、という問題が浮上する。軽傷とはいえ念の為に検査入院をし、その間に警察からの取り調べも受けていた三箇がようやく会社へと出社してきたのは、年が明けてからだった。

 病院への見舞いは制限されていたので、直属の上司である牛久課長と次席の井野口だけ面会することが出来たらしい。その後年末年始休暇もあった為、英美達が彼とゆっくり話が出来たのは一月第二週の金曜日の夜だった。

 古瀬にも声をかけて四人が集まり話し合ったのは、やはり久我埼の事と、美島支社長の病死についてだった。まず浦里が切り出した。

「しかし無茶な事をしたな。あれだけ止めたのに。軽傷で済んだからよかったものの、下手をすれば門脇支社長のように死んでいたかもしれないんだぞ」

 同意見だった英美と古瀬も、深く頷いた。それに対し、三箇は頭を下げた。

「心配をかけてすまない。しかし最初からあいつが俺を殺そうとしていたことは、彼の目を見て確信していた。だからもしもの為の準備もできたんだ。やはりあいつは、一線を超えたことのある人物だったよ。俺の見立てが間違っていなかったことも証明できた。それだけが救いだ」

「だけど肝心の美島支社長の件については、否認しているんだろ」

「ああ。三人目の時任課長については納得できる。しかし美島さんは、単なる病死でないという俺の考えは変わらない。だが今回の件で犯人は久我埼ではなかったのかもしれない、と思うようになった」

「それはどうして?」

「彼が人を殺したことのある人間の目をしていたのは、門脇を事故死に見せかけたからだと判った。だからこそ、美島支社長もそうだとは限らない。なぜならあいつは、物的証拠が何も出ていない十五年前の件は全面的に認めている。もし十年前もそうだとしたら、あいつの精神状態から考えて、否認し続けることは難しいと思う」

「それは死刑になりたくないから、じゃないのか。殺した人数が一人と二人では大きく違うだろう。しかも今回は、三箇さんに対する殺人未遂と傷害罪も加わっている。二人殺したとなれば、死刑になる確率は高い。一人ならば長くても無期懲役で済むだろう」

「それは俺も考えたさ。しかし奴は自分も死ぬ覚悟で俺を殺す計画を立てていたんだ。今更死刑を怖がるとは思えない。それに美島さんを殺したのなら、どうやってウィルスを手に入れたかが不明だ。それに廻間さんが調べてくれた情報を元に思いついた書き込みの件で、新たなことが判明した。柴山さんのご主人が十年前、死ぬかもしれない病気に罹り入院していた病院は、隔離病棟のあるところだったよ。しかも美島さんが亡くなる少し前に、彼は退院している。もし東南アジアの出張先で罹ったとされる彼の病気がウィルス性のものだったなら、美島さんを急性心不全に至らしめたものと同じ可能性はある。つまり当時婚約者だった柴山さんなら、手に入れることが出来たかもしれない」

 英美が思わず口を挟んだ。

「美島支社長を殺した犯人が、柴山さんだと疑っているの?」

「そうだとは言っていない。しかし十年前の捜査では把握できなかったウィルスの出所が、もしそこからだったと判れば話は別だ。美島さんの周辺にいた人物の関係者に繋がっていたとなると、無関係だとは思えない。しかも彼女は、パワハラやセクハラの被害を受けていた節がある。つまり殺す動機はあったということだ。実を言うと十年前にも、彼女はセクハラを受けていたらしい人物の一人として名前が挙がっていた。しかし俺は久我埼犯人説に捉われていたから、そうした意見を無視していたんだ。それに彼女自身が、それを否定していた。やがて警察内部でも病死で幕を閉じた方が良いとの空気が流れ、その件についての捜査は打ち切られたんだ」

「でも彼女の婚約者が罹った病気のウィルスが、美島支社長の死因になった同じものとは限らないでしょ。それにそのウィルスって、必ず死ぬものとは限らないはずよね。現に柴山さんの旦那さんは生きている訳だから」

「ああ。デングウィルスに罹っても、必ず死に至るとは限らない。どちらかというと、感染症の中でも致死率は比較的低い方だ。高熱を出すがやがて治まる患者の方が多い。しかし重症化すれば死亡する可能性は高まるらしい。美島さんの場合、運が悪かったのだろう」

「ということは、殺そうとしたとは限らないってこと? 例えば懲らしめるつもりで婚約者が苦しんだウィルスを使ったら、重傷化して死んでしまったという可能性もあるよね」

「そうだな。柴山さんがもしウィルスを使って、美島支社長が口に入れる物の中に仕込んだとしても、本気で殺す気までは無かったのかもしれない」

「どちらにしても、まずは柴山さんのご主人が罹った病気が何かを確認しないと、疑っても仕方がないよね。もし同じだとしたら、本人に確認するしか方法は無いと思うけど」

「そこは警察の捜査に任せるしかないな」

「え? でもどうやって?」

「久我埼と柴山さんが、共犯だったかもしれない。もしかすると、柴山さんがウィルスを手に入れ、久我埼を唆して美島さんに感染するよう仕向けた、とも考えられる」

 その推理に、古瀬は首を傾げて言った。

「それは無理筋じゃないか」

 しかし三箇は、意外な返答をした。

「俺もそう思う。しかし警察を動かすためには、そう言うしかない。例え無理筋だと思われようと可能性が一ミリでもあれば、調べざるをえないからな」

「もしかして、もうその話を警察に話しているってこと?」

 英美の問いに、彼は認めた。

「昔の伝手を使ったよ。ただ先方は嫌がっていた。それはそうだろう。過去に病死と片付けた案件を、ひっくり返す訳だからな。しかし今回久我埼が十五年前の犯行を認めたことで、十年前や六年前の件も捜査しない訳にはいかなくなった。だからこっちは有力な情報を流してやったって訳だ」

 浦里が頷いた。

「確かにそう考えれば、久我埼が嘘をついているのか、本当に無関係なのかも証明できる」

 三箇はさらに話を続けた。

「六年前の件だって奴は否定しているが、聞いた所では増水した用水路の周辺の聞き込み捜査を始めているようだ。しかしそっちから証拠が出てくる確率は低いだろう」

「そういえば、三箇さんは当時現場に行って調べたんだったね」

「ああ。しかしあの豪雨により事故が起こった周辺は電線が切れて停電になったせいで、防犯カメラは軒並み機能していなかった。だから時任課長が用水路に落ちた時、誰か傍にいたことを証明できる映像が残っている可能性は、限りなくゼロに近い。それに周辺の聞き込みもしたが、時間も夜遅くだったし近所の人達はカーテンや雨戸を閉めて、誰も外へ出ていなかった。だから目撃者を見つけることも困難だったし、まずいなかったと考えて間違いないと思う」

「でも十年前の件だって、同じウィルスだと証明するのは難しいんじゃないの?」

「そうとは限らない。ああいう特殊な感染症なら、罹った時点で病院側もウィルスを調べる為に血液検査をしたはずだ。しかもそれらを保存している可能性は高い。それにウィルスも遺伝子を持っている。と言うことは人間のDNAと同じように、一つ一つ違うはずだ。もし美島さんの体から採取したウィルスがまだ残っていれば、全く同じ構造を持ったものか、異なるものかは判別できると思う」

「そんなことが出来るの?」

「普通はしない。単に感染が広まっただけなら、誰から誰に渡ったかどうかまで、調べる手間なんてかけてられないからな。だがそれが殺人事件となれば話は別だ」

「それ以前の問題だけど、どうして十年前に同じ病で入院していた人がいたのに、調べなかったんだろう」

「時期がずれていたからだろう。それに当時は二人の間に接点が見つからなかった為に、疑いもしなかったのかもしれない」

「もし同じだったとすれば、まずは柴山さんが疑われるってことか」

「ああ。そこから久我埼と共謀したのか、それとも単独犯だったのか、少なくとも任意での取り調べは行われるだろう」

「そこまでくれば、もう俺達の手からは完全に離れたと思っていいんだな」

「後は警察がどこまで調べられるか、だ」

 そうして三箇の怪我の快気祝いを兼ねた飲み会兼調査チームの話し合いが終わり、四人は一旦解散した。だがその帰り道、浦里と二人になると彼は突拍子もないことを言い出した。

「実は俺、皆に黙って行動していたことがある。そこで三箇さんが、奇妙な事をしていた事に気づいたんだ。それを廻間さんだけには言っておくよ」

「え? 彼が何をしたっていうの?」

「俺達は今まで、彼に上手く乗せられていたのかもしれない」

「どういう意味?」

「久我埼さんが異動してきてから、いろんな問題が起こっただろ。それを俺達が解決していく中で、四人の絆が深まった。だから過去の事件を調べるようになったんだよな」

「そうだった。最初は二人で、三箇さんの行動を諌めていたのにね」

「それがいつの間にか手伝うようになった。それは三箇さんのおかげで面倒な問題が解決していたから、断りきれなくなっていたとは思わない?」

 英美は浦里が何を言おうとしているのか理解できず、首を捻った。すると彼が言った。

「要するにいくつかの件は、三箇さんが仕組んだものと思われる。上手く俺達を巻き込んで、有力な情報を得ようとしたのかもしれない。一つはアライグマの件だ。おそらくあの事件を引き起こしたのは、彼だった可能性が高い」

 余りにも突飛な話についていけず、英美は目を丸くしたまま浦里の顔をぼんやり見ていたが、何とか口に出して聞いた。

「アライグマの件が、どうして三箇さんと関係があるの?」

「実は気になることがあって、アライグマの飼い主である松岡さんの奥さんが、過去に追突された事故の担当者を調べてみたんだ。そうしたら人身担当は、三箇さんだった」

呆気にとられた英美だったが、言われてみれば思い当たることがあった。

「そういえば、加害者が加入していたのもツムギ損保だったと言っていたわよね。その時の担当者がとても良かったから、できれば保険会社を変えたくなかったと聞いた覚えがある」

「そう。俺はアライグマが逃げ出した時、来客中だったとの話も思い出した。そこでその時誰と会っていたのかを、お礼を兼ねて松岡さんに連絡した時に聞いたんだ。すると驚いたことに、それも三箇さんだったんだ」

「どうして? 事故があったのは数年前でしょ。とっくに示談も終わって解決しているわよね? いくら当時の担当者だったからって、今更どんな用件があったというの?」

「俺も同じ疑問を持った。そこで何の用で来ていたかを尋ねた。すると近くまで寄ったので、首の調子はどうかと聞かれたらしい。それだけじゃない。最近当社の代理店と揉めたのに、保険会社を切り替えずに続けてくれるとの話を耳にして、お礼に来たとも言ったようだ。古瀬さんと緒方さんの件で、トラブルになっていたことを知って近づいたらしい」

「そんなことだけを言いに、わざわざ尋ねたというの? それにそんなことをしていたなんて聞いてないわよね」

「彼には、別の狙いがあったんだと思う。三箇さんが以前の事故で松岡さんと会話を交わした際、アライグマを飼っていると聞いていたらしい。首が痛いので、ペットの世話が大変だという愚痴を覚えていたんだろう。だから一度見せて欲しいと言ったそうだ。その後にテコ式のゲージの鍵がしっかりと下りていなかったから、逃げられたことに気づいたと言っていた」

「彼がアライグマを、わざと逃げるよう仕向けたってこと?」

「俺はそう思っている。その後会社に置いてあるお菓子が、また無くなる事件が起こった。それを解決してアライグマを捕まえたから、古瀬さんのトラブルが解消しただろ。あれがあったから、俺達は彼の依頼を断れなくなったとはいえなくないか」

「そ、それはそうかもしれないけど、偶然じゃないの」

「偶然にしては出来過ぎじゃないか。おそらく最初に冷蔵庫から物が無くなった事件が起こったから、それを利用することにしたんだと俺は睨んでいる。GPSシールを使って、犯人が新人総合職だと突き止めただろ。あれを機に俺達は、それまでよりも繋がりができた。彼はそれを、さらに深めようとしたんだと思う。そう考えないと彼があのタイミングで、松岡さんの家を訪問した理由の説明がつかない」

「仮に三箇さんが、アライグマを逃がしたとしてもよ。どうやって名古屋ビルで、お菓子を食べさせることができたというの?」

「おそらく彼は何かを挟んでゲージの鍵が下りないよう細工した際、アライグマの餌を家の外に投げ捨てたんじゃないかな。そうして一旦松岡家を出た後、アライグマがやってくるのを待ち伏せて捕獲した。長い間飼い慣らされていたから、直ぐに遠くへは行かないと予想していたのかもしれない。そしてそのまま会社へと連れていき、夜遅くなってから八階給湯室の天井にあらかじめ空けておいた穴へと隠したのだろう。ビルの一階の外で見つかった穴も、事前に彼が細工していた可能性が高い」

「じゃあお菓子を盗んだのは? それも三箇さんの仕業?」

「そうだと思う。業務職がほとんど帰った後にこっそりと盗んで、穴の中にでも放り込んだんだろう。GPSシールを仕掛けた後も、廻間さんが帰ってから菓子を盗んでいたはずだ。九階で見つかったのも、事前にそうなることを予想していたと思う。ビルの管理会社の人に確認して分かった。あの件より少し前、三箇さんから異音がすると連絡があり、依頼されて九階の扉を開けた事があるらしい」

「そんな事までしていたの? それにしては凝り過ぎじゃない?」

「確かにそう思う。だからこそ、誰にも怪しまれず実行できたんじゃないかな。他にもある。三箇さんは松岡さんのご主人が役員をしている泊社長の会社に対し、本部長自らが足を運んでいることを知っていたようだ。というのもツムギ損保と付き合うメリットをアピールする一環で、SCの牛久課長と次席の井野口さんも同行したことがあったらしい。一年程前、事故対応についてのプレゼンをしたと聞いた。SC課でも契約者名で検索すれば、俺が調べたように松岡社長の会社でどんな契約があるか分かるだろう。帝国データバンクから提供されている企業データを見れば、泊社長との関係も役員として松岡社長の名前が掲載されていることから知ることができたはずだ。だからこそ、古瀬さんと緒方さんが揉めていることを利用し、あのような手の込んだ仕掛けをしたと思われる」

「どうして浦里さんは、そのことに気付いたの?」

「調査することを止められて落ち着き始めた時に、改めてこれまであったことを振り返ってみたんだ。そこで久我埼さんが異動して来てから、急に色んな問題が起こっただけじゃなく、それらが次々解決していったことに違和感を持った。それに三箇さんが柴山さんと十年前の話をしたのは、久我埼さんが名古屋ビルに赴任した後だと廻間さんが聞いてくれたよね。それはおかしいと思ったんだ」

「どうして?」

「だって柴山さんは五年も前から再就職して、このビルにいたじゃないか。九年前に事件の事を調べようと転職して来た三箇さんなら、柴山さんを見つけた時点で直ぐにでも話を聞き出そうとするのが普通だと思わないか」

「そう言われればそうね」

「それをしなかったのは、自分が十年前に捜査していた刑事で、事件の事を調べていることはまだ周囲に知られたくなかったんじゃないかな。俺にだって少し匂わせてはいたけど、詳しくは教えてくれなかったぐらいだ。それなのに久我埼さんが来てから、彼は急に動きだした。俺や廻間さんに、転職理由を教えたのもそうだ。恐らく最初から久我埼さんに過去の事を調べているとプレッシャーをかければ、相手は何かしら動くだろうと考えていたんじゃないかな。実際久我埼さんは三箇さんの作戦にひっかかり、事故を起こして殺そうとした」

「でも私達が三箇さんから告白を受けた時、表立って動かない様注意したでしょ。だから私達が協力せざるを得なくする為に、問題を起こして解決させたってこと?」

「そうだと思う。途中で古瀬さんを巻き込んだのも、妻の悠里さんが元一宮支社に勤めていたことを知っていたからだろう。三箇さんがこの会社に転職してSC課に配属された年に、彼女は一宮支社から二課に配属されている。だが当時は刑事として面が割れているから、余り接触できなかった。しかし何かしらの情報を得ようとしていた事は、間違いないはずだ」

「それが本当だとしたら、すごい執念よね」

「ああ。並大抵の執着心じゃない。美島支社長を殺したのは久我埼さんだとの強い思い込みが、そこまでさせたんだと思う。業務課長の件もそうだ」

「え? どういう意味?」

「もしかして廻間さんは、本気で事故が起こった際に回収した映像から、ラブホテルへ入っていく二人の姿を捉えたと思っていたの?」

「そうじゃないの?」

「それはさすがに無理だろう。俺は三箇さんが業務課長の後を尾行して、二人が会う瞬間を撮影したんだと思った。そうでないと余りにも都合が良すぎる。二人が一緒に歩いている所だけでも見つかれば御の字なのに、ホテルに入っていく瞬間まで写っていたんだ。確率からしてあり得ない。あれがきっかけで、俺は三箇さんに疑いを持つようになったんだ」

「そうか。そうよね。あの頃は余りにもとんとん拍子で問題が解決していたから、逆に気付かなかった。だから調子に乗っちゃたんだよね。刑事の真似事なんかして、昔の事件を調べる手伝いまでしていたんだから、馬鹿みたい」

「それが狙いだったんだろう。俺達は、まんまと騙された訳だ。少しおかしいと思いながらも、俺だって京都の事故の件はかなり詳しく調べていたし。まあ、廻間さんが頑張っていたから、という理由もあったと思う。古瀬さんだってそうじゃないかな。そうして三人で競争させるように仕向けたのも、彼の作戦だったんだろう」

「結果彼の思った通りになった訳ね、久我埼さんを精神的に追い込むことに成功し、逮捕させたんだから。でも十年前の事件の犯人でない可能性が高いと知って、三箇さんはこれからどうするつもりなのかな」

「それは俺にも判らない。どちらにしても彼が言った通り、今後は警察の捜査に任せるしかないだろう」

 英美の胸中は複雑だった。三箇に利用されたかもしれないと考えると、やはり気分が良いものではない。だがその結果、闇に葬られていた一つの事件の真相が明らかになったことは確かだ。

 しかしまだ美島さんの事件の真相が不明のままだ。今後どのようになるのだろう。もしその結果が出た場合、三箇は何を思うのか。また今後どう動くのかが気になった。

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