第八章

 会社へ出社した際のフロアの雰囲気は、これまでと全く異っていた。当然皆は七恵の事など知らない。ただ十五年前の事故について、久我埼が意図的な殺人を行っていたことを認めた話だけが伝わっていた。

 だからだろう。他の二人については否認していると聞いても、久我埼が三人とも殺したに違いないと決めつけるような空気が流れていた。

 もちろん事件の事は新聞やニュースで扱われただけでなく、週刊誌などで連続殺人事件か? とよりショッキングな記事が書かれた影響もあったに違いない。

 しかしそれだけでは済まなかった。本来被害者である三箇の出過ぎた行為が非難され、会社から追い出そうとする動きが出始めたのだ。なぜなら彼が余計な真似をしたせいで、会社から逮捕者が出たからだという。

 つまり彼が過去の事を調べ始めなければ、久我埼も精神的に追い込まれる事もなかった。そうなれば、そのまま事故死や病死で済んだ話までほじくり返されることも無かったというのだ。会社としてはイメージダウンを被った。

 しかも警察を辞め転職して来た理由は過去の事件を調べるためだったと言うのなら、もう用はないだろう。だったら会社を辞めて貰ったらどうか、と言い出す人達が多く出た。特に管理職辺りでは真剣にそうしたことが話合われているようだ。

 もちろん彼を手伝い、過去の件を調べていた英美や浦里に対する風当たりも強くなった。本来業務を疎かにしてはいなかったはずだけれど、業務外の事をしていたことが非難され、陰口を叩かれるようになったのだ。それを聞いた三箇は、会社を辞めるかもしれないと言い出し、英美達は困惑した。

「そこまでする必要は無いでしょう。会社の人達も余りの出来事に困惑して、そんな馬鹿な事を言い出しているだけだから。しばらく大人しくしていれば、いずれ治まるはずよ。浦里さんだってそう思うでしょ」

「そうさ。組合だってあるんだ。こんなことぐらいで三箇さんを辞めさせるなんて、会社としてもできないよ。それに俺達への悪口だって、言わせておけばいい。廻間さんの言う通り、時間が経てば静かになる。だからそんなことは気にしなくていい」

 二人して彼に、はやまった行動はするなと忠告をしていた。だがその矢先、事態はさらに悪化した。二月に入ると七恵が突然出社しなくなり、そのまま退職したのだ。

 おそらく三箇が言っていたように、警察が本格的な捜査に乗り出し、彼女に事情を聞き始めたのだろう。ウィルスが同じものだったかどうかについては、情報をもたらした三箇さえ聞いていないという。部外者だから捜査に関するものは教えられないとのことらしい。 

しかし彼の推測によると、一致したことは間違いなさそうだ。そうでなければこのタイミングで、彼女が会社を辞める理由など見当たらない。

 あるとすれば警察からのしつこい任意での事情聴取が続いたからに違いなく、それを知られたくないが為に会社を去ったのではないかと言っていた。

 つまりウィルスが一致しなければ、警察も彼女にそこまで関わるはずがない。おそらく彼女だけでなく、夫に対する取り調べもあったはずだと予想していた。

 だが彼女の退職が、三箇や英美達への非難に拍車をかけた。おそらく管理職の一部は、警察が動いていることを知っていたのだろう。その為会社からすれば、英美達がいらぬことをしたから、と思われているらしい。

 そうこうしている内に訃報が届いた。なんと七恵が自宅のマンションから落ちて亡くなったと言うのだ。恐らく自殺だろうとの話が飛び交っていた。

 七恵の葬儀に出た英美達は、同じく参列に訪れていた祥子や加賀、そして以前電話で七恵の事を尋ねた佐藤からも話を聞き、少しずつ事情が分かって来た。

三箇から情報を得た警察は、七恵の旦那、柴山たかしが十年前に罹った病気は美島と同じデング熱だったことを突き止めたらしい。彼が入院していた病院では、当時のウィルスを保管していたのだという。 

 四類感染症に指定されているウィルスの為、研究や予防対策として一定期間保管されることが多いらしい。そうしたことから美島の体をむしばんだウィルスも、当時司法解剖した病院に残されていたようだ。この二つの遺伝子を比べて見た所、見事に一致したという。

 そこで警察は七恵や隆への取り調べの他、英美が行ったように彼女の昔を知る祥子や加賀、佐藤からも事情聴取をしていたらしい。七恵の死後は英美や浦里、そして三箇も再び警察から話を聞かれた。 

 彼女達から仕入れた話を総合すると、七恵が一宮支社へ配属されて三年目の四月に美島が上司としてやってきた後、セクハラやパワハラを受けていたことは間違いないようだった。

 当時支社の中で一番下だった七恵は、会社から家が近かったこともあって事務職の中で誰よりも早く事務所に入り、机を拭いたり来客用のお茶を出したり、湯呑みを洗ったりしていたという。

 支社ではコーヒーメーカーが設置してある為、基本的に社員の飲み物はお金を入れて自分で入れることになっていた。マイカップを使う人もいたが、それらを洗うのも美島が来るまでは個々でやっていたそうだ。

 しかし彼が赴任して来てから、美島の分は何故かスタッフや事務職の若手である七恵が洗うようになったらしい。その事を事務職の先輩達が注意することもできない空気だったようだ。そんな状況が続き、彼女は苦痛に感じていたのだろう。

 それでも我慢できたのは、当時地元自動車メーカーに勤めていた柴山隆と付き合っており、その年の十二月末には寿退社する予定だったからだった。その事は前の支社長に事前報告をしており、了承も得ていたという。

 だがその支社長が、三月末で転勤してしまった。そこで引継ぎされているとは思いながらも五月半ばに行われた個別面談の際、七恵は美島に改めて告げたそうだ。

 しかし彼はおめでとうと祝福するどころか、怒り出したらしい。

「その事は前任の支社長から聞いている。でも君はまだ会社に入って三年目だろう。それなのに結婚するからもう辞めると言うのか。しかも年末の忙しいこの時期に、十二月支給のボーナスを貰ってからだって? 君は最初から腰掛けのつもりで、この会社に入社してきたのか。その男とはいつから付き合っていて、結婚すると決めたのはいつだ」

 予想外の剣幕に彼女は慄き、震えながら答えたという。

「け、結婚することは、会社に入った後で決まった事です」

「付き合いも入社後だというのか」

 ここで嘘をつくこともできたのだろうが、彼女は正直に答えたようだ。

「い、いえ。交際は大学時代からしていました」

「だったらいずれは結婚して、会社を辞めるつもりだったんだな」

「さ、最初からそう決めていた訳ではありません」

「なんだ。結婚するつもりはなかったとでも言うのか」

「そ、そういう訳でもありません。結婚できたらいいなとは思っていました」

「つまり最初から、会社で長く働くつもりはなかった。そういうことじゃないか。うちへは結婚するまでのつなぎで入社したことになる。それがどういうことか分かるか。会社が入社して間もない君達に、他の一般企業と比べて高い給料を支払っているのは先行投資なんだ。最初の数年は教育期間で、その後戦力となってくれることを見込んでいるからなんだよ。実際そうだろ。今の君は他の事務職と比較して、戦力になっているかい? 違うだろ。日頃から先輩達に仕事を教えてもらいながら、なんとかやっていけているんじゃないのか。それをなんだ。少なくとも丸三年から四年働いて、ようやく事務職としての仕事が一通りできるようになる。それからさらに経験を重ねて、一人前になっていくんだろ。それを君は途中で投げ出し、給与分ほど働いていない時期にボーナスまで貰って辞めるつもりなのか。共働きでは駄目なのか? 結婚相手はそれだけ給与が高い相手なのか?」

 七恵は正直なところ、入社する前からキャリアを重ねて働くつもりなどなかったらしい。だから腰掛と言われても言い返せなかったという。ツムギ損保に入社したのも初任給が他の企業よりも高く、地元でもここに入れば一目置かれるから志望したそうだ。

 それに婚約者の柴山は、地元で有名な自動車メーカーに勤務しているとはいえまだ若い。給与もそれほど高いとは言えず、七恵とそう変わらないか福利厚生を考えるとむしろ安かったらしい。その為結婚するかもしれないと意識し始めた時、共働きすることも考えてはいたそうだ。 

 しかし彼の実家は比較的裕福で、土地も所有していたことから将来的に経済的な面で困ることはなさそうだと判ったらしい。しかも彼が長男だったことから、早く子供を産んで欲しいと彼の両親が望んでいたという。

 彼自身もできれば仕事を辞めて、家庭に入って欲しいと言っていたそうだ。その為結婚を機に退職することを決断したという。それだけではなく、七恵自身も入社してから覚えることが多すぎる為ついていくのがやっとだったらしい。

 さらには代理店との付き合いも大変だったことから、早く会社を辞めたいと考えるようになっていたそうだ。特に美島が来てからは、強くそう思うようになったという。それを美島自身は理解していなかったようだ。

 といって七恵もそこまで内情を話すつもりはなかった。辞めるのもまだ半年以上先の事であり、結婚式を挙げる日程がまだ定まっていなかったことも理由の一つだったらしい。それでも目安として、来年の春頃には式を挙げるつもりだったという。

 そこで後任人事の事もあるからと、退職するならできるだけ早く報告しておくものだと諸先輩方から聞いていたため、前の支社長に告げた。それなのに赴任したばかりの美島支社長から、怒りを買う羽目になったのだ。

 答えられずに下を向いて黙っていると、その態度が余計に彼の機嫌を損ねたらしい。

「おい。聞いているのか? 妊娠はしていないんだろ? 今年の十二月末にどうしても辞めなければいけない理由が無いなら、最低でも再来年の四月末までは働いてくれ。それまでに入籍を済ますのは自由だ。それぐらいの融通は効くだろ。後四、五年働けと言っているんじゃない。本当はそう言いたいところだが、それでも入社して丸四年だ。会社としてはこれからと言う時に辞められるんだから、大きな損失だよ。分かるか?」

 余りの興奮状態に逆らえず、七恵は仕方なく了承したそうだ。

「そうか。では結婚退職する意向は聞いた。ただし退職は再来年の四月ということで決定だ。それくらいの時間的余裕があれば、後任人事も支店長や本部長にお願いしやすくなる」

しかしその後、美島が退職を一年以上先延ばしさせようとしたのには、管理職として困る理由があった為だと判った。二年余りで事務職が辞めた場合、後任はかなりの確率で新人になる可能性が高くなるという。

 そこで少しでも勤務実績を長くさせてから辞めさせることができれば、後任は他部署で少なくとも三、四年の勤務実績のある事務職を獲得できる確率が高まる。そう考えていたらしい。

 確かに丸四年勤務してきた事務職が辞めるのに、また一から教えなければいけない新人が来たのでは支社として厳しい、と上に訴える口実になるだろう。そんな裏の事情など知らないまま、七恵はすぐに会社を辞められそうにない事を婚約者に告げたそうだ。

 すると当初は渋っていたものの、そんなに早く辞められては困るとの会社側の理屈も判らなくもない。そう言って彼の両親達は、少しの間だけ共働きになるのも致し方ないだろうと、理解を示したという。

 しかし退職する予定時期を告げていた人達には、先伸ばしとなったことを隠していたらしい。そこから七恵にとって地獄が始まった。どうせ辞めるのだからと美島からはぞんざいな扱いをされ始め、パワハラとセクハラが酷くなったそうだ。

 当初は言葉によるものだけだったという。使えない奴はさっさと辞めてしまえと罵倒するのが口癖だった美島は、七恵が結婚退職する事を報告した後は、

「そんな程度の仕事しかできないならもう二、三年働いてもらうぞ」

と脅されるようになったらしい。セクハラに関しても、

「若い子にお茶を出して貰った方が、気分良いからね」

という程度から徐々にエスカレートし始め、

「生理中だから仕事が遅いのか」

とデリカシーの欠片もない発言までしたそうだ。さらには、

「昨日の夜は、婚約者と遅くまで励んでいたのか? だから眠そうにしているのか」

「彼氏は余程のテクニシャンなのかな。今日も疲れた顔をしているけど、適当にしなよ」

などと悪質化する中、とうとう言葉だけでは済まなくなったという。

「今夜は彼氏とデート?」

との質問に、七恵が違いますと答えると

「だったら、たまには俺の相手でもしてくれよ」

と飲みに誘うようになり、それを断ると今度は仕事絡みで外に連れ出そうとしたそうだ。

 支社長ともなれば、時々大型代理店の店主や企業のキーマンなどと飲んだり、休日でもゴルフをしたりと取引先に対して接待することがあった。そうした場に担当の総合職が同席させられることも時にはあるようで、計上担当の事務職も誘われることが稀にあった。 

 だが美島は担当外の取引先との接待でも七恵に声をかけ、飲み会でもてなすことを強要し始めたというのだ。それを断れば通常業務中の当たりが強くなり、機嫌が悪かったという。その為彼女も三回に一度は了承するようになったらしい。

 それが後に大きな間違いだったことに気付かされる。最初の頃は代理店や支社長に酌をしたり、下らない馬鹿話に付き合ったりして愛想笑いするだけで済んでいた。飲み会が終わればその場で開放して貰っていたそうだ。

 しかし徐々に接待が終わった後でも、簡単に帰らせてくれなくなった。今日は手伝ってくれたからと猫撫で声を出したかと思えば、もう一軒行こうとしつこく誘うようになったそうだ。断れば次の日の仕事がし辛くなる。その為嫌々ながら、付き合っていたという。

 そんなことが数回続いた後の事だ。夜遅く二人きりになることを警戒していたが、慣れ始めて油断していたのだろう。代理店との接待が週末で、七恵は仕事の疲れが溜まっていたことも災いした。気付いた時には酷く酔っぱらい、足元が覚束おぼつかなくなってしまったという。

 後で考えると、お酒に睡眠導入剤でも入れられていた可能性があったらしい。意識を取り戻した時には、ビジネスホテルの一室と思われるベッドの上で、裸にされていたというのだ。

 もちろん抵抗はしたが、男の力には敵わない。結局なす術もなく、肉体関係を持ってしまったという。その後美島は口止めをした。

「婚約をしていて、結婚も決まっているんだろう。こんなことをしていたと知れば、捨てられるかもしれないな。だから今日の事は二人だけの秘密にしよう」

 ここまでの話は七恵が自殺をする前、警察による取り調べを受け始めた頃、夫の隆にも告白した内容らしい。隆はそれまで全く知らなかったと言う。

 しかし七恵は自殺する直前まで受けていた事情聴取によると、セクハラされていたことは認めたが、隆のかかったウィルスと美島の体から採取されたウィルスのDNAが一致したと追及されても、自分は何も知らないと、頑なに関与を否定し続けていたらしい。

 けれども隆の前で告白した内容は、全く違ったようだ。彼女は美島に殺意を抱くようになったという。だが人を殺すと言ってもそう簡単ではない。

 そんな時、同じ支社で働く総合職の久我埼の話を思い出したという。前の職場で上司が事故を起こし、本人も大怪我をしたらしい。と同時に運転していた上司が亡くなったのは、彼がその人を嫌い呪っていたからだとの噂も耳にしていた。

 さらに美島は彼との相性も悪く、普段では七恵以上に厳しい叱責をされていた。つまり今の久我埼にとって美島は以前亡くなった上司と同様、居なくなって欲しい存在のはずだ。

 もしまた美島が何らかの原因で亡くなったとしても、七恵より彼が疑われる可能性は高い。そう考えた彼女は、美島を殺す機会をうかがっていたという。

 そんな時、隆が仕事で東南アジアに出張中、蚊に刺されデング熱に罹ったのだ。その為帰国途中に発症した彼は、空港についてすぐ隔離病棟へ運ばれ高熱を出した。

 一時は命の危険も危ぶまれている状況にまで陥った。七恵はまだ身内で無かった為、見舞いもしばらくの間できなかったらしい。しかし彼を苦しめるウィルスが手に入れば、それを使って美島を痛い目に遭わせることが出来ると考えたようだ。

 丁度その頃、美島は夏季休暇を使って家族旅行で東南アジアへ行くことを聞いていた。それなら現地で蚊に刺され、隆と同じデング熱に罹っても疑われはしないと思ったのだろう。そこで病状がまだ落ち着く前の隆に、彼の両親を通じて手紙を出したそうだ。

 その内容は、心から病状が良くなることを祈っているというお見舞いとともに、彼の口から菌を採取し、保存して外へと持ち出せるようにして欲しいとの依頼も併記したという。

 唾液のついたティッシュを着替えの差し入れ時に紛れて渡し、真空パックできる袋にいれるよう彼女は彼に頼んだらしい。隆はその手紙が意図することを良く理解できなかったが、取り敢えず言われた通りにしたそうだ。

 着替えを交換する際に看護師達の厳重な警戒を突破し、彼女への返事の手紙の中に同封して渡したと証言していた。その菌は七恵の手により、冷凍保存され保管されていたらしい。

 その後他の人が旅行先で購入してきたお土産の菓子に綿棒で菌を塗り付けたものを、帰国した美島の机の上に置いておけば、必ず口に入れるだろうと考えたそうだ。

 彼女は重症化すれば死に至る可能性があることを知っていたものの、本気で殺す気はなかったという。現に隆は無事症状が落ちついて退院もした。しかし熱に苦しむ彼の様子を知っていたこともあり、それぐらい美島も苦しめばいいと思っていた事は確からしい。

 けれども問題はそこからだ。予想を超えた事態が起こった。体調不良で会社を休んだ美島が、突然自宅で急性心不全により死んだとの連絡が入ったのだ。その上死亡原因がデング熱を発症するウィルスによるものだったと判明した。

 その為七恵は恐ろしくなり、何も知らない振りを貫き通そうとしたという。その結果、警察や保健所などが立ち入り検査をしてもウィルスは見つからず、感染源もどこか不明のまま結局美島は病死と判断された。

 そこで七恵は行動に出た。新しく赴任した支社長に告げ、当初は十二月末に辞める予定だったが、美島支社長に無理やり変更させられたと訴えたのだ。もちろんその前の支社長からは了承を得ていることも併せて告げたらしい。

 すると次に来た支社長は、以前いた支社長から事実を確認してくれたという。そして予定より遅れはしたが、翌年の六月に退職することを了承したそうだ。

 おかげで十二月末に退職して春頃結婚すると七恵が告げていた人達には、婚約者が病に罹ったので予定より時期が遅れたと言い訳し、事なきを得たらしい。そして寿退職することに成功して、無事彼と式も挙げられたという。

「会社を辞めた頃の彼女は、とても生き生きとしていました。よほど仕事が辛く、そして結婚生活を楽しんでいるのだと思っていました。しかし実際は少し違ったようですね。自殺する前の告白によれば、あの忌まわしい思い出のある会社から離れられ、安心したのだと言っていましたから」

 警察の事情聴取での隆の証言に、刑事達は質問した。

「だったら何故奥さんは、同じ会社に再就職をしたのでしょう。それ程嫌な思い出のある場所だと言うのに、おかしくありませんか?」

「もちろん仕事を始めると決めた時は、別の会社を選んでいたようです。しかし給与や待遇面などを考えると、妥協できなかったのでしょう。なまじ損保会社の好待遇を経験してしまっていたからかもしれません。そこで同じような好条件で他損保も受けたようですが、採用されなかったと聞きました」

「それでも以前いた会社は、避けようとするのでは?」

「何度も面接を受け、落ち続けることに疲れたのでしょう。そこで止む無く前にいた会社の面接を受けた所、すんなりと通ったようです。ツムギ損保では中途退社した社員の再雇用を積極的に促進していたからでしょう。そのことは彼女も最初から判っていたと思います。だからそれは、最後の手段だと考えていたのでしょう」

「そもそも奥さんが、働きに出ようとしたのはどうしてですか。嫌な思い出のある会社に勤めてまで、外に出たいと思ったのは何故でしょう。経済的な問題ではなさそうですが」

「はい。共働きをしなければならない程、私達の生活は困っていませんでした。しかし彼女が会社を辞めたのは、私や私の両親が早く子供を産み子育てに専念して欲しいと望んでいたからです。しかし妊娠しなかった為、彼女は早期から不妊治療をしていました」

「そのようですね。しかしその原因は奥様ではなく、ご主人の方にあったと伺いましたが」

「はい。妊娠できない辛さに耐え切れなくなった彼女は、私にも検査を受けるように言ったのです。医者からの勧めもあったと聞きました。そこで念の為にと調べた所、私は精子形成障害だと診断されたのです。原因は恐らく結婚前に罹ったデング熱で、長い間高熱を出したからではないかと言われました」

「それでどうされたのですか? こちらでも調べた所、形成障害というのは妊娠し難いけれど、絶対できないとは限らないそうですね。ご主人の場合はどうだったんですか」

「私も医者からそのように言われましたが、まだ二十代の内から不妊治療を行い苦しんできた彼女には、我慢できなかったようです。これ以上時間やお金を費やし、出来るかどうか判らない子供を無理に作る必要は無い、と思ったようです。そのことは彼女のご両親からも言われたため、私や私の両親も諦めるようになりました」

「原因があなたにあるから、それでも産もうとは言い出せなかったということでしょうか」

「そうです。治療を受けているにも拘らず妊娠しない彼女に、私の両親は多少の皮肉を言っていたことも影響したのでしょう。その反動で頑なに拒否されてしまいましたから」

「子供を産むことを諦めたから、奥様は外に出て働こうとされたのですね?」

「それもありますが、私に対する当てつけもあったのでしょう。今は入社して十年経ち給与もそれなりに上がりましたが、婚約した当初は若干彼女の給与の方が良かったくらいです。中途入社してもそれなりに長く働けば、いずれ私と同じ位の収入が得られるようになる。そう考えていたのかもしれません。現に彼女が働きだして五年程ですが、少しずつ近づいていることは確かですから」

「それは奥様が離婚を考えていて、経済基盤を作るためだったということですか?」

「そうではありません。子供を産めないと虐げられていた状況から脱しても、専業主婦だと私の稼ぎに頼っている立場は変わらない。それが許せなかったのだと思います。いざとなれば経済的にも自立できる、と主張したかったのでしょう。特に私の両親に対する想いが強かった。それだけ不妊治療している時期、彼女の心を傷つけてしまったのだと思います」

「なるほど。だから少しでも給与の良い再就職先を望んだ結果、以前勤めていた会社を選んだのですね」

「はい。私も最初は驚きました。以前勤めていた時は、相当辛かったと聞いていましたから。それでも時代が少しずつ変わり、会社側の仕事環境も改善されていたようです。また以前はまだ若かったけれど、年齢を重ねたことで彼女も精神的に強くなっていたのでしょう。仕事は大変だけど昔ほど酷くないし、何とかやっていける自信が付いたと言っていました」

「そんな奥さんの様子が変わったのは、いつからですか?」

「去年の六月を過ぎた頃です。後で分かったことですが、彼女の働いている名古屋ビルの同じフロアに、以前勤めていた部署で一緒だった久我埼という人が異動してくると、人事異動発表で知ったからだと思います。急に落ち着かなくなり、何かをぼんやり考えている事が多くなりました。会社へ行きたくないとも言い出したのです」

「それは、どうしてだと思いますか」

「今となれば、昔の事を思い出したからでしょう。それまで隠し通し、記憶の中から消し去っていたことが蘇ったからだと思います。特に酷くなったのは、年末にさしかかった頃でした。私は例年通り忙しい時期だから、苛々しているのだと思っていました」

「しかしそうでは無く、久我埼が逮捕された為だった。そうですね」

「はい。これも彼女が告白してくれて、判った事です。それ以前に久我埼という人の上司が過去に三人も不幸な目に遭っていて、本当にただの事故や病気だったのかを調べ始めている人達がいたからだとも聞きました。彼女は十年前に私が罹ったデングウィルスを使って、かつての上司を殺したことがバレないかと心配したのでしょう」

「そして久我埼が、三箇という人物に対する殺人未遂で逮捕された。そこで十五年前に起こした事故も意図的に起こした事故だと自白しましたが、十年前と六年前に上司が変わった件には関わっていないと主張した。それが奥様の自殺に繋がった、とお考えですか」

「そうとしか思えません。警察も彼女を疑い出し、実際当時の事情を何度も聞きにこられていたでしょう。刑事さん達は、私の所にもこうして度々呼び出したり、訪問したりしてきたじゃないですか。彼女はもう隠せないと思い、会社を辞めた上で私に過去の過ちについて話してくれたのです。それを聞いた私は恐ろしくなり、自首を勧めました」

「その時奥様は、何と言ったのです?」

「少し考えさせて欲しい、と。そう言った次の日に、彼女はベランダから飛び降りたのです」

「しかし、遺書はありませんでしたね」

「発作的なものだったのではないでしょうか。自首しようかどうか、思い悩んでの結果だったと私は思います」

「これは繰り返しになりますが、その時間あなたは丁度会社から帰宅したばかりだったと言っていました。間違いありませんか」

「はい。私が部屋に入り、ただいまと言った後の事です。彼女からの返事がなく、不審に思っていたら窓の開く音がしました。こんな冬の時期に妙だと思ってリビングに行くと、ベランダに面した窓が開けっ放しでした。そこで嫌な予感がして外に出ましたが、誰もいないので身を乗り出し、マンションの下を覗いたのです。そうしたら、真下に人の倒れている姿が見えました。まさかと思いましたが、暗くて彼女かどうかも判りません。ですからしばらくは、部屋の中に彼女がいないかと探しました。しかしどこにも姿がなかったので、コートを着て恐る恐る下まで降り外に出ました。すると彼女と思われる服を着た女性が頭から血を流して倒れていたので、救急車を呼んだのです」

「いつ奥様だと分かったのですか?」

「救急車が到着してからです。それまで近くに寄る勇気が無く、まだ彼女だとは確信できませんでした。しかし救急隊の方にご存知の方ですかと聞かれ、自分の妻かもしれないと答えたところ、確認して欲しいと言われました。怖かったのですが、彼らに付き添われて近づき顔を覗くと、彼女だと分かりました。その時既に亡くなっていると教えられたのです。また警察が来るまで、待つように言われました」

 その後駆け付けた警察が、ベランダから飛び降りての自殺ではないかと見たようだ。冬の夜の寒い時にベランダに出る用事などまず無いことから、事故である可能性は薄いとされた。

 しかし同時に外へ出ている人もいなかったので、彼女の飛び降りる瞬間を見ていた目撃者も見つからないという。

 その為警察では、第一発見者の夫が突き落したとも疑っていたようだが、その証拠はまだ見つかっていないらしい。争ったり抵抗したりした様子も無かったようだ。

 隆による証言により、自殺に追い込んだのは警察による取り調べや過去に犯した罪の意識だけではなく、過去の件を調べ出した英美達がきっかけだったとの噂は、たちまち社内に広がった。

 退職した時でさえ、相当非難を受けたのだ。それが自殺までされたとなれば、会社として黙っておけなくなったのだろう。英美と浦里は、この四月に別の部署へと異動になるだろうと告げられた。

 英美は事務職であり、転居を伴わない異動対象者だ。その為名古屋ビルからは、間違いなく出される。他なら豊田支社か春日部支社へと移ることになるだろう。他に一宮支社があったけれど、異動理由が理由だけに、そこは外されるだろうと思われた。

 しかし浦里の場合、全国どこに行くか分からない。今回の騒ぎの責任を問われ、地方の小さな支社へ飛ばされる可能性も十分にあった。幸い古瀬に関しては、七恵の退職や自殺に影響はなかっただろうと判断され、口頭注意処分で済んだ。

 問題だったのは、三箇が責任とって退職すると言い出した事だった。そこで顧客との飲み会があり都合のつかなかった古瀬を除き、英美と浦里は居酒屋の個室に三箇を呼び出し、必死に止めた。

 しかし彼は首を振り、頑として聞かなかった。それどころか英美達に対し、土下座までして謝ったのだ。

「本当に申し訳ない。俺が調査協力を頼んだから、こんなことになった。いくら謝っても、取り返しがつかない事をしたと思っている。だから俺は責任を取り、辞めるしかないんだ」

「何を言っているんだ。手伝うと言ったのは俺達だ。嫌だったら、何もしないこともできた。調べたのは俺達の意思だよ」

 浦里の言葉に、英美も頷いて言った。

「そうよ。私だって三箇さんが美島支社長の死に納得がいかなくて、警察を辞めてまでこの会社に来た執念が理解できたから、協力したの。だからあなただけの責任じゃないよ。それに四人で協力したからこそ、ただの病死では無かったことが判ったんじゃない。久我埼さんが人を殺した事のある目をしていたという三箇さんの勘も、当たっていた事が証明されたでしょ。私達がしたことは、悪いことじゃない。ただ真実を明らかにしようとしただけよ」

 しかし三箇は、項垂れたまま言った。

「真実を明らかにすれば、全てが許されるわけじゃない。今回の件で、俺はそう痛感した。悲しい犠牲を伴う可能性やその覚悟も、考慮しなければいけなかったんだ。感情のままに動いていたからだろう。そこまで考えが及ばなかったのは、俺の責任だ」

「それは俺も同じだ。でも後悔はしていない。三箇さんが思い悩み、長年一人で苦しんでいた事を知って放っておくことはできなかった。だから調査に協力したんだ」

「私もそう。一課に来て四年や五年経つ私達なら、遅かれ早かれ異動になっていたでしょう。だから今回の事がきっかけにはなったかもしれないけど、三箇さんだけが責任を感じる必要なんかないって」

 浦里と共に散々説得したが、彼は決して受け入れようとはしなかった。そこで英美達は自分達の力で駄目なら、上司から説得して貰おうとSC課の牛久を訪ねた。

 しかし次席の井野口と共に、彼らは同じことを言ったのだ。

「今回の件で三箇が責任を感じ、会社を辞めると言うのは止むを得ないだろう。実際死者も出ている。他の社員もしょうがないと思っているようだ。そうした雰囲気の中で、これまでと同じように働き続けるのは難しいと思う」

「それは余りに冷たくないですか。せめて違う職場に異動させることはできませんか」

 今いる同じ名古屋ビル内で居づらいのであれば、英美と同じように県内の離れた部署へ移ることもできるはずだ。しかし彼らはその意見を真っ向から否定した。

「調査に協力した廻間さんと三箇とは違う。あいつがこの会社にやってきた目的は、過去の事件を明らかにすることだったんだろ? だったらもうここにいる必要はないだろう」

「それは違います。過去の件を清算することで、この会社の社員としてやり直せると、私達は信じています。彼を手伝ったのはその為でもありました」

「例えそうだとして他の部署へ移っても、噂はついて回る。彼を見る目はそう変わらないはずだ。なにせ十年前に自分の恩人を殺した犯人を突き止めようとし、社員一人を死に至らしめた。周りはそんな奴をどう見る? 自分の敵だと思う者に対しては、社員だろうと容赦せず、しつこく付きまとうタイプの人間だと思うだろう。そんな人間と一緒に働きたいと誰が考える?」

 これには浦里と同じく、英美も咄嗟に反論することが出来なかった。言葉に詰まる二人に対しても、非難の目が向けられた。

「これは君達にも言えることだぞ。三箇に頼まれて調査していたとはいえ、結果的には彼と同じ共犯者と思われても仕方がない。私達は損害保険会社の社員だ。警察や刑事ではない。聞くところによると君達のいるフロアでは、他にもいくつか事件が起こったようだね。それらを解決していい気になっていたようだが、勘違いしないで欲しい。やるべき仕事は他にあるだろう。他人の事を気にする前に、その事を良く考えた方が良い」

 結局三箇は三月末をもって退職することが決まった。本当はもう少し早く辞めようと思っていたらしい。だが三月上旬に四月一日の人事異動が発表される為、英美達の異動先を確認し、三月末まで働く姿を見届けてから自分も辞めようと考えたようだ。

 しかしその後、事態は意外な形で動いた。本人は否定していたけれど、警察は当初美島を殺したのは、七恵だと疑っていたらしい。だが立件できるほどの証拠がない為、被疑者死亡のまま送検しようと考えていたという。

 ところが途中から夫の隆の証言に、違和感を持ち始めたらしい。そこで徹底的に捜査した所、七恵は自殺ではなく突き落とされたとの証拠を掴み、彼を逮捕したというのだ。

 そうなると、十年前の事件の犯人が七恵ではなかった可能性も出てくる。そこで再捜査をし始めたようだ。その中で隆から新たな自供を引き出した。

 当初隆は、七恵の意図を知らずにデングウィルスが付着している唾液を渡したと証言していた。だが実際に主導していたのは、彼の方だったという。

「美島という男が悪いんだ。七恵はあいつのせいで、かなり追い込まれていた。当時の彼女は相談する人や弱音を吐く人もいなかったのか、一人で溜め込んでいたんだろう。しかしどうせ辞める会社だと思っていたところ、それを美島に止められた。その上パワハラに加えてセクハラもエスカレートしていた矢先に、俺がデング熱に掛かり入院してしまったんだ。そこでもし俺の身に何かあったらと考え、このまま会社を辞められなくなるかもしれないと考えた事もあったらしい。そうなれば美島との関係も続く。俺の病状と会社の悩みで苦しんだ彼女は体調に異変をきたし、時折会社を休むようになった。しかしそれは余計に、周りから反感を買ったようだ。俺の病気が感染症という特殊な事情から、婚約者が入院しているなんて言えなかったからだろう。しばらくしたら結婚して辞める予定だというのに、仕事を休むなんてと他の事務員から非難されたらしい。そこでさらに社内で孤立し、悩んでいると彼女から聞いたんだ」

 幸い隆の症状はピークを越えて命に別状がないと判った頃、彼女との面会も許されるようになった。その時彼は彼女が置かれている現状を初めて知り、そして激怒した。すぐにでも会社を辞めさせようと考えたけれど、それでは憎しみの感情が治まらない。

 そこで復讐の手立てとして、自分が苦しんだ同じ思いを味合わせようと考えた。デング熱に罹った際、高熱に苦しみ吐き気も催した。そして何度も咳き込み過ぎたのか、喉から血が出た時もある。

 その際に拭き取ったティッシュなどの一部を、看護師達が回収し忘れていたらしい。それが残っていた事を、思い出したのだという。

菌が入っているだろうそれを密封できる袋に入れたものが、ベッドの下から出て来た時、隆は後で看護師に渡そうと持っていた。

 しかしこれは使えると考えた。そこで隆は退院後、すぐにお見舞い等で頂いたお菓子の中の一つに綿棒を使って菌を塗り付け、それを美島の机に置いておけ、と七恵に告げた。もちろん他の無害なお菓子も併せて、他の人の机に配って置くよう指示したそうだ。

 以前から七恵の会社では、課の人間だけでなく他部署も含めて多くの人がお土産などを買ってきて、各社員に配る習慣があることを聞いていた。

 それを利用して机に色々な菓子と混ぜて置いておけば、いずれ口にするだろうと思いついたという。それに美島は食いしん坊なのかせっかちなのか、机上に置かれたものはすぐ口に入れて片付けてしまう性格だとも耳にしていたようだ。

 それならばデングウィルス入りの菓子も、間違いなく食べるだろう。そうすれば、少なくともデング熱に罹って高熱で苦しむに違いない。

 しかも自分同様、最近夏季休暇を使って東南アジアに旅行へ出かけたことも知っていた。そこでもし彼が発症して入院しても、旅行先で感染したと思われるはずだと踏んでいたらしい。

 結果その通りに菓子を食べた美島は、デング熱に罹った。しかし誤算だったのは入院するほど症状が悪化する前に、ウィルスが体内深く入り込んだ影響で急性心不全を起こし、自宅で死亡したことだ。 

 これにはさすがに驚いたが、もう取り返しはつかない。後は隆がデング熱に罹って入院していた事を絶対に誰にも話さない様、七恵に口止めをした。さらに菓子を食べさせようとしたことも、黙っているように言い聞かせたそうだ。

 そこでようやく隆が目論んでいた事の重大さを、彼女も理解したらしい。ただ美島が目の前から消えていなくなった事は彼女にとっても嬉しい誤算だったため、彼の言うことを聞いたという。

 ただ彼女が言うには、隆から受け取った菓子を美島に食べさせようとしたが、いつの間にか紛失してしまったらしい。けれど結局は偶然にも、誰かがそれを美島の机に置いたのだろう。彼はそれを口にして亡くなったと喜んでいたそうだ。

 その為警察が動きだした時も、疑われるようなことは一切口にすることはなかったという。それほど厳しい事情聴取ではなかったにせよ、当時彼女が誤魔化しきれたのは罪の意識が全くなかったからのようだ。

 美島という呪縛から解かれた開放感の方が強かったのだろう。隆も説明したがデングウィルスに感染したからといって、必ず死に至るとは限らないことを知ったことも、大きな要因だったらしい。

 しかも急性心不全で亡くなることなど、確率としてはそれほど高くない。その為美島自身に運が無かっただけだと思い込むようにしていたようだ。それ以上に隆の行為が、七恵を地獄から救ってくれたと感謝する気持ちの方が強かったとも考えられる。

 だがいざ結婚して時が経つにつれ、二人の関係は変わった。子供が産めないことを隆の両親達から責められ、不妊治療で苦しみ始めた。しかも挙句の果てに隆が精子形成障害だと判明した。

 そこから二人の間は冷え込んだという。子供のできる可能性が低いと知った上で彼女と話し合った結果、彼女は働きに出ると言い出したらしい。

 また子供を持つことだけでなく、専業主婦であり続けることを拒否した彼女とは徐々に距離ができた。当然のように夫婦間での性交渉も無くなったそうだ。

 そんな隆はいつ離婚を切り出されるか、ずっと危惧していたという。愛情は冷めていたけれども、別れるつもりはなかったらしい。恐らく彼女もそうだったに違いない、と彼は言っていた。

 しかし恐らく二人共世間体を気にして、仮面夫婦を続けていただけに過ぎなかったのだろう、と警察は見ていたようだ。そうした柴山夫妻の関係を大きく揺り動かしたのが、久我埼の出現だった。

 しかも彼は大宮でも上司が事故に遭っており、死に神とあだ名を付けられた状態で、彼女と同じフロアに異動してきたのだ。

 それまですっかり忘れていたはずだったけれど、十年前には持っていなかった罪の意識が、七恵の中で芽生えたらしい。やがて精神が不安定になり、三箇と美島が近しい関係だったことを知り、さらに英美達を加えて過去の事を調べ始めたと聞き、動揺したようだ。

 その為働きに出てからほとんど口を利かなかった彼女が、隆に対し毎晩のように英美達の動きを話すようになったという。その度に隆は、黙っていれば絶対に分かることはないと言い聞かせ、宥めていたらしい。

 だが久我埼が三箇を殺そうと事故を計画して実行し、逮捕されてからその手が使えなくなった。なぜなら警察が十年前の件も調べはじめ、彼女への事情聴取をし始めたからだ。

 それだけではない。当時隆がデング熱に罹っていた事までバレており、そのことで夫婦揃って取り調べを受ける羽目になったのだ。 そこで全て嘘をつき続けるのは困難だと判断し、美島からパワハラやセクハラを受けていたことは正直に言うことにしたという。

 しかも七恵の話によれば、結局作戦を実行できなかった事は本当なので、関与していないと証言し続ければ、罪に問われることは無いと二人で話合っていたそうだ。

 しかしある時から彼女は会社に行きたくないと言い出し、隆に何の相談もなく退職までしてしまった。さらに何度も訪れ、または呼び出されて警察の聴取を受けることに耐え切れなくなった彼女は、本当の事を証言すると言い出した。

「私はあなたに言われるがまま、会社にウィルスとお菓子を持って行っただけよ。でも当日怖くなって、やっぱりできないとあなたにメールしたじゃない。でもあなたは、絶対にやれと脅してきた。そんな事をしている内に、いつの間にかウィルスを仕込んでいた菓子が無くなっていて、誰かが支社長の机の上に置いたのよ。私のせいじゃない。殺したのはあなたよ。もうこれ以上黙っていられない。私は警察に全てを告白する。第一、あなたのような人と付き合って、結婚までしたからこんなことになったのよ。もう別れましょう」

 そう言ってきかない彼女に腹を立てた隆は、マンションから突き落として自殺に見せかけようと思い立った。そして寒空の中、流星群が見えるとベランダに呼び出し手すりに手を突いた所で、彼女が着ていたガウンの紐を掴み、すくい上げるように放り投げたという。

 警察は地面に叩きつけられ亡くなった彼女のガウンから、わずかに残る隆の皮膚片を採取し、意図的に落としたのだろうと追及した。

 もちろん夫婦間の着ている物から互いの皮膚片が残っていること自体、おかしなことではなかった。何かの拍子で付いたと言えばいい訳が立つ。

 しかしウィルスの件も含め、彼女の意志だけで美島を懲らしめようとした話に矛盾点があった。感染病に罹った患者にそうたやすく接触できるはずはなく、隆の積極的な協力なくしてウィルスを持ち出すことなどできなかったはずだからだ。

 警察はその点を追及し、自白を勝ち取った。隆もまた人を殺して平気でいられるほど、図太い神経は持ち合わせていなかったことが幸いしたのだろう。妻を殺したのもそれまで鬱積していた不満が爆発した挙句の行動であり、計画と言っても発作的なものだったらしい。今は本人も深く反省して、罪の意識を感じているようだ。

 いずれにしても七恵の死は、三箇達が事件を調査し始めた事を苦にした自殺では無かったことが明らかになった。その為会社側も英美や浦里や三箇に対し、これまで非難した事を謝罪してくれたのだ。

 しかし直接の原因ではなかったにしても、過去の事件を調べていた件が、間接的な要因になった事は否めない。よって人事異動については英美を除き、予定通り行うことだけは申し渡された。

 その理由として、総合職と事務職の担当者が二人同時変更することに代理店側から困ると言った意見が出ていたからだという。よって英美だけは、取り敢えず今回残すことにしたらしい。

 また支店長から、浦里の異動は元々懲罰的な意味ではなかった為、変更しないとの説明を受けた。さらに三箇の退職についても、本人が撤回しなかったので予定通り三月末までとされた。というのも、彼は彼なりに考えての結論だったことが分かった。

「美島さんの死の真相について謎はまだ少し残ったままだが、単なる病死で無いことが明らかになっただけで十分だ。それに久我埼が人を殺していたとの、俺の勘は間違っていなかった。おかげでこれから、新たなスタートを気持ちよく切ることができる」

 三箇は会社を辞めた後、再び警察に入り直すことを決めていたらしい。だが愛知県警は三十歳までと年齢制限があるため、再び受験をして入ることはできないそうだ。他の警察においてもバラつきがあるものの、受験資格年齢は定めているという。

 ただ今年三十三歳になる三箇が受けられる県警は、兵庫県警などごく限られてはいるがいくつかあるらしい。その為彼は受験できる全ての県警を受けると言い出し、名古屋を離れると決意していた。

 英美は困惑した。浦里だけでなく三箇とも離れ離れになるのだ。古瀬を含めこの半年で結束が強まった四人だったが、今後集まる機会はそうないだろう。

 冷蔵庫の中にあった飲食物が紛失した事件から始まり、社内の不倫関係も暴いた。さらに古瀬の客が飼っていたアライグマが逃げ出したことと、新たな紛失事件が結びついていたことも解決させた。 

 それらが三箇によるものだったとはいえ、おかげで古瀬が揉めていた契約の件は解決しただけでなく、意外な結末を迎え大きく増収したのだ。

 そんな半年余りに起こったこれまでの事を、懐かしく思い出していた。しかし改めて頭の中で整理し始めている内にふとした疑問が浮かび、納得がいかない点がいくつか見つかった。

 既に終わった事だから、昔の事に関わるのは止めようと一瞬頭を過る。だがもうこれで最後だと思い直した英美は、以前事情聴取を受けた際に刑事から渡された名刺を見ながら考えた。そしてある行動を取ったのだった。

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