第五章

 めまぐるしかった上半期が終わり、遅れて取得した十月の長期休暇も英美は無事過ごすことが出来た。

 翌月に入ると十二月一日付の大口契約が成立し、幹事会社からは十一月末に計上も無事終わったとの報告があった。そうなると非幹事のツムギ損保では翌々月に補正数字が入るらしく、一月の成績になることが確実となった。

 もちろん古瀬を通して、一課にも成績が算入される。おかげで好調だった上半期に続き、大きな上乗せが確定した下半期の成績も順調に伸びていた。ちなみに代理店の手数料は、さらにその翌月となる。よって二月の古瀬の収入は、一気に膨れ上がるはずだ。

 これまでの年収は六百万円台だったのが、八百万円は超えることになるだろう。しかし独身であれば十分だろうが、彼は妻帯者だ。しかも妻の悠里は給与の良い元ツムギ損保で、事務職を十二年余り勤めている。よって八百万円超でも、彼女の退職時の年収をようやく上回ったかどうかというレベルだ。

 彼女は結婚するまで、英美と同じ実家暮らしだったと聞いている。よって恐らく貯金は、中古のマンションくらい買える程度あるだろう。そんな彼女が結婚を機に会社を辞めて代理店の事務員となると聞き、周りの女性社員達は止めたという。

 同じ共働きなら会社に残った方が稼ぎは良いし、独立したばかりのプロ代理店など収入は不安定だ。下手をすると、代理店を続けることも困難になる可能性だってあった。それでも彼女はそうした意見を聞き入れず、退職して法人代理店の副社長兼事務員となった。

 在職中の彼女とはそれほど接点が無かった英美も、担当代理店として書類上の件など電話で話す機会が増えた。古瀬との関係から思うと増収して生活が安定し、さらなる頑張りを期待して応援したくなるのは当然だ。

 その為今回の件は、個人的にも担当者としても大変喜ばしいことだった。彼もそう感じていたらしい。そこで忘年会も兼ね、前祝をしようと浦里と英美の他に三箇も誘いを受けていた。日程は第二週の週末にしようと決まった。

 しかしそんな十二月の第一週に、総務課でちょっとした騒ぎが起こった。噂レベルだが信憑性しんぴょうせいは高いらしい。それは総務課長の木戸きど自らが、別の部下に話していたからだという。

 内容自体は小さなことだった。社有車の中が整理されていないと注意された社員がいる、というだけのものだ。

 基本的に総務課の社員が、車を使って外に出る機会は少ない。それでも社宅に関する問題などで、提携している不動産会社との打ち合わせに使うことが稀にあるという。その為課長を含め総合職が四人いる総務課用の社有車は一台あり、それを皆で共同使用していた。

 営業だと総合職一人に一台割り当てられているが、使用頻度が少ない課だとそうはいかない。SC課でさえ外出する機会のある総合職や賠償主事、技術アジャスター達の社員数より少ない台数を共有使用していた。そう考えると総務課の割り当てが一台というのは、

妥当なところだ。

 ごく稀に複数台必要な時は支店長席や業務課等同じように、使用頻度が低い他の課から社有車を借りているらしい。逆に貸し出す場合もある。しかしそんなことは、年に一回あるかどうかだという。

 要するに同じ課の社員以外にも使うことが前提の為、社有車の車内は常に整理整頓しておくのが常識となっていた。

だがそうしたルールが守られていなかったので、課長が個別に呼び出したらしい。次に使用した社員が乗車した時、空のペットボトルやコンビニで買ったと思われる弁当の空き箱、そしてビニール袋が散乱していたという。

 しかし噂が英美達の耳にまで聞こえてきたのには、理由があった。注意を受けた社員があの久我埼だったからだ。

 もちろん入社十九年目の四十歳過ぎた総合職が、新入社員の受けるような叱責を受けた、というだけではない。彼と反りの合わなかった上司が、これまで三人も突然の事故や病気で変わっており、さらにそこへ三箇が絡んでいることが大きな要因だった。

「木戸課長も危ないんじゃない?」

など不謹慎な言葉が付いて噂が広がったから余計だ。もちろん当の課長も、これまで久我埼の扱いは特に注意を払っていたらしい。

 死に神という噂はともかく、彼は直近で三年半もの長い間休職している。その前にも一年半の休職を経て復職していた。その上会社としても、ここ数年でパワハラやモラハラといった問題が起こっている為、管理職として気を遣うのは当然だろう。

 それでも彼が名古屋に来て五カ月が過ぎようとしているこの時期まで、課長は様々な事を我慢してきたらしい。それは二課で起きた件で平畑を受け入れ、配置換えしたことも影響しているようだ。

 こう言っては何だが、本社ではない各地域本部の総務課に配属される総合職は、会社の最前線でもある営業職やSC課に配属される社員と比べ、能力的にやや劣る人材を配置しているのが現状だ。

 入社十九年目だが役職は主任の、二度休職した経験を持つ久我埼や、隔月で事故を起こす平畑のような総合職が配属されていることからも想像できる。

 しかしそんな問題を抱えている社員ばかりかと言えば、そうでもない。実際平畑の代わりに玉突きで一宮支社へと異動した中堅の総合職は、問題なく働いていると耳にした。それどころか今のところ、大きな戦力になっていると聞いていた。

 だからだろう。そうした戦力が奪われ、課長の下には頼りになる次席しかいなくなった。平畑も車を運転しなければ能力的には支障が無いものの、やはりまだ二年目で新しい部署に来たばかりだ。使えるかと言われれば、そうでないと言わざるを得ないらしい。

 そこで総務課における仕事のウェイトが、どうしても久我埼へ重くのしかかることはやむを得ない。彼も能力的にそれ程劣ってはいなかった。問題なのは精神面と体調面だった。その為木戸課長は彼の体を気遣いながら、仕事を回していたという。

 そうして総務課ではこの五カ月間、何とかやり過ごしてきた。そんな時に社有車が汚れていると指摘されたのだ。しかも今回が初めてではないらしい。

 これまでも何度か久我埼が使用した後に乗った総合職は、気付いていたという。ただ相手が彼だと言うこともあり、黙って代わりに片づけていたそうだ。

 しかし同じことが繰り返されるため、さすがに業を煮やした社員が課長へと報告し、今回の呼び出しに繋がったらしい。

 個別にどういうやり取りをしたか、口調はどうだったかなどは不明だ。しかし問題は課長が注意した後、久我埼が体調不良を訴えて三日連続休んだことから話が大きくなった。

 しかも四日後に出社した際、心配して声をかけた課長に対して彼は冷ややかな態度を取ったという。そこで課長は次席に相談したそうだ。こうこうこういう話し方で今後気を付けるように言っただけだが、問題があっただろうかと話したらしい。

 その内容を聞く限り問題は無いと次席は答えたようで、また周りで聞いていた事務職も

「課長が気にすることはないですよ。悪いのは久我埼さんじゃないですか。それくらいで会社を休まれたんじゃ、どうしようもないですよね」

と、皆口を揃えて言ったそうだ。

 といっても実際にどう言ったか、またはどう捉えたかは久我埼自身に聞かないと分からない。そこで次席が間に入り、課長から注意された事とその後体調を崩した事と関係があるのか尋ねたという。

 すると彼の答えが、さらに周りを惑わしたのだ。

「それは私にも判りません。体調が悪くなった原因が何かなんて、医者も判断が付かないでしょう。ただ何かあればそれはストレスかもしれませんね、としか言われませんから」

 社会人として、また会社員のマナーとして守られていないことを指摘しても、ストレスになり体調を崩したと言われれば、指導する立場としては困惑するしかない。

 そこで木戸課長も頭を抱えたようだ。そこに来てまた噂好きの事務職達が騒ぎ出した。中でもかつて一宮支社で一緒だった七恵が、相変わらずの大声で騒いでいた。

「あの人、昔も社有車が汚れているって、注意されたことがあったわよ。確か本社から検査が入った時だったと思う。それで当時の支社長に相当怒られていたから。あれは直らないでしょうね。ほらいるじゃない、片付けられない人って。それと一緒でしょ」

 営業職の場合は社有車が一人一台に与えられる為、基本的に自分以外は乗らないことが多い。だからつい自分専用の車として扱う社員は少なくない。

 それでも代理店や他の社員を乗せたり、お客様が同乗したりするケースもあり得る。だからある程度は綺麗に片づけておくのが普通だ。

 しかも社内で行われる監査には、社有車が適正に管理されているかという項目があった。車検が切れていないかどうか確認する意味もあるが、車内に不適切なものがないかも検査されるのだ。

 例えば申込書や社外秘の書類などが、それに当たる。個人情報を記載しているものがあれば、車上荒らしにあった際盗まれてしまうと大問題になってしまう。さらには社内にあってはまずい、他人印などが隠されていないか等もチエックされた。

 他人印とは文字通り、自分の名ではない印鑑のことだ。保険の申込書は昔ながらの慣例で捺印欄があり、基本的には印鑑が押されていないと、不適切な契約としてはねられてしまう。しかし契約者の中には、契約内容などを全て代理店任せにしている人も少なくない。

 そうした親密な信頼関係があるからこそ、印鑑を押す手間を省きたがる人がいる。そこで立場の弱い代理店は他人印を使うのだ。例えば“伊藤”という契約者がおり、

「そっちで手続きしておいて」

と頼まれた場合、印鑑がもらえない為に代理店は“伊藤”という三文判を用意して代わりに押しておくのだ。

 こうしたケースは、近年まで良く起こっていた。だから代理店は印鑑屋かと思うほど、あらゆる名が揃ったものを箱ごと抱えていることなど普通だった。

それどころか保険会社の営業店やSC課などでさえ、十数年前まではそうしたものが隠し持たれている時代があったと聞いている。しかし今は更改契約などだと、電話で確認が取れた場合は捺印が無くても、その旨が記載されていれば良いケースが増えた。

 さらに他人印が押されていないか、申込書を確認するなどチエックが厳しくなったこともあり、今はそうした問題は少なくなっている。だが社有車内の監査は、昔と同じく必ず行われていた。他にもそこに置かれていてはいけない物が、多く存在するからだ。

 しかし久我埼の場合は、ただ社内にごみが散乱していただけらしい。それでもやってはいけない事に違いない。しかも彼は総務課へ来る前はSC課にいた。

 そこでも営業課と違って総務課と同様社有車は共有するもので、他の社員も乗ることが多いとの認識はあったはずだ。それなのに未だ私有車のような感覚で使用していることは、明らかに問題だった。 

 しかもこれまで何度か注意された経験があるというから、質が悪い。それまで見逃してきた木戸課長も、指導せざるを得なかったのだろう。

 不穏な空気が再び八階フロアに漂い始める。そして嫌な予感がしたまま、英美達は約束していた古瀬との飲み会へと繰り出した。するとそれが的中した。途中までは古瀬の大口契約の成立を祝って盛り上がっていたのだ。

 しかし話題がひと段落した後、三箇が切り出した。

「ところで最近の久我埼に関する噂だが、どう思う?」

 一瞬にしてその場に緊張が走った。しばらく沈黙した後、浦里が口を開いた。

「どう思うと聞かれても、な。一人目の上司の時は違っただろうが二人目、三人目の時はこうして彼は追い詰められていったのか、と感じたよ」

 英美が同意する。

「そうね。本人にも、上司と上手くいかなかった原因があったと思う。でもそれ以上に普段接する時の空気や周囲の見る目が無言の圧力になっていたんだろうと、今回の件でよく判った」

「七月末に話した件だが、二人は覚えているか」

 忘れる訳がない。あの時三箇が警察を辞めてこの会社に転職してきた理由は、久我埼にあったとの告白を聞いた。そこで英美と浦里は言ったのだ。過去の事件を調べ直すことに協力する、と。 

 ただし三箇には、表向き大人しくしていた方が良い、決して単独では動かないようにと忠告した。そう言ってからすでに四カ月以上が過ぎている。その間、色々なことが起こったこともあり、英美は具体的な行動が取れていない。

 だからそろそろこの話題が出て、彼は動きだすだろうと危惧していた。それに七月末の際にはいなかった古瀬も、ここ数カ月で三箇との関わりが深くなったこともあり、事情を聞いている。そして彼も英美達と同様に、調査する時は力になると言ってくれていた。

 その為おそらく三箇はこのタイミングで、話を切り出すかもしれないと恐れていたのだ。

「もちろん覚えているさ。ただ最近は他の問題が立て続けに起こっていたから、そちらにまで手が回らなかった。しかしこうなると、あの件を避けて通る訳にはいかないようだな」

 浦里の意見に、英美も頷かざるを得なかった。

「フロアの雰囲気が、また悪くなったのは確かよ。こんな状態が続いたら、周囲の人の仕事に差し障りがでてくるでしょう。何か悪い事が起こるんじゃないかと怯えながら働くなんて嫌だから、どうにかしなければいけないとは思っていたんだけどね」

「俺は代理店だし、外回りや自分の事務所にいることが多いから廻間さん達程ではないけど、今月に入って急に社内の空気が変わったことは判るよ」

 古瀬も同意した所で、三箇が言った。

「三人には申し訳ないが、そろそろ俺は本格的に再調査したいと思っている。以前単独行動は取らないと約束したから、今日ここで皆に相談したい。だけど三人には、本来やらなければならない仕事がある。協力すると言ってくれて嬉しかったが、無理はして欲しくない。だから俺がこれから動くことだけでも、了承してくれないかな。見守ってくれさえすればいいんだ」

「三箇さんはどうするつもりだ。確かに俺達は、これまでたいした動きをしていない。それでも久我埼さんの件は忘れてないし、少しだけだが俺なりに調べてはみたよ。ただし一宮の件じゃなく、十五年前の自動車事故のことだけどな」

「そういえば、浦里さんの前任地は京都だったね。久我埼の上司が事故を起こして亡くなったのも、京都だからか」

「久我埼さんが会社に入って最初に配属されたのが京都東支社で、今は京都総合第二支社と名称が変わっている。俺が四年前にいたのは京都総合第一支社だから、部署は違う。だけど十五年前に当時の東支社にいた事務職が、今第一支社で働いていると教えて貰った。俺とは入れ違いだったから直接面識はなかったけど、電話で少しだけ話は聞けた」

「どういう話だ?」

「三箇さんは既に知っていることかもしれないけどね。亡くなったのは久我埼さんにとっては二人目の上司で、一人目とは違って亡くなった門脇という支社長はかなり厳しかったようだ。そういえば、当時も社有車の中が汚れていると、よく注意を受けていたらしい」

 浦里は当時の時代背景を含めて、説明しだした。

久我埼がツムギ損害保険の前身である高林たかばやし火災海上保険に入社したのは、十九年前でまだ就職氷河期が続いていた頃だ。バブルが去ってしばらく経っていたものの、積立保険の契約が満期を迎える度にその名残を感じていた時らしい。

 当時を知る社員によれば、五年以上前に預けた五十万円が、怪我をして亡くなった場合や入院や通院した場合の補償が付いているにもかかわらず、六十万円以上になって戻ってくる契約がいくつもあったという。

 しかし高金利時代が終わったことで、それらの契約を更改する際は大変だったようだ。なぜなら更新後の契約内容は保険期間が同じ五年でも、傷害保険や死亡保険金などの補償金額をかなり引き下げた上で、辛うじて元本割れはしない程度しかなかったらしい。長期金利は下がる一方で、運用益が出せない時代へと入っていた為だ。

 それでも銀行に預けるよりは、補償も付いているからまだマシだと更改してくれる人はそれなりにいたらしい。だが必ず言われたことがあったという。

「以前は契約をしたら、たくさんノベルティなんかくれたけど、今は全く貰えないのね」

 バブル時代はしっかりしたお皿やマグカップなどといった、良いノベルティが営業店の倉庫に山と積んであったらしい。それがせいぜいタオル一枚出す程度しかなかったようだ。

 ちなみに今は、それさえ渡せない状況だった。業績は上がらず厳しい環境が続く中、保険の自由化で保険料計算も複雑になりつつあった時期だったことも影響したのだろう。

 さらには生保など新しい契約を取らなければならない状況も加わり、業務が増えた時期でもあったらしい。生損保の垣根が解消され、損保会社は子会社を作り生命保険を扱い始めた頃だ。

 生命保険会社も同様だったが、しばらく経つと一部では損保を扱う子会社を持つよりも損保会社と提携した方が得策だと考えたところが出て来た。

 そこで当時生保業界三位だった安岡生命が、高林火災海上保険と組んだ。つまり安岡生命の生保レディー達が、高林の損保商品を販売し始めたのだ。その代わりに、高林に所属し生命保険を販売する意欲がある一部の代理店は、安岡生命の保険も売るようになった。

 だが高林はそれ以前から外資系生保を買収し子会社化して、国内生保会社の販売する商品の弱点を突く独自の生命保険を販売していた。

 その商品販売の手法がようやく定着し始めた所に、これまで敵視して来た国内生保の商品を扱えと、会社が言い出したのだ。これには当然代理店だけでなく、社員も混乱したという。一部では猛反発もされたらしい。

 当時の社員、特に新人は相当苦労したそうだ。本業での損保商品知識や販売手法を確実に取得するだけでなく、生命保険の商品知識と販売手法の勉強もしなければならなくなったからだろう。

 それだけでも大変なのに、別の保険会社の契約内容も頭に叩き込んだ上で、代理店達に販売して貰えるよう説明する必要があった。その為には社員が代理店に対しこれまで以上の教育、指導をしなければならない。

 その上これまでどんどん作れ、増やせと言われてきた取引代理店数自体を整理する時代へと突入し始めた。要するに業績が上がらない、社員に負担ばかりかけ手間がかかる代理店との取引解消を促し始めたのだ。

 これは仕事の質の変化だけが原因ではなかった。丁度その頃、九〇年代から始まった銀行業界の再編と同様に、損保業界でも多くの会社が合併し始めたことが影響していた。重複する店舗、拠点の統廃合を進めながら、取引先の見直しも行うようになったからだ。

 高林火災海上自身も二〇〇三年に、中堅のワールド火災海上と合併してツムギ損害保険と名称を変えている。吸収合併された形のワールド火災海上も二〇〇〇年に第二火災海上を吸収合併しており、短期間で三社が統廃合したため効率化を進めることは急務だった。 

 ちなみにツムギ損保はその後も二社の中堅損保と合併しており、合理化の推進はいまだに続いている。

 しかし代理店との取引が無くなれば、その分扱う契約が減少してしまう。それを補うために新たな取引先を作れ、または既存の代理店の販売を強化せよと、会社は無茶な指示を出していたらしい。

 ただでさえ長年付き合ってきた取引先との関係を解消する交渉自体、かなりの困難を伴うにもかかわらず、だ。当然首を切られる相手にだってプライドがある。

 かつてはよく頑張ってくれましたと、会社から表彰されたところもあったはずだ。しかしそうした代理店は、高齢化が進んでいた。そこで複雑化する保険設計の流れについていけず、また徐々に販売意欲が減退していった為、契約も年々減少していった。

 そこで会社は生保の販売業務が増えた分、そちらに力を注ぐ為に小さな代理店の首を切り始めた。だが現実問題として、現場ではかなりてこずっていたのだ。

 代理店にとっては入社して間もない孫のような社員から、取引停止などと言い渡されれば、怒るのも無理はない。上を呼んで来い、と担当者はよく怒鳴られていたらしい。

 それでも年間の保険料扱い高が三〇〇万円以下の代理店は整理するよう、上からノルマが与えられていたという。その為社員はやるしかなかったのだ。

 久我埼が最初に配属された京都東支社では、そうした整理対象代理店数が二十近くあったようで、その内の八つが彼の担当だったらしい。

 課長の下に担当を持つ総合職が四名いた事を考えると、明らかにバランスが悪い。新人にそのような仕事を多く配分するのは酷だと、他の事務職達も思っていたという。

 しかし当時の彼は、右も左も良く分らない立場だ。数字が生み出すことを要求されても、それはそれで難しい。その為上からやれと言われたことを、こなすしかなかった。当の本人は目の前の事を片付けることが精一杯で、これはおかしいなどと疑問を持つ余裕などなかったのだろう。

 それでも最初の上司で担当分けを行った支社長は、久我埼が受け持つ整理対象代理店の元へ同行していたようだ。さらに交渉の仕方などを実践し、手本を見せていたという。

 その上彼が困っている時には必ずと言っていいほど間に入るなど、しっかりとフォローしていたらしい。手間がかかるけれど増収に繋がらない仕事の為、数字を増やす仕事を他の総合職に割り当てることで、支社全体のバランスを取ったのだろうと当時を知る事務職は説明していた。

 久我埼は某有名国立大学を卒業していた為、就職難の時代だったが内定を取るまではスムーズで比較的楽に入社できたようだ。しかしその反動なのか、入ってからの風当たりが厳しかったらしい。特に二人目の上司が門脇になってからは、酷いものだったという。

 これは門脇が、第二火災出身の管理職だったことも無関係ではなかったらしい。吸収合併された側の会社出身の管理職が、生き残りの為に成果を出そうと必死になっていたこともあるだろう。加えて旧高林火災海上出身の社員に対するコンプレックスもあったようだ。

 また久我埼の家庭環境が複雑だったことも影響していたという。十歳の時に父親が会社での激務が祟り、四十歳の若さで過労死したらしい。それから母子家庭になったが、労災や死亡保険金のおかげで彼はなんとか進学できたそうだ。

 しかしパートで働いていた母も、彼が一浪して大学に入った途端に脳梗塞で倒れ入院し、長いリハビリ生活が始まった。そこで彼は大学に通いながらどうにか介護していたが、就職活動をし始めた頃から完全介護の施設に入ったらしい。息子の邪魔になりたくないとの母の強い希望によってだという。

 当時経済的余裕はまだあったらしいが、将来の生活費を稼ぐためにお金は必要だ。転勤があるけれども、高給で福利厚生がしっかりしている損害保険会社を選んで入社したのは、経済的理由が大きかったと久我埼は言っていたらしい。

 そんな彼の会社人生の中で最初に受けた大きな試練は、門脇支社島と出会い、苛められ苦しんだことだったのかもしれない。門脇は前任の支社長のような温情など、微塵みじんもかけなかったという。

 それどころか入社三年目ならもっと仕事ができるだろうと、代理店整理に加え数字においてもノルマを課し、毎月月初、二十日、最終と三回の打ち合わせをする度に、きりきりと締め上げていたようだ。時にはお前なんか辞めてしまえ、と罵倒ばとうしていたらしい。

 そんな状況の中、彼は会社を辞められないさらなる事情ができた。入社して四年目の時、母親が脳梗塞に加えて狭心症も併発し、手術したというのだ。入院費などもかかる為、会社を辞める選択肢はなくなり、我慢するしかなかったのだろう

 しかし母親の事もあって仕事に手がつかなくなった彼に、門脇の指導は厳しくなるばかりだった。その為一時ノイローゼになりかけ、医者にはストレスだろうとしか分からない、原因不明の体調不良を起こしていたらしい。

 そんな時にあの事故が起こった。久我埼の担当代理店でトラブルが起きたため門脇が同行し、謝罪しに行った帰りのことだ。行きの社有車の運転は、久我埼がしていた。しかし帰りは彼が体調不良を訴えた為に、門脇が運転していたという。

 代理店でのトラブルは一応落ち着いたものの、頭を下げなければならなかった支社長としては、怒りが収まらなかったのだろう。帰り道の車中で、久我埼を怒鳴りながら運転していたそうだ。

 そこで興奮しすぎたのか、スピードを出し過ぎてブレーキを踏み損ねた門脇は、ハンドル操作を誤り高速道路の壁に衝突した。助手席に座っていた久我埼も、その衝撃で車の外に放り出される寸前だったらしい。

 幸いシートベルトのおかげで命に別状はなかったものの、彼は重傷を負ったという。しかし運転していた門脇は頭部を激しく打ち、病院に運ばれた後間もなく死亡が確認された。

 余りにも詳細な説明に、英美は驚いて尋ねた。すると浦里は十月に長期休暇を取った際、久しぶりに京都へ行ったらしい。、そこで前の部署に顔を出したついでに色々と話を聞き、情報を集めたそうだ。

 彼の説明が一段落した時を見計らい、それまで黙っていた三箇は口を開いた。

「当時の仕事上の環境や背景について、そこまで詳細に聞いたのは初めてだ。今なら少し理解できるが、警察にいた頃に知ったとしても実感が沸かなかっただろう。しかし経済状況や亡くなった門脇に厳しく当たられていたことは、俺達も調べた。当時の社有車の中も、今回総務課長に注意を受けた時と同様で、ゴミが沢山溜まっていたことも、な」

「そうなのか。当時の事故状況を調べた警察は、運転していた門脇支社長がスピードを出し過ぎでコントロールを失った、と最終見解を出した。しかし車内にペットボトルなどが散乱していたことから、ブレーキペダルにそうしたものが挟まって事故になったのではないか、との見方もあったらしい」

「それも知っている。しかし車が大破していたことで、それを証明することは難しかったようだ。しかも助手席に乗っていた唯一の生存者である久我埼の証言が、それを否定した。叱責することで夢中になり興奮していた門脇が、スピードを出し過ぎてハンドル操作を誤ったから事故が起きた、とはっきり言っている」

「だから運転者の過失による事故として、処分されたのか」

「ああ。助手席にいた久我埼も、下手をすれば死んでいたかもしれない大事故だったからな。上司と不和だったとはいえ、嘘の証言をしているとまでは証明できなかったようだ」

「しかし門脇支社長との仲が、相当こじれていたことは間違いないらしい。俺が当時東支社にいた事務職から聞いた所では、怪我が治り出社できるようになってしばらく経った後、久我埼は言ったそうだ。前の支社長の時は自殺したいと思ったほど辛かった。でも次に来た支社長が優しい人だったから、死ななくて本当に良かった、と」

 ここでこれまで聞き役に徹していた古瀬が、話に割って入った。

「意味深だね。でも結局は事故だった訳だし三箇さんが知りたいのは、十年前に一宮で亡くなった美島という人のことじゃないの? その件については、俺も代理店の情報網を使って調べてみた。家内の悠里が当時一宮支社にいたから、彼女にも少し聞いてみたよ。そこでもやはり上司と上手くいっていなかったらしいとは耳にした」

 英美は意外な名前が出たため、思わず尋ねた。

「十年前、悠里さんは一宮支社にいたの?」

「うん。入社して最初に配属されて五年いたんだって。だから美島支社長の件は、それなりに知っているようだった。でも余り良い思い出じゃないから、話したがらなかったけどね」

 そこで三箇が頭を下げた。

「古瀬さんも調べてくれていたんだ。有難う」

「いやいや、三箇さんには世話になっているから。それに昔の話を聞いて、俺も浦里さん達と同様に協力すると言ったからには、少しくらい動かないとね」

「他に何か情報はあった?」

「噂好きな人はどこにでもいるね。しかも社員と違って代理店は地元に根付いているからずっと長い間そこにいるし、一宮支社のテリトリーにある古い代理店のほとんどは、あの事件の事をよく覚えていたよ。でも三箇さんには悪いけど、亡くなった美島支社長はあまり評判の良い人では無かったみたいだね。仕事熱心なのは確かだけど、やはり数字数字と煩い人で、久我埼さんも相当絞られて可哀そうだった、と皆口を揃えて言っていたから」

「それは俺も、あの件を調べている時に知った。ショックだったよ。だからと言って、殺されて良いはずはない」

「でも病死だったんだろ。ウィルスが原因とはいえ、急性心不全だったらしいじゃないか。当時でも管理職はかなり過重労働を強いられていたと聞くし、あまり好かれてはいなかったけど、恨まれて殺されてもしょうがない程酷い人とまでは、誰も言っていない」

「ああ。だから疑わしい人物は、久我埼しかいなかったんだ」

 熱くなり出した三箇を、浦里が宥めた。

「まあまあ、落ち着いて。でもそういえば、さっき聞いた京都時代の話と似たようなことを耳にしたな。確かあの頃も久我埼さんの母親が大変だったらしいって。確か前に起こした心筋梗塞が影響して、心臓の再手術を受けたと言っていたな。幸い成功したらしいけど、助かるかどうかの確率は半々だったっていうから、母子家庭だった彼にとっては相当辛かったはずだよ」

「それは知っている。俺も母子家庭だったからな。あいつの立場で想像したら、辛いなんてものじゃなかっただろう。十五年前の時と同様、仕事に手が付かなくなるのも理解できる。だからこそ邪魔な上司が前のようにいなくなればいい、と考えてもおかしくないんだ」

 そこまで聞いていた英美は、再び尋ねた。

「もしかして三箇さんは、久我埼さんの連続殺人だと考えている?」

 浦里と古瀬も、そこまでは考えていなかったのだろう。ギョッとして彼を見た。しかし首を横に振って言った。

「分からないと言うのが、正直なところだ。可能性がゼロとは思わないけど、証拠が余りに少な過ぎて断定はできない。ただ彼には、動機がある。会社で辛い目に遭っていたけれど、母親の為に決して辞められない事情があった。それどころか奴の気に入らない上司が変わる度に、得をしているともいえる」

「どういう意味?」

「京都の時は重傷を負ったことで加入していた傷害保険や、会社からの労災なども含めた金銭的補償を相当受けた。一宮の時は美島さんが亡くなった後にうつ病と診断されて一年半ほど休職したが、その間の給料は全額近く貰っている。当時の奴の年収なら九百万ほどだっただろう。さらに六年前に大宮SC課の時任ときとう課長が変わった後も三年半という長い期間休職して、恐らく年収一千万近い給与を支給されているはずだ」

「確かにそうだけど、必ずしも得をしているとは言えないでしょ。だって長く会社を休んでいたら、昇給や昇格もしないじゃない。実際入社十九年目でまだ主任でしょ。普通なら課長クラスになって、年収も一千五百万を超えていてもおかしくない年次だと思うけど」

 英美は反論したが、三箇はそれを否定した。

「昇進すれば、その分激しい競争とストレスにさらされるじゃないか。それに浦里が言った通り、久我埼が入社した当時は高林火災海上保険だったけど、それからいくつもの保険会社と合併を繰り返している。そうして今はツムギ損害保険になったが、社内でのポスト争いは相当厳しい時代だったんじゃないか。途中で会社を辞めていった社員もかなりいるだろ。俺は入社して九年目だがその間にも合併しているし、それを機会に退職した社員を見て来たからな」

 浦里が首を傾げながら言った。

「そうした競争から逃れながらも、世間的には高給取りと呼ばれる水準の給与を貰えるなら、それで十分ってことか。確かに久我埼さんは独身だから、母親の為以外にお金の使い道がなかったのかもしれない。だからといって、人を殺そうとするだろうか」

「金の為、母親の為、さらに自分の身を守る為ならやるかもしれないだろう。それに彼の母親も今では痴呆を患い、息子の名前と顔さえ忘れてしまっていると聞く。門脇支社長が上にいた頃は、余りにも辛くて自殺を考えていた、とさっき言っていたじゃないか。しかも母親が痴呆症を発生したのがちょうど六年前、時任課長が増水した用水路に落ちる少し前の事だ。そこから彼は、三年半の長期休職をしている。二度目でしかもそれだけ長くなれば、普通だと復職は難しいと思わないか。しかし彼は会社の規則が認められるぎりぎりまで休み、会社へと戻って来た。それだけ会社を辞められない理由があるとしか思えない。どんなに辛くても、会社にしがみつくしかなかったのだろう」

 それでも英美は異論を唱えた。

「でも久我埼さんは、今でも精神内科への通院を続けているって話じゃない。京都の時は大怪我をしたけど、二人目や三人目の時の休職理由はうつ病でしょう。社内では陰で疫病神や死に神と呼ばれ続けて、自分と反りの合わない上司が次々と事故死したり病死したりしたら、母親の事と重なって精神的にダメージを受けていたとしても不思議ではないよね」

だが三箇は主張を変えなかった。

「廻間さんの言う通り、表向きは皆そう理解をしている。しかしそれが本当なのかが知りたい。俺は疑わしいと思っている。それは何故かと聞かれたら、以前言ったように刑事の勘としか言いようがない。これも同じことの繰り返しになるが、あの時久我埼に事情を聞いた俺の感触だと、あいつは一線を超えた人間の目をしていた。その勘を信じてこの件を調べて見たいんだ」

 浦里が間に入った。

「それは判っている。実は三箇さんが県警にいた頃の噂を、他の警察出身の賠償主事さん達から聞いた。かなり優秀な警察官だったみたいだな。三年間の交番勤務時代に職質などで相当な数の犯罪者を逮捕してきた実績を買われ、異例の速さで刑事課に引き上げられたらしいね。この間は五年目の警察官の勘など、信用できるのか疑わしいなんて言って申し訳ない」

「そうなの?」

 英美と古瀬が驚いていたが、当の三箇は謙遜する事もなく頷いた。

「自分でいうのも何だが、怪しい人物を察知する能力には自信も実績もあった。だから俺は自分の判断に、自信を持っているんだ」

「そのようだな。だから俺も、京都の件について情報を集める気になった。しかしこれからは片手間ではなく、もっと本格的に調べたいと三箇さんは考えているんだな」

「ああ。彼が復職してまだ一年余りしか経っていない。この会社の規定を調べて見た所、彼が今度休職するには同じ病気の場合、二年経たないと休職扱いにならないことが分かった。つまり今はどんなに辛くても会社に居続けるはずだ」

「長期休職ができるようになるまで、後一年弱あるな。要するに我慢できず上司を排除しようとするなら、直ぐにでも動く可能性があるということか」

「そうだ。木戸総務課長が社有車の件で注意したら、彼は三日会社を休んだだろ。それなりにこたえていると思って間違いない。うつ病が詐病さびょうだったら話は変わるが、彼は本当に精神を病んでいると思う。しかし病気の大きな要因の一つは、間違いなく会社生活だ。通常なら、辞める選択をしてもおかしくない。しかし彼には、それができない経済的理由がある。だったらどうするか」

「ストレスの元となる相手を、取り除こうとするかもしれないってことか」

「ああ。幸いこれまで亡くなったりした上司の後に赴任した人は、それまでの経緯もあってか、彼をいたわっていたらしい。それで何とか乗り切れたと、周囲に漏らしている事は確認している」

「まあ噂とはいえ、反りが合わないと大きな災難に巻き込まれるかもしれないと思えば、慎重になるのが普通だ。しかしそんな上司ばかりは続かないだろう。美島支社長や時任課長がそうだった。だけどさすがに木戸課長は気にしているらしいし、それほど厳しく当たっているとは聞いていない。だから今回の件だけで、いきなり行動に移すとは考え難いな」

「ああ。このままなら少なくとも後一年は、大人しくしているだろう。それでもストレスは溜まるだろうから、休職できるとなれば彼は必ずその権利を行使するはずだ。これまで二回経験して、その旨味を知ってしまったからな」

「何故そう断言できる?」

「人間は基本的に弱いものだ。普通にしていても、安きに流れる人はいる。少しでも楽をしようと考えること自体、不自然な事ではない。ましてやうつ病に罹って治療中の患者なら、尚更だろう。しかも彼の場合、母親がいる限り悩みや苦しみは無くならない。そこに来て会社のストレスが加わるんだ。耐えろと言う方が無理だろう」

「だからと言って、木戸課長にわざと厳しく指導するよう仕向けたりはできないぞ。下手をすると、本当に殺されるかもしれないからな。それ以前に、パワハラで訴えられたら終わりだ。十五年前や十年前は難しかっただろうけど、今の時代なら上司が気に入らなければ殺すよりその方が楽だ」

「俺もそう思う。だから六年前にゲリラ豪雨で増水した用水路と道路の境が分からなくなり誤って落ちた時任課長の件は、本当の事故だった可能性が高いと思う。彼はワールド火災出身の管理職だった。だからかその頃は、パワハラされているとの相談を久我埼が人事部にしていたらしい、との噂もあったくらいだ。確かではないけどな。そうした個人情報は、入手することが難しいから」

 ここ数年で、社内におけるハラスメント対策はかなり進んだ。十年近く前から、人事部が相談窓口を設けている。しかし本格的に機能し始めたのはそれから二、三年経ってからだ。それまでは形式上、体制が整えられている程度だったという。

 しかし世間で騒がれるようになり相談者が一気に増加した事などから、会社側も本腰を入れずにはいられなかったのだろう。六年前なら人事部も、親身になって話を聞いていたかもしれない。しかも彼は一度、休職を経験している。さらに二人の上司が亡くなっていることから、軽く扱う訳にはいかなかったはずだ。

 そう考えれば三箇の言う通り、少なくとも三人目の件は事故である確率が高い。わざわざ大きなリスクを冒さなくてもいいからだ。人事による上司への指導が入るか、または配置転換により、厳しい仕事環境から抜け出せることができただろう。

「アリバイはどうなんだ? 前の二人は事故死と自宅での病死だから関係ないだろう。しかし増水した用水路への転落が事故でなければ、誰かが突き落としたことになる。その時、久我埼さんは何をしていたんだ? それも調べたんだろ?」

「もちろん確認した。その時間は既に帰宅していたようだ。関係者達にも聞いてみたが、彼も含めてほとんどは豪雨によって早期退社を指示されていた。最後に会社を出たのが、時任課長だったらしい。最寄り駅などの防犯カメラを確認すれば、それより前の時間に久我埼が改札を通ったかどうか判っただろう。だが警察でもないから、そこまでは調べられていない。だから確実なアリバイがあるかどうかは不明だ」

「じゃあどうする? 三箇さんの勘によれば、十年前の時点で既に人を殺している可能性があるんだよな。だったら一宮の件を再度調べるしかないか。後は十五年前の事も調査の中に入れるかどうかだが、どう思う?」

「念の為二件とも調べ直そうと思う。三件目は場所が大宮と離れているし、ある程度の事は俺も調べたから外そう。他の二件は事故や病死と判断されたことで、捜査が途切れている。だから社員などへの聞き取りが不十分のままだ。しかし一宮はここから近い。それに当時より少なくはなったが、昔の事件の事を知っている社員や代理店はまだいる。それに十五年前の事件も京都だから、先程聞いたように浦里さんの伝手が使えるだろう。だから以前は出来なかった社内からの情報収取ができるかもしれない。あくまで無理はしなくていいけど、もし皆が協力してくれると言うなら是非手伝って欲しい」

 三箇の言葉を受けた浦里が英美と古瀬の顔を見た。二人共頷いたところで、彼が代表して答えた。

「前にも言ったけど、どこまでできるか分からないが協力するよ」

 三箇はそこで頭を下げた。しかし驚くべきことを言い出したのだ。

「有難う。恩に着る。そしてここからが肝なんだが、過去を探っていることを久我埼へリークして貰いたいんだ。もちろん首謀者は俺だといってな。美島支社長の身内だとも言っていい」

 三人とも驚き、浦里が尋ねた。

「どうしてだ? わざわざ知らせる意図は何だ?」

「それは俺が調査していることで、彼に精神的プレッシャーを与える為だ。調べている事を知られても、今更証拠隠滅もないだろう。だが本当に彼が犯人なら、不安に思うはずだ。そうすれば排除するターゲットは俺になる」

「おい、おい、自らおとりになるつもりか」

「そうでもしなければ、尻尾を出さないだろう。殺人だとすれば、これまでの事件の時効は成立していない。だがもう十年や十五年前のことで、しかも警察が事故死や病死として処理済みの案件だ。余程のことがない限り、再捜査なんてされることはない。いや警察の面子にかけて、そんなことはしないだろう」

「それは余りにも危険よ。もし犯人じゃなかったとしても、彼は精神を患っている事には変わりないでしょ。そんな人を刺激して何かあったら、取り返しがつかない。誰も責任なんか取れないわ」

 英美が反対すると、三箇は首を振った。

「いや、責任は全て俺が取る。あいつが犯人でないことが分かったら、俺はここにいる意味が無い。だから会社を辞めるつもりだ。それに間違って殺されたとしても、それは疑った人間が悪い。自業自得さ。それくらいの覚悟はしている。でも安心してくれ。そう簡単に殺されるつもりはない。それに俺は久我埼が人を殺したことのある目をしていたと、確信を持っている。だからこそ考えがあるんだ。作戦通りいけば、必ず俺を殺そうとすると思う」

「そう仕向けて、彼を逮捕させるつもりか」

 浦里の問いに三箇が答えた。

「ああ、そうだ。そして過去の件についても白状するよう、取り調べをすれば奴は自白するだろう。これまでは任意の事情聴取だったし、証拠もないため厳しく問い詰めることが出来なかった。しかし逮捕されて本格的に刑事の取り調べを受ければ、彼の性格なら黙っていられるほどの精神力は無いと思っている」

「それにしても危険すぎないか」

「だがやるしかない。それ以外には、過去の事件のうち一件でも奴が犯人だと決定づけられる証拠を見つけるしかないんだ。しかしそれは難しいと思っている。三人が協力して聞き取り調査をしたとしても、ある程度の状況証拠しか出て来ないだろう」

「だったら調べる意味が無いじゃない」

 英美の言葉に、三箇は反論した。

「いいや。調べている動き自体が大切なんだ。それに重要な情報を得られる見込みはあると思う。だから決して無駄では無いんだ。ただ彼が疑わしいと思われる話を聞けたとしても、それが決定的に殺人を裏付けるものに繋がることは期待しづらい。それが正直なところだ。もしそんなものがあれば、十年前や十五年前の時点で警察が掴んでいただろう」

「なるほど。調べ上げて疑わしいと思われる状況証拠を積み上げることで、彼を焦らすことが目的か。そうやって彼を追い詰めて罠を仕掛け、三箇の存在が邪魔だと思わせ殺人を実行させようと言う狙いなんだな」

 浦里がそう言うと、彼は頷いた。

「ああ。そういうことだ。これは時任課長と同じワールド火災出身である、木戸総務課長の命を守ることにも繋がる。もちろん三人の調査で、思わぬ決定的な証拠や証言が掴めるかもしれない。そうなれば、俺が身を張る必要はなくなるだろう」

「嫌なプレシャーをかけるな。俺達がしっかり調べないと、木戸課長か三箇さんの命が危なくなると脅しているように聞こえるぞ」

「いや、そんなつもりはない」

 激しく否定する覚悟を持った表情を見た英美は、諦めて言った。

「分かった。私達もしっかり情報を集めてみる。でも三箇さんの作戦は決定的な証拠が見つからない場合に限り、最後の手段で使うと約束して。それと勝手に行動する事だけは止めてね。その時は必ず、私達に相談すること。それが守られないのなら、協力は出来ない」

「それは約束する。だから頼む。俺は久我埼が憎い訳じゃない。ただ美島さんの死の真相を、明らかにしたいだけだ。そして久我埼の持つ闇の正体を知りたい。それは信じてくれ」

「信じるよ。だったらまずは、具体的にどうやって情報収集するかを打ち合わせしよう。役割分担を決めた方が良い。京都の件は伝手のある俺が調べる。これまでも聞いたが、もっと掘り下げてみるよ」

「浦里さんが京都の件なら、私達は一宮の件ね。当時の事を知っている社員から、事情を聞くのは私がやる。代理店さんや顧客関係からの情報収集は、古瀬さんにお願いするわ」

「了解。もう少し詳しく聞き込んでみるよ」

「そうしてくれると助かる。二件とも彼が営業職時代に起きた事件だから、SC課にいる俺には繋がりが薄い。それでも俺は俺で昔の事を知っている、SC課と繋がりがある社員を再度探し、確認してみるよ」

「少しでも何か情報が得られた場合は、逐一互いにメールで連絡しよう。情報を共有し合った方が、そこから何かへの繋がりが得られるかもしれない。調査が重なるようなこともなくなるだろう」

「浦里さんの言う通りね。だったらメールじゃなく、SNS上で四人だけのグループを作った方がいいんじゃない。そこに一人が書き込めば他の三人が閲覧できるし、他へ情報が漏れることもないよね。それに一か所に情報をまとめた方が、後で検証しやすいでしょう」

「それはいい案だ」

 そこで新しいアカウントを取得し、四人だけが読めて書き込めるように設定した。そこに聞き込みをした結果や得た話を打ち込み、ある程度の期間の情報を三箇がまとめることに決まったのだ。

 これが後にあのような結末を迎えるきっかけとなり、大きな後悔を産むと分かっていれば、英美は余計な事などしなかっただろう。

 しかしこれまで数々の問題を解決して来たとの自信が、知らぬ間に調子づかせていたのかもしれない。また三箇や浦里に対しての想いが仇となっていたのだろう。

 それが全ての過ちの始まりだったと知った時には、既に手遅れだった。

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