第四章

 七月分の計上も滞りなく終えて、八月も第二週に入った。周囲では夏季休暇を取る社員も増え始め、いつもよりフロアにいる人が少なく感じた頃だ。

 二課の手塚や平畑の件を除けば、一課では仕事も一段落して全体的に雰囲気が落ち突き出した時、別の事件が起こっていた。

 と言っても大した話ではない。フロア共有スペースの給湯室に置かれた食べ物が、再び無くなったのだ。しかし今度は冷蔵庫の中の物ではなく、外に置かれたお土産の洋菓子やせんべいばかりだった。

 それに今回の犯人は、前回注意した新人総合職で無い事は分かっていた。何故なら彼は一週間の若手研修の為に、東京へ出張していたからだ。八月は繁忙期から外れる為、新人だけでなく様々な研修が、ここぞとばかりに入れられる時期でもある。

 では今回の犯人は誰なのかが話題となった。しかも面倒な事に、前回英美達が解決したことから、今回もどうにか探して欲しいと浦里と一緒に頼まれてしまった。もちろん言い出したのは祥子だ。彼女のお願いはなかなか断りづらい。

その為無駄だと思いながらも再び三箇の協力を得て、前回同様食べ物にGPSシールを貼る仕掛けを試したのだ。しかし何故か英美が在席している時間帯には、全く動きが見られなかった。だが翌日の朝会社に出社すると、食べ物は無くなっていたのだ。

 しかも何故かGPSシールが貼ってあると気付いているかのように、包み紙を破って中身だけ取り出されていた。そのことを聞きつけた七恵は、再び騒ぎ出した。

「今回の犯人は、前回の件でGPSシールを貼ったと知っている人物よね。しかも廻間さんが退社した後で無くなっているということは、遅くまで残っている総合職が怪しいわよ。今度こそ、あの死に神の仕業じゃないの」

 何が気に食わないのか、彼女は久我埼の事を目の敵にしているようだ。しかし厄介な事に、その点では三箇も同じだった。だが前回の件を知っているフロアの人間がそんなことをするだろうか。英美は疑問を持った。

 まだこのフロアに泥棒がいると噂が立ち、互いに疑心暗鬼となったからだろう。再びフロアの雰囲気が悪くなりだした。久我埼と三箇の関係も含めて複雑化しているところに、常日頃から中の悪い女性同士が揉め事を起こす度に、

「お菓子泥棒はあんたじゃないの?」

と言い出す始末だった。そんなことが続いた為、早く解決して頂戴と何故か祥子を中心とした業務部の人達から、英美達がなじられるようになってしまったのだ。

「人に解決しろと勝手に任せて置きながら、できなかったらあなた達のせいだと言われても困るよね。余りにも勝手過ぎない?」

 正直腹を立てていた英美は、仕事終わりに浦里と三箇から誘われ入った居酒屋の個室で愚痴を言った。

「まあまあ、そう怒らずに。今の時期、夏季休暇を早めに取り終わった総合職や事務職達が、お土産を買って来ているだろ。他にも研修を受けて帰ってきた人達もいる。だから事務職やスタッフさんが課の人達に配る機会も増えた分、日持ちする食べ物は後回しになって、給湯室に置かれたままのものが多くなった。それらを誰かに盗み食いされたら、さすがに気分が悪いよ。それにただでさえ業務部は、事務職員を中心に人数が多い部署だろ。各自それなりのお金を自腹で払って、お土産を買ってきているからさ」

「だから何よ。浦里さんは腹が立たないの?」

「気分は良くないさ。でも彼女達が神経を尖らすのも理解できるって言っているだけだよ」

「私は全く分からない。自分達が気に食わないことを棚に上げて怒っているだけじゃない」

 そこに三箇が話に割って入った。

「まあ、落ち着けって。言いたい奴には、言わせておけばいい。今回の紛失事件を解決すれば、またすぐに収まるだろう。しかしおかしな事件だな。俺はまたGPSシールを貸してくれと言われたから渡したけど、詳しい状況を聞いていない。俺のいるSC課とは階が違うから、よく知らないんだよ。ちょっと説明してくれないか」

 英美はお菓子が無くなった状況や、今回の作戦が失敗している現状を話した。それを聞き終わった彼は、首を捻りながら言った。

「それはおかしいな。前回の件を知っていて、GPSシールが張られた包み紙を破るのは理解できる。しかしそれをごみ箱に捨てたりはしていない。しかも複数個がそのまま放置されているということは、その場で中身を食べたのか? それも不自然だろ」

 浦里が頷いた。

「言われてみればそうだな。いくら人気が少なくなった夜に食べたとしても、誰かに見られる可能性は高い。中身だけポケットか何かに入れて持ち去った? それもおかしいな」

「え? どうして? 夜、遅くまで仕事をしてお腹がすいた総合職の誰かがいくつか持ち去って、別の場所でこっそり食べているかもしれないじゃない」

「廻間さん、それはちょっと考えにくいな。俺はあのフロアに遅くまで残っている総合職が誰で、どれだけいるかは大体知っている。若手もいるけど、ほとんどは管理職や次席だ。それらの人達が長い間席を外したり変わった行動をしていたりしたら、すぐに判ると思う。でもそういう人達がいたとは全く聞かない」

「浦里さんの言う通りだとしたら、最後までフロアに残っていた総合職くらいよね。でもそうなると誰だか特定できるはずでしょ」

「あの階で一番遅くまで残っているのはたいてい企営一課で、その次が二課だ。いつもではないけど業務課や総務課は、一課や二課より早く帰っていることが多い。でも最後まで残っているのは、だいたい企営一課の課長と次席だ。でもあの人達がそんなことをするとは思えない」

「そう言われればそうかもね。もし総合職の誰かがやったとしても、包装紙を破り捨てて中身だけ取出して食べる人なんかいないか。それにしても不思議よね。先月騒ぎになったばかりだというのに、また起こるなんて普通じゃ考えられない」

 すると三箇が、二人の会話に割って入った。

「ちょっと待て。破り捨ててあったと言ったな。盗まれたのは前回と違い、冷蔵庫の中身のものじゃない。外に出してあった食べ物ばかりだったな」

「そう。この時期だとお土産物が多いでしょ。要冷蔵の食べ物や飲み物以外は、どうしても外に置くしかないの。でもこの暑い時期だから常温保存はもちろん、せんべいだとかクッキーだとか、少しくらい高温になっても大丈夫な物ばかりよ。といってもフロア全体に冷房は入っているし、人が多い仕事場に比べて給湯室はヒンヤリしているからね。外に出していても長い間放置しておかない限り、食中毒になるようなことはないと思う」

「ほう。そうすると犯人は、このフロアにいる人達でない可能性が出てくるな」

「三箇さん、それはどういう意味だ? 別のフロアの総合職だとか、時間外にビルの中へ入ってくる業者だとか言わないよな」

「そうじゃない。給湯室の状況を確認しないと確信は持てないけど、もしかするとそうかもしれない」

 そこで彼の推理を耳にした英美達は、顔を見合わせた。二人には心当りがあったからだ。

「そういえば、最近聞いたばかりの話があるよ」

 そのことを三箇に伝えると、彼は手を叩いた。

「それだ。もしかすると、犯人はそいつかもしれない」

「でもそれならどうする? 盗まれないように防ぐことはできるかもしれないけど、解決にはならないぞ」

「だったら罠を仕掛けて、犯人を捕まえるしかない。万が一に備えて、GPSシールの使い方も変えた方が良いだろう」

「だったら明日の朝にでも、給湯室の周りを見てみるか。そいつが犯人である可能性が高いと分かったら、すぐに準備しておけば夜には動きがあるかもしれない」

「やってみよう」

 そこからは三人で、具体的にどうやるかの打ち合わせを行った。翌日の朝は、他の社員がまだいない早い時間帯に出社した。すると三箇が給湯室の中をじっくりと観察してくれたおかげで、形跡を見つけることができたのだ。これで彼の予想が正しい確率が高まった。そこで前日に話し合った通り、仕掛けを施したのだ。

 GPSシールの動向を見張るため、英美はこれまでと同様机上にスマホを置いていたが、前回ほど注視しなかった。なぜなら動くとすれば昼間ではなく、退社した後の夜だと考えていたからだ。

 思っていた通り、英美が仕事を終え会社を出るまで、その日一日中動きは無かった。この後は会社から離れる為、GPSの動きが把握できる範囲から外れる。だから犯人が捉えられるか否かは、明日の朝出社してからでないと判らない。

 翌日の朝、眠い目をこすりながら二日続けて早起きをした英美は、会社へと向かった。フロアに着いて給湯室へと向かうと、既に三箇と浦里が待っていた。そこで尋ねた。

「おはよう。どう? 罠にかかった?」

 だが二人は首を横に振り、三箇が答えた。

「駄目だった。用心深い奴らしい。でもGPSシールを仕掛けた菓子の一つが無くなっている。だから廻間さんを待っていたんだ。持っている携帯でどこにあるか、見て貰えるかな」

 そうだった。GPSに位置を把握するアプリは、英美のスマホにしか連動していない。確認するには、それで見るしかなかった。

「ちょっと待って。今、起動させるから」

 ポケットから取り出し、アプリを立ち上げた。半径三十メートル以内であれば感知するはずだ。しかしそれ以上遠くへ移動していた場合は捉えきれない。

 だが三箇は反応するだろうと予想していたようだ。すると一つのGPSが、給湯室から離れた場所に移動していることが判った。

「やっぱり反応したな」

三箇が嬉しそうに呟いたけれども、浦里は画面を覗きながら首を捻った。

「確かに移動はしているけど、これだとどこにあるかよく判らないな。この給湯室からほんの少ししか動いていないだろ。でも見たところ、この近くには無い」

「おそらくこの上か下か、どちらかに移動したんだろ」

「でもこれだとおそらくお菓子だけ食べて、シールは持ち去った場所に放置されているだけじゃないか。まさかシールごと食べたとは考えにくい」

「食べた奴の腹の中にGPSがあるなら、捕まえることができるかもしれない。だけどそれはさすがに無理があるな」

 二人の会話に苛立った英美が、思わず言った。

「冗談を言っている場合じゃないでしょ。三箇さん、この後どうすればいいの?」

「そんなに怒らないでくれ。まずは上の階に行ってみよう。GPSがどう反応するか、しっかり見ながら階段を上がれば、少しは居場所がわかるかもしれない」

「だったら早く行こう。他の社員が大勢出社してくる前に見当を付けておかないと、変に騒ぎが大きくなっちゃうわよ」

「そうだな。下の階は三箇さんのSC課があるフロアだから後の方が良い」

 浦里の賛同も得て、三人は階段へと移動しながらGPSの位置を確認した。同じ場所から動かなくても、近づけば画面の反応が変わるはずだ。八階で見た時は、同じフロアにあると思えなかった。 

 九階へ上がると、まだ八時前だと言うのに数人の総合職が出社していた。これは早く発見せねばならない。英美達は焦りを覚えながらGPSの反応を見る。すると明らかに八階にいた時とは異なっていた。場所は給湯室の近くと変わらないが、より近づいたようだ。

 九階のフロアも下とほぼ同じ配置である為、給湯室からそれほど離れていない場所で点滅している。そこで八階には無かった小さな扉を見つけた。おそらくビルの壁の内側にある、配管などを点検する為に設けられている入り口のようだ。

 念の為開けてみようと試みたが、鍵がかかっていて扉は動かない。しかし明らかにこの向こう側から、GPSシールが信号を発しているようだ。

「これはビルを管理している会社に連絡をして、開けて貰うしかないね。もしこの扉の向こうに菓子を盗んだ犯人がいれば、捕まえないといけない。だけどおそらく別の配管や抜け道を通って、既にどこかへ逃げてしまっている可能性が高いな」

「でもこれでGPSシールを発見できて、周りに毛や糞があったりしたら間違いないよね。そしたら管理会社にお願いしていくつかの場所に罠を仕掛けるか、捕獲してもらわないといけないでしょ」

「それだけじゃなく、どこかから侵入して来たことは間違いないから、他に穴があるはずだ。それを塞ぐことも言っておく必要がある」

「しかし驚いた。犯人が動物だったなんてね。しかもここの近くで飼っていて逃げたペットかもしれないわけでしょ」

「それはこの扉を開けてみないとはっきり分からない。それにもし逃げたペットだとすれば、飼い主にも相談して環境省の事務所にも連絡しないといけない」

「その辺りの事も含めて、管理会社の人に相談しなきゃ」

「でもこの時間だと通じないよ。九時を過ぎないと連絡はつかないはずだから」

「だったら俺が後で電話しておくよ。うちのフロアで起こったことだから、三箇さんがかけて話すよりいいだろ。それに古瀬さんにも相談しないといけないから」

「まだ逃げたペットだと確定したわけじゃないけど、お願いするよ。どちらにしても後は、管理会社に動いて貰うしかない。俺達が排気口だとか、配管されている場所に入って探す訳にも行かないだろう」

「だったら、一旦は解散でいいのかな。九時になるまでやることはないでしょ」

「他に仕掛けたGPSシールの菓子や、罠の回収くらいかな」

「それもこっちでやっておく。じゃあ管理会社と連絡がついて話がまとまったら、三箇さんにも報告するよ。今はそれぞれの部署に戻ろう」

 そうして英美達は階段で下に降りた。その後浦里はビルの管理会社へ連絡を入れる前に、総務課へ経緯を説明しに行った。支店ビルの管理なども総務課の管轄だから、耳に入れておいた方が良いと判断したのだろう。

 比較的早く出社していた総務課長は、フロアで菓子が紛失し続けている件を知っていた為、話は早かった。まさか犯人がビルに侵入した動物だとは思っていなかったらしく、とても驚いていたようだ。

 しかし古瀬の客が逃がしたペットかもしれないことは、伏せておいたらしい。まだ確かではなかったからでもあるが、もしそうだった場合は騒ぎが大きくなる。

 そうなれば、古瀬も松岡さんも困るだろうと考えたからだ。というのも逃げ出した動物は、基本的に飼育が禁止されているアライグマだからだ。

 日本では一九七十年代に流行したアニメの影響もあり、大量のアライグマが輸入されて全国各地で飼われたと聞く。しかし実際飼育してみればイメージとは大きく異なり、特に成獣となれば気性が荒くなって、なかなか人に懐かないことが判ったという。

 さらには手先が器用なため、しっかり施錠をした設備でないと、すぐに脱走してしまうらしい。要するにペットとしては飼い易いと言えない動物だった。

 そこで手に余った飼い主達は手放そうにも処分に困り、山などへ捨てたそうだ。またアニメ同様、動物は自然に帰して暮らした方が幸せだという風潮も、そうした行動を後押ししたという。

 そこで問題が起こった。雑食でとても繁殖力の強いアライグマは、瞬く間に日本各地で増加し、野性化したものが在来種の生態系を壊し始めたのだ。

 しかも田畑などの作物までも食い荒らす被害が多発したらしい。その為二〇〇五年に特定外来生物として指定され、特別な許可がない限り飼育はもちろん、譲渡や輸入も原則禁止となった。

 ちなみに松岡宅では、正式な手順を踏んで特定外来生物飼育等許可申請を作成し、環境省の中部地方環境事務所に提出していたらしい。昔から雄雌で飼っていたアライグマの子供やその孫といった形で、代々飼育していたようだ。

 それでも厳しく管理できることが条件の為、高い塀に囲まれた一階の中庭に頑丈なゲージを設けていた。その飼育施設の図と写真、敷地内における施設の位置や近隣地図などの資料を揃えた上で、申請書を提出しなければならないという。

 それを受けて審査が行われ、許可が下りるようだ。それなのに逃亡を許してしまったのだから、大事になっては困るだろう。しかも特定外来生物として害獣扱いされている動物だ。近所の眼もあり逃がしました、探してくださいと簡単に広められる話ではない。

 下手をすれば今後許可を取り消され、飼えなくなってしまう恐れもあった。といって放っては置けない。その為口の堅い一部の人に話し、もし見つけたならば教えて欲しいと頼んでいたのだ。

 そうした事を古瀬から聞いた英美達が三箇と話している内に、もしかして菓子を盗み食いしている犯人は、逃げたアライグマではないかと思いついたのだ。

 そこで彼は犯人が動物ならば良いだろうと、菓子の中にGPSシールを埋め込む作戦を考えた。もちろん社員達が間違って口にいれないよう、“食べてはいけません”と大きく注意書きを添えて置いた。そうすれば、文字の読めない動物しか持っていかないからだ。

彼が給湯室を念入りに見た結果、天井の一部に穴を見つけていた。そこで刑事時代に受けた鑑識の研修で学んだらしい知識を活用し、動物らしき毛を見つけ確信したという。

 さらには動物が食べたにしては、包装紙のはがし方があまりにも丁寧だったことから、手先が器用で人間に飼われていたアライグマなら可能だと判断したようだ。

 基本夜行性のアライグマなら、夜になってから食べ物が無くなっていたことに納得がいく。そこで菓子を餌にした罠も用意していた。しかし残念ながら、用心深い犯人には逃げられてしまったようだ。

 それでも別の場所に置いておいた、GPSシールを仕込んだ菓子は持ち去られていた。そしてそれが九階の扉の向こうに落ちていることを発見したのだ。

 おそらく点検の為に人が入れるスペースだから、落ち着ける程度の広さがあるのだろう。もしかするとそこを一時的な住処にしているかもしれない。

 菓子を盗んだ犯人は、まさしく動物的な勘でGPSシールを貼った包み紙を、その場で綺麗にはがして捨てていた。だが中に埋め込まれていた事までは気付かなかったらしい。

 菓子を落ち着ける場所まで運んでから食べたのだろう。そこで中の異物に気が付き、吐き出したかそれだけ残したと思われる。その場所を英美のスマホに仕込んだアプリが探し出したのだ。

 浦里は念のため課に戻ってから課長にも報告した後、九時過ぎに管理会社へと連絡をした。後に総務課からもフォローを入れて貰ったようで、話は順調に進んだ。

 その日の内に管理会社の人が、九階の扉を開けて中を確認したらしい。そこにはGPSシールの他に、アライグマのものと思われる毛や糞が見つかったと言う。

 そこでしかるべき措置を取った。侵入したと思われる一階部分にあった小さな穴と八階の天井の穴を塞いで逃げ場を無くした後、各場所に罠を仕掛けたのだ。

 すると次の日の朝、罠にかかったアライグマを捕獲したとの連絡が浦里の元に入った。管理会社の担当者による説明では、狭く限られた空間だったこともあり、よく通っていると思われる個所がすぐにいくつか見つかったらしい。そこに罠を仕掛けた所、簡単に捕まったという。

 そこで古瀬に連絡を入れ、顧客へ逃げたアライグマかどうかを確認して貰ったそうだ。捕獲している管理会社の元に訪れたその客は、直ぐに自分達が飼っていたものだと判ったらしい。

 念のため環境事務所へ連絡し、必要な手続きを済ませた後返されたという。無事戻って来たことと比較的穏便に済んだことで、客は相当喜んだと聞いた。

 古瀬が感謝されたことは言うまでもないが、本部長のところまでお礼を言いに訪れたらしい。それを聞いた浦里と課長の土田が慌てて本部長席に飛んで行き、事情を説明したそうだ。

 しかしこのことは只の捕り物話では済まなかった。人との縁はどこと繋がっているか判らないものだと、後に痛感させられることになる。

 二回目の給湯室における紛失事件を解決したおかげで、英美達の社内的評判は高まった。だが社内でのドタバタは、これで治まらなかった。トラブルは起こり出すと、連鎖反応しているかのように重なる時がある。まさしくこの時期がそうだった。

 今度は社内不倫の噂が出始めたのだ。その内容は同じフロアの業務課の課長が、同じ業務課の独身女性事務職に手を出しているとの話だった。課長は既婚者なので、事実だとすれば明らかに不倫だ。

 そんな厄介事に英美達を巻き込んだのは、やはり業務課副長の祥子だった。これまで八階で起こった諸問題を解決してきた実績を買われ、三度みたび協力要請をしてきたのだ。彼女は言った。

「こういう噂が流れると、仕事がし辛くなるの。業務課は女性が多い部署だから、普段でもそれぞれ仲の良いグループ間で様々な小競り合いが起こって面倒なのよ。そんなところにこれでしょ。だから事実確認も含めて、しっかり調査したいの。事実であれば部長に報告を上げて、しかるべき処置を取って貰う必要がある。だから手伝ってくれないかな」

 英美は抵抗を試みた。

「それなら部長が本人達を呼んで、そんな噂があるけれど実際はどうなのかと確認すればいい話だと思いますけど」

 しかし彼女は、呆れた顔で首を横に振った。

「そんなことは、とっくにやっているわよ。でも本人達が頑なに否定しているの。部長も確たる証拠がないから、そう言われると誤解を生むような行動は慎むよう今後注意するように、としか言えなかったみたい。でも噂はまだ消えずに残っている。だから困っているのよ。お願い。外部の人を雇って調べる訳にもいかないから、あなた達の知恵を貸して欲しいの」

 紛失事件同様、彼女の頼みを断ることはなかなか難しい。といって社内で調べられる事は限られる。既に部長から注意を受けているのなら、否定している本人達も社内での行動は慎重になるはずだ。 

 単なる噂であれば、それでいい。例え真実だとしても、周囲から疑われ注意も受けたから、関係を終わらせてくれれば良いと思う。

 しかしそれを確認することは困難だ。もし関係が続いていたとしても、社内でいちゃつくような真似は、さすがにしないだろう。そうなれば、調査する場所は社外しかない。つまり勤務時間外だ。

 といって毎日尾行し、彼らの退社後の行動を追うような真似などさすがに出来ない。そこまで労力をかけられないし、土日の休みを利用して会っているとなればお手上げだ。

 そこで頭を悩ました英美達は、助っ人を呼ぶことにした。それが古瀬だ。彼なら土日に限らず、営業で外回りをしている時間が多い。同じく営業で外出している浦里より、ずっと行動範囲も広いはずだ。 

 しかも顧客に加えて他の代理店からの情報を含めれば、かなりの捜査網を構築できる。これが営業に関わる社員なら、こちらからお願いしなくても噂の真相はすぐに分かるだろう。

 代理店や顧客は、どこで見ているか分からない。二課の手塚の時がいい例だ。彼の場合は金遣いが荒かった事と、パチンコ店やギャンブル場に出入りしているとの情報も、外から伝わってきた。

 しかし今度の相手は、内勤である業務課の課長と事務員だ。代理店や顧客と直接絡む機会が少ない為、二人の顔を知っている人はごく限られている。

 よって手塚の時のように、多くの目撃情報を得ることは期待できない。その点を補うために依頼したのが古瀬だった。彼なら浦里との打ち合わせで、八階には何度も足を運んでいる。その途中で業務課を覗いて二人の顔を見ることは、それほど難しくなかった。

 その上社員の不倫が事実だったとしても、口が堅く信用ができる。下手に噂を広めるようなことはしないだろう。そう考えると、彼は今回の調査に適任だった。

 そこで浦里は彼を応接室に呼び出し、英美も同席の上で事情を説明して協力を仰いだ。しかしさすがの彼も、喜んで手伝いましょうと言える案件ではない為、やや返事を渋っていた。

 それでも日頃から世話になっており、アライグマの件を解決した浦里や英美の頼みだからと、ようやく頷いてくれたのだ。それでも首を捻りながら彼は言った。

「でもさ。話は判ったけど、具体的にはどうするの? 俺もお客との約束があったり、事故が起こったら駆け付けたりするから、尾行し続けるのは無理だからね。それにその二人の顔を確認して、スマホに写真を撮っておくのはいいよ。でも他の親しい代理店仲間だけならともかく、それをお客さんに見てもらって、見覚えがあるかなんて聞けないでしょ」

 当然の疑問に、浦里が答えた。

「そんなことはしなくていいよ。ただ噂による目撃情報から分析して、会っているとすればどのあたりで出没するか、どの時間帯かを推測するしかない。そこを重点的に調べる方が、効率はいいと思う」

「でもずっとそこで見張っている訳にもいかないでしょ。どうやって浮気現場を抑える?」

「ホテルにでも入っていく瞬間を捕えれば、言い逃れもできないだろうから一番いいけどね。それが無理なら、夜に二人で会っている現場さえ押さえればいい。一度注意を受けているから、本部長に報告ができる」

「呼び出して注意はしたんだよね。会社のパソコンとかは調べたの? 俺が研修生の時代、本社のシステム課かどこかで、私用メールかどうかチエックしているから、おかしなことは書き込むなって注意を受けた気がするけど」

「多分だけど、確認はしていると思う。でも注意だけで済んだと言うことは、会社のパソコンを使っていなかったんじゃないかな。連絡は個人の携帯メールか、SNSを利用していたんだと思う」

「そうしたものを提出させて、見たりは出来ないのかな」

「さすがにそこまではプライバシーの侵害だから、出来なかったはずだよ。古瀬さんだって、奥さんの悠里さんに携帯を見せろと言われたら困るんじゃない?」

 浦里の軽い冗談に、古瀬は胸を張って言い返した。

「悠里は絶対携帯を覗いたりしない。付き合っている頃から、そんなことをしても良いことが無いと言っていたからね。それに見られたって、困ることなんかないよ。俺は彼女一筋だから」

「それは失礼しました。御馳走様です」

 浦里のふざけた口調に英美もつられて笑ったが、古瀬が話題を戻した。

「でも呼び出されて注意を受けているんだから、これ以上はまずいと思って、関係が切れている可能性もあるんじゃないの?」

「そうだといいけどね。でも板野さんが見ている限りだと関係が本当なら、そう簡単に別れるような感じではないらしい。限りなく黒に近いグレーだと言うんだ。それで俺達に相談が回ってきたわけさ」

「それにしても、色んな社員がいるね。といっても一つのビルに千人以上いて、男女比もほぼ半々か女性の人数が多いくらいでしょ。不倫だとか恋愛話は、今までにも何度か聞いたことがあるけど、それもしょうがないのかな」

「社内恋愛だったらまだいい。それでも時々こじれて、男女共に部署を異動させられるケースがある。でも不倫は明らかに問題だ。保険会社も客商売だからね。外聞が悪いと会社の業績に関わってくる」

「会社が大きくて部署もたくさんあるから、問題があると判れば人事異動させて、丸く収めることができるからね。定期的な異動って代理店の立場からすれば、嫌な総合職の担当者や上司に当たってもいずれ変わると諦めがつくから良いよ。でもその逆もあるんだよな。浦里さんや廻間さんのような人達が担当者だと、異動されたら困る。ずっとこのままでいて欲しいと思っちゃうから」

「嬉しいことを言ってくれるけど、確かに担当総合職と事務職との相性は、代理店さんにとっても重要だと思う。会社としてはできる限り担当者が変わっても、一定のレベルは保つよう指導しているけど、結局は人と人の関係だからね。そう簡単にいかないのが現状なのは、俺達も理解しているつもりだよ」

「相性以前の問題だってあるからね。二人が一課に来る前、俺が研修生に採用されたばかりの担当者は、やたら威張っていて嫌だったな。その癖他のプロ代理店には、媚を売ったりしちゃってさ」

「そういうタイプの社員はいるね。やたら研修生出身のプロ代理店には厳しくて、そうでない代理店に弱いんだよ。ある程度対応が変わるのは止むを得ないと思うけど、極端な人っているから」

「あれって完全に強者に弱い分、立場の弱い人には強く当たる、典型的な苛めの構造だよ」

「担当に当たりはずれがあるのは認める。それはしょうがない。俺達社員だって上司や同僚は選べないし、担当代理店も合う、合わないってあるけど選べないのと同じだ。上から割り振られれば、そう簡単に担当変更なんてしてもらえないから」

 話が脱線し始めたので、英美は話題を戻した。

「そんなことより、今はどうやって二人が会っている所を捉えるか、が問題だったんじゃないの」

 古瀬が慌てて言った。

「そうでした。で、どうすればいいのかな」

「目撃証言があったのは、会社から歩くと二十分はかかる離れた場所にある飲み屋だ。それと近くにあるホテルに入っていったという話もあるけど、本当かどうかは分からない」

 浦里が告げたその場所を聞いて、古瀬は納得していた。

「あの辺りなら、社員の人達がよく使っている地下鉄の東山線や名城線からは外れているね。知っている人と会う可能性は低いけど、それほど会社から離れていない。帰りも少し離れた所に鶴舞線の駅がある。そこから移動して他の駅で乗り換えれば帰宅しやすいし、密会していてもばれ難いな。でもそんなところをよく見つけたね」

「でも既にこれだけ噂が広まったのなら、同じ場所は使わないんじゃない?」

「廻間さんの言う通り、最近はその辺りでの目撃情報が無いらしい。だから関係が続いているとしたら場所を移したんだろう、と皆言っているようだ」

「その後、他の場所で見かけたという噂は、浦里さんの耳に入ってきてないの?」

「そこまではまだ聞いてない。でも今までの関係からすると、バレかけているからかなり離れた場所へ移すかと言えば、そうじゃないと思うんだ。古瀬さんならどう考える? 思い切って全然違う離れた場所を選ぶ? それとも場所は違うけど、やはり会社からは適度に離れていて、社員とは会い難い場所があったらどう思う? しかもホテルが近くにあって、帰りもこれまで通り別の路線で乗り換えできる場所があれば、そこを選ぼうとしないかな」

「そんな都合の良い場所があるなら、そこを使うと思うよ。遠くだと、ばれる可能性は低くなるけど面倒だよね。比較的楽に会えて楽しめるから、不倫なんて続けられるんじゃないのかな」

「やっぱりそう思うよね。実は三箇さんにアドバイスを貰って、二人で考えたんだ。そこで目撃情報があった場所と似た条件の場所を探してみたら、ここが怪しいと思われる場所が見つかった」

 確かに浦里が告げた住所は、言われてみればこれまで二人が会っていたと噂されている場所と条件面が合っていた。さすが元刑事の三箇だ。目の付け所が違う。しかも彼なら英美同様ずっと名古屋周辺で暮らしている為、浦里より土地勘があった。だが念の為尋ねた。

「私も直ぐには思いつかないけど、そこ以外にはなかった?」

「もしかすると俺達が気付かなかっただけで、他に条件に合う場所があるかもしれない。でも二人で調べた限り、ここしかなかった」

「でも今後調べる必要がある場所を、特定できたと仮定してもね。それからどうやって、逢引の現場を抑えればいいの? 三箇さんから、そう言ったアドバイスは貰わなかったの?」

「もちろん教えて貰ったさ。でもその裏技を使う前に、その住所の周辺で目撃されているかどうかを知りたい。やたらと使える手ではないから、まずそこで間違いないか特定したいんだ。そこで古瀬さんには口が堅いと言う条件が付くけど、お客かその辺りをテリトリーにしている代理店の知人がいれば、情報を収集して欲しい」

「まずその周辺でどちらか一方でも見かけたという情報があれば、浦里さんや三箇さんの方で何とかできる、ってことでいいのかな」

「それでいい。お願いできるかな」

「ここまで話を聞いておいて、やらない訳にはいかないでしょ。でもしばらく時間を貰えないかな。デリケートな個人情報だから、扱いには気を付けるから」

 古瀬はそう約束してくれ、部屋を出て行った。

 それから一週間が経った頃、彼から業務課長と業務課の女性の目撃情報を得たと連絡があった。しかし残念ながら、二人同時にいた写真や動画などの証拠は取れなかったらしい。

 それでも目を付けていた界隈でいたことに、間違いはないとのことだった。どうやら二人の関係は、残念ながら続いていたと考えられる。それを受けて、今度は三箇が動いた。

 彼は人身事故専門だったが、単独事故なども含む物損事故で厄介な案件の示談交渉を担当する、技術アジャスターに協力を仰いだという。それが浦里の言っていた裏技のようだ。

 その内容は、新たな目撃情報があった近辺で起こった全ての事故を調べ、いくつかの条件に当てはまるものを全てピックアップすることだった。まず逢引している夜間の時間帯に起こった事故で、かつ事故状況を詳細に調べる必要があるものに絞られた。

 今や自動車事故が起こると、保険会社はコンビニやコインパーキングにならまず設置されている防犯カメラや、個人の持つドライブレコーダーで撮影された動画の提供を依頼することが普通になっている。

 なぜなら運転者同士の主張だけでは、事故状況が食い違うケースがあるからだ。そこで実際に起こった場面が写っていれば、過失割合などで揉めることが少なくなる。三箇はそうした状況を利用し、事故を口実に映像を集められると考えたらしい。

 もしそこに偶然でも二人一緒に歩いているところが映っていれば、言い逃れはしづらくなる。彼らは部長からの詰問に対し、これまで二人きりで会ったことは無く、今後もそのような誤解をされる行動を取るつもりはない、と答えていたからだ。

 そこでその証言をくつがえす映像や写真があれば、彼らの嘘を証明することが出来る。そうなれば会社としては、実際肉体関係があったかどうかなど関係ない。疑われる行動を取っていたことさえ明らかにできれば、異動や懲罰の対象にすることが十分可能となるからだ。

 本部長に報告すれば、まず総合職である業務課長は、どこかへ異動することになるだろう。女性事務職にも配置転換など、何らかの処分が下るに違いない。

 結果膨大な映像を入手したSC課で半月ほどかけて分析した所、二人が腕を組んで歩いている姿を捉えた瞬間の映像が発見されたのだ。おまけにラブホテルへ入っていく姿まで写っていたらしい。

 それを聞いた時、英美は正直ゾッとした。最初裏技の説明をされた際は、そんなに上手くいかないだろうと思っていたからだ。しかし実際に映像をかき集めたところ、街も含め走る車など至る所にカメラで撮影された動画が、想像以上に存在することを知った。

 携帯の普及で、マスコミに代わってあらゆる人が事件や事故と遭遇した際の瞬間映像を撮影できるようになったことは理解できる。だが人が歩いているだけの場面を、どんな場所でも撮られているとは思わなかった。

 防犯という名の元に、プライバシーというものがどんどんと失われていく恐怖を感じた。とはいうものの、その成果によって得た証拠を手にした三箇や浦里達は、祥子を通じ本部長へと報告した。

 結果予想していた通り、業務課長は後に北海道の外れへと転勤した。さらに女性業務職も、名古屋ビルから離れた部署への異動を命じられたのだ。

 話によれば、本部長は別々に二人を呼び出して直接状況を確認したという。そこで逃げられないと悟った二人は、正直に白状したらしい。

 よって課長は異動を受け入れたが、女性事務職はこれ以上会社にはいられないと、退職願を出したのだ。しかし話はそれで終わらなかった。

 後日談だが単身赴任で北海道へと飛んだ課長を、会社を辞めた事務職が追いかけたという。やがて二人は同棲を始め、結局課長は本妻と離婚したらしいとの話が英美の耳にまで届いたのだ。

 どちらにしても、この頃からまたしてもビル内で起こった問題を解決したことで、浦里や三箇、そして英美達は本部長を始め、周囲から評価され始めた。

 しかし逆にこの事を機に、妬みや恨みを買うことにもなった。出過ぎた杭が打たれるのは、どこの会社でも起こりえるようだ。英美達は一部の社員から、余りにも踏み込み過ぎだと非難され、結局人の家庭をぶち壊しただけだと陰口を叩かれるようになった。さらには孤立する場面もあったのだ。

 英美達は会社生活の中で最も大変なのは、社外との関係ではなく社内での人間関係だということを、改めて思い知らされる一件となった。

 それでも悪いことばかりではなく、良いこともあった。それは例のアライグマの一件から派生した事で、業務部の不倫問題について探っている最中の事だった。

 飼い主である松岡は名古屋ビルの近くに古くから住んでおり、ご主人が会社経営していると聞いていたので、それなりに裕福な家だとは知っていた。

 しかし単なるお金持ちではなかったらしい。以前浦里も訪問した松岡さんのご主人は、名古屋でも有名な企業の取締役を兼任しており、とまりという社長の伯父だったそうだ。

 また驚くことに、泊の企業と取引がしたい為、長年企業営業一課が働きかけていたようで、本部長自ら訪問したこともあったという。 

 しかし他社との繋がりが深く、これまでなかなか入り込むことが出来なかったらしい。しかも他社扱いの契約の一部は、例の緒方の代理店で扱っていたようだ。

その為会社としては、緒方を通じてその企業への工作の後押しをお願いしていた。そうした背景もあり、彼を邪険にすることは名古屋支店だけでなく、本部としてもできなかったらしい。

 そのことが緒方を調子づかせ、当社に無理難題を吹っかける横柄な態度に繋がっていた要因の一つになっていた。古瀬との件について、第一支社が一課に対し強気に出てきたのも、そうした背景があったからだという。

そんな時に古瀬や浦里達の機転により、松岡取締役宅で起こった問題を解決した。しかもただのペットではなく、代々大切に飼ってきたアライグマの子孫だ。松岡家では相当感謝していたらしい。

 そのお宅がさらにもっと大きな企業の社長と繋がりがあったことなど知らない古瀬にとって、このことは寝耳に水だったのも無理はない。

 泊社長自身までが、役員でもある伯父がお世話になったと本部長にお礼を述べに来店したらしく、そこから話が大きく発展していった。これまで本部長が何度か訪問していたこともあり、泊社長はこれを機に、仕事上でのお付き合いを始めたいと言ってきたらしい。

 どうやらタイミングも良かったという。先方の会社も事務の効率化など無駄を省くよう取り組む中、契約している保険の契約や窓口も一つにまとめた方が良いと考えてはいたそうだ。

 契約している保険会社は同じでも、扱い代理店がバラバラで契約ごとに担当者が異なっていることを問題視し始めていたという。それでも他に優先順位が高いものがあったため、ずるずると後回しにしてきたらしい。

 しかし今回の件が何かの縁と捉え、今度こそ会社の保険全体を見直して、既存の保険会社と相見積もりを取ると本部長に告げたそうだ。

 それだけではない。条件の良い会社と契約することを優先するが、もしツムギ損保が負けた場合でも、何割かは非幹事として参入させると約束してくれたらしい。

 幹事とは、事故があったり契約内容に変更が起こったりした際の窓口となる会社を指す。それに対し非幹事は、そうした手続きをしないが一定割合の保険料を頂く分、保険金が支払われる場合は割合に応じて責任を持つのだ。

 例えば一千万円の保険契約において、七対三の割合で幹事が七とする。その場合非幹事は三割に当たる三百万円の保険料が、幹事会社を通じて振り込まれる。

 万が一事故により一億円が幹事会社から契約者に支払われた場合、非幹事会社は三割分の三千万円を幹事会社へ支払うことになるのだ。こうしておけば、契約者からすると窓口は一本化したままだが、実質二社と取引していることになる。

 この場合の利点は、もし幹事会社が何か失敗した際や良い提案があれば、非幹事会社が契約をひっくり返すことも出来る点だろう。そうして競い合わせることで、企業の環境変化に合わせ、より適した提案を得ることが可能となるのだ。

 これはツムギ損保にとって、願ってもない大きなチャンスだった。例え幹事が取れなくても、割合はともかく最低でも非幹事としての新規参入が約束されているのだ。これまで積み重ねて来た、新規開拓における営業努力が実ったと言って良い。

 ただ扱う保険料が大きい企業であり契約内容も複雑なことと、元々営業をかけていた企業営業一課の仕事になる為、英美達や古瀬など一課で扱うことにはならない。しかし功績はある程度認められる分、それこそ社内的な補正数字を要求できると考えられた。

 ここで慌てたのは、これまで取引していた損保会社だ。バラバラになっていた契約を一本にまとめる話が出ただけでも、社内における扱い代理店の調整が必要だ。その中には緒方も入っている。先方の窓口は、同じく企業営業を主に担当している部署だという。

 まとめるとなれば、契約の多くを保有している大規模の代理店を扱い窓口にせざるをえない。よって緒方のような代理店は、外される公算が高かった。それでも社内的な調整で、代理店分担の要求はできるだろう。

 代理店分担というのは保険会社の幹事、非幹事と考え方は同じだ。幹事となる代理店が保険料を預かり、事故処理や事務手続きを行う。そして割合に応じて、他の代理店と保険料とその責任割合を分担するのだ。

 しかし緒方は、今まで通りの契約保険料を手にすることが出来なくなる。なぜなら幹事が、ツムギ損保になることもあり得るからだ。

 そうでなくても契約の何割かは、ツムギ保険扱いになることが決まっている。よって今まで扱っていた損保会社から、同じ契約保険料分を代理店分担で要求するなど、不可能になってしまう。

 それだけではない。バラバラの契約を一本化しまとめ、証券を一枚にするだけでなくビッド、いわゆる競争入札で保険料をより安く抑える提案がなされるはずだ。そうなればこれまでより、取り分が減ることを覚悟しなければならない。

 そこから問題はさらに拡大した。なんと緒方は減るだろう自分達の取り分を、ツムギ損保が得る取り分から、代理店分担で戻して欲しいと依頼してきたのだ。

 これにはさすがの本部長も激怒したらしい。当たり前だ。これまでなんとかその企業への足掛かりを作ってくれと散々お願いしてきたにも拘らず、先送りにされていた。しかもその企業の契約一つさえツムギ損保に切り替えてくれなかったのだから、どの口が言うかと憤慨したという。

 この話は、相手損保側からも契約者の耳に入ったらしい。というのも古瀬が緒方から奪った奥様のご主人が経営する松岡氏の会社は、今回の大口契約者の関連企業でもあったからだ。

 そこで緒方の悪評を奥様から聞いた松岡社長は憤り、全面的に古瀬へ契約を移すと通告したという。そこでツムギ損保と緒方との関係は逆転した。

 契約をまとめる際、資本関係が強い関連企業を含めるケースは多い。そうすることでリスクは分散し、保険料をさらに安く見積もることが可能だからだ。

 というのも所在地が離れ点在している建物一つとっても、火災保険でいえば一斉に火災に遭うリスクは同じ敷地内にある場合と比べて当然低くなる。その為一本化することで別々に契約するよりも保険金を支払う金額や確率が低くなる分、保険料を抑えることが出来るからだ。

 ツムギ損保側の窓口である企営一課も、古瀬のことを無視できなくなった。彼に切り替えると言った松岡社長の意向を汲み取れば、泊社長の会社契約を一本化する際に大きく影響する。

 幹事が取れなくても松岡の関連企業の契約保険料分は、ツムギ損保の取り分だと主張することができるからだ。よって俄然と古瀬の影響力が増した。

 それに相反して、勝手な言い分を押しつけて来た緒方の評価はさらに下がった。本部長も怒らせ、大口契約者からも三下り半を突き付けられたのだ。取引を停止しても良いとまで、名古屋支店長は言い出したらしい。

 泊社長や松岡社長達の会社契約をまとめれば、少なくとも一億円は軽く超える保険料だという。その一部でも獲得できるならば、緒方からもらっている保険料分が無くなったとしても、お釣りがくる。その後の事を考慮すれば、面倒な取引先と縁を切る良い機会だとも判断されたようだ。

 そこで困ったのは、緒方を担当している第一支社長の田辺と担当の唐川だった。本部長や支店長、そして企営一課の課長にも泣きついたという。どうか穏便に済ませて欲しいとお願いしたらしい。

 もちろん古瀬の担当部署である一課の土田や、担当者の浦里にも頭を下げたようだ。これまでの横柄な態度とは一変し、最後まで平身低頭だったという。

「プライドを捨てて、あれほど豹変できるのはある意味、営業職の鏡だろう。でも俺だったらああはなりたくないけどね」

 浦里は後に当時の様子を思い出しながら、英美に教えてくれた。そこで彼に言った。

「それほどまでして守らなければならない数字って、なんだろうね。もちろん会社は慈善事業じゃなく、利益を上げなければならないことは理解できるよ。でも今回の事って、契約を頂くお客様側に立っての話じゃないでしょ。揉めたのは全て内向きの話で、自分達の保身の為としか思えない」

「そう。緒方さんは自分のプライドと、代理店収入を守るための行動だったからね。ただプライドは別にしても、会社経営者として企業の収益を確保する為に取った行動という意味では、間違っていると言い難い。やり方が悪かったとは思うけど」

「でも田辺さんや唐川さんは、間違いなく保身の為じゃない」

「確かに。それも営業職についたサラリーマンの悲しいさがだろう」

 この件は結局本部長達が怒りを鎮め、緒方との代理店契約はそのまま続けることを了承した。

 その代わり泊社長の会社契約の件はもちろん、松岡社長関連の契約分が全て古瀬に移行することに口を出さないと約束させた。その為代理店分担はせず、契約者の意向を第一優先することを互いに確認したのだ。

 後にビッドによる契約で、残念ながらツムギ損保が幹事を取ることは叶わなかった。それでも非幹事で三十五%分を獲得でき、取り分の収入保険料は五千万円を超えたらしい。

 社内ではその多くを企業営業一課の代理店扱いとしたが、松岡社長の関連会社相当の五百万円ほどは、古瀬に代理店分担された。その為他にも緒方が扱っていた松岡家の個人契約も含め、古瀬は大きな手数料収入を得ることが出来たのだ。 

 保険の始期は様々な契約の関係上十二月一日付となり、手数料やその他成績が入るのも下期後半にはなった。しかし大きな増収分が早期に見込めることが確定したため、企営一課や営業一課は本部長からお褒めの言葉を頂いたのだ。

 懸案だった古瀬と緒方の問題だけでなく、他部署の難問を解くこととなったこの一件で、英美や浦里、三箇や古瀬の四人の評価はさらに高まった。

 こうして様々な問題が起こり解決していく中、彼らとの距離がさらに縮まったことで、英美が持っていた胸の内も変化していった。それは浦里と三箇に対する気持ちだ。

 どちらも同じく頼りになる男性だと思う気持ちが、これまで以上に強くなったからだろう。しかし二人共同じ位気持ちや距離が近づいた分、どちらの方がより魅力的かと問われると困ってしまう。

 そこで現実に戻った。相手がどう思っているかを無視し、自分勝手な事ばかり考えている自分が急に恥ずかしくなる。だがそろそろ、自分の気持ちに蹴りを付けなければならないとも思い直す。

 もう若くない自分が今後独身のまま、この会社に奉仕し続けようとは思いきれていない。やはり心の奥で、まだ結婚を諦めていなかった自分に少し驚く。

 そう考えると、これからの人生を共に歩くことができると思える人物は、今の所目の前にいる二人だ。これまでは、比較的親しい男性職員として接してきた。だが一連の問題が起こった事がきっかけとなり、彼らを異性として意識し始めるようになったことは確かだ。

 しかしまだまだ問題はこれで終わらなかった。それが後に大きな事件へと繋がることなど、この時英美は想像すらしていなかった。

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