第二章

 飲食物紛失事件以降、犯人は七月に異動してきた人物ではないかとささやかれたことも影響したのだろう。以前の職場で死に神と名付けられた久我埼の噂話が、名古屋ビル全体に拡散し始めた。

 紛失事件とは無関係だったにもかかわらず、彼の人となりを知っている七恵が、ゴシップとして面白おかしく広めたらしい。彼女は以前、彼が一宮支社に赴任していた際、同じ支社に在籍していたようだ。十年も前の事で、英美が入社する前年の事だった。

 その為同じ中部本部圏内で起こったとはいえ、当時の事件を知っている人物は数少ない。だからこそ身近にいた彼女が、かつて起こった出来事をまことしやかに話した為、真実味が増したのだろう。

 さらに六年前の件や、十五年前の件までもが併せて語られたせいで、ビル中に様々な憶測が飛び交った。そうなると気味が悪い、と言い始める社員も少なからず出てくる。英美は嬉々としてそういった話をする人達を、冷ややかな目で見ていた。

 本当に噂話や悪口等が好きな人達は多い。世間でも週刊誌では不倫だのなんだのと、人の足元を掬うネタばかりが取り上げられる。ワイドショーなどでもそういう話題を扱うと視聴率が取れるからか、新しい攻撃先が見つかるまでしつこいほど流していると聞く。

 英美は金融機関で働く身である為、基本的に土日祝日以外は仕事だ。よって平日の昼間にテレビを見ることなど、ほとんどない。それでもネットを開くと、その手のニュース等が見たくなくても表題として目に付いたりする。

 よってたまに平日休みを取った時など、テレビを点ける時は余計な物を見ないよう心掛けていた。せっかくの休日なのに、気分が悪くなってしまうからだ。

 会社にいてもそうだった。人が多く集まっている分、様々な噂が飛び交う。しかも週刊誌ネタとは違い、対象は身近にいる人物達だから、尚更興味を引くらしい。

 その上実際に、絶好の話題を提供している人物がいるから厄介だ。例えば不倫一つとっても、決してテレビの中だけで起きる他人事ではなかった。

 このビルの中だけでも、社員は男女合わせて千人近くいる。その中に若い独身女子もいれば、単身赴任している既婚男性もいる。バツイチの独身男性もいれば、子供のいる既婚女性もいる。シングルマザーだって働いているのだ。

 ビルの中は、現代社会の縮図のようなものだった。そうなると噂嫌いの英美の耳にさえ、二、三年に一度は不倫が発覚したとの話が入ってくる。大抵は男性社員が地方へ飛ばされ、女性社員も職場を異動させられる結末を迎えていた。

 不倫でなくても男女の恋愛絡みでのトラブル等は、頻繁に起こっていた。会社にいる男性社員の半数は早慶出身者で占める程学歴の高い人が多く、給料も良いからだろう。地元採用の事務職達による争奪戦が、時々始まるのだ。

 すると誰と誰が総合職の誰を取り合っていて掴み合いの喧嘩に発展しただとか、表沙汰になったものだけでもそれなりにある。

 身近に起こった例では、英美の元にも結婚式の案内状が届いていたのに、間際で中止となり破談。その後男性総合職は、別の事務職と結婚したらしい。もちろん裏では、相当揉めたと聞く。

 それだけではない。時々忘れた頃にやってくるのが、金銭の使い込みだ。新聞やテレビに流れるような、刑事事件沙汰になるものもある。だが内々で処理される場合が、ほとんどだった。

 そうしたことで会社から去った社員や取引停止となった代理店を数えると、英美のキャリアともなれば両手では足りない。

 さらには上司や取引先との相性が悪かったのか、会社生活が嫌になって失踪する者もいた。あの時は社有車に乗ったまま行方をくらまし、遠く離れた地で車が乗り捨てられていることが発覚したと聞いている。

 このようなまさかと思うような想像の斜め上をいく出来事も、このビルでは忘れた頃に起こるのだ。些末さまつなものや嫉妬や妬み嫉みからくる話となれば、数えきれないほど湧いて出てくる。

 だからこそ自分の心身を守る為出来る限り噂には耳を貸さず、関わらないようにしてきた。

 しかし問題だったのは、何故か三箇がこの話題に興味を持ったことだ。根掘り葉掘り聞きたがり、挙句の果てには直接七恵から話を聞く為、わざわざ八階まで上がってきた程らしい。

 これまでの彼は、浦里や古瀬達と共に人の噂や悪口などに対し、それほど興味を持たないタイプだった。だからこそ英美とも相性が合い、話を交わすようになったのだ。

 そこで以前浦里との話を思い出す。三箇は久我埼の事を良く知っているらしいと聞き、疑問を感じたことがあった。そういえばGPSシールの反応を確認する為、事前に各部署へ移動する作業をしていた時、彼はおかしなことを言っていたと思い出す。

 疑わしい人物の一人とされていた、久我埼のいる総務課へ向かった時だ。

「あいつがこんなくだらないことをして、目立つような真似をする訳がない」

 いい加減な噂に左右されない発言とも取れたが、それ以上に久我埼の人格を、良く把握しているかのようにも思えた。

 このビルに来るまで大宮にいた久我埼は、三箇と同じ自動車のSC課に所属していた。その為仕事上で何らかの交流があったのかとも考えたが、どうやら違うらしい。

 浦里に聞いたところによると、六年前に起こったゲリラ豪雨で上司が事故死した後、彼は三年半ほど休職していたという。その後復職して数か月経った後に、総務課へ異動してきたはずだ。

 大宮に着任したのは八年前の十月だが、SCで仕事をしていたのは実質四年もなかったらしい。その前が一宮支社で営業職だった。そこで三年半ほど勤めた頃、上司が病死した後に一年半休職し、復職してから半年後に大宮へ移ったと聞いている。

 三箇がこの会社に転職してきたのが九年前で、その頃久我埼は休職していたはずだ。接点があるとすれば、復職後の半年間しかない。

 それだけ短い期間で年齢も職場も離れ職種も違う社員に対し、相手の性格を分析できるほど親しくなったとは考えにくかった。もしそうなら、二人の間で何か特別な事が起こったとしか思えない。

 面倒な事件がやっと解決したと思ったら、また頭の痛い話が出てきたと英美はため息をついた。ただでさえ忙しい中、日常の業務では憂鬱ゆううつになる様々な問題が起こっていたからだ。

 例えば古瀬の先輩にあたる緒方おがたというプロ代理店から、古瀬に自分の顧客が奪われたとのクレームを受けている件があった。

 同じ会社の代理店同士で獲った、獲られたと言う話は時々出てくる事で、特に珍しくはない。しかし今回面倒なのは、文句を言い出したのが契約件数の多い大きな代理店だった為だ。

 しかも過去に当社の担当者がミスをした事を機に、専属代理店から他社と乗合したいわく付きの取引先でもあった。

 専属とは当社の契約だけを扱う代理店を指し、乗合とは複数の保険会社と取引をしている代理店のことをいう。ここで不可解なことが起こる。本来古瀬のような当社のみの商品を扱う専属代理店は、会社として有難い存在の為、大切にしなければならないはずだ。

 けれど乗合代理店の方は、何か機嫌を損ねるとすぐに他社へと契約を移されてしまう危険性がある。またその逆もあった。そんな事から、営業社員は契約の扱い高が多い乗合代理店にかなり気を使わざるを得なかった。下手をすれば専属代理店よりも、手厚い対応をしているケースが多々あったのだ。

 さらに古瀬のような研修制度を経てプロ代理店になった人は、独立の際に他社と乗合をしないとの誓約書を書かされる。ただしその効力は絶対的なものではない。

 しかし彼らはある一定のノルマを達成していれば、三年間は社員という立場で給与が保証されていた。そこで先行投資されている分、恩返ししなければいけないとの無言のプレッシャーがかかる。よって独立後も専属で居続けてくれる人がほとんどだった。

 また担当者にもよるが、基本的には手厚いフォローもあった。その上どこの代理店でもいいからと直接会社に問い合わせがきた、いわゆる浮いた契約を優先的に回して貰えるなどの特典もある。一部の例外を除き、基本的に保険会社は直接契約を扱わない為、代理店を通した間接的な取り扱いを主とするからだ。

 そうした経緯もあり、古瀬のような研修生出身の代理店には上から目線になり、やたらでかい態度を取る担当営業社員がいるのも確かだった。

 そういう人に限って、そうでない乗合代理店などには腰が低い。もちろん数字が命である営業社員にとって、取扱契約数が多い人や大きな契約奪取が見込める代理店を優遇したくなるのは心情だ。

 しかし余りにも極端な態度を取り過ぎると、相手も人間だから面白くないと感じるのも当然だった。そうした不満の積み重ねが時を経ると爆発し、やがて契約件数が大きく成長する頃合いを見計らい、他社と付き合いだしたりするのだ。

 社員の態度が変わったりミスを重ねたりすると、いい口実とばかりに大事な専属代理店だった人達が裏切っていくケースを、英美はこれまで何度も見てきた。

 今回古瀬に文句を言い出した代理店など、まさしくそうした経緯を辿ってきた代理店だ。

両方とも浦里の担当だったり同じ一課の代理店だったりすれば、課長が間に入るなどして、なんとかうまく収めることもできただろう。しかし今回は担当者も違えば、緒方は名古屋総合第一支社の代理店の為、担当部署も違った。

 ちなみに一課と二課、名古屋総合第一支社と第二支社、一宮支社と春日井支社の六課支社を統括するのが名古屋支店だ。

 このビルには他にSC課をまとめるSC部、企業営業課を統括する企業営業部、自動車販売店などを主に担当している自動車営業課が所属する自動車営業部、内勤では業務課や総務課を統括する業務部があった。

 これら四部店と名古屋支店に加えて、三重支店や岐阜支店を取りまとめているのが中部本部長という組織図になっている。つまり緒方の所属する第一支社は、一課と同じ名古屋支店の傘下だ。そうなると上に持っていき話をまとめる先は、名古屋支店長となる。

 しかし過去の経緯から、緒方の担当者や第一支社長が乗合代理店の味方につくのは当然ながら、支店長も数字の大きい代理店の肩を持つ可能性が高かった。

 だからこそ相手は古瀬に、不当な要求を突きつけてきたのだ。契約を返せ、それが出来なければ扱い手数料だけでも戻せ、と言い出しているらしい。

 そこで浦里は事情を詳しく聴く為古瀬を呼び出し、そこに英美も同席した。深刻な仕事の話の為、互いに丁寧な言葉で話し始めた。

「向こうは契約を奪われたと言っていますけど、どういった経緯で古瀬さんはその契約を扱うようになったんです?」

「私が扱っている顧客の紹介です。今ツムギ損保と契約しているけれど代理店を変えたがっている友人に、一度会って話をして欲しいと言われました。保険会社に不満はないので、できればツムギ損保の契約を扱っている古瀬さんにお願いしたいから、と。それで紹介してくれた顧客と一緒に、そのお客様の所へ伺いました」

「自動車保険の更新でしたよね。前契約の証券を見せて貰ったり、どうして代理店を変えたいのか等の話は聞いたりしました?」

「もちろんです。契約内容がどうなっているか、前年までに事故はなかったか、変更したい点の有無や年齢条件等、契約内容の見直しが必要かどうか確認しないといけませんから。それで証券を見せて貰ったところ、緒方さんが扱っている契約だと知りました」

 元専属代理店だったこともあって、キャンペーン等の集まりで緒方と顔を合わせており、名刺交換などもしたことがあるらしい。彼は話を続けた。

「もちろん同じ保険会社同士で、しかも知っている大型プロ代理店の契約ですから、理由も伺いました。後で揉めるとまずいですから。するとここでも詳しく言えない程の悪口が出るは出るはで、このままだと私が扱わなかったら間違いなく他社に流れると思いました。だから契約する事を決めました。もちろん緒方さんに仁義を切る為、その場で連絡して了承を得ましたよ。あの時はその客ならいいよと言われたので、浦里さんにも相談しなかったんです。揉めると分かっていたら、話していましたよ」

「そうですよね。今回第一支社で緒方さんを担当している総合職の唐川からかわさんから、いきなり連絡があったので驚きました。いつもの古瀬さんなら、こういう場合は事前に相談してくれていましたから」

 ここで英美が口を挟んだ。

「その時、どういった話をして緒方さんに電話したのですか?」

「お客様には正直に話しました。この代理店さんを知っているので、黙って契約をすると後々自分の客を奪ったとお叱りを受ける場合があります。だから事前に話を通しておく必要があるので、今電話をしていいですか、と聞きました。最初は渋っていましたよ。関係を切りたいと思っている位ですから、当たり前です」

「それはそうですよね。お客様には全く関係のないこちら側の都合だから、余計にそう思われるでしょう」

「はい。でもお客様が直接話す必要は無く、私が状況説明をするからと説得し、なんとか了承を得られました」

「どう話を切りだして、緒方さんは何と言っていたんですか?」

「いま自分のお客様の紹介で、私に契約を切り替えたいとおっしゃっている方のお宅にお邪魔した所、証券を見て緒方さんのご契約者だと判りました。申し訳ありませんが、私の方で契約をする前にご連絡しなければと思い電話しました。よろしいですか、と伝えました。なんてお客だと聞かれたので名前を伝えた所、今そこにいるのかと尋ねられたので、目の前にいらっしゃいますと答えました。するとその客ならいいよと電話を切られたので、やはりお客様と上手くいかなかったからこうなったのかと思い、契約をしました」

 浦里が頷きながら言った。

「それが後になって、文句を言ってきた訳ですね。担当者の唐川さんには、一課の古瀬に契約者を獲られたから何とかしろ、恥をかかされたと怒って電話があったらしいけど」

「そんなつもりはありませんよ。緒方さんが、お客様と揉めていたことは確かですから」

「でも緒方さんは、客の目の前で契約を切り替えたいけどいいかと言われ、駄目だと断れない状況にして獲っていったと文句を言っているようです」

「それはおかしいですよ。自分が契約者と上手くいかなかった腹いせに、いちゃもんを付けているだけですって」

「その人と緒方さんの間で、どういった揉め事があったかは言えませんか?」

「内緒にしてくれと口止めされて、誰にも話さないという約束で契約を頂きました。ですから浦里さんにも、私の口からは言えません」

「そうですか。しょうがないですね。でもそれだと唐川さんに、なんて説明したら理解してくれるだろう。かなり困っているようだったからな。ちょっとやそっとでは、宥められない様子みたいだし」

 困った様子で呟く浦里に、古瀬は反発した。

「でも自動車保険、一件ですよ? それほど大きな契約でもないと思いますけど」

「いや、詳しくは言えませんが先程調べたところ、緒方さん扱いで他にもいくつか契約があるようです。このままだと満期を迎える度に、切り替え依頼が来ると思います。そうなれば、結構な額になるでしょう。だから相手は今の内から、文句を言ってきたようですね」

「確かに他にも契約があるからお願いね、とは言われました。そんなにたくさんあるんですか?」

「少なくは無い、としか今の所は言えません。古瀬さんが直接お客様から、証券を見せて貰ったら判るでしょうけど」

「この一件で済まないから、文句を付けてきたんですね。なるほど。それで納得しました」

「こういう場合は、お客様の意思を第一に尊重するのが基本です。だから古瀬さんは、堂々としていればいいと思います。ただ第一支社と緒方さんの間で、他にもいろいろ問題があるらしく、今は下手に怒らせたくないようです。客と代理店の話ではなくて、会社と代理店の問題になっているから厄介なんです。そう簡単には向こうも折れないかもしれません」

 話を聞いている内に苛立ちを覚えた英美は、浦里に尋ねた。

「どうするんですか? 今の話だと、今回契約した保険の手数料分を返せば終わり、とはなりませんよね。これから何件か切り替える度に手数料を支払え、と言ってきかねません。それはさすがに勝手過ぎます」

「うん。古瀬さんは全く悪くない。問題は会社サイドの話だから」

 しかしそれが一番面倒であることを、英美も知っている。理屈ではない感情論が絡み、さらに会社と乗り合い代理店とが揉めだすと、数万円の契約一本だけの話では済まない場合があるのだ。

 下手をすると数百万円、数千万単位で他社に契約が動くことも考えられる。そうなれば担当者の唐川の成績だけの問題ではなく、第一支社全体の責任問題に発展しかねない。

 そうなるとさすがに支社長や、下手をすれば支店長まで出てくることになるだろう。となればこちらとしても、課長に相談しなければならなくなる。

 ただでさえ唐川は、第一支社の次席で入社十六年目になる課長代理だ。年次も役職も浦里よりかなり上になる。そうした上位職の総合職相手だと、担当者レベルだけで話せば相手に押されてしまう。

 しかし確か第一支社長の田辺たなべも、一課長の土田つちだより年次が上だった。しかも今回は扱い保険料が年一億円を超える大型代理店の緒方に対し、こちらは年三千万円レベルで独立してまだ三年目の古瀬だ。まともに争っては勝ち目がない。会社側としては、筋が古瀬にあっても緒方の肩を持とうとするに違いない。

 無理が通れば道理が引っ込む。こうした社内での下らない争いを、九年以上営業事務職をやってきた英美は、嫌というほど見聞きしてきた。

これまでの内容では、全く非が無い古瀬の方が圧倒的に不利な立場にある。浦里はこの局面を、どう対応して乗り切るつもりだろうか。下手をすれば、今後古瀬との関係にひびが入る可能性もあった。

 だからといって、一億超の乗合代理店を怒らせる訳にはいかない。古瀬は研修生として社員の立場にいた時、内側からそういう事情で総合職達が代理店の理不尽な要求に振り回されている姿を見て知っている。

 しかも副社長の奥さんが当社の元社員だから、尚更社内事情には詳しい。その上でどう処理するかは、担当者としての腕の見せ所だ。そんな考えを見透かしたように、浦里は急にこちらを向き尋ねて来た。

「廻間さんはどう思います? 古瀬さんは悪くないですよね?」

 ここは担当者としての立場上、はっきり言っておかなければならないと思い、答えた。

「事前に了承を得て、契約を頂いています。しかも紹介を受けてお客様が望んだ結果ですから、その意向を優先することが筋でしょう」

「やっぱりそうですよね。そのお客様は、松岡まつおかさんとおっしゃいましたか。住所もここから近かったと思いますけど」

 浦里の問いに古瀬が頷く。

「はい。歩いても十分とかからない所です」

「では古瀬さんの口から事情が言えない様でしたら、私が直接松岡さんの所に伺って事情を聞いて来てもいいですか? ご本人が承知して私に話すのなら、約束を破ることにはならないでしょう」

「え? 直接行かれるつもりですか?」

「はい。古瀬さんに問題が無かったことを証明する為には、まず松岡さんと緒方さんが揉めた経緯を知らないと、私も唐川さんに説明のしようがありません。廻間さんも言った通り、最も大事にすべきなのは、お客様の意向を尊重することですから。代理店の意向や社員の面子を守ることじゃないでしょう。松岡さんには私から連絡するので、古瀬さんからは何か言われたら会って話をしてくれるよう、後押しして貰えば助かります。どの時間にかけたらいいか、悪いかなどがあれば教えてください」

「昼間なら大丈夫だと思います。でもいいんですか? 緒方さんを敵に回すと、第一支社が煩いでしょう。支店長席も黙っていないんじゃありませんか?」

「それは古瀬さんが心配することではありませんよ。まず私と課長で話をします。それでもらちが明かない様なら、支店長にも相談してみます。古瀬さんは、通常通りの営業活動に戻ってください。もし直接緒方さんからこの件で連絡が来て何か言われたら、担当者の浦里に任せています、と答えて下さい」

 彼の言葉に勇気づけられたのだろう。古瀬は頭を下げて、揚々ようようと応接室から出て行った。その後席を立った浦里は、早速課長にこの件を報告していた。英美は席に戻り、溜まった事務仕事に没頭する。 

 その間に隣の席へ戻って来た浦里は、松岡という客に電話を掛けていた。会う約束を取り付られたのだろう。直ぐ外出していった。

 年上の英美に対して浦里は乱暴な口を利くこともあり、小生意気で腹が立つこともある。しかし仕事については男気があり、今回のような頼りがいのある一面を見せることがあった。だからなかなか憎めない奴なのだ。

 そんな事を考えていると、今度は総務課が騒がしいと事務職達が騒ぎ出していた。聞き耳を立てる必要もないほど大きな声が聞こえてくる。

 声の主は二課の七恵だ。いつもなら煩いと思いながらも、我慢して無視するよう心掛けていた。だが今回は聞き流せない内容だった。何故なら三箇が、久我埼と揉めているというのだ。

 しかも内容は社有車を管理する総務課に対し、SC課の管轄する社有車の数が人数の割に少ないと、文句を言い出しているという。そうした問題は、普通SC課の課長や次席である総合職が交渉する類のものだ。賠償主事の立場では、関われないはずだった。

 しかもそれだけではないらしい。社員の借り上げ社宅を管理しているのも総務課だが、今住んでいる彼の部屋の騒音や、他の住民のマナー問題、さらには管理会社の対応に関するクレームも言い出しているらしい。

 本来なら何か問題があっても、管理会社へ問い合わせる程度で済むはずだ。それでも解決しない場合、内線電話で何とかしてくれないかと総務課に相談するケースは、ごく稀にあった。

 過去にも英美のいた企営課の総合職が住んでいる社宅で、急に騒音問題が発生した為、転居したいと言い出している社員がいた。

 しかし途中で社宅を変更するのは、余程の合理的理由が無いと会社として認められないのが実態だという。そこでその社員はある時期、頻繁に総務課と連絡を取って問題解決できないか交渉していたことを覚えている。

 だがそんな時でも同じビル内にあるとはいえ、直接総務課に押しかけ交渉するなど今まで聞いたことが無い。七恵達の話だと対応していた久我埼も最初はそれなりに応じていたようだが、余りにも三箇が尊大な態度を取った為、ぞんざいな扱いをしだしたようだ。

 それに対して三箇が怒り、本人の目の前で

「死に神という噂は本当なのか」

などと挑発し、さらに彼を怒らせたらしい。英美の知っている三箇が取った行動とは思えず、直ぐには信用できない話だった。

 その為不審に思い、実際どのような事が起こっているのかと心配して席を立った。しかし総務課へと駆けつけた時には、すでに皆落ち着きを取り戻していた。

 三箇の姿もない。ただ久我埼が課長ともう一人の総合職と何やら話している姿だけ見えた。しばらくぼんやりと立っていたが、折角ここまで来たのだからと、英美は総務課にいる同期の事務職に声をかけた。

「何か騒ぎがあったらしいけど、SC課の三箇さんがどうかした?」

 すると彼女は、うんざりとした顔で話してくれた。

「うん。社有車や社宅の件で、久我埼さんと話をしていたみたい。でもその件で問い合わせをしていると言うより、久我埼さん個人に突っかかっているようだった。詳しくは分からないけど、二人は以前から顔見知りだったらしいよ。でも久我埼さんは、すごく迷惑そうな顔をしていたけど」

「そうなの? どういう顔見知りだったかは聞いていない?」

「話していた時の感じだと、久我埼さんが一宮支社にいた頃に知り合ったみたいだけど」

 意外な話に、英美は聞き直した。

「それって、十年近く前の話だよね」

「そう。でも久我埼さんは私達が入社二年目の時に復職して、半年で大宮SCに異動したはずだから、三箇さんと接点があったとは思えないけど。一年半近く休職していたらしいし」

「八年前か。三箇さんは確か途中入社して今年で九年目だったと思うから、その半年は重なっているよね」

「でも久我埼さんは、一宮支社でしょ。三箇さんのいるSC課とは担当エリアが違うよね。それに一年半休職して復職した後の半年なら、SC課と絡むデリケートな案件に関わっていたとは考えにくいけど。それこそ廻間さんは彼と親しいから、何か聞いていないの?」

 逆に質問を受け、英美は少し動揺しながらも首を横に振った。

「知らない。浦里さんは何か聞いているようだったけど、プライベートな話だからって、教えてくれなかったから」

「へぇ。プライベートな事、って言ったの? ということは、仕事上で知り合った訳じゃないってことだよね」

「そうみたい。だから何となく聞きづらくて」

「分かる。確か三箇さんって以前、警察官だったんでしょ。そこを退職して転職しているから、なんか訳ありっぽいよね。何か問題を起こして辞めたってことはないと思うけど」

「だったらうちの会社も、採用しないでしょ。それに辞めたのは、単なる自己都合だと聞いているけど。職場環境があまり良くなくて、息苦しかったからとか言っているのを一度だけ聞いたことがある。でもそれだけ。根掘り葉掘り聞けるものでもないし」

「そうだろうね。でもなんだろう。私は三箇さんのことはよく知らないけど、あんな人だとは聞いていなかったし周りも驚いていたから、あの二人はちょっと普通の関係じゃなさそうよ」

「そうなんだ。ありがとう。仕事中、邪魔をしてごめんね」

「うん。大丈夫。そっちの方が今は忙しいんじゃない?」

「そうなの。だからこんな油を売っている場合じゃないんだけどね」

 月末最終週に入っている為、急ぎの仕事は山ほどある。総合職達も四月からこの七月の締め切りまでにいくら数字を積み上げられたかが、年度初めの勝負所だ。

 年間のスタートダッシュが上手く切れたかどうかを、上の人達は見ている。今年度の成績を占う、大事な試金石でもあるからだ。その為七月までの成績に入れられる申込書は、全て計上しなければならない。

 成績は保険始期ベースで決まる。つまり保険の責任開始月が七月ならば七月の成績だ。八月始期であれば、七月に計上しても八月の成績となる。

 だからといって、八月始期の申込書を後回しにする訳にも行かない。早期に計上しなければ、後々問題が起こるケースも出てくるからだ。

 それでもやはり七月最終週となれば、成績になる契約を優先処理することになる。特に今だと生命保険の申込書は最優先だった。営業事務職にとって最も時間を費やし重要視される事は、毎日のように代理店から集められた申込書をいかに早く処理できるかだ。

 そのことで証券が発券される手続きへと繋がり、契約内容がパソコン画面で照会できれば数字にも反映する。さらに契約保険料の中から代理店への手数料が支払われる手続きにも連動し、またその中の一部が自分達の給料となるのだ。

 いわゆる飯の種をいかに集め、いかに間違いなくそして早く計上するかが、営業課の仕事だった。

 しかし毎日のように積み上げられる書類を処理し続けていれば、感覚も麻痺してくる。契約申込書一枚が社員や代理店の収入となるだけでなく、顧客に万が一の事が起こった際に補償し、安心を提供する大切なものだと頭では理解していた。

 とはいえやってもやっても終わりのない作業が続けば、おかしくなるのも無理はない。余りにも処理しきれない書類が積み重なった状況をみて、ある事務職が呟いたことがある。

「今火事が起きて、全部燃えてしまえばいいのに」

 実際に起こったら大問題になることは、冷静に考えれば分かることだ。それでも思わずそんな怖しい事を口走ってしまう程、うんざりするものだった。

 こんな事ばかり言っていると、損保会社の仕事はただ辛いだけだと思われるだろう。しかしどんな仕事でもそうだろうが、楽しい事や嬉しい事、喜びを覚えることもあった。

 例えば総合職や代理店が頑張って、大口の新規契約を取ってくればやはり嬉しいものだ。それを計上して数字となった時、事務職としても共有出来る喜びがある。

 また日頃代理店に対し事務的なことや契約のアドバイスをしていると、おかげで事務での仕事がやり易くなったとか、契約が取れたと感謝されることもあった。

 時にはお祝いまたはお礼と称して代理店からお菓子を差し入れされたり、昼食や夜の飲み会に誘われごちそうして貰ったりすることもある。そこで仕事以外の話で盛り上がり、楽しませてもらうことだってあるのだ。

 社内であれば、英美は事務職として中堅の域に入ってきたため、後輩社員に指導する機会が増えている。そうして教えてきた成果が実り、代理店や総合職に褒められるほど成長していく後輩達の姿をみていると、こちらも嬉しい。

 感謝されて頼りにされれば、気分も良くなる。やはり人として認められ、役に立ったと実感できることは大切だ。その根本には担当総合職や同僚の事務職を含め、代理店等との人間関係が上手くいっていることこそ重要だと思う。

 そのような環境であれば毎日続く事務処理も、苦では無くなるとまで言えないけれど、それほど嫌な仕事だと感じなくなるものだ。

 そうした意味だと、英美が今いる一課は数字が良いことも影響しているだろうが、全体的に課内の雰囲気は悪くない。特に仕事の相棒として絡むことの多い浦里との関係が、それなりに上手くいっている分、どちらかといえば楽しい時間を過ごせていると思う。

 それに英美自身も十年目となり、仕事に追いかけられることから徐々に解放され始めた為かもしれない。以前いた企業営業課では、新人から五年間という最も知識も経験も乏しい時期だった。その為、苦しかった記憶しかなかった。

 しかし一課に来て、そうした苦悩からは少し解放されている。徐々に知識や経験を重ねてきたことで、余裕が出て来たからかもしれない。それでもやはり大きく影響したのは、社員や代理店の質が違ったからだと思う。

 転勤により、上司や担当総合職が変わることで方針や評価や接し方も異なり、部下が戸惑うことは多い。実際上に弱く下に強い人物がいたり、女性差別や相手によって態度を豹変させたりする男性社員が、前の部署では必ずいた。学歴が高い分、偏ったプライドを持っていたからだろうか。

 また企業営業という特殊性もあり、扱う契約一つ一つが高額で取引している代理店も大きい。その為、何かあるとすぐに部長や本部長レベルが顔を出していた。

 よって計上一つ、電話対応一つでも、ミスが許されない空気が常に漂っていた気がする。そうした課内外での緊張感もあったせいか、当時はいつも息苦しいと感じていた。

 だが一課の担当はプロ代理店や整備工場、企業でもこぢんまりとした代理店などが中心だ。その分社員と代理店との距離感が近く、相手の人間味が良くも悪くも伝わり易かった。

その為か企業営業課時代より、英美には仕事がやり易いように感じられたのだ。揉めたり怒鳴られたこともあったが、喜んでもらえたり、褒められたりしたことも少なくない。

 そこに情が感じられた為、どちらにしても嫌な気はしなかった。それに加えて浦里など間に入ってとりなしてくれる総合職がいるから、忙しいけれども今は比較的楽しい社会人生活を送れている。

 どんな仕事でも続けられるのは、そこに何かしらの喜びや遣り甲斐を見つけられるか否かだろう。そうでないといつまでもつまらない、辛い、でもやらないといけないと我慢を重ねなければならない。その結果体を壊したり、心を病んでしまったりするのだろう。

 会社では上司も部下も選べない、とよく言われる。同様に損保会社では担当する代理店や組まされる担当総合職も、基本的には選ぶことなどできない。管理職からここを担当してこの総合職と組めと言われれば、従うしかないのだ。そうなると当たり外れは激しい。 

 担当していて明らかに対応が楽な代理店もいれば、面倒な人達もいた。もちろん互いの相性だって関係してくる。加えて担当総合職も人が変わればやり方も大きく異なる場合があるため、問題はさらに複雑だった。

 しかし今は課全体のバランスが、ここ近年で一番安定していると思う。だから雰囲気も良く、忙しくても皆なんとかやれているのだ。

 今日も英美は通常通り、書類の山を減らす為に黙々と申込書やパソコン画面を睨みながら、時折かかってくる問い合わせの電話対応をこなしていく。

 気付くと五時を過ぎていた。集中していたからか、積み上げられた申込書の数は順調に減っている。ただ浦里など外出してまだ戻ってきていない総合職が何名かいた。

 彼らがこれから持ち込む書類の数や案件によって、今日も遅くまで残業するか明日に回す事ができるかが決まる。こういう時、いけない事だと思いながらも、余り沢山の申込書が無いよう祈る自分がいた。

 そこに次々と男性達が戻って来た。彼らは回収してきた書類を、各担当事務職へと渡していく。中には大量に渡され、露骨に顔を顰める事務職もいた。

 この時間になって、ようやく減らした山がどんと増えるのだから、その気持ちは良く分かる。しかし彼らだって、決して嫌がらせをしている訳ではない。

 まさしく各担当代理店が汗水流して獲得してくれた契約書類を、頭を下げながら回収しているのだ。沢山あればあるほど数字が増え自分達の給料となるのだから、そんな態度を取ってはいけないことも理解している。

 それが事務職の仕事なのだ。そう言い聞かせて気分を奮い立たせるしかない。英美の元にも回収された書類がやってきた。帰社した総合職が各事務職の机の上に置かれた所定の箱の中へ入れていく。 

 しかし思ったより数は少なく、ざっと見た中身も急ぎの物は無さそうだ。そこで胸を撫で下ろす。だがまだ油断はできない。浦里が残っている。

 彼は古瀬の件で契約者の所へと出かけて行ったが、他の代理店も回っているはずだ。しかも今日は、複数の営業社員を抱える大型専属代理店のナカムラに訪問する日だった。

 すなわち扱い件数が多い分、回収されてくる書類も決して少なくない。そう思っているところに彼が帰って来た。英美が声をかけると、彼も返事をよこした。 

「お帰りなさい」「ただ今帰りました」

 隣の席に立ち、鞄の中から回収した書類を入れたジッパー付きのクリアファイルをいくつか取り出した。その中の一つに大量の申込書が入ったものを見つけた。ナカムラから回収した分だ。

 予想していたので驚きはしない。ただああやっぱり多かったかと、軽くため息をついた。しかし彼は英美の机上にある箱に、それらの書類を置きながら言った。

「新規の申込書が数件あるけど、更改も含めて始期は来月のものばかりだから。急ぎは生保の申込書だけかな。これは締め切りが明後日だから、できれば明日中に計上して。事前チエックをしてあるから不備は無いと思うけど、念のために確認して貰えると助かる」

 これは嬉しい事だ。損保の新規で今月分が無いのは寂しいが、今の時期ならそれもしょうがない。新規も更改も早めに手続きをするのが普通だからだ。しかし来月分が数件あるだけでも幸先は良い。 

 特に八月は契約件数も少なく、数字が動きにくいから余計だ。しかし生保は違う。更改契約というものはまずなく、獲ってくるのは全て新規だ。その為締め切りぎりぎりまで代理店が粘り、契約者と交渉を重ねた結果成約するものだった。

 英美は書類の束からそれらを見つけ出して言った。

「すごいね! 五件もあるじゃない!」

「そう。助かったよ。仲村社長にお願いはずっとしていたし、営業社員も動き回ってくれていたのは知っていたけど、ここに来ての成約は大きいね。代理店のキャンペーンもクリアできたと思うし、俺の担当分の目標数字もこれで超えたから」

「やったじゃないの。明日朝一で私からも仲村社長に、お礼の電話を入れておくね」

「そうしてくれると有難い。誰が獲ったかは申込書に打たれたナンバーを見れば分かるから、できれば営業社員にも個別で電話してくれないかな。仲村社長が三件で、他は皆一件ずつだから」

「三件! 分かった。さすが社長ですね、としっかりおだてておく」

 二人で顔を見合わせ笑った後、互いに次の仕事へと手をかける。ざっと箱の中の書類を見て急ぎのものがないことを再確認した英美は、明日でいいのだが早速生保の申込書に目を通した。

 彼が事前に確認しているとはいえ、見落としが無いとは限らない。注意しなければならない重要個所と書き忘れやすい場所は、だいたい決まっている。

 だがさすが浦里だった。五件とも不備は見つからない。これなら明日の計上も早く済むだろう。

 そこでふと思い出し、横にいる彼に聞いた。

「そういえば、今日古瀬さんが新規で取って来たお客様の所へ行ってきたんだよね。どうだった?」

「話は聞けたよ。緒方さん側の言い分も聞かないと本当のところは分からないけど、お客様が嫌がっていることは事実だね。だから古瀬さんに全く非はない。でもあの契約の計上は待ってもらえるかな。確か八月末が始期だったよね」

 自動車保険である為、計上自体は古瀬さんが機械で申込書を作成して済ませている。ただ最終的に営業店で申込書の原本を見て問題ないかを確認した上で通さないと、証券の作成はできない。彼はそれを止めて欲しいと言っているのだ。

「いいよ。まだ時間はあるから。でもどうするつもり?」

「これから課長に相談して考える。だからもう少し時間が欲しい」

「分かった。じゃあそのまま計上するか、それとも訂正するか決まったら教えて」

「了解。今月末は緒方さんも忙しいだろうから、来月動くよ」

「それにしても厄介な案件よね。私もあれから契約者名で検索したけど、単価の大きい自動車保険が一件と、火災保険とか積立保険とか緒方さん扱いで複数の契約があったよ」

「それだけじゃない。他の家族名義で契約しているものが、相当数あった。しかも今回の契約は松岡さんの奥様名義の契約だったよね。実は旦那さんが会社の社長さんで、法人名義の契約もかなりある。それらを全て満期が来次第、順次古瀬さんに切り替えたいと言うのが松岡さんの意向なんだ。だから緒方さんも第一支社も焦っているんだろう。相当な減収になるから」

「個人契約だけじゃないんだ」

「そう。全部合わせると、保険料で五百万円くらいにはなるかな」

 想像以上の大きな数字に、英美は驚いた。

「そんなに?」

「古瀬さんからすれば、全部切り替えて貰ったら大きい。年間で百万近くの固定した手数料収入増になるから、生活もぐっと楽になる」

「でも緒方さんの方ではその分減収する訳だから、そう簡単には引き下がれないでしょうね。第一支社としても、五百万の数字が無くなったら痛いだろうし」

「めちゃくちゃ痛いよ。逆の立場だったら担当者だけじゃなく、支社長を連れて頭を下げに行くような案件だからね」

「第一支社ではトラブルが起こった時、謝りには行ったの?」

「会社の方へは行ったみたいだね。社長に頭を下げたらしい。でも一番怒っているのは、役員にも名を連ねている奥様だから」

「奥様の怒りは解けていない。だから古瀬さんに個人契約から移そうとした訳ね」

「その通り。それに社長自身もまだ許していないみたいで、問題はくすぶっているらしい。会社契約や社長の個人契約の始期は、早いもので十月一日。第一支社としてはなんとかそれまでに、関係を修復したいと思っているみたい。だけど話を聞く限り、難しそうだよ」

「緒方さんのミス? それとも第一支社も絡めたミス?」

「緒方さん単独のミスらしい。だから保険会社は変更せず代理店は移す、という話になったようだね。聞いたところによれば数年前、奥様は追突事故の被害に合ったらしい。幸い軽いむち打ち程度だったようだけど、相手の保険会社もツムギ損保だったんだって。その時の人身担当者の対応がすごく丁寧で良かったから、できれば会社は変えたくないとの要望だった。だから第一支社としては一課に数字が移ったとしても、その分数字を補正して貰えばいいと思っているみたい」

「それって都合が良すぎない? 要は古瀬さんが数字を獲得しても、一課の数字にはならないってことだよね」

 補正とは特別な事情があった場合などに行う、社内的な事務処理を言う。本来計上した営業店が数字を持つところを、営業店の間で補完するものだ。

 その手を使って100%補正をすれば第一支社としてはマイナスにならないが、その分一課は手間がかかるだけでプラスにならない。 

 ただ来年度以降は、実績と数字を一課のものとして計上する方法もある。それでも増収とは言えない為、営業担当者としては単純に喜べない。

「そう。でも第一支社としては緒方さんの手前、そんなことは言えないから必死に契約を維持しようとしているけど、無理っぽいね。相当こじれちゃっているから」

「それほど大きな失敗をやらかしたんだ」

「詳しくは言えないけど、そうだね。だから切り替えられてもしょうがないと思うよ。自業自得ってやつだ」

「もし古瀬さん扱いになったら、数字は第一支社に補正を出すの?」

「それはうちの課長が渋っている。俺もだけど。だって下手をすれば、他社に契約が移ってもしょうがなかった案件だからね。損保会社を変えないのは、第一支社がこれまでよくやってくれたから、という訳じゃないみたい。最悪他社に移さないといけないと考えていた所、古瀬さんの顧客が知り合いにいて、その人の紹介だったらと彼が呼ばれたらしい。それがたまたま同じツムギ損保だったから、松岡さんはそれなら是非切り替えたいと思ったらしい。第一支社の唐川さんや田辺支社長は、今回の件が起こってから会社に訪問して松岡社長と会ったようだから、支社としては緒方さん任せでほとんど絡んでいなかったんだって」

 大きな企業であれば、支社長や総合職の営業担当者が直接出入りするケースは珍しくない。しかし中小規模の会社となれば数も多いため、代理店任せになることは致し方なかった。間に入っている代理店自身が、社員の出入りを嫌うこともあるからだ。

「それで補正しろというのは、虫がいいにも程があるわよね」

「そうだろ。俺もそう思うし課長もそう言っているから、ちょっと揉めそうだ」

「補正は社内の話だし、後で何とでもできるからいいわよ。でも契約を古瀬さんに移行したいと言っているお客様の意向は、尊重したいよね。手数料だって馬鹿にならないから」

「そう。まずはどちらで契約するのかをはっきりさせることが先決だ。緒方さんが大型の乗合代理店だから気を使うのは分かるよ。でもお客を怒らせておいて、契約を奪うなら手数料を戻せと言うのはあまりにも理不尽だから何とかしないと」

「でも相手は唐川さんと田辺支社長でしょ。浦里さんと土田課長では分が悪くない?」

「最悪の場合は支店長を飛び越えて、本部長へ相談することになるかもね。でもその前に松岡さんサイドの意向を固めておかないと、上も数字の大きい緒方さんの肩を持ちかねない。だからちょっと時間がかかると思う」

 こういうところが営業店の嫌なところだ。どちらが正しいかではなく、どちらが会社に与える影響が少ないかが優先される。今回の場合、明らかに緒方さんの味方をして貸しを作った方が会社にとっては良い、と判断されかねない。

 そんな理不尽を防ぐには、正攻法だけでなく裏技も必要となるだろう。古瀬さんに契約を移した方が、会社にとって損失が少ないと上が判断するように持っていかなければならない。

 かつ緒方さんの顔を立てるか、または止むを得ないと諦めさせる方法を見つけることが不可欠だ。

「計上の方は止めているし、最悪補正を出せるように準備もしておく。決まったら声をかけて指示して。その通りにするから」

「そう言って貰えると助かる。普通に補正無しの計上ができるよう、頑張ってみるから」

 彼はそう言ったが、実際なかなか難しいだろうと英美は思っていた。百歩譲って緒方さんが諦めたとしても、第一支社が素直に数字の減少を認めるとは思えない。

 お客や代理店には全く関係のない話だが、各課支社における営業数字はそれだけシビアだ。しかも年間保険料が五百万円近くとなると、そう簡単に引かないだろう。

こういった社内向けの仕事はとても空しい。社外に対して骨を折るなら、顧客の為だとある程度我慢できる。しかしそれが社内だけとなれば別だ。

 何故そんなところに、無駄な労力を掛けなければならないのか。同じ面倒な仕事でも、疲労感は社外に向けた時の倍以上に感じる。こうした積み重ねが結構なストレスとなるのだ。

 深く溜息を吐いた英美は、気持ちを切り替えて目の前の仕事に向かった。だがざっと見て今日中に仕上げておける書類はほとんどなかった。月末最終週でしかも大事な七月末にしては珍しい。

 これも担当総合職が代理店に対して、契約の早期手続きと申込書の提出を早めるよう促してくれているだけでなく、会社全体で取り組んでいるおかげだ。その分、締め切り間際になってバタバタとすることが少なくなった。

 それでも既に六時は過ぎている。しかし少し前ならこの時期になると、毎日のように八時近くまで残業をしていた。酷い時は九時近くになったこともある。

 上は早く帰りなさいと声掛けをしているが、現実問題仕事を後に残して困るのは総合職達だ。その為月末だけは黙認するのが現状だった。

 だが最近そこまで劣悪な状態に陥ることはまずない。早く帰ることが出来る日も増えたし、遅くなっても八時を過ぎることは完全になくなった。

 数字も良く、風通しの良い課の雰囲気がそうさせるのだろう。それと一課では、残業に対する課長や総合職の意識も高い。そうなると事務職達自身も、各々が自覚する。そこで自然と効率的に仕事ができるよう、メリハリを付けられるようになるのだ。

 今日の仕事はこれで終われると判断し、英美は周りを見渡した。一課の事務職リーダーである加賀かがは、英美より三つ上の三十五歳で既婚者だ。子供も一人いるため、いつものように六時前には退社していた。

 英美より後輩である他の三人の内二人は仕事を続けているが、それほど忙しいように見えない。先輩が残っていても自分の仕事が終われば、気にしないで帰りなさいと後輩達には普段から伝えている。 

 課長や総合職からも、常日頃そう指導されていた。それに一課の事務職のリーダーが子育ての為とはいえ、率先して早く帰るようにしている。そのせいか基本的には言われた通りに皆帰る為、それほど注意して仕事の進行状態を確認することは少なかった。

 しかし今日は一番下で入社三年目の一人が、四苦八苦しているようだ。そこで席を立って他の後輩達の様子も見て回り、どの程度の状態なのかを見定めながら声をかけた。

「仕事に区切りがつきそうなら、そろそろ帰る準備をしなさいね」

 二人は頷いていてもう少ししたら帰りますと答えていたが、一人だけ返事がなかった。余裕が無いのだろう。その為英美は手伝うことを決め、別の空いた椅子を移動させて彼女の横に座った。どうやら申込書の不備の確認で苦労しているようだ。

「ちょっと見せてみて」

 どこで行き詰っているかを突き止め、解決方法を教えた。経験の浅い彼女が分からないと悩んでいることでも、先輩の目で見ればすぐに処理できることは多い。

 そういった点はどうすればいいか指導していくと、彼女が抱えていた書類は少しずつ片付いていった。そしてこれ以上は明日に回しても支障ないと判断した所で、仕事を切り上げさせる。

 帰り支度をさせられるところまで見届けた時点で、英美は彼女から離れ席に戻った。気づけば残りの二人は帰り支度をしている。時計を見ると七時を少し過ぎていた。そろそろ自分も帰ろうと準備をし始める。

 そこでなんとなしに隣の課へ視線を移した。すると総合職だけでなく、事務職全員が席に座って黙々と作業をしている姿が目に入った。ここ最近の二課はいつもそうだ。なかなか数字が上がらないだけではない。様々なトラブルを抱えているとも聞く。

 だからか雰囲気も良くなく、残業も多い。あれだけ昼間に大きな声を出して騒いでいた七恵も、何も言わず仕事をしている。勤務時間中にもっと集中していれば、これほど残業しなくて済むはずだといつも思っていた。 

 だが悪循環に陥っている時は、得てしてそういうものだ。周囲が皆遅く帰れない環境に慣れてしまい、仕事を効率化して早く済ませようなどと考えなくなるのだろう。

 彼女は既婚者だが子供がいない為、遅くまで残業できるらしい。二十六歳の時に結婚して寿退職した後、まだ二十代だと言うのに数年不妊治療をしていたと聞く。

 しかし彼女が三十歳になったのを機に治療をやめたそうだ。そして一度辞めたこの会社に再就職をしたという。不妊治療を始めたのは早かったと思うが、三十手前で止めるのも早い気がする。

 だがこの職場では同じ境遇の人達が多くいて、とても大変で辛いと嘆いている姿を見て来た。経済的な面もそうだが、精神的にも体力的にもかなりの負担がかかるらしい。

 それに二十代後半で治療を始めた方が、三十代になってからよりも治療費が安く妊娠する確率も上がるという。三十二歳で未だ独身の英美には良く分らない世界のことだ。

 三十歳ならまだ若いのにと思っていたが、下手に干渉すると酷い目に遭うので口に出したことは無い。それに詳しい噂話がそれ以上聞こえてこない所をみると、彼女はその件の詳細を周囲に話していないようだ。それぞれ人に言えないことはある。英美だってそうだ。その為真相は分からずじまいだった。

 そろそろ帰ろうかと思い片づけをし始めた時、二課に三箇が顔を出した。どうやら事故の件で、課長代理の手塚てづかに呼び出されたらしい。一課の総合職なら相談事があれば、自分達の方からSC課へ赴くものだ。

 しかし手塚はとても横柄で、総合職でなく賠償主事や物損の示談交渉をする技術アジャスターの担当案件であれば、相手を呼びつけることで有名だった。

 その為SC課での評判はとても悪いと聞いている。SC課の次席である井野口いのぐち課長代理から、意見したこともあるらしい。それでも年次が上の手塚は、まともに相手をしてくれなかったという。

 それでSC課長の牛久うしくから、二課長の飯島いいじまを通じて抗議したようだ。しかしこちらも年次は飯島が上だからか、分かったと口では言いながらも実態は代わっていないという。

 だが呼び出されたのはあの三箇だ。一筋縄でいくわけがなかった。いくら立場は総合職が上だからと言って、課が違うため直属の上司ではない。

 その上これまで何度言っても直らない手塚の態度に、SC課は皆腹を立てている。だからだろう。彼はことごとく手塚の要求を、平然と撥ね退けているように見えた。恐らく無理な事を頼んでいるに違いない。

 それでも手塚は熱くなり、大声を張り上げていた。しかし元警察官の三箇にとって、全く怖くもなんともないのだろう。涼しい顔をしながら鋭い目で相手を睨みつけ、理路整然と説明していた。

 どうやら理は彼にあるらしい。途中から飯島課長までも参戦したが、結局三箇の迫力と理屈を崩せず根負けしたようだ。

「分かった。もういいよ。井野口か牛久課長に話をするから」

 呼びつけた彼に対し、ハエでも追い払うような手つきをしていた。すると立ち上がった彼は何かを言った。するとそれまで息が荒かった手塚達は急に黙りこみ、うつむいていた。

 そんな様子をパーテーション越しにじっと見つめていた英美に気付いたのか、用が済んだ彼はこちらに向かってきた。

「お疲れ様。まだ残っていたの? 事務職は早く帰らないと」

時計を見ると七時半を過ぎていた。これ以上会社にいると課長達に迷惑がかかる。

「今帰る準備をしていたところ。そしたら何か揉めているようだったので、つい見ちゃった」

「別に揉めては無いよ。向こうが勝手に騒いでいるだけだ。うちの次席や課長に言ったってどうにもならないから。無理を通すなら、部長クラスに話を通してくれって言ってやった。黙ったからこれで終わりだと思うよ」

「最後のセリフは、そう言っていたのね」

「どうしてもごねるようなら、そう言っていいと課長達から事前に了承を得ていたからね。全く事故処理の事を良く分っていない総合職ほど、無理を通そうとする。その点一課は皆理解があるから、助かるよ」

 そこで横の席にいた浦里も、耳をそばだてて話を聞いていたらしい。小声で言った。

「あっちの課と一緒にしないでくれ。営業とSCが揉めて得することなんてないんだから。損保会社の入り口と出口の両輪だから、連携して円滑に済ませることが俺達の仕事だろ」

 呼応して三箇も声を抑えながら愚痴を言った。

「あいつらはそれが分かってないから困っているんじゃないか。皆が皆、一課のような総合職ばかりだったら、SC課も仕事がやり易いんだけどな」

「まあ、あの人達もずっとここにいる訳じゃない。何年かすればどっかに行くだろ。それまでの我慢だよ」

「俺は基本的に転勤が無い賠償主事だからな。そういえば浦里さんは、今年名古屋に来て四年目だったんじゃなかったか。そろそろ異動が出てもおかしく無い頃だろ」

 英美は内心ドキリとした。もちろんそういうものだとは知っているし、自分自身も一課に着任して五年目だ。そろそろ他の課支社へ異動になってもおかしくない。だが今の課が気に入っている為、出来れば少しでも長くこのメンバーで働いていたかった。

「この七月が無かったから、次は十月か四月かもしれない」

 総合職の異動は、基本的に七月の可能性が高い。だが特殊な事情が無い限り、次に四月、そして十月異動の可能性もあった。事務職は四月と十月がメインだ。

「廻間さんが動く可能性もあるんだよね。そうなると一課も変わっちゃうだろうな」

 寂しそうに言う彼に、浦里が話題を変えた。

「そんなことはどうでもいい。聞いたぞ。久我埼さんと揉めたんだって。怒鳴り合ったらしいじゃないか」

 昼間の話だ。しかし外出していたはずの彼が、何故その事を知っているのか。しかも怒鳴り合ったとまでは聞いていない。

「そんな大げさな事じゃないよ。ちょっと言い合っただけだ」

 居心地の悪そうな顔で呟いていたが、さらに浦里は詰め寄った。

「三箇さんにしてはまず無い事だから、どうしたんだと牛久課長が聞いても何も答えなかったらしいな。だから何か知らないかと、こっちに直接問い合わせがあったぞ。俺とは多少なりとも親しいと知っていたからだろう。何があった? 俺にも言えない事か?」

 浦里の方が三つ年下だが、気の合う二人はタメ口で話をしている。英美と古瀬を加えた四人の間では、それが普通になっていた。少し間を置いて三箇が答えた。

「少なくともここでは無理だな」

「じゃあこれから飲みに行くか。もし廻間さんも良ければ一緒に話を聞こうよ。昼間の話、気になっているんじゃない? わざわざ総務課にまで行って、同期から情報収集していたって聞いたよ」

「よく知っているわね。いつの間に、どこからそんな話を仕入れていたの?」

「帰ってきてから内線で牛久課長と話をした後、総務課にも掛けて事情を聞いたら、そんな話が耳に入ったからさ」

「すごい情報網だな。ああ、総務課の事務職で浦里さんの同期がいるからか」

「俺が名古屋へ来たばかりの時、飲み会をやっただろ。あの会のおかげで、三箇さんと親しくなったよな。他にも同期とかと気軽に話ができるようになったし。交流会様様さまさまだよ」

 確かに三年前、管理職抜きで若手中心の懇親会が開かれた。今の一課の遠山とおやま課長代理の前任者と、SC課の井野口課長代理の前任者が幹事だったはずだ。

 彼らが同期だったこともあり、営業とSCの交流を深めようという企画が持ち上がった。そこに二課や業務課、総務課も加わって総勢四十人近くが集まったのだ。

 その会で以前から顔は知っていたが言葉を交わしたことの無い三箇と、英美は浦里を通じて話すようになった。そして息があった彼らと一緒に後日古瀬が加わり、個別に飲むことが増えたのだ。

 しかし当時の幹事が異動してから、そうした全体が集まる飲み会は途絶えた。それもあって最近はまた営業やSCとの間、特に二課との関係は悪化している。

 さらに他部署との連携も途絶えてしまった。それでも浦里と三箇のような、今でも個別に繋がっている関係は少なくない。英美もあの会を通じ、会話をするようになった後輩や先輩が増えた。

 あのような企画は幹事の人達が全体をまとめ上げ、巻き込むほどのバイタリティがないとできない。残念ながら今のこのフロアに、そうした人達はいなくなってしまった。

「で、どうする? 飲みに行く? それとも話せない理由でも?」

 浦里の追及に三箇も諦めて頷いた。

「分かった。話すよ。一旦席に戻って出られるよう、準備してくる。何時からにする?」

「廻間さんも一緒でいいよね。じゃあ八時十分に下一階のロビーに集合」

 時計を見ると、後二十分もない。相変わらず強引に進める彼に呆れながらも頷いた。

「分かった。すぐ用意する」

 急いで出て行く三箇の背中を見ながら、英美は言った。

「私はいいけど、浦里さんはそんなに直ぐ出られるの?」

「大丈夫。もう終わらせるから」

 気が付くと、彼の机は片付けられていた。どうやら今日は最初から、彼を誘うつもりだったのだろう。その為早めに帰る準備をしていたらしい。

「廻間さんは大丈夫?」

「うん、直ぐ片づけられるから」

 周りを見渡すと、既に事務職は全員席にはいなかった。これで心置きなく飲みに行ける。英美は実家暮らしだが、もうこの年だから少し位遅くなっても両親は文句を言わない。

 英美は三人姉弟の長女で、下の弟二人は既に社会人となって家を出ている。上の弟は今年三十歳で独身だ。東京の会社に勤めていて一人暮らしをしていた。下の弟は地元の企業に勤めているが二十七歳で今年結婚し、夫婦で実家から少し離れた所に住んでいる。

 浦里と一緒に課を出てエレベーターに乗る。そこで彼に尋ねた。

「月末最終週だけど本当に良かった? いつもより早いでしょ?」

「厄介な案件はあるけど、数字がいいから問題ないよ。それに今日は仲村社長で生保の契約があったからね。あれが無かったらちょっとやばかったかもしれない」

「じゃあ朝一のお礼の電話は、絶対忘れないようにしないとね」

「お手数をお掛けしますが、よろしくお願いします」

 わざと仰々しく頭を下げる彼の肩を笑いながら軽く叩き、一階に着いた。まだ三箇は下りてきていないようだ。そこで彼は話を続けた。

「古瀬さんの件は今すぐどうって話じゃないし、来月に回せるからいいんだ。でも三箇の件は牛久課長の言い方だと、少し尋常じゃないな。今までにないほど最近は仕事の面でも落ち着かないようだって。だから早めに原因を突き止めないと、今後支障が出るレベルだとわざわざ頼まれたんだ。月末最終週だけど優先課題なんだよ」

「そんなに? でも確かにいつもの彼じゃないよね」

「そうなんだ。しかも彼の態度がおかしくなったのは、総合職の七月異動が発表された、先月の頭かららしい」

「え? どういうこと?」

「最初は何だろうと課長も不思議がっていたけど、その原因が久我埼さんにあると見ているらしい。あの人が総務課に配属されると知って、三箇さんの様子が変わったようだと言っていたから」

「今日はその件を聞き出すことが課題なわけね」

「そう。だから廻間さんからも、援護射撃してくれると助かる」

「了解。私も気になっていたところだから、丁度良かった」

 そう言っていると、三箇がエレベーターで降りて来た。

「お待たせ。じゃあ、行こうか」

「いつものとこで良い?」

「あの店なら個室があるから良いね。会社の人間もあんまり来ないから」

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