第六章

 師走で忙しい時期だったが、その分様々な部署と仕事上連絡を取り合う期間でもある。また各課で忘年会を開くこともあり、噂話する機会が多くなるタイミングでもあった。

 それらを利用し、英美は翌週の月曜日から早速聞き込みを開始した。まず初めに声をかけたのは七恵だ。噂好きで正反対の性格をしている彼女を苦手としていたが、そんなことは言っていられない。 

 それに彼女は、かつて久我埼と共に一宮支社で美島の下で働いていた。情報を得るには最適で、避けては通れない人物だ。といって、他の事務職がいる場所では聞けない。

 そこで意を決し、朝一番から誘ったのだ。

「柴山さん、今日のお昼休みは二人で一緒に食べません? 相談事があるんですけど」

「相談事? 廻間さんが私に? 珍しいこともあるのね。いつもは私達が話している輪の中に入りたがらないあなたが何の用?」

 笑いながらも痛い所を突いてくる彼女に、そういうところが嫌なんだと心の中で思った英美だがぐっと我慢する。そして愛想笑いをして答えた。

「ここでは言い難い事だから、外で話をしたいのです。もちろん無理を言って誘うのですから、私が出します。場所は個室のある所にしたいと思っているのですが」

 会社から少し歩くが雰囲気は良く、周辺のランチより少し高めだけあって美味しいことで有名な場所だ。その店名を告げると彼女は目を輝かした。

「あそこのランチだったらいいわ。奢ってくれるのね。今日はあなたも早番?」

 事務職の昼は部署によって多少違う。だが一課や二課は電話番の事もあり、事務職は十一時半から一時間の早番と十二時半から一時間の遅番に分かれてお昼休みを取っていた。

 今日は彼女も英美と同じ早番であることは確認済みで、店の予約も既に済ませている。あの店ならまず間違いなく彼女が喰いついてくると思ったからだ。自腹を切るのは痛いが、三箇との約束がある。その為なら、多少の出費はやむを得ない。

「そうです。もし大丈夫ならお店の予約をします。いいですか?」

「いいわよ。どんな相談事なのか気になるけど、お昼までの楽しみにしておくわ」

 上機嫌で自分の席へと戻って行く彼女を背にして、英美は胸の奥で大きくため息を吐いた。これが普通の相談事なら、その日の内に噂はビル全体へと広がるだろう。だから彼女に内緒話など話せない。

 しかし今回だけは違う。昔の件を三箇が知りたがっていると告げればすぐに広まり、やがて久我埼の耳へと入るだろう。それだけで彼に依頼された目的の一つは達成される。

 さらに当時の一宮支社における内情を知ることが出来れば、言うことはない。席に座った英美は、隣にいた浦里と目が合った。七恵との会話を聞いていたのだろう。無言で頷くと、彼は机の下で親指を立てた。グッドジョブとでも言いたかったのかもしれない。

 約束の時間が近づく。それまで仕事に区切りを付けなければ、と英美は懸命に電話応対や事務処理をこなしていた。すると十一時半になった途端、二課から彼女が駆け寄って来た。

「お昼よ。早く行こう。予約はした? 少し離れているから急ごう」

「予約は済ませましたから、大丈夫です。行きましょうか」

 普段の英美なら、時間になったからとすぐ席を立つことなどしないが、今回はやむを得ない。周囲の事務職達がまだ全員席についている状態で、お昼に行ってきますと声をかけると案の定目を丸くされた。その視線から逃げるように、英美は七恵と外へ出たのだった。

 目的地に着くまで、彼女はどんな相談事なのかと興味津々で質問してきた。しかし誰が聞いているか分からないから話はお店で、と言葉を濁し話題を逸らす。それが彼女の好奇心を余計に煽ったらしい。道中やたらテンション高く話しかけてきた。

 おかげで店に入り注文をし終えた時点で、英美は既に疲れていた。だがそれではいけないと気を取り直した所で、彼女の言葉がマシンガンを撃ったように飛んできた。

「相談事って何? 恋愛問題? もしかして二課の人の中で気になる人でもいる? それとも浦里さんと仲が良いみたいだから、彼の事? 私は余り話したことがないから、良くは知らないよ。でも仕事は出来るみたいだし、総合職だとお給料もいいよね。ああ、もしかすると三箇さん? ちょっと不愛想だけど、あの人も背は高いし悪くないか。だけど学歴や経済的にも、浦里さんより劣るよね。私だったら、浦里さんの方を選ぶかな?」

「ちょっ、ちょっと待ってください。そういう話じゃありません。ただ教えて欲しい事がありまして。でも三箇さんとは関係があります。彼から頼まれたことでもあるので」

「私に聞きたいこと? 何よ。三箇さん絡みって何の話?」

 いぶかし気に尋ねる彼女に、英美はストレートに言った。

「十年前に、一宮支社で起こった件のことです。今総務課にいる久我埼さんが死に神だって、柴山さんは言っていますよね。美島支社長は病死したと聞いていますけど、本当の所どうなんですか? 噂通り当時一宮支社にいた彼が、支社長を病死に見せかけて殺したと思っています?」

 するとそれまで上機嫌だった七恵の顔色が一変した。そして強張った顔で質問してきた。

「どうして今更、そんなことを知りたいの? あなたにどう関係するのよ」

「実はですね。私も最近知りましたが、亡くなった美島支社長って三箇さんの恩人で、しかもお母さんの従兄だったらしいです。彼とは親戚関係だと聞きました」

 そこまでは知らなかったらしく、彼女は驚いていた。

「あの事件を担当した刑事だったって、私も少し前に知ったけどそうだったんだ。冷蔵庫の物が無くなった騒ぎがあったでしょ。あの時少し話を聞かれた際に教えられてびっくりした。十年前、事情聴取していた警察の中に彼がいたなんて、全く覚えてなかったから」

「私もあの騒ぎの件で彼の力を借りて犯人を探し当てられましたけど、その時に聞いたんです。だから久我埼さんのことが気になっているらしいと知りました。それでまた最近、上司と上手くいっていないって話があったじゃないですか」

「総務の木戸課長が社有車の件で叱った後、久我埼さんが会社を三日休んだ件ね」

「そうです。それで三箇さんにお願いされました。最近色々と起こった問題の解決には、彼のおかげもあったので断れなかったんです。どうしても十年前の事件というか、久我埼さんのことが気になるから、情報収集を手伝ってくれって」

「だから私に聞きたいって言ったのね。三箇さん絡みってそういう意味だったの」

「はい。それで柴山さんは、どうして久我埼さんが犯人だと言っているのか知りたくて。何かそう疑われるようなことを見たとか聞いたことがあるんですか?」

 少し落ち着きを取り戻した彼女は、小声で言った。

「だってあの人は一宮に来る前の京都でも、相性が合わない上司がいたらしいじゃない。でもその人と一緒にいる時、事故が起きて死んじゃったんでしょ。一宮支社へ来た時には他の総合職から既に疫病神って呼ばれていて、美島支社長は特に嫌っていたから。厳しく当たられていた分、同じように死んでしまえとあの人が思っていてもおかしくないでしょ」

「彼が美島支社長を殺したという、何かはっきりとした証拠がある訳ではないんですね」

「そんなものはないけど、奇妙じゃない。だってその後に配属された大宮でも、上司が事故死したんでしょ。彼に厳しく当たっていた上司が三人も事故や病気で変わるなんて、偶然にしては異常だと思わない? 美島支社長は結果的に病死だったようだけど、最初の頃は警察も久我埼さんの事を疑っていたみたいだから」

「病気と言っても、ウィルス性の急性心不全だったと聞きました。そのウィルスを久我埼さんが美島支社長に、何らかの手を使って感染させたんじゃないかと疑っていたようですね」

「そうらしいね。だからあの時大変だったのよ。支社の中もウィルスが広がっていないか、大騒ぎになったから」

「でもどこからも検出されなかったって聞きましたけど」

「良かったわよ。人が死ぬ可能性のある菌に感染したらと考えただけでゾッとするわ」

「だから旅行先で感染したんじゃないかと警察が判断して、病死扱いになったんですよね」

「そう。でもどこかで菌を手に入れて、美島支社長に飲ませたかもしれないじゃない。その証拠を警察が見つけられなかっただけでしょ。私も三箇さんと同じく、久我埼さんが怪しいと思うな」

「でもそれなら、どこで菌を手に入れられたんでしょう。日本ではまず無理ですよね。感染者がいたら別ですけど、東南アジアとかアフリカなどで感染した人か動物から入手したんですかね」

「警察もその辺りは調べていたみたい。私も渡航履歴とか聞かれた覚えがあるから」

「久我埼さんは、パスポートすら持っていなかったらしいですね」

「自分が海外に行かなくたって、渡航した人から貰ったりすればできるじゃない」

「共犯者がいるってことですか。誰か心当たりがあるんですか?」

「そ、そうじゃないけど、その可能性だってあるって話よ。第一、彼以上に美島支社長を殺したいほど憎んでいる人はいなかったと思う。それにその前のことも後のこともあるじゃない。絶対犯人は彼よ。間違いないわ」

 そこまで話した時に、店員が注文したランチを運んできた。その為一時話を中断し、まずは食べることにする。お昼休みの時間は限られているので遅れる訳にはいかない。交代で後半から昼食を取る事務職達に迷惑がかかってしまうからだ。

 彼女は珍しく食事中は静かだった。その前にしていた話題が話題だけに話しづらかったのだろう。かといって関係のない話をする事にも気が引けたのかもしれない。

 しかしこれだけでは終われなかった。美味しいことで評判のランチの味もよく分からないまま食べ終わった英美は、最後にデザートとホットコーヒーが出されてから会話を再開した。

「美島支社長って、実はあまり評判が良くない人だったと聞きました。だったら久我埼さん以外にも、恨みを買っている人はいるんじゃないですか。そういう人はいませんでした?」

 フォークでガトーショコラを一口大に切っていた七恵の動きが、一瞬止まる。その後口に放り込んで咀嚼そしゃくしながら、思い出すように答えた。

「確かに厳しい人だったとは思うけど、殺したい程恨んでいた人はいなかったんじゃないかな。それに久我埼さんは、事件からしばらくしてうつ病で会社を休職したでしょ。罪の意識があったからじゃない? 大宮でも上司が変わった後に、三年以上休職していたって聞いたから絶対そうよ」

「そうですか。では柴山さん自身はどうです。美島支社長が厳しいと感じました? それとも他の総合職よりは優しかったですか?」

 少し間を置いてから、彼女は答えた。

「あの人は事務職にも厳しかったと思う。でも私は支社長が異動してきた頃、既に結婚退職することが決まっていたから、余り気にならなかったかな。どうせもうすぐ辞めるので、我慢できたからかもしれない」

「でも我慢しなければならないくらい、厳しかったって事ですよね」

 しつこく食い下がる英美に対し、彼女は明らかに不機嫌な顔をして言った。

「あの頃も今とそう変わらないけど、数字、数字って煩かったからね。成績が良いと機嫌が直るけど、悪い時には酷いじゃない。うちの二課もそう。数字が悪いから総合職はいつもピリピリしているし、前は平畑君が事故を起こしてばかりだったから、余計に雰囲気が悪かった。だから次席だった手塚さんも、あんな馬鹿な事をしたんだと思う。今は少しマシになったけど、あなたのいる一課に比べればまだまだよね。そっちは成績も良いから雰囲気も良くて、皆の仲も悪くないからのんきでいられるのよ。こんな昔の話を聞くために、お昼を奢ってまで普段滅多に話さない私から話を聞こうとするなんて、余裕が無ければできないでしょ」

 そこまで面と向かって言われると、何も言えなかった。沈黙している英美の様子を見た彼女は、コーヒーを飲み干すと席を立った。

「これ以上私から話すことは何もないから、これで失礼するわ。約束通り支払いはお願いね。御馳走様」

 そう言い捨てて、英美を置いたままさっさと外へと出て行ってしまったのだ。一人取り残されしばらく呆然としていたが、スマホを出してまだ時間があることを確認した。

 そこで忘れないうちにと、つい先程まで話していた内容を三箇達と共有しているサイトを開いて打ち込んだ。英美は会計を済ませ一人店を出ると、ため息をつきながら会社に向かって歩き呟いた。

「次はもう少し安いお店にしよう。そうじゃないと割に合わないわ」

 情報取集する為に目を付けている相手は、今のところ祥子と一課の事務リーダーである加賀、そして古瀬の妻の悠里だ。祥子は一宮支社で事件が起こった時、確か今と同じ業務課にいたはずだ。

 本部内の他支社と連絡を取り合うことが多い部署の為、多少なりともあの頃の事を知っているだろう。加賀は七恵と同期入社だった。確か当時は企業営業一課にいたと思う。

事件については場所も離れていた為、良く覚えていないかもしれない。それでも七恵に関する情報は聞くことができるだろう。

 悠里は祥子と同期で七恵の一つ上だ。しかも当時一宮支社に在籍していたと言うのだから、両方の情報を持っていると思われる。しかし古瀬が言うには、思い出したくない過去の為、余り話したがらなかったという。旦那相手にそうなのだから、英美には聞きづらい。 

 では祥子と加賀、どちらから先に話を聞こうか悩む。基本的にお昼休みは、加賀と英美が同じになることはない。一課の事務職の中で上二人のうちどちらかは社内にいるよう、割り振っているからだ。もちろん一日ぐらい、誰かと代わって貰うことはできる。

 ただその調整をするより、祥子と話す方が早いかもしれない。彼女なら、昼休みの時間を取らなくても済むだろう。なぜならいつも遅くまで仕事をしている為、今日の仕事終わりにでも声をかけることができるからだ。

 その他に十年前から勤務している事務職は、ビル内だと数名はいるだろう。しかしほとんど面識もないため、いきなり話を聞きだすことは難しい。

 それならば顔の広い祥子から紹介して貰えばいい、と考えた。そう結論付けた英美は、早速今晩の仕事終わりに時間を取って貰えないか、頼みに行くことにしたのだった。

 八階のフロアに着くと、祥子も今日は前半の昼休みだったらしく、食事を終えて給湯室の周辺でおしゃべりしている姿を見つけた。そこで少し離れた場所から声をかけた。

「板野さん、ちょっといいですか」

「いいわよ。どうしたの?」

 彼女は何かを察したらしく、自然な形で集団から離れて英美に歩み寄って来た。その為小声で言った。

「急で申し訳ないんですが、今日って仕事終わりに少しだけお時間を頂けますか? もし何か用事があって早く帰られるのなら、日を改めますが」

 彼女も小さな声で答えてくれた。

「別に何もないけど、今日はちょっと遅くなるかもしれない。それでもいい?」

「何時頃になりそうですか?」

「それでも七時半過ぎには終わろうと思うけど。何かあった?」

「少しお伺いしたいことがありまして。ただそんな改まって聞く話ではなく、立ち話程度でいいんです。もしお時間があれば仕事が終わって一段落着いたら、声をかけて頂いてもいいですか。私も今日はその時間くらいまでなら、仕事をしていますので」

「いいわよ。年末最終月だから、営業店の方が忙しいでしょ。私の手が空いてあなたも時間が取れそうだったら、声をかけるようにする。それでいい?」

「お願いします」

 彼女は話が早くていい。それ以上余計な事は言わずにさっと元の輪に戻って行き、同じ業務課の女性達と合流した。後五分で十二時半になる。少し早いが、英美は席に戻ることにした。十二月も第三週の初めともなると、月末まであと僅かだ。

 契約の取扱高も多い為、総合職が代理店からかき集めてくる書類は毎日山のように積まれていく。それらを次々に処理していると、時間はあっという間に過ぎた。気付けば既に六時半を過ぎていた。そろそろ区切りを付けないと、八時までに終わらない。

 いや、今日は祥子との約束がある。その為早く終わらせる必要があった。少し焦りながらも、失敗は許されない。その為黙々と書類のチエックを続けた。ようやくこれから先の書類は明日に回してもいい、と目処がついた所で祥子に声をかけられた。

「廻間さん、私はもうすぐ仕事が終われるけど、そっちはどう?」

 時計を見ると、七時半になろうかという時間だった。

「大丈夫です。今日はここまでにしておきますから」

「じゃあ一旦戻って帰る支度をするから。ところでどこにする?」

 フロアを見渡すと、総合職はほとんど席に付いているが、事務職は八割以上退社していた。これなら人に話を聞かれない様、気を使うほどではない。

 外に出て喫茶店などに入るより、それこそ立ち話でもいいだろう。しかし先輩である祥子にこちらから話を聞きたいと言っておきながら、廊下でとは言い出しにくかった。すると彼女から提案があった。

「もし良かったら、業務課の応接室を使う? 事務職はもうほとんどいないから空いているし、総合職はいるけど業務課だとこんな時間から打ち合わせで使うことはまずないから」

「いいですか?」

「いいわよ。あなたには色々助けて貰っているし、私で役に立つことなら何でも言って」

「ではお言葉に甘えて。すぐに終わらせてそちらに伺います」

「じゃあ向こうで待っているから」

 業務課に戻る彼女の背中を見送った後、英美は慌てて机上の書類を片付け始めた。その様子を見ていた浦里は、小声で尋ねて来た。

「今度は板野さんから情報収集?」

 黙って頷く英美に、彼は呟くように言った。

「お疲れ様。柴山さんの聴取の内容は読んだよ。興味深い点がいくつかあったね」

 思わず首を振り、彼の顔を見て尋ねた。

「何? どういうところ?」

 だが周囲の目を気にした彼はこちらを向かず、パソコン画面を見ながら言った。

「板野さんには当時一宮支社にいた事務職や、その周辺の話を重点的に聞いてみて」

 なんとなく言わんとする意味が理解できた為、静かに頷いた。英美もその点を中心に尋ねるつもりだったため、聴取する方向性は間違っていないようだ。

 どうにか退社できる準備が整ったため、課内を見渡した。加賀の他三人の事務職は既に帰社している。もう一人も帰り支度をしていた為、問題無さそうだと胸を撫で下ろす。

 そしてまだ仕事をしている浦里達総合職に声をかけた。

「お先に失礼します」

 課長以下全員が声を返してくれた。

「お疲れ様」

 その中で浦里だけが、ぼそっと言った。

「頑張って」

 片手を軽く上げて彼のエールに答え、業務課へと向かった。お昼に共有サイトへの書き込みをした際、既に他の書き込みがされていた。その内容は京都での事故に関する内容だったため、書き込んだのは彼だろう。

 どうやら三箇達と話し合った翌日の土日に、以前いた部署で十五年前にもいた職員達と再び連絡を取ったらしい。ざっと見ただけで詳しく読んではいなかったが、それなりに収穫があったようだ。

 助手席にいた久我埼も重傷を負った。その為ある意味被害者となった彼を労わる声があったのは当然だ。

 しかしその一方で、何故あの支社長が運転をしていたのかと疑問を持つ声も上がっていたらしい。代理店へ頭を下げに行った帰りは、久我埼が体調不良を訴えた為、門脇が運転していたという。

 だが代理店を怒らせた原因を作り、同行して頭を下げなければならなかった支社長が、その程度の理由で運転を代わるだろうかと疑問視する人もいたそうだ。

 現に重傷で入院した彼の体調自体に、異常は見つからなかったらしい。ただの仮病だったとしたら、門脇は直ぐに見破るか無理やりにでも運転をさせたはずだと主張する社員がいたという。

 彼を助手席に乗せて自分が運転をするなんてプライドが高い支社長がするだろうか、とその人は言ったそうだ。そうしたことから、当時は殺したとまでの噂が立たなかったにせよ、おかしな事故が起こったとの認識は多くの人が持っていたらしい。

 しかしそれも、あくまで周りにいた人達の主観だ。彼が支社長を殺したという、決定的な証拠にはならない。

 それでもそこまでの情報を、浦里は休みの間に入手していたのだ。それもあって英美も負けてはいられないと考え、七恵だけでなく祥子にも話を聞こうと思わせてくれた。それにしても彼が言った興味深い点とは何だろう、と気になった。

 そんなことを考えている内に業務課へ着くと、既に机を片付けた祥子が手招きをしていた。英美は頭を下げながら言った。

「お疲れの所、すみません。こんな時間から残って頂いて」

「いいのよ。じゃあ応接室へ行きましょうか。一応、課長にはここを使う許可は取ってあるから。でもあまり遅くならないように、とは言われたけどね」

「なるべくそうします」

「いいのよ。仕事で八時以降も残っていたら駄目だけど、ここからはプライベートな時間だから。あっ、それとも仕事の悩みとか? それだったら業務になっちゃうけど」

 そう言いながら部屋へ入り、ソファに腰を下ろした所で英美は口火を切った。

「そういうことじゃありません。あまり遅くなってもご迷惑でしょうから、早速本題に入ります。お聞きしたいことは十年前に、一宮支社長が病死された件のことです。板野さんは、その頃も業務課にいらっしゃったんですよね。当時何か気になることがあったり、覚えていることがあったりしたら教えて頂きたいと思いまして、時間を頂いたのです」

 相談事の中身が意外だったからか、彼女は驚いた表情で聞き返してきた。

「どうして今になってそんなことを聞くの? 久我埼さんが総務課に来たから? 珍しいわね。廻間さんはそうした噂話を嫌っている人だと思ったけど、どうして?」

「決して興味本位で聞く訳じゃありません。実をいうと、これには訳がありまして」

 そこから七恵にも言ったことと同じように三箇の経歴を伝え、彼の依頼で調べていることを告げた。

「そういうことだったの。三箇さんと久我埼さんとの間に、そういう因縁があったとは知らなかったわ。だから以前、普段は大人しい三箇さんが総務課まで押しかけて、彼に喧嘩を吹っかけていたのね」

「そのようです。だからあの後、過去はどうあれ会社員としての振る舞いとしてはおかしいからやめるよう、浦里さんと一緒に忠告しました。その後は彼も大人しくなりましたが、また最近騒ぎがあったじゃないですか」

「総務課の社有車の件ね」

「それでまた、三箇さんが気になりだしたそうです。因縁の相手が同じビルのすぐ上の階にいる訳ですから、しょうがないとは思います。過去にあった経緯を聞き、本当に単なる噂なのかをはっきりさせたい気持ちも理解できました。ここ最近のフロアの雰囲気だって、良くありませんからね。そこで病死や事故死ではなく、事件だったのかを私達も協力して調べてみようと話をしたのです」

「そう。それで私には何を聞きたいの?」

「板野さんは当時の件を、どの程度覚えていらっしゃいますか?」

「私はこのビルにいたから直接は知らないけど、一宮の支社長が急に病死したことでこっちも騒ぎになったのは確かね。しかもその後警察の事情聴取なんかも始まって、まるで刑事ドラマのようだったからすごく印象に残っている」

「十年前ですから、板野さんが入社四年目の時ですよね」

「そう。廻間さんは十年目だから、入社する前の年か。だったら知らないよね」

「そういうことがあった、という話をうっすら聞いた覚えがある程度です。当時のことを知っている事務職で今も会社にいる人って、板野さんの他に柴山さんと加賀さん、後は古瀬さんと結婚された悠里さんくらいしか私は面識がありません。入社十一年目以上の人で知っている方はいますか?」

「何人かはいるけど、それほど親しくはないかな。それにいたとしても、あの件の事を詳しく知っている人は少ないと思うけど。私は当時業務部にいて、混乱していた事務職から問い合わせを受けて多少関わったから覚えているけど、加賀さん位だとほとんど覚えていないと思うな。まだ入社三年目で確か企業営業一課にいたでしょ。ビルも違うし、一般店と企業店では接点もほとんどないから。彼女の同期で一宮支社にいた柴山さんが、一番事情を把握しているはずよ。あの子には聞いた?」

「はい。今日のお昼に聞いてみましたが、余り詳しくは教えて貰えませんでした」

 彼女には話していいだろうと判断し、昼間の会話を教えた。

「あの子、そんな事を言っていたの。確かに久我埼さんの上司が、その前にも後にも事故に遭っていることは確かだけど偶然でしょ。それに美島支社長は病死だと、警察も結論付けたはずよ」

「そのようですね。でもウィルスによって急性心不全が起きたのが死因だったと聞きました。だからどこで感染したか、社内にもウィルスが残っていないか、検査が入ったようですね」

「そうなの。支社長は亡くなる前、家族でフィリピンに旅行へ行っていたから、そこで感染したのだろうと言われていた事は覚えている。帰国後このビルには立ち寄っていなかったおかげで、病院の検査関係の人達が来なかったから助かったわよ。一宮支社はただでさえ支社長がいなくなって大変だった上に、検査や警察の事情聴取で振り回されたようね。立ち寄った代理店さんや飲食店など、かなりの範囲が調べられて大騒ぎになり仕事ができないと、事務職が電話で泣きついてきていたから」

「そんな電話があったんですか?」

「そうよ。仕事は滞ってしまうから何とかして欲しい、応援要員をよこしてくれって何度も言われたわ。でも検査の件が落ち着くまでは、下手に人を派遣して感染したら大変だからと本部では判断したようよ。代わりの支社長は、本社の人事部がすぐに人選をして呼び寄せたの。でもしばらくは、このビルの支店長席で待機していたはず。代理店の所への挨拶だとか、混乱させてご迷惑をかけていることへのお詫びも、ここから出かけて行っていたと聞いた覚えがある」

「じゃあ、相当な混乱ぶりだったんでしょうね」

「支社は二日ほどほぼ立ち入り禁止状態になっていたようだから、業務もだいたいストップしていたはずよ。どうしても至急計上しなければいけない書類は、検査が通って問題ないと判断されたものを、このビルに持ち込んで処理していたから。それでも念のため会議室の一つを特別に用意して、そこへ運び込んでいたようよ。万が一書類にウィルスが付着していたとしても感染が広がらないよう、出入りする人間も限定していたっていうから」

「板野さんは、手伝われなかったんですか?」

「業務部でもベテランの先輩方が選ばれていたからね。それもひと悶着あったのよ。だって下手をすれば死ぬ危険もある訳でしょ。そこで仕事をしろと言われて、拒否した人達が大勢いたようだから」

「それはそうでしょう。私も頼まれていたら嫌だと言うかもしれません。でも実際に手伝った人がいたんですよね。すごい勇気ですよ」

「勇気というよりは、業務命令に逆らえなかった人達が、嫌々していた感じだったと思う。だから本来は事務職がやる仕事だけど、総合職もかなり手伝いに入っていたらしいから。男の人の方が、上からの命令には逆らい難かったからでしょうね」

「そうだったんですか。でも結局ウィルスは検出されなかったようですね。だからおそらく海外の現地で感染し、帰国後に発症して病死したと判断された。しかしどこからも検出されなかったっていうのも奇妙ですよね」

「珍しいケースだったみたいね。でも稀に体内だけで発症する場合も有るって聞いたけど」

「そのようですね。でも感染元がどこか、フィリピンでも特定されなかったみたいですけど、そんなことがあるんですか」

「それは私に聞かれても知らないわよ。でも感染が広がらなくて、本当に良かった。あれで代理店さんの所で見つかったりしたら、大変な問題になっていたでしょうね」

「そうですね。下手をすれば取引を止めると言い出されても、おかしくないでしょうから。それで当時一宮支社にいた事務職やスタッフさんは、今どうされているか知りませんか」

「柴山さんは結婚して退職したでしょ。確か四年目に入ってすぐだったから、支社長が亡くなった翌年じゃなかったかな。後はスタッフさんなんかも気味が悪いからって、次々と辞めていったはずよ。事務職も全員が異動願いを出していたって聞いたし。だから三年位かけて順に入れ替えをしていったの。そうそう、古瀬さんと結婚した悠里も、柴山さんが辞めた次の年に二課へ異動したんだっけ。あの時いた人は全員辞めちゃっているかな。戻ってきて働いているのは柴山さんだけのはずよ」

「当時いた総合職はどうですか? 久我埼さんのように、この中部圏内へ戻って来ている人はいませんか?」

「どうだろう。そこまでは知らない」

「そうですか。じゃあ辞められた事務職の方の中で、連絡を取っている人なんていませんよね」

「いない。悠里とは同期だけどそれ程仲が良かったわけじゃないし、今はあなたの方が話す機会も多いんじゃない? 後は柴山さんしかいないでしょう。でも彼女が昼間に話した内容だと、これ以上の情報を得るのは難しいでしょうね。それに彼女だって、余り思い出したくないことだろうから」

「そうかもしれません。悠里さんもそう言っていたようです。板野さんはどう思いますか? 久我埼さん犯人説が流れていますけど、美島支社長が誰かに殺された可能性はあると思いますか? 当時の支社長はかなり厳しい方で、評判も良くなかったようですけど」

「その話は私も聞いたことがある。だから総合職の中でも一番きつく当たられていた久我埼さんが、前の部署でのこともあって疑われていたようね。だけど総合職だけではなく、事務職やスタッフさんからも嫌われていたみたいよ。確か今でいうパワハラだけじゃなく、セクハラまがいのことをされた人がいるって噂も出ていたから」

 初めて耳にしたキーワードに驚いた英美は、少し声を大きくして尋ねた。

「そうだったんですか? セクハラ、ですか」

 祥子はもう少し声を落として、とジェスチャーをしながら答えてくれた。

「らしいよ。詳しくは知らないけどね。パワハラに関しては当時言葉自体あったけど、十年前は今ほど職場で使われていなかったからね。でもセクハラは社会的問題になっていたから、会社でも少し騒ぎにはなったみたい。でも本人が亡くなってしまったから噂もそのまま消えたし、会社もそれ以上調べようとはしなかったようよ」

「誰が被害を受けていたか、知りませんか?」

「そこまでは聞いてない。もしかして柴山さんだったら知っているかもしれないけど、今日の話だと聞きだすのは難しそうね」

「そうだと思います。他に知っていそうな人はいませんか?」

「加賀さんだったら、何か聞いているかもしれない。柴山さんはあの性格だから、多分昔から噂好きだったと思う。だとすれば同期の彼女に、何か話しているかもしれないから」

「そうですね。その辺りの事は加賀さんに聞いてみます」

「でもセクハラがあったからと言って、その被害者が支社長を殺したとは思えないけどね。それに一会社員が死に至る可能性があるウィルスなんて、そう簡単に入手できるとは思えないから。当時もそういう話が出て、結局病死だと警察も判断したんでしょう。その辺りの事情は、三箇さんならよく知っているはずなのに」

「はい。でも彼はその結論に納得しなかったから警察を辞めて、この会社へ転職したぐらいです。それは何か疑わしい点があったからだと私達は思っています」

「支社長が親戚で、恩人だったからじゃないの? 私情が入っているだけってことはない?」

「それは私達も考えました。確かに全くないかと言えば、嘘になると思います。亡くなったのが美島支社長だったから、それほどの決断をしたことは間違いないでしょう。でもそれだけではないと感じたから、協力することに決めたんです」

「そう。でも余り深入りしない方が良いと思うけど。だって三箇さんも含めて、あなた達はこの会社の社員なんだから。そんな警察の真似事をして、同じ会社の社員を殺人犯かもしれないと疑うのはどうかと思うけど。廻間さんらしくないよ」

「いえ、私達は決して誰かを犯人に仕立て上げたい訳ではありません。ただ三箇さんの話だと警察の事情聴取では当時それほど深く、社内の人間関係まで掘り下げて聞けていないようです。だからこの会社に転職してまで探ろうとしたそうですが、なかなか難しく諦めかけていた時、六年前に再び久我埼さんの上司が事故に遭いました。さらに時が経った今、すぐ目の前に彼が現れたため、どうしてもはっきりさせたいと思ったのでしょう。かつてできなかった不完全燃焼のままの気持ちに、蹴りを付けられればいいだけです。だから今までは聞けなかった話を集め、それでも結果を覆せないと分かれば、彼も諦めがつくでしょう。それにいつまでもこういう噂がこのフロアに充満して、嫌な空気を作っている状況を私はなんとかしたいとも思っています。良い大人が大した根拠もなく死に神と呼んでいるなんて、悪質な苛めじゃないですか」

 話している内に気持ちが高まり怒りをあらわにした英美を、祥子はいさめるように言った。

「気持ちは判る。でも結局あなた達がしている事は犯人探しだと、周りの人達は考えるかもしれない。余り気分がいい話ではないと思うでしょうね。それに例え仕事をしている時間帯以外で話を聞いていたとしても、仕事をないがしろにしていると取られてもおかしくないわ。だから同じ会社にいる先輩としては、止めておきなさいと忠告しておきます」

「そ、そんな」

「私はあなたが、そういう人じゃないと知っているから良いわよ。でもそう思わない人達は多いでしょうね。柴山さんが余り協力的でなかったのも、そういった感情があったからじゃないかな。みんな忙しいでしょ。だからピリピリしている人も少なくないし、自分のことで精一杯なのよ。そんな時に十年前の事を根ほり葉ほり聞いていたら、嫌味の一つでも言いたい人は出てくるでしょう。それに廻間さんと三箇さんとの仲を、疑う人も出てくるかもしれない」

「そういうつもりじゃありません。浦里さんだって手伝ってくれています」

「そこよ。ただでさえあなた達が仲良くしていることで、付き合っているんじゃないかと噂している人だっているのよ。そこに三箇さんが加われば、三角関係だとか面白おかしく話す人達も必ず出てくるでしょう。みんなそうしたゴシップネタが大好物だからね」

 英美は胸の奥底を覗き見られた気がして、思わず大きな声を出し否定した。

「そんなことはありません!」

「あなたがいくら否定しても、人の口に戸は立てられないの。だから余り目立ったことをすると、叩かれるわよ。あなたはその手の話が嫌いでしょ。だから噂話をしている人達の輪の中にはいないじゃない。意識的に避けていることを、私は知っているわよ。でもそれは別に悪い事じゃないし、そうしている方が聞かなくて済む話もたくさんあるから」

「はい。私と浦里さんがそんな風に言われているなんて、初めて知りました」

「そうでしょ。それでいいのよ。でもそんなあなたが、今回のような行動を取っていることに私は驚いているの。聞かれたら知っている事は話す。でも積極的に手伝おうとは思わない。理由はさっき言った通りよ」

「分かりました。お手伝いして頂く必要はありません。ただご存知の事は教えてください。当時美島支社長を恨んでいた方は、久我埼さんの他にも、いた可能性があることは確かですね。それはセクハラされていた女性かもしれない。またはパワハラされていた総合職や、代理店の可能性だってあります。誰かは不明とのことでしたが、心当たりは全くありませんか? または加賀さんの他に知っていそうな人はいませんか?」

 忠告を聞こうとしない英美に呆れたのか、祥子は大きくため息を吐いた。そして少し時間を置いてから答えた。

「今は思い当たらない。でも何か思い出したら、声をかけるようにする。ただし、私のできることはそれまでよ」

「有難うございます」

 頭を下げた所で、応接室のドアをノックする音がした。祥子がはい、と答えると総合職が一人顔を出した。

「板野さん、もう八時半を過ぎているよ。仕事の話じゃないらしいけど、余り遅くまで残っていると上が煩いから、そろそろ終わらせた方が良いって課長が言っているから」

「もう終わりましたので帰ります。じゃあ今日はこれでいいわね」

 彼女が席を立ちそう言ったので、英美も頷きながら立ち上がった。

「そう。じゃあ気を付けて」

 総合職の見送りを受けながら部屋を出ると、業務課の課長がこちらを見ていたので二人して頭を下げた。そしてそのまま廊下に出てエレベーターに乗り、下へと降りた。

 一階に着き、時間外用の出口を通って外に出る。祥子は英美と別の地下鉄の路線だ。その為途中で二人は別れた。帰りの電車の中で、先程までのやり取りを昼間と同様にサイトへと書き込みながら英美は考えていた。

 新たな情報を得たことは確かだが、この件を調べることで周囲から浦里や三箇との関係を疑われると言われたことに、衝撃を受けていたからだ。

 そこまで考えが全く至っていなかった為、正直動揺している。それが完全な誤解であれば、笑い話で終わらせられるだろう。しかしそうではないから厄介だ。

 英美も自分の気持ちが二人にあり、その間で揺れていることに気付いたのも最近の事だ。そんなところに周囲からこそこそと陰口を叩かれ、または直接からかわれたら、どうなるかを考えた。恐らく平常心を保ち、ポーカーフェィスを貫くことは難しいかもしれない。  

 面倒な事に、首を突っ込んでしまったのだろうか。一瞬そう考えたが、すぐに心の中でそれを否定した。周囲が何と言おうが、三箇の気持ちやフロアの職場環境を考えると、調査に協力することは止めたくない。

 ただ自分に覚悟が足りなかったことを自覚した。これからは様々な事を言われると見越し、行動しなければならない。そう腹を括ったことで、次にやるべきことがはっきりした。

やはり加賀から、話を聞かなければならない。七恵の事も含め当時の一宮支社で起こっていたと思われる、セクハラやパワハラの件を耳にしていないか確認する必要があった。

 他に十年前の事を知る人物がいるかも聞こう。祥子からは名前が挙がらなかったけれど、もし紹介して貰えるなら話を聞いてみたい。そして翌日の朝、加賀にお昼の時間話ができないか、誘ってみようと考えた。

 了承が得られれば、他の事務職とお昼の時間を交代して貰わなければならない。ぐずぐずしていると、明日には英美達のことが広まっている可能性がある。いや、英美が気付かなかっただけで、今日でもいろんなところで噂話が飛び交っていたかもしれない。

 七恵と話をしたのはお昼だが、彼女の発信力は強烈だ。下手をすると、既に久我埼の元へ情報が届いていることもあり得た。そう考えれば行動は早い方が良い。時間が経つと、徐々に話が聞けなくなることもあるだろう。邪魔をする人も出てくるかもしれない。

 そうした考えが杞憂ではなかったことを、英美は翌日、加賀に話しかけた途端に気付かされた。お昼に少し話を伺いたいことが、といった所で彼女は笑ったのだ。

「来たわね。三箇さんの為に、十年前の事を聞きまわっているらしいじゃない。昔の事だから余り覚えていないけど、良いわよ。私が知っている範囲内であれば話すから。でも意外だったわ。あなたは浦里さんと仲が良いと思っていたから」

 やはり七恵の口から昨日の内に、事務職達の噂話のネタとして広まっていたようだ。また祥子が予想していた通り、色恋話と結びつけられているらしい。

 昨日の内に心の準備をしていなかったら、どうなっていたか判らなかった。しかし祥子のおかげで助かった。よって英美は平然と答えることが出来た。

「そういうことではありません。詳しい事はその時にご説明しますので、お時間よろしいですか。他の事務職との休憩時間の変更は私の方でしますから、お願いします」

「良いわよ。私は今日早番だから、あなたもそうして貰える?」

「判りました。ありがとうございます」

 英美は直ぐに他の早番の事務職に頭を下げ、交代して貰うこととなった。その子は一課だと、英美の次にあたる三番目の年次だ。上二人が抜ける時間帯に、若手ばかりでは心もとない。その為彼女にお願いすると、快く引き受けてくれた。

 お昼は七恵と食事した同じ店を予約した。昨日と同じく英美の奢りだ。ランチの値段や雰囲気等から、加賀はすぐに了解してくれた。

 こうした点も同じ扱いをしておかなければ、後で何を言われるか分からない。仲が良いとは聞いていないが、彼女達は同期だから差を付ければ後々面倒な事になる。

 二日連続で同じ場所で同じ説明をした後、彼女に尋ねた。

「当時の状況はどうでしたか。覚えている範囲で教えてください」

「私は企営課に配属されてまだ三年目だったから、出先の支社の事までは良く知らない。だけど大変な騒ぎだったことは、何となく覚えているかな」

「柴山さんは当時、一宮支社にいましたよね。加賀さんと同期でしたから、その時何か、聞いたことはありました?」

「あったわよ。支社長が亡くなったのは、確か八月の終わりだったんじゃないかな。お盆に取った夏季休暇から、少し経って病死したはずよね。その後は上半期の締めの時期だったし、警察なんかも来てバタバタしていたのよ。ようやく落ち着いたのが年末近くだったから、慰労会と忘年会を兼ねて同期会をしたの。そこで彼女がすごく大変だったって、大きな声で話していたのは覚えている。警察に事情を聞かれた話とか、あの時は彼女が主役だったからね」

「どんな話をしていたか、覚えていますか?」

「とにかく大変だったってことは伝わったわよ。彼女はそれをやたらアピールしていたから」

「警察にはどういう事を聞かれたか、言っていました?」

「えっとね。そうそう、最近海外にいたかを質問されたって。あれでしょ。支社長が夏季休暇の時に行った海外で妙なウィルスに感染したらしいけど、他に同じような場所へ行ったかどうかを確認していたみたい」

「らしいですね。でも柴山さんはパスポートを持っていたけど、海外へは行ったことが無かったらしいですね」

「あら、良く知っているわね。ああ、三箇さんからの情報か。あの人、あの時刑事として色んな人の事情聴取をしていたんだってね。七恵が言っていた」

「他に柴山さんは同期会で、どんな話をしていたんですか?」

「後は支社長がどういう人だったかとか聞かれたようね。久我埼さんがあの支社にいたから、一時は殺されたかもしれないと疑われていたからでしょう。でも彼女はまだ三年目だったから余計な事は喋らなかった、って言っていたと思う」

「余計な事は言わなかった、ですか。ということは裏を返すと色々言いたいことはあったけど、言えなかったということですよね。亡くなった人で、しかも三箇さんの恩人だから悪口は言いたくないですけど、美島支社長は評判が良くない人だったらしいですね」

「そうらしいね。彼女もそんなことを言っていた気がする。セクハラみたいなこともしていたって。彼女も被害に合った一人らしいよ」

「そうなんですか? セクハラの噂はあって、本部も誰が被害者だったか調べる予定だったらしいですよ。でもその前に亡くなったので、そのまま立ち消えになったみたいですね」

「そうなの? それは知らなかった。そうなんだ」

「だったらセクハラの被害者は、柴山さんだったんですか?」

「そういう訳じゃなかったと思うけど。だれか特定の人が狙われていたというより、複数の女性がセクハラを受けていて、その内の一人だっただけじゃなかったかな」

「そうなんですか?」

「うん。余り深刻そうな話はしていなかったし、それまでも聞いていなかったから。それに彼女はあの頃、婚約者がいて寿退社する予定だったし。嫌だと思えばすぐに辞められる状況だったから、我慢できたって言っていた気がする」

「でも辞められたのは、もう少し後ですよね」

「そう、支社長が亡くなった翌年。会社にいたのが丸三年と三カ月かな。当時ボーナスは六月と十二月の二回支給されていたから、六月分を貰って辞めたのよね。そういうところがしっかりしているというか、なんというか」

「支社長が亡くなって、一年弱は会社にいたことになりますね。それはどうしてなんでしょう。パスポートまで取っていたのなら、その年には辞めていてもおかしく無かったんじゃないですか」

「その予定だったけど、婚約者が病気に罹ってある時期入院していたらしいよ。会社も休んでいたから延期したんじゃなかったかな。結婚式の二次会で、そんな話を誰かしていた気がする」

「病気ですか? どんな病気か知っています?」

「それは良く知らない。でもその時のことが原因で、ご主人が精子形成障害になっていたって後で判ったらしいの。可哀そうな話よね。だって結婚してしばらく経っても子供が生まれなかったから、不妊治療していたのよ。それなのに原因がご主人にあったんだから」

「そうなんですか?」

「そうよ。だから子作りを諦めて、彼女はうちの会社に再就職したって聞いたわ」

「そうだったんですか。それは辛い話ですね」

「辛いなんてものじゃないわよ。不妊治療で相当お金も使っただろうし、精神的にもきつかったはずだから。それに耐えて子供を作りたいと頑張っていたのに、酷い話よ」

 七恵が早くから不妊治療をしていたことは聞いていたが、やめた理由がご主人にあったとは知らなかった。しかしそう言われて気付いた。

 彼女はいつも特定の事務職やスタッフとお喋りに花を咲かせていたが、皆独身者か、既婚者でも子供がいない人達ばかりだったはずだ。

 女性達の中だと、子供がいるかどうかで話題は大きく変わるだろう。ただプライベートならともかく同じ仕事場のフロアで集まれば、多少立場の異なる人達が混じっても仕方ない。その方が自然だ。

 それなのにあれだけお喋りで噂好きな彼女が、限られた条件に当てはまるメンバーとばかり話しているのは、不自然な気がしていた。

 もちろん相性が合う人達とだけ話していれば、ある程度の偏りは起こる。その鍵となるのが、彼女にとっては子供がいない人だったのかもしれない。

 不妊治療している既婚者は、このビルの中にも大勢いると聞いていた。彼女が良く話す人達の中にもいたはずだ。しかし七恵が不妊治療を止めた理由について聞いたことが無かった。おそらくその事は一部の人間しか知らないのかもしれない。

 そこで疑問を持った。加賀は彼女と同期とはいえ子供がいる。それに課が隣り合っているのに、会社で二人が話しているのを余り見かけたことが無かった。その為正直なところ今回は、七恵に関しては詳しく聞けないだろうと予想していたからだ。

 それでも美島支社長が亡くなった時から会社にいる、数少ない面識者の一人だったから声をかけた。しかし思わぬ情報が入って来たのだ。その為尋ねた。

「加賀さんは柴山さんと同期ですけど、会社では余り話していませんよね。それなのに、どうしてそんな事までご存じなんですか?」

「今はほとんど話さなくなったけど、彼女が結婚してしばらくの間は、他の同期の子達と連絡を取り合っていたからよ。不妊治療の話やご主人の話は、その時にちらっと聞いたことがあるの。でも私が結婚して子供ができた頃からは、余り会話をしなくなったわね」

「それはお子さんのことで、立場が違ってしまったからですか」

「そうかもしれない。でもその気持ちは理解できる。私だって彼女と何の話をすればいいか、判らないもの。子供の話題を避けようとしても、何かの拍子でつい触れちゃったりすることってあるでしょ。そうすると彼女も気分が良くないだろうし、こっちも気を使うじゃない。ただ子供がいない、または産まないと決めた人だったらそこまで気にしなくてもいいのかもしれないけど、彼女の場合はそうじゃないから」

「そうかもしれませんね。私は結婚すらしていないので、良く判りませんが」

「同じよ。あなただって既婚者で子供がいる私とは、仕事の話以外まずしないでしょ。ごめんね。批判している訳じゃないのよ。お互い立場が違うし、話が合わないから自然とそうなるのは仕方がないから。私だってプライベートの話をしだすと、どうしても子供の話が中心になっちゃう。だから共感してくれる人と話す方が楽なのよ。あなたも同じ独身の人と話す方が、会話が噛み合うでしょ」

 彼女の言う通りだった。仕事の関係上、立場が違う先輩や後輩やスタッフ達と話すことはよくあった。しかし雑談となれば事情は異なる。既婚者の人達が話す子供の話題を聞く事が嫌な訳ではない。 

 ただ共感が出来ない為、どうしても参加できず聞くだけになる。そこで似たような話ばかりされれば、なんとなくその集団と離れがちになるのだ。

 それ以前に、英美は仕事場でプライベートな話をぺちゃくちゃと喋ること自体が好きではない。噂話や他人の悪口となれば尚更だ。そういった性格が災いしてか、職場の中ではプライベートでも親しくしている女性はほとんどいない。せいぜい同期の子ぐらいだ。

 休日などに会う友人と言えば、他では学生時代から付き合いがあり、自分と同じ独身の子達ばかりだった。だからなのか職場では浦里や三箇、古瀬といった男性達と話す方が気楽なのだろう。もちろんそこに異性として興味があったからだと、最近になって気付いた。

 二人共ランチを食べ終え話題が逸れはじめた。お昼休みもそれほど残っていない。その為、英美は最後に尋ねた。

「加賀さんや板野さんの他に、十年前の件を知っている人っていますか? いれば私に紹介していただいて、話を伺いたいのですが」

「まだ会社にいる同期はいるけど、たぶんよく知らないと思う。その人達は、柴山さんとも付き合いが余りなかったから。彼女と仲が良かった子は、もう会社を辞めているしね」

「会社を辞められた方で柴山さんと仲が良かった人だったら、加賀さん以上に昔の事を知っていると思いますか?」

「そうね。その子ならもしかすると、彼女からもう少し詳しい話を聞いているかもしれない」

「他にはいませんか。例えば当時柴山さんと同じく一宮支社にいて、今は辞められた方でご存知の人はどうですか」

「悠里以外にはいないわね。今どうしているか連絡先も知らないし、顔も名前もよく覚えていないの。柴山さんに聞けば分かるかもしれないけど」

「それはちょっと、難しいかもしれないですね」

「昨日、二人は話をしたのよね。余り協力的では無かったの?」

「どちらかといえば、そうですね」

「余り思い出したくない事だからかもね。それにもう十年も前の事でしょ。聞かれたくないこともあるんじゃないかな。私達だってそうでしょ。昔の新人時代の話題となれば、どうしても仕事でミスしたことなんかが出てくるじゃない。そんな話なんて、余り今の人とか後輩には知られたくないからね」

「そうかもしれません。それでしたら加賀さんの同期で会社を辞められた、柴山さんと仲の良かった人を紹介して頂けませんか?」

「え? その子は今結婚して東京にいるわよ。こっちにはいないわ」

「東京ですか。もしかして同じ会社の人と結婚して、転勤か何かで向こうにいるんですか?」

「そう。二つ上の総合職と結婚したからね。今は子供が二人いて、専業主婦しているはずよ」

「それでしたら、加賀さんから連絡して頂いて私に話をしてもいいか、聞いて頂いてもいいですか? 先方から許可がでたなら、こちらから電話をかけて話を聞きます」

「あなた、そこまでするつもり? どうやら本気で十年前の事を調べているのね。それとも柴山さんのことを知りたいの?」

「いえ、柴山さんの事を調べている訳ではありません。あくまで十年前、一宮支社で何が起こっていたのかが知りたいだけです。もしその方が柴山さんを通して見聞きしたことや、別の人から当時の件を聞いていたら、それを伺いたいだけです。他意はありません」

「廻間さんは、久我埼さんのことを疑っているの? まさか柴山さんが犯人だと思っている訳じゃないでしょうね」

「そんなつもりはありません。美島支社長が病死だったら、それでいいと思っています。三箇さんがそう納得してくれる材料を集めたいだけなんです」

「そう。でも余り気持ちのいい話ではないわね。あなたはそうじゃないと言っても、三箇さんが犯人探しをしているのは間違いないでしょう。しかも警察まで辞めて、うちの会社に転職して来たっていうんだから」

「確かにそれは否定できません。だからこそ、私達は三箇さんの気持ちに区切りを付けてあげたいと思っているんです。それに久我埼さんのこともあります。このままでは総務課にいる限り、ずっと死に神というあだ名を付けられたまま、仕事をすることになるでしょう。現に柴山さんなんかは、彼を犯人扱いしています。こんな状態が続けば、フロアの雰囲気が悪くなるだけです。それにまた何か事件が起こるんじゃないかと言い出している子達もいますから、それを何とかしたい。その一心で動いている事だけは信じてください」

「あなたがそこまで言うなら、一応私から電話しておく。でも向こうが断るかもしれないから、それは覚悟しておいてね」

「それなら諦めます。無理やり聞き出そうとまでは考えていません」

「そう。向こうが話しても良いと言った場合はどうする? あなたの携帯の番号を教えて電話させればいい?」

「それでも構いませんが、都合の良い時間帯や番号を教えて頂ければ、こちらからかけます。それもお相手の良い方で構いません」

「了解。そう伝えておく。とにかく向こうの都合が確認出来たら、あなたに教えるから。今日か遅くとも明日には返事ができると思う」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 お昼休みの時間も終わりに近づいた為、ランチを食べ終えた二人は外に出た。帰りの道中は全く違う話題をしながら、ビルへと向かって八階に着いた。

 まだ少し時間があったので昨日同様忘れない内にと、加賀から聞いた内容などをサイトに入力する。その後席に戻った英美は気持ちを切り替え、午後からの仕事にとりかかった。祥子による忠告が頭に残っていたためだ。

 確かに十年前の事を調べていることが広まれば、良く思わない人がいるかもしれない。情報収集は昼休みや業務終了後に行っているとはいえ、仕事を疎かにしていれば足元を掬われかねない。ミスなどすれば、それこそ余計な事をしているからだと言われるだろう。

 そうならない為にも、今は目の前の書類に集中しようと決めた。頭の中では、加賀の同期から話が聞けるだろうか気になってはいた。しかしあの件のことは後で考えようと、気持ちを切り替える。

 そんな時、外出先から戻って来た浦里が席に付きながら、小声で話しかけて来た。

「サイトを見たよ。お疲れ様。ところで悠里さんと話をした?」

「まだしていない。彼女が昔の話をしたがらないって、古瀬さんが言っていたでしょ。それに私が話す機会は電話しかないから、古瀬さんに任せようかと思って」

「そうだな。それでいい。まあ俺も彼の事務所に行った時、彼女と話す機会が少しあるから聞けたら聞いてみるよ」

「それは助かる。デリケートな内容でしょ、直接会ってじゃないと話しづらいもんね」

「確かに」

 短い会話を終え、再び目の前の仕事に取り組んでいると夕方の五時が過ぎた。といってまだ仕事は終わらない。普段は早く帰る加賀でさえまだ席にいた。黙々と目の前の書類を整理していると六時が過ぎた所で、帰り支度を終えた加賀に声をかけられた。

「これから例の件、電話してみるから結果は明日になるかもしれないし、今日中に確認出来たらあなたの携帯へ電話するけどいい?」

「宜しくお願いします。携帯の留守電を解除しておきますから大丈夫です」

「そう。じゃあお先にね」

 周囲にもお先に失礼しますと声をかけている彼女の姿も見ながら、英美はスマホを取り出した。勤務時間内は留守電にしているが、今は残業している時間帯だ。かかってくれば席を外せばいい。長電話にならなければいいだろう。

 そう考えて加賀からか、または彼女の同期からかかって来る場合に備えサイレントモードに切り替えた。

 引き続き仕事に取り掛かり、なんとか今日中に行わなければならない仕事を終えた。そしてパソコンの電源を落とし、帰り支度をし始めた所でスマホが震えた。

 慌てて廊下に出て電話に出ると、相手は加賀からだった。

「もしもし、廻間さん? 今日話していた件で連絡を取ってみたら、別に話しても良いって。でも電話代の事もあるし、向こうの家の固定電話にあなたの方から連絡して貰える? 番号は今から言うね。ちなみに名前は佐藤さん。今日だと今ぐらいの時間だったら良いって。それ以上遅くなると旦那さんが帰って来るから、それまでなら大丈夫って言っていたけど」

「ありがとうございます! そういうことならすぐにかけます!」

「そう。だったらその旨を今から向こうにメールで連絡しておくわ」

 彼女は佐藤さんの家の番号を教えてくれた。それをメモリーに入れて電話を切った後、しばらく時間を置いた方が良いと思い、先に片付けを終わらせようと席に戻る。そこで浦里に声をかけられた。

「どうだった?」

 おそらく加賀が帰り際に言ったことを聞いていたらしく、今の電話もその連絡だと思ったのだろう。

「昼間に聞いた加賀さんの同期の方が、話をしてもいいって了承が得られた。今からかけてみる」

「そう。よろしく。お疲れさま」

「お先に失礼します」

 彼だけでなくまだ残っている課の人達に声をかけてから、英美は廊下に出た。そして人気がない廊下の端に行き、教えて貰った番号を押す。加賀があの後直ぐにメールを送っていたとすれば、既に読んでいるだろう。

 しかし話が伝わっているとはいえ、全く面識のない年上の方と話をするのだ。その為内心ではドキドキしていた。それでもどう切り出し、何を聞けばいいかを頭の中で整理しながらコール音を聞く。 

 すると相手が出た。

「はい、佐藤です」

「夜分遅くに失礼致します。私、ツムギ損保の廻間と言いますが、加賀さんのご紹介でご連絡させていただきました。今、お時間よろしいでしょうか?」

「ああ、廻間さんね。聞いているわ。さっき加賀さんにメールも貰ったから待っていたの。少しくらいなら大丈夫よ」

「有難うございます。早速ですが、十年前の一宮支社で起こった件は覚えていらっしゃいますか?」

「さっき電話で聞いて、そんな事があったねって久しぶりに思い出した程度よ。加賀さんと私は当時名古屋ビルにいたから、噂程度にしか良く知らない。でも木幡さん、じゃなかった今は柴山さんだけど、彼女が一宮支社にいたから少し聞いたことがあったわね」

「どんな話を聞かれましたか?」

「警察が来て事情聴取をされた事とか、これから忙しくなるって時期に支社長が急死しただけじゃなく、支社も一時閉鎖されたりして仕事が滞って大変だったとか、その程度よ」

「当時、佐藤さんは同期の中では柴山さんと一番仲が良かったと聞きましたが、他に何か知りませんか?」

「加賀さんとも話したけど、あの件で私だけが聞いていたことなんて無かったと思う。彼女も大変で忙しかったアピールはしていたけど、詳細は余り話したがらなかったから」

「あの件で久我埼さんという総合職の方が一時疑われていたようですけど、柴山さんは何か言っていましたか?」

「彼女から、病死なのに警察が変に動き回っていて感じ悪かったと聞いた覚えはある。でも誰が疑われているなんて、言ってなかったと思う。ただ周りからは、過去にも上手くいっていなかった上司と一緒にいた時、事故して亡くなった噂が広まっていたわね。だから疫病神と呼ばれていた人がいた事は、うっすらと記憶にある。でもその人が殺したとか、そんな物騒な話にはなっていなかったはずよ」

「そうですか。でも最近柴山さんに話を聞いたら、あの件は久我埼さんが犯人だと断言していました。でも当時はそんなことを言っていなかった、ということですね」

「彼女、そんなことを言っているの? 昔はそんな人じゃなかったんだけどね。結婚してから色々大変だったし、性格もかなり変わっちゃったからかな。昔は仲が良かったけど、私に子供ができてからは、年賀状のやり取りもしなくなったのよね」

「それは、不妊治療していたことが関係しているのでしょうか」

「そうだと思う。加賀さんから聞いているとは思うけど、大変な目をしてお金も使った挙句に旦那さんが原因だったんだから、それはショックだったんじゃないかな」

「不妊治療が上手くいかないから、後になって旦那さんに原因があるか調べて判った、ってことですか」

「らしいよ。それでその原因が婚約中だった頃に、旦那さんがしばらく入院していた件が影響していたっていうから余計よね。そのせいで本当はもっと早く結婚するはずだったのが、延期されたんだから。彼女は早く会社を辞めたがっていたのに、それを我慢して予定より長く仕事を続けた結果がそれだもの。でも下手をすれば死んでいたかもしれない程の病気だったから、しょうがなかったのかもしれないけどね」

「死ぬかもしれなかった病気、ですか? どういう病名だったかは聞いていますか?」

「それが分からないのよ。かなり後になって仕事で海外出張した時に罹ったとは聞いたけど、詳しく教えてくれなかったから」

「海外へ出張、ですか。そういえば柴山さんのご主人は、大手自動車メーカーに勤務されていますよね。どこに出張されていたかはご存知ですか?」

「それも教えて貰えなかった。でも付き合っていた頃、東南アジアへ良く出張に行っていた話は聞いていたから、多分そっち方面だったんじゃないかな。向こうにある工場へ、問題が起こると行かなきゃいけない部署だったらしいよ。今は別の部署に変わっていると思うけど。病気が治ってから、異動になったって聞いた覚えがある」

「東南アジアですか。具体的にどこかはご存知ですか? 例えばフィリピンだとか」

「その辺りだったと思う。周辺にいくつか工場があるから、一度行くと転々としていたみたい」

「そうですか。その出張から帰って来て、病気が発症したってことなんですかね」

「そうらしいよ。相当な高熱が出たって聞いた。それが原因で、精子形成障害が起こった可能性が高かったんじゃないかって」

「そうですか。そういえば亡くなった美島支社長が、パワハラやセクハラをしていたという噂もあったそうですけど、柴山さんが被害を受けていたことはありませんか」

「その話、聞いたことがある。数字に厳しい人だったみたいね。今だったら、飛ばされていたかもしれない程度のパワハラはあったと思う。セクハラはどの程度か知らないけど、柴山さんも多少被害に合ったみたいよ。それもあって、早く会社を辞めたがっていたから」

「そうだったんですか。でもそんな嫌な思いをした会社に、彼女は再就職したんですよね。どうしてでしょうか。もし私だったら、同じ保険会社でも別の所にすると思いますけど」

「子供ができないって判ってから、仕事をするって決めたらしいけど、彼女は勤務経験が三年と三カ月だったでしょ。保険会社でも、他社は受からなかったんじゃなかったかな。保険会社以外だと、正社員でも給与は安いしね。一度損保の給与の高さを知っちゃうと、他は選べなかったんだと思う。うちの会社だったら、勤務経験は短くてもOGというだけで優遇されるから、しょうがなく選んだって話を聞いた気がする」

「でもお子さんがいなくて、共働きですよね。正社員や給与にこだわらなければ、他の選択肢もあったと思いますけど」

「そうなの。彼女が事務職として再採用されたって聞いた時、同期の間では離婚するつもりじゃないのかって噂が流れた位だからね。でも加賀さんの話では、何とか続いているそうじゃない。仕事をし始めて六年目になるとか。もし離婚するつもりで再就職したのなら、もう別れていてもおかしくないでしょ。だったら後は家を建てる資金を貯めているのかもしれないね。名古屋は持ち家比率が高いから」

 彼女の言う通りだ。都会にしては地元意識が高いこともあって、若い内から家を購入する人は少なくない。しかも実家近くに家を建てるケースが多いと聞く。

 それはコミュニティがしっかりしているからだろう。保守的な分、地域によって新しく住む人達には敷居が高く感じるそうだ。近所付き合いが煩わしい、と感じる人もいると聞く。

 しかし実家の近くで親と知り合いの人がいれば、すんなりと受け入れられる場合も多いらしい。それだけ仲間意識が強いといえるだろう。また子供が生まれた時など、実家が近ければ何かと助けて貰うことができる。

 さらには親が高齢になって介護しなければならなくなった時、遠くに住んでいるより安心だからかもしれない。その証拠に愛知県は、三世帯同居の割合が日本一高いと言われている。

 七恵の家庭がそのような事を考えているかは不明だ。確か今は、ご主人の会社の借り上げ社宅に住んでいると聞いていた。それならば、家賃の自己負担はかなり少なくて済んでいるだろう。

 将来子供ができることを考えれば、一戸建ての購入を検討していてもおかしくはない。だが彼女達は違う。今後結婚生活を続けていくつもりなら、ずっと二人で暮らしていくことになる。

 そうなれば走り回る子供ができる予定もないのに、一戸建てが欲しいと思うだろうか。しかも将来家を残したとして、それを引き継ぐ相手はいないのだ。

 経済的な事を考えれば、家賃補助のある間は社宅にいる方が得だろう。それでも自分の家を持ちたいと考える人はいる。老後を考えて、夫婦二人で末永く住める家が欲しいと思ってもおかしくはない。

 話題が少し逸れたため、英美は尋ねた。そんなに長話をしていても相手に迷惑だ。

「話は戻りますが、柴山さんの旦那さんが入院していた病院って、どこだったとか聞いたことはありますか」

「それは覚えてないわ。でも大変な病気だったから、空港近くにある大きな病院じゃないかな」

「そうですか。あと佐藤さんが知っている方で、十年前の事を知っているだろう人はいますか? 柴山さん以外で一宮支社に勤めていた事務職や総合職もそうですが、スタッフさんでも構いません」

「いないと思う。それに私が今、昔の会社関係で連絡を取っている人は、ほとんどいないかな。加賀さんとだって年賀状のやり取りだけで、久しぶりに喋ったわよ」

「判りました。話が長くなってすみません。最後にお伺いしますが、何か他に当時の事で気になったことはありますか」

「気になったこと、ね。ちょっと思い浮かばないな。ごめんなさい」

「いいえ、こちらこそ面識もない方に、こんな時間にお電話して申し訳ありません。これで失礼します。そこで勝手な事かもしれませんが、もし何か思い出されたことがあったらご連絡頂けますか。加賀さん当てでも構いませんので」

「もうないと思うけど、あれば連絡するわ」

「有難うございます。それでは失礼します」

 電話を切った英美は緊張していたのか、肩が凝っていることに気付く。首を回してホッと息を吐いた。時間をみると七時半を過ぎていた。仕事は終わったと言っても遅くまで会社に残っていると叱られかねない。急いでエレベーターに乗り一階に着いてビルを出た。 

 地下鉄の駅に向かい、次の電車が来るまで時間があったのでサイトを開く。先程まで話していた内容を入力している間に電車がやって来た。打ち込みがまだ終わっていなかった為、乗り込んでから続きを書き込む。

 そこで改めて昨日から今日にかけて収集した情報を読み返した。さらに浦里や三箇、そして古瀬が書き込んだ内容も頭に入れる。その上で今後自分は誰に、そしてどのようにして情報を集めればいいのかを考えた。しかし何も浮かばない。正直手詰まりだった。これ以上話を聞く相手と言えば誰がいるだろうか。

 ただ英美にはできないけれど、これまでの話を受けさらに掘り下げて調べることが見つかったと思っていた。そこでもう一度サイトに書き込む。今度は情報についてではなく、自分が思いついたことだ。これは三箇の手を借りるしかない。

 英美が家に帰宅して、遅い夕食を取ってシャワーを浴びた。そして就寝しようと思った時、再びサイトを開いてみた。するとそこには新たな書き込みがされていた。まず三箇が

「了解! 良い所に目を付けたと思う。ここから先は、俺の昔の伝手を使って調べて見るよ。貴重な情報をありがとう!」

とコメントしていた。そこに浦里や古瀬の書き込みがあった。

「いいね! 後は三箇さんに任せよう。廻間さん、お疲れ様!」

「そうだね。ここまで調べてくれたら、後は三箇さんしか動けないでしょう。廻間さんの調査はひと段落しただろうから、しばらくお休みしていた方が良いよ。お疲れ様」

 皆がそう言ってくれたのは、祥子から受けた忠告を考慮しての事だろう。久我埼の耳に入るよう、英美達が調べている事を意図的に広めたが、想像以上の反応が生じていた。

 三箇が前職を辞めてこの会社に入った動機がショッキングだったことも影響したらしい。余りにも不謹慎だと非難する声がすでに出始めていたのだ。

 今日までの書き込みよると、既に三箇は課長から呼び出しを受けたという。そこで噂の真相を尋ねられ、彼は正直に話したそうだ。そこで祥子が危惧した通り、同じ会社の社員を疑うような真似をするなと注意されたらしい。浦里も課長から話を聞かれたようだ。そこでもやはりこれ以上首を突っ込むなと叱られたという。

 古瀬は代理店だからかまだ何も言われていないそうだが、彼もいずれ注意を受けるかもしれない。動き出したのは昨日からなのに、これらは今日一日で起きたことだ。

 そうした事情もあり、英美も明日には呼び出しを受ける可能性が高い。その為しばらく大人しくしていた方が良いと、彼らなりの優しさからくる言葉だった。

 幸い昨日から今日にかけての二日間で、英美ができることは一気にやった。次の手が思いつかないタイミングでもある。だから彼らの言う通り、少しの間は下手に動かない方が良さそうだ。

 明日辺り、課長に呼ばれるだろう。その時どう答えようかと考えながら布団に潜り込む。なかなか頭の中の整理がつかないと思いつつも、英美はいつの間にか眠りについていた。

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