第九章

 社内では三月の第一週の金曜日に、四月一日の人事異動が発表された。そこで浦里の配属先は東京本社ビル内にある企業営業一課だと知った。

 その部署はかなり大きな企業を取引先に持つ大規模な営業課だったことから、支店長が言っていた通り懲罰人事どころか明らかな栄転であることに、英美は胸を撫で下ろした。

 これには三箇や古瀬も喜び、課長や周囲から祝福されていた。その後彼は三月の年度末の締めの仕事に加えて、四月から先方に移る為の引継ぎの準備や挨拶回りに忙しく走り回ることとなったのだ。

 やがて三月の締めを終え、四月一日から浦里の後任が着任して三日間の引き継ぎを行い、土日明けの四月六日から本社に出社することが決まった。その為名古屋における最終日の夜は、代理店を含め大勢が集まり彼の送別会を行ったのだ。

 それとは別に、日曜日が引っ越しで土曜日はその作業をしなければならない多忙なスケジュールの中、彼の家の近くにある居酒屋の個室で英美と既に退職していた三箇、さらに古瀬が五日の夜に集まることとなった。当日は何故か浦里が強引に誘ったらしく、悠里の姿もあった。

「改めて本社への栄転、おめでとう!」

 集合時間を過ぎても現れない三箇の代わりに古瀬が乾杯の音頭を取り、改めて浦里の送別会が始まった。彼が過ごした名古屋での四年間を振り返り、そして古瀬を担当してからの思い出話等に花を咲かせる。

 笑い話ばかりだったが、英美は笑顔を見せながらも心の中は沈んでいた。浦里との別れが辛いことも要因の一つだったが、それ以上に気を重くさせたのは昨日の夜遅く受けた同僚からのメールと、まだこの場に三箇が現れていなかったからだ。

 小一時間が経った頃、まだ来ない三箇を古瀬が心配し出した。

「それにしても遅いな。携帯に連絡もないし、かけても通じない。何かあったのかな。事故なんかにあってなければいいけど」

 浦里も顔を顰めた。

「お酒を飲むから電車で来るはずだし、ネットで見ても地下鉄が止まっている様子はない。どうしたんだろうな」

 英美にはなんとなく予想がついていたものの、今のところ定かではない。話していいものかどうか悩んでいると、一通のメールが届いた。そこでこっそり開いてみると、以前連絡した刑事からだった。

 その文面を読んだ英美は、大きく息を吸ってから発言した。

「三箇さんは、来られないみたいよ」

「今スマホを見ていたけど、廻間さんへ何か連絡が来た? 三箇さん、どうしたって?」

 浦里の問いに答える。

「県警の刑事さんから、今日彼は来られないってメールが届いた」

 これには、その場にいた皆がギョッとした顔をした。浦里と古瀬がほぼ同時に英美のスマホを覗こうとした為、その文章が打たれた画面を見せる。悠里は座って固まったまま、席にいた。

 しばらく黙読していた古瀬が、先に口を開いた。

「どういうこと? どうして廻間さんに、警察からこんなメールが来たんだ?」

「今頃三箇さんは、警察で取り調べを受けているかもしれない。もしかすると、逮捕されてしばらく拘留される可能性もある。だから今日は来られないと、刑事さんから連絡があったんだと思う。推理小説で読んだ気がするけど、警察に捕まったら弁護士以外は本人から連絡できないケースがあるんだって。でも三箇さんは今日、私達との約束があったでしょ。だから刑事さんから私宛に、参加できないって伝言が来たんじゃないかな」

「逮捕って? 三箇さんが? どうして? いやその前に何故警察が廻間さんのメールアドレスを知っているの? 三箇さんが教えた? いやここに来られないっていうのなら、浦里さんでも良かったでしょ。何故廻間さんなんだろう?」

 混乱する彼を、横にいた悠里が落ち着くよう宥めている様子を見ながら、英美は告げた。

「この刑事さんとは、以前私から連絡を取ったことがあるの。その時アドレスも教えたからじゃないかな」

 今度は浦里が質問した。

「連絡を取ったって、どういうこと? それと三箇さんが逮捕されたかもしれない事と、どう関係するっていうんだ?」

 本当は今日、本人がいる前で告げるつもりだった。しかし恐れていた事が現実となり、予想以上に事は進んでいたようだ。その為意を決し、説明した。

「実は久我埼さんや柴山さんのご主人が捕まった後でも、三箇さんは美島支社長の死の真相や時任課長の事故について、調べようとはしなかったじゃない。私はそれがとても引っ掛かったの。時任課長の件はともかく、美島支社長の事件をはっきりさせたくて、警察を辞めてまで私達のいる会社へ転職までしたのに」

「それは真実を明らかにすれば、全て許されるわけじゃないと痛感したからだって言っていたじゃないか」

 浦里の反論に、英美は答えた。

「でも真実は明らかになっていないでしょ。隆さんは、美島さんにウィルス入りのお菓子を食べさせようとしたことは認めた。だけど柴山さん自身が食べさせたことは、否認している。彼女が犯人なら、隆さんまで否認することはないでしょう」

「傷害致死の共犯として、罪に問われたくないからじゃないのか?」

「私も最初はそう思った。でもまだその件について謎が残っている事は確かでしょ。それでも三箇さんは、一連の事件について調べることを止めた。それはどうしてなのかとずっと考えていた私は、ある可能性に気付いたの。だから以前事情聴取を受けた刑事さんに渡された名刺の連絡先へ電話して、調べて貰うよう依頼したのよ」

「何を依頼したんだ?」

「時任課長の事故の件よ」

「時任課長? 大宮の? あれがどうしたっていうんだ?」

「久我埼さんは逮捕されたけれど、美島支社長を殺したのが彼ではないと分かった時点で手を引いた。それはどうしてかと考えたら、私達や警察にもそれ以上調べて欲しくなかったからだと思ったの」

「どういう意味だ? それに久我埼さんは否定しているけど、柴山夫婦が用意したウィルスを使って美島支社長に菓子を食べさせたのは、彼かもしれないじゃないか」

「その可能性がゼロでは無いでしょうけど、低いと思う。だって三箇さんも話していたじゃない。共謀していない限り、久我埼さんがウィルスを手に入れることなんて出来ないって。でも実際にそれは無かった。それに彼の性格なら、逮捕された時点で全て話すだろうとも言っていたでしょ」

「共謀ではなかったけど、柴山夫婦がウィルスを用意したことは間違いないと思う。だけど実行する直前で怖気づいていたから、横取りしたのかもしれない」

「だったら何故、三箇さんは最後までそのことを追求しようとしなかったの?」

「柴山さんが亡くなったからじゃないか。死人が出てしまったせいで、これ以上俺達を巻き込んじゃいけないと思っただけだろう」

 浦里の反論に対し、英美は首を横に振る。だが心の中では、彼と同じように考えられていたらどれだけ良かっただろう、と思いを巡らせていた。好きで三箇を疑っていた訳ではない。ただ浮かんだ疑問を思案する中で思いついたのだ。

 その推測が、間違っていればいい。または何も証拠がでなければ、それはそれで良いと思っていた。しかし今は三箇が口にしていた、悲しい犠牲を伴う可能性やその覚悟も、考慮しなければいけないとの言葉が重くのしかかる。

 それでも英美は、今起こっている現実を受け入れなければならない。そう覚悟して言った。

「私が刑事さんに相談したのは、時任課長が濁流に飲み込まれた時の前後に、三箇さんの姿がどこかに映っていないかを探して貰うことだったの」

「三箇さんが、大宮にいたかどうかってことか? 確か彼はあの豪雨があった日の当日と翌日は、風邪をひいて会社を休んでいたんじゃなかったっけ? それにあの事故が起こった周辺では電線が切れて、停電になったと言っていたよな。それで防犯カメラは、軒並み機能していなかったらしいじゃないか。だから時任課長が用水路に落ちた時、誰かが傍にいたことを証明する映像が残っていなくて、周辺の聞き込みも時間帯が遅かったことなどから、目撃者を見つけることも困難だったんだろ」

「それは三箇さんから聞いた情報でしょ。でも実際はどうだったかって誰か調べた? 私はしていないわよ」

 想定外の質問だったのか、浦里は目を丸くしながら、古瀬の顔を見た。同様に驚く彼が首を横に振った為、彼も否定した。要するにあの件は関係ないとの彼の言葉を皆が鵜呑みにして、誰も調査していなかったのだ。

「だから調べて貰ったの。そうしたら確かに一部の地域では停電していたらしいけど、時任課長が用水路に落ちたと思われる時間帯では起こっていなかった。そこで警察は、六年前の事故についても捜査し始めたの」

「し、しかし捜査するって言っても、六年前の映像なんて残っていないだろう」

「普通はそう思うよね。でも残っている可能性があることを、最近私達は知ったはずよ」

 英美の言葉に浦里は首を捻ったが、途中で目を見開いて言った。

「事故が起こった際にSC課が収集する、あの映像か」

 業務課長とその部下が不倫をしているがどうかを調べる際、三箇が使った手だ。

「そう。だから六年前の豪雨があった日、大宮支社周辺で起こった事故の映像が残されていないか、当社だけではなく他の保険会社も含めて警察が調べてくれたようなの。事故が起こった際の書類なんかは、支払いが済んだ後でも七年から多いものだと十年は取っておくらしいね。それに示談が長引いて解決していない案件なら、必ず残してあるそうだから」

「廻間さんはその事を、警察に教えたっていうのか」

「そう。でも見つかるかどうかは賭けみたいなものだった。でも昨日の夜、昔本社の業務主任研修で一緒だった大宮SC課にいる事務職からメールがあったの。警察が何か見つけたらしいってね。写っているとしたら、時任課長が出入りしていたのは大宮ビルだから、当社で持っている何らかの映像である可能性が高いと思っていた。それで何か動きがあったら、知らせてくれるようお願いしてあったの。警察は秘密主義なので、教えてくれないと予想していたから」

「もしかして廻間さんは今日、最初から三箇さんが現れないのは、警察が動いたからだと気付いていたのか?」

「そうかもしれないとは思っていたけど、外れればいいと願っていた。でも刑事さんからのメールからすると、その嫌な予想が当たったみたい。彼が写っていたとなれば、何故嘘をついてまで会社を休んで大宮にいたかと追及されるでしょう。ちなみに三箇さんは時任課長が事故に遭った年だけじゃなく、その前年も何度か同じ時期に夏風邪で会社を休んでいたわ。おそらく二年越しで事故に見せかけて殺す計画を成し遂げたんだと思う」

「時任課長を突き落としたのは、三箇さんだったとでも言うのか?」

「それは警察が調べてくれるはず。でもその可能性は高いと思う。残念だけど」

「どうして三箇さんが、時任課長をそんな目にあわさなければならないんだ?」

「これもあくまで推測だけど、理由は久我埼さんと上手くいっていない上司を事故に遭わせることで、動かなかったそれまでの事件を掘り起こさせようとしたんじゃないかな」

「そんな事までするだろうか」

「三箇さんは久我埼さんが一連の犯人だと信じ、警察を辞めこの会社に転職までしたのよ。でも久我埼さんは美島さんの死後に体調を崩して休職し、さらに復職したと思ったら転勤で名古屋からいなくなった。三箇さんは焦っていたんだと思う。それで彼の大宮での上司が厳しい人だという噂を同じ課の賠償主事からでも聞いて、犯行を思いついたんじゃないかな。今もそうだけど六年前でも豪雨等の際、社員は早期退社を促されるわよね。でも課長職は大抵最後になる。名古屋にいれば、今後関東の方でゲリラ豪雨が起こるかどうかはある程度予測できたでしょう。その事を知っていた彼は、夕方から夜遅くにかけて関東で豪雨になる日を狙って休んだ。そして新幹線が止まらない内に移動した日の夜、帰宅する課長を狙って濁流に突き落としたんだと思う」

「だけどその事故の後、また久我埼さんは長期休養に入ってしまったじゃないか。もちろん上司の事故の件で、久我埼さんが犯人かもしれない噂程度は広まっただろうけど、過去の事件まで掘り起こされることは無かった。それに時任課長の件を本格的に捜査されたら、下手をすれば三箇さんが逮捕される可能性もあったのに、何が目的だったんだろう」

「それは三箇さんにしか判らない。追い込んで自供させようとしていたか、何らかの動きを期待したのかもね。実際久我埼さんが名古屋に来て私達が調べ出したことで、三箇さんを殺そうとしたんだから。でも肝心の美島支社長の死については闇の中だけど、その事について三箇さんはどう思っているのか知りたかった。私は今日ここでそれを教えて貰おうと思っていたんだけど、叶わなかったわ。ごめんなさい。浦里さんの栄転を祝う送別会を、そんなことに使おうと思っていたなんてね」

 英美が頭を下げると、彼は何かを言おうとして口籠くちごもった。どうせ自分に対する非難の言葉だと思い、自虐的な笑い顔を作って言った。

「良いのよ、我慢しなくて。罵倒されても仕方がない事をしたんだから、好きなように言ってよ。最後なんだからさ。でも最低よね。これまであんなに仲良くしていた同僚を、売ったんだから。私、もう会社にいられないかもしれない。辞めちゃおうかな。古瀬さんだって嫌でしょ。こんな女が担当の事務職だなんて、ね」

 古瀬の顔を見ると、彼は英美から視線を逸らして俯いていた。悠里は先程から一言も発せず、沈黙を守っていた。すると浦里が大きな深呼吸をして、呟いた。

「そうか。三箇さんの言った通り、確かに真実を明らかにすることで、大きな犠牲を払うこともあるんだな。その覚悟が必要な事も判った。でも廻間さんは、見過ごせなかったんだよね」

 黙って頷くしかできなかった英美に対し、彼は続けた。

「疑っている自分に嫌悪感を抱いて胸に秘めたまま忘れてしまうことよりも、罪を犯した人はそれを償わなければいけないと思ったんだろ。そうした事に目を瞑ってしまえば、自分も同罪になる。苛めをしている人を目にしながら、傍観する人と同じになってしまう。そう考えたんじゃないのかな」

 間違ってはいないが、そんな綺麗事で片付けられる心境では無かった。英美の胸の中では、三箇が人を殺そうとするはずなどないとどこかで信じていた。しかし一方で彼なら、そこまでやりかねないと危惧している自分もいたのだ。

 以前久我埼が一線を越えた目をしていると言った彼の言葉は本当だろうかと疑い、わざわざ総務課まで行って久我埼の目を観察したことがある。その後英美は、似た目を見ていたことを思い出した。 

 それは彼が英美達に警察を辞めた理由を告げ、久我埼を疑っていると言っていたあの時と似ていたのだ。目は口ほどに物を言う、とのことわざは本当だった。

 警察に連絡しようかと考えた時も、手が震えていた。本当にこれから取ろうとしている行動が正しいのかと、何度も自問自答した。それでも悩み抜いた結果調べて貰おうと決心したのは、単に一人で抱え込むことが出来なくなったからだ。

 浦里や古瀬に相談することも考えた。しかしそれはできなかった。彼らに頼ることもできない自分に、嫌悪感を抱いた。最後の最後で人を信用できない性格が潜んでいる、忌まわしい人間なのだと不快感を持ったほどだ。

 そんな英美の思いを、浦里の発した言葉が吹き飛ばした。

「だったら俺も、覚悟を決めるしかないな。その為にこの場所へ悠里さんを誘ったのだから。墓場まで持っていこうかとも少し前まで考えていたけど、廻間さんが勇気を振り絞って行動したんだ。俺だけ逃げる訳にはいかないか」

「そういえば、最後だからどうしても悠里にも来て欲しいと言っていたけど、今回の件と何か関係があるのか」

 古瀬の問いに、彼は答えた。

「申し訳ないし、とても失礼な事だと思うけど、俺、いや俺達にとって最後になるだろうから聞かせて欲しい。柴山さんが持ち込んだウィルス入りのお菓子を美島支社長の机に置いたのは、悠里さんではありませんか」

 突然の爆弾発言に思わず英美は顔を上げ、彼を見た後二人の表情を伺った。固まっていた古瀬の顔はみるみる内に赤らみ、激怒している様子だった。

 逆に悠里の顔は、真っ青に変化していく。それを見てハッとした。先に口を開いたのは古瀬だった。

「何を馬鹿な事を言うんだ! 人の嫁を殺人犯扱いするなんて。いつからお前はそういう目で、悠里の事を見ていたんだよ! 最近週に一回は事務所に来てくれて話もしていたようだが、その度に人殺しかもしれないと思って喋っていたのかよ!」

 個室とはいえ他の客がいる為、抑え気味の声だったが物凄い剣幕だった。浦里の胸倉を、掴みかからんばかりの勢いだ。しかしそうなることを予期していたのか、浦里は怯まず真っすぐな力強い目で彼を睨み返しながら言った。

「廻間さんが三箇さんの態度がおかしいと感じ始めた少し前から、俺は悠里さんを疑い出していた。彼がこれ以上の調査を止めようと言い出したのは、美島支社長に菓子を食べさせた人物が、ごく身近にいる人だと気付いたからじゃないかと思ったんだ」

 聞き捨てならない話に、英美が尋ねた。

「どういう意味? 三箇さんは悠里さんが犯人かもしれないと思っていたって事? そんな話、今まで聞いていないわよ」

「言っていないからね。以前、悠里さんへの聞き取りは俺がするって話をしていただろ。だから古瀬さんの事務所を訪問する度に、彼女から聞き取りをしていたんだ」

 そう言えばそんな事を言っていた気がする。だが四人で情報を共有しているサイトに、彼女から得た情報は書かれていなかったはずだ。しかしそれは彼女が話したがらないと事前に聞いていたので、余り期待していなかった。その為すっかり忘れていた。

 古瀬が再び、怒気をはらんだ声を出した。

「おい! 何を勝手な事をしているんだ! 悠里が何を言ったんだ! 俺はそんな話、聞いていないぞ!」

「本当に聞いていないのか? 俺が何を質問してきたか、悠里さんは古瀬さんに何も話していないのか?」

 浦里の問いに古瀬は首を縦に振って、悠里の方を見た。

「おい、何を聞かれたんだ? そんな話はしてなかっただろ。どういうことだ?」

 彼女は俯いたまま、何も話そうとしなかった。その様子に古瀬も不安を感じたようだ。

「おい、何とか言えよ。嘘だろ? 美島支社長の机に菓子を置いてなんかいないよな? ただの言いがかりだろ? 第一、そんな事をする動機がないよな? そうだろ?」

 古瀬の狼狽ぶりからすると、本当に何も知らないようだ。しかし彼が言うように悠里が犯人だとしたら、何故そんなことをしたのかと考えた時、英美はある可能性に気付いた。

「もしかして悠里さんも柴山さんと同じように、美島支社長からパワハラを受けていたってこと?」

 英美の質問に悠里は体をビクリとさせ、古瀬の目が丸くなった。言葉を省略したが、反応を見る限り彼女はセクハラ被害も受けていたようだと確信する。

 どうやら浦里は、その事に気付いていたらしい。

「悠里さんも、柴山さんが亡くなる前から警察で事情聴取を受けていたと思いますが、聞かれたはずです。でも言わなかったようですね。俺も同じ質問をしましたが、あなたは否定した。でも他の方の証言では、そうかもしれないと思っていた人がいました。警察もその点を疑っていたと思います。現に私もあなたの反応を見て、そう感じましたから。ただデリケートな話なので、古瀬さんも見ているサイトには書き込まなかった。だからこの事を、三箇さんだけに話しました」

「だから柴山さんが亡くなった後、三箇さんは古瀬さんや悠里さんを守ろうと、私達にこれ以上調べることを止めさせた。浦里さんはそう考えていたのね」

「ああ。でも廻間さんの推理の方が正しかったのかもしれない。または両方だった可能性もある。しかし三箇さんが逮捕されたのなら、これ以上俺だけ黙っている訳にはいかないから言わせてもらった」

「でも悠里さんはどうやって、柴山さんがウィルス入りの菓子を持っているなんて知ったの? そうじゃなければ、美島支社長の机の上に置いたりできないじゃない」

 英美の疑問に、彼は答えた。

「恐らく悠里さんは、柴山さんの様子がおかしい事に気付いていたんじゃないかな。隆さんの証言によると、菓子を持ち込んだことは確かだけど、実行する際に彼女は躊躇していたらしいね。だからメールでやり取りをした、と証言している。悠里さんはそのメールをこっそり覗き見したんじゃないのかな。だから柴山さん達が仕込んだ菓子を盗んで、美島支社長が食べるよう仕向けた。以前古瀬さんが言っていたよね。悠里さんは、絶対携帯を覗いたりしないって。そんなことをしても良いことが無いから、というのが理由だと聞いた。それは十年前の事があったからじゃないのかな」

 浦里に尋ねられた彼女は、突然何も言わず持っていたバックを持って立ち上がった。そして個室から出て行ったのだ。その後を、古瀬が慌てて追いかけていった。

 ぽつんと残された英美達は、気まずい空気のままテーブルの上に残っていた食べ物や飲み物を口にし、ある程度片付けてから店を出ることにした。浦里の送別会だと言うのに、会計は折半で払うことになり、申し訳ない気持ちになりながら英美は店を出た。

 もう四月だと言うのに、夜の風はまだ冷たい。暗い夜道に出て周りを見渡す。するとどこかで桜が咲いているのか、花びらがちらりと舞って足元に落ちた。英美は視線を戻し、古瀬は悠里に追いつくことができたのだろうか、ともう一度辺りを目で追った。

 しかし二人の姿は、どこにも見当たらない。ここから帰るには、最寄りの駅から地下鉄に乗るはずだ。ならばその周辺にまだいるかもしれない。それはそれで困った。

 英美も同じ駅から電車に乗る為、途中で彼らと会う可能性がある。あんな状況で別れた手前、顔を会わせればお互い気まずい。それでもやむを得ず駅に向かって歩いた。すると歩いて数分程度で帰ることができるはずの浦里が気遣ってくれたのか、声をかけてくれた。

「送るよ」

 彼の言葉に内心はホッとしつつ、無言で頷く。なぜなら二人で歩く道中、何を話せばいいものかと悩んだからだ。これで彼とはお別れだというのに、最悪の結末を迎えた。

 加えて明後日から、古瀬や悠里とどう話せばいいのか。それより彼らは、今後どうするつもりなのだろう。想像するだけで頭が痛くなる。そんな気持ちが伝わったのか、浦里が言った。

「申し訳ない。俺はもう彼らと会わないで済むけど、廻間さんはそうじゃないんだよな」

 頷きそうになったが、英美は首を振った。

「ううん。私が三箇さんのことを話したせいで、こういう風になったんだから。悪いのは私。こっちこそごめん。最後の送別会がこんな風になっちゃって」

「送別会はどうでもいいんだ。悠里さんのことだって、決着をつけるのなら今日しかない、と俺が無理を言って呼んだのだから、廻間さんのせいじゃない」

「じゃあ浦里さんは最初から、こういう展開になることも覚悟していたの?」

「ああ。だけどギリギリまで迷っていたのは確かだ。でも廻間さんの話を聞いて、やっぱり言わなきゃいけないって思った」

「言ってどう思った? 後悔している?」

「少しだけかな。もっと上手い言い方があったんじゃないかって、反省している。でも言ったこと自体は、後悔していない」

「浦里さんは、本当に悠里さんが犯人だと思っているの?」

「今まで話を聞いた時の反応や今日の態度からして、間違いないと思う。でも証拠はない」

「だったら彼女自身が自首しない限りはこのまま、ってこともあり得るってこと?」

「そうだね。それに彼女が犯した罪は、“殺人”になるのか、それとも“過失致死”になるかも微妙だ。もし“過失致死罪”なら時効は十年だから、今自白しても罪に問われないかもしれない。でも“未必みひつの故意”となれば、罪に問われる可能性は高くなる」

 英美は推理小説なども好んで読む為多少の知識は持っている。しかし浦里がさらに詳しく説明してくれた。

「未必の故意」とは、実際に事件や犯罪が発生するかどうかは不確実だと知りつつ、自ら想定したことが実現されると認識し、さらにそれを容認して、結果の発生を認める場合を意味する。

 他にも“認識のある過失”というものがあり、これは同じく実際に事件や犯罪が発生する可能性を認識していても、問題は起きないだろうと考え、結果の発生を認めない場合を指す。

 つまり今回のケースで言えば、ウィルス入りの菓子を美島支社長が口にすれば、”高熱が出るかもしれないけれど、死ぬことは無いだろう”と思っていたにもかかわらず、亡くなってしまったのであれば、“認識のある過失致死罪”となる。

 しかし”高熱を出し、下手をすれば死ぬこともあるだろうが、死んでしまったらそれはそれで仕方がない”と思っていた場合“未必の故意による殺人”と見なされるだろう。

 刑法三十八条一項では、罪を犯す意志を故意犯として重く処罰し、過失犯は法律に特別規定のある場合を除けば、犯罪とされない。よってこの違いはとても大きいと言える。

「浦里さんはどっちだと思う?」

「事実は本人しか知りようがないけど、俺は限りなく故意に近いものだったと思う。だから罪を償って欲しいと思って言ったんだよ。だから後悔はしないし、したくない。だから廻間さんも、一人で考えて実行したことを責めないで欲しいんだ。それに三箇さんが裏で仕組んでいた事を言ったから、廻間さんはこれまで起こったことを振り返り、彼の言動に疑わしい点があると気づいたんだよね。だから今回の件は俺にも責任がある。今日、彼が逮捕されたかもしれないと聞いて、彼の取ったこれまでの行動が俺もやっと腑に落ちたよ」

 彼の言葉を否定することが出来なかった英美は、何も言えなかった。その様子を見て彼はさらに言った。

「あの時、俺も廻間さんと同じように考えた。目の付け所は少し違ったようだけどね。それに三箇さんは殺人まで起こして、久我埼さんを追い込もうとした。これは決して許されることじゃない。恐らく彼は美島さんが柴山さんや悠里さんなどに酷いパワハラやセクハラをしていたことを知りながら、目もくれなかったんだと思う。信じたくなかったせいもあって、盲目になっていたのかもしれない。業務課長と事務職との不倫関係を暴いたのも、そうした事をしている人に対する強い憤りを実際は持っていて、それが現れた結果だと俺は思う。しかし言い訳に使った手法が災いして、自分の首を絞めた。廻間さんの洞察力を見誤ったのは、彼にとって大きな失敗だったことになる。自業自得さ。大宮の件では、映っている映像が彼の姿だけで良かった。まさか突き落とした瞬間まで写っていた訳じゃないだろ。名古屋の部屋で寝込んでいるはずの人間が、大宮にいたということだけを証明するのなら、ちらっとでも写っていれば良かったんだから。彼はあの不倫問題の件で、大きなヒントを廻間さんに与えた。人を欺いた結果だよ」

 そこでようやく英美は口を開いた。

「三箇さんは久我埼さんが十年前の事件の犯人でない可能性が高いと知って、ようやく我に返ったのかな」

「そうだと思う。彼じゃなければ誰なのか。ウィルスを持ち込んだのは誰なのか。他に動機があって仕込むことが出来た人間は誰かと考えた時、彼の頭の中で柴山さんと悠里さんの名前が浮上したはずだ。おそらく昔の刑事時代の仲間から情報を聞いて、ウィルスを持ち込んだのは柴山さんに間違いないと思われるが、犯人ではないと証言していることを知ったんだと思う。そこでようやく冷静になって考えた時、久我埼さんと同じく一線を超えた目をしていたのは、柴山さんではなく悠里さんの目だったことに気付いたのかもしれない。だから古瀬や俺達の今後の事を考え、これ以上調べるのは止めると言い始めたんだろう。もちろん六年前の件まで詳しく捜査されると困るから、会社を辞めて逃げようと企んだ可能性も否定できないけどな」

「それなのに、私達が全てを暴いてしまったのね。三箇さんや悠里さんは、この後どうなるんだろう。古瀬さんも知らなかったとはいえ、ただでは済まないわよね。私達に関わったせいで、今後代理店を廃業しなければならないかもしれない。だって彼女が警察に逮捕されたとしたら、多くのお客様が離れていくだろうから続けられないでしょう」

 英美は再び落ち込んだ。浦里があの場で口にしなくても、三箇が警察で取り調べを受ければ、全て明るみに出ていた可能性は高い。そう思うと、英美自身もこれ以上会社に居続けることはとても無理だと思った。

 正しい事をしたからと言って、それが会社の利益に反するものであれば排除されるだろう。いや、それでなくても明後日からどんな顔をして出社すればいいのか分からない。行きたいとも思わなかった。

 そんな英美の心を読んだのか、浦里がいつもと違った優しい声でとんでもないことを言い出したのだ。

「辛い事だとは思う。この先自己嫌悪に陥ることもあるかもしれない。けれどそれは俺も同じだから、一人で抱え込むことは止めて欲しい。俺は廻間さんから勇気を貰った。もしこの先の事を考えて、先程言ったように会社を辞めたいと本気で思っているのなら、俺に付いて来てくれないかな」

「え?」

 突然の告白に足を止めた。彼も同時に立ち止まる。そこは駅前のロータリー近くの道で、周りに人は誰もいなかった。直立不動で背筋を伸ばした彼は続けた。

「もっと早く言うべきだったのかもしれない。でもなかなか思い切れなかったんだ。実を言うと俺は京都にいた時、結婚を考えていた彼女がいた。でも名古屋への転勤を機にプロポーズした所、各地を転々とするのは嫌だと断られたんだ。理由はその彼女の父親が俺と同じく、転勤族だったかららしい。幼い頃転校する度に嫌な目に遭ってきたので、将来自分が結婚する相手は、転勤が限られた人が良いと言われた。だったら俺なんかと何故付き合ったんだと喧嘩になって別れたんだ。その事がトラウマになり、この一年程で持ち始めた廻間さんへの気持ちが本物なのか、自分でも判らなかった。しかも廻間さんが以前付き合っていた人から、転勤による異動のタイミングで別れを切り出された経験があることや、地元から離れたくないと聞いたことがあったから、余計に言い出せなかったんだ」

 いつの間に、誰からそんな情報を仕入れたのだろう。しかし一年ほど前から好意を持ってくれていたなんて、全く気付かなかった。そう言われるとここ最近は色んな事件があったこともあり、距離が縮まっていたことは確かだ。

 そういう自分も、彼を見る目が徐々に変わっていたことは間違いない。ただどちらかと言えば、三箇に気持ちが傾いていたと思う。その相手を疑い、英美は警察に売り渡したばかりだ。その為余りにも急な話で、頭も感情も付いていけなかった。思考が鈍くなりぼうっとする。

 それでも何か言わなければ、と焦っていた所に彼は重ねて言った。

「でも今日で色んなことが決心できた。言わずに後悔するよりも、言って後悔する方がましだ、と廻間さんから教えられたよ。三箇さんや悠里さんのこともそうだ。今後あの二人がどうなるかは判らない。でも一人で別々に抱え込むより、二人で分かち合えば同じ苦しみや後悔があっても、乗り越えられるんじゃないかな。今後廻間さんが一人で苦しむくらいなら、俺と一緒にいて欲しい。答えは急がなくていいから。東京へは明日先に行くけど、廻間さんの気持ちが固まったら俺と一緒に住まないか。遊びに来るだけでもいい。結婚を前提として、お付き合いから始めても良いと思う。もし答えが出てOKなら、俺はいつでも迎えに来るよ」

「ありがとう。浦里さんの気持ちは伝わった。でも少し時間を頂戴。真剣に考えたいから」

 英美が絞り出した言葉に、彼は強く頷いた。

「うん。考えてくれるだけでも嬉しい。じゃあ、待っているから」

 二人はそこで別れ、英美は一人で改札を通った。幸いと言っていいのか、駅の周辺やホームに古瀬達の姿は見当たらなかった。少し前の電車に乗ったのか、それともまだどこかで話し合っているのかもしれない。いずれにしても、遭遇しなかったことに安堵する。

 今だけは嫌な事を忘れたかった。少し前まで会社を辞めて今後どう生きて行こうかと煩悶していた自分が、この時全く予期せぬ彼の告白に浮き足立ち温かい気持ちに浸っていたからだ。

 不謹慎だとは思う。三箇や悠里、そして古瀬の事を考えると気が重くなる。特にこのままの状態で、古瀬の担当を続けることは困難だろう。

 もし今後悠里が自首すれば、古瀬との繋がりは完全に崩壊する。自首しなくても、これまでと同じ関係を続ける自信などない。少なくとも課長には、担当変更を願い出なければならないだろう。

 そう考えると卑怯かもしれないが、逃げることも選択肢の一つだ。会社を辞めても、英美達がしたことは消えない。それならば少しでも傷を浅くするために、忌まわしい事件が起こったこの名古屋の地から離れることを考えてもいいのではないか。

 それとは別に浦里の事も、自分の気持ちに嘘がないか確かめなければならなかった。逃げ道として、彼を利用するのは失礼な事だ。そんな結婚生活など長く続くはずがない。

 それでも真っ暗闇になりかけていた英美の歩む道に、光が灯った気がした。そして人を妬む人生よりも、妬まれる人生を歩んだ方が幸せだという誰かの言葉を思い出す。

 嫉妬や恨みの先に、決して明るい未来はない。それは久我埼や柴山夫妻、そして三箇や悠里が教えてくれた。殺したいほど憎い相手や避けたい人がいたならば、そこから離れることが一番の解決策なのだろう。時には立ち向かって、戦うことも必要かもしれない。 

 しかし自分がそれ程強いかどうかを見極めなければ、道を誤ってしまう。それほど人間は愚かで弱いものだ。その事を知った上で、自分が届く範囲の幸せに手を伸ばせばいい。

 ホームに入ってくる電車の灯りを見つめながら、英美はぼんやり霞む未来を想像していた。

 そんな時だ。どこから現れたのか、十メートルほど先でホームに向かって走る女性の姿が視界に入った。突然の事で驚きの余り言葉を失っていた英美だったが、線路へ飛び込むつもりなのだと気付く。と同時に、後ろ姿から彼女が悠里だと分かった。

 危ない! と声をかけようと思ったその瞬間、彼女はこちらを振り向いた。警笛を鳴らしながら急ブレーキを踏む電車のライトに照らされた彼女の表情は、ニタッと笑っていた。

 彼女の体が、線路に向かってゆっくりと落ちていく。英美が悲鳴をあげたと同時に、古瀬と思われる言葉にならない男性の叫び声が聞こえた。駅中に大きな音が響き渡った。(了)

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