真実の先に見えた笑顔

しまおか

第一章

「奴は犯罪者だ。俺の目に狂いはない。十年前からそう思っていた。久しぶりに奴の顔と目を見たが、間違いない。あれは人を殺したことのある人間のものだ」

 彼が言ったあの言葉が、全ての始まりだった。



 七月に入り、ますます陽射しが厳しくなった。真夏日が続く名古屋の丸の内オフィス街では、アスファルトやビルの照り返しが強い。風は高いビル群にさえぎられ、さらに気温が上昇していた。

 そんな蒸し暑い中、同僚達と外で昼食を食べ終えた廻間はざま英美ひでみは、ようやく冷房が効いたビルに戻って来た。同じくお昼休みが終わり帰って来た社員達とエレベーターに乗る。

 ほんの一時の静かな時間を過ごし、一息ついた所だった。しかし八階のフロアに着いた途端、一転して騒がしい声が聞こえて来た。

「あれ? 無い!」

「どうしたの?」

 どうやら給湯室からのようだ。女性社員数人が集まって、なにやらざわついていた。

午後からの始業時間まで、まだ少し時間があるからだろう。昼食を済ました彼女達は、いつものようにお喋りをしていたらしい。普段の英美なら、気にも留めず素通りして席に戻っていただろう。

 しかし近くを通りかかった時、いつもとは違う雰囲気に反応してしまい、思わず視線を向けたのが間違いだった。落ち着かない集団の一人と目が合い、声をかけられてしまったのだ。

 また運の悪い事に、それが事務職の業務課副長である板野いたの祥子しょうこだった。

「ああ、廻間さんちょっと来て」

 本音はかしましい人達を避け、早く席に戻って午後からの仕事に取り掛かりたかった。だが業務主任の英美より役職が上で、年齢も四つ先輩の彼女を、無視することはできない。 

仕方なく、愛想笑いを浮かべながら歩み寄った。

「何かありました?」

「冷蔵庫に入れてたものが、無くなったんだって。私が知っているだけでもう三人目」

「また、ですか。今度は何ですか?」

 すると当事者らしい、柴山しばやま七恵ななえが説明しだした。

「紙パックのリンゴジュースよ」

 彼女は英美より三つ年上だが、役職は下になる。一度結婚を機に会社を辞めたが、五年前に再就職しているからだ。こういう場合は面倒だった。その為気を遣い、丁寧語で英美は尋ねた。

「名前を書かれていたのに、ですよね?」

「もちろん」

 このフロアには五つの部署がある。英美が所属する営業一課と七恵がいる営業二課、祥子のいる業務課の他は、総務課と企業営業一課だ。男女合わせて、六十人程いる。しかし彼女達が集まっている給湯室には、フロア共通の冷蔵庫が一つだけしかない。

 男性職員は、余り使っていないようだ。けれど女性達は、昼休みや朝出社する前に買ってきたジュース、またはちょっとした食べ物を冷やす為に良く利用している。

よってどれが誰のものだか判るように、名前を書いておくことが暗黙のルールとなっていた。

「この間も他の子のジュースが紛失したじゃない。三時のおやつにと楽しみにしておいたシュークリームを、誰かに食べられちゃった子もいたでしょ」

 怒りを隠しきれない七恵が、再び喋り出した。これまでにも冷蔵庫から飲み物等が無くなった話は、年に一、二回ほど耳にしている。しかし一つ一つの値段は、百円前後の物がほとんどだ。 

 英美達が働いているツムギ損害保険株式会社は、従業員数が約二万人、拠点数も国内外で三百か所以上ある。損保大手四社の中でも一、二を争う上場企業だ。

 よって所属する多くの正社員は女性も含め、それなりに高い給与を貰っている。英美達が通う名古屋ビルの職員も、例外ではない。その為いつもなら、誰かが間違えたのだろうとそれ程目くじらを立てず、皆諦めて終わりだった。

 しかし今回はこれまでと違うようだ。新年度が始まり三カ月経ったこの七月だけで、立て続けに紛失騒ぎが起こっているからだろう。おそらく祥子が耳にした三人以外にも、被害者は他にいるはずだ。

 つまり特定の人物や物に集中している訳ではない。他にも無くなったとぼやいている後輩達を、英美は見かけたことがあった。

 その為七恵に同意して答えた。

「少し頻繁に起こり過ぎですね。誰かがうっかり、というレベルではないかもしれません」

「わざと勝手に食べたり飲んだりしている社員がいるってこと? それじゃあ泥棒じゃない。まったく、いい加減にして欲しいよね」

 地上十八階建て地下二階の自社ビルでは、一階から四階までのフロアに貸し会議室やテナントの企業が入っている。しかしそれ以外のフロアへツムギ損保の社員以外が簡単には入室できない様、厳しいセキュリティ体制を敷いていた。

 契約者等の顧客が来店した際は、一階の受付で用事がある部署と連絡を取った後、訪問先のフロアのみに入室できる入館許可証を渡すことになっている。社員は一階から連絡を受けるとエレベーター前で待機し、別の部署に間違って入らないよう案内するという徹底ぶりだ。

 要するにフロアで物が無くなった場合、社内の人間による犯行の確率が圧倒的に高い事を意味していた。それに金品が紛失した訳でもない。モノがモノだけに、社員の仕業と考えるのが妥当だろう。

 そうこうしている間に、休憩時間が無くなりつつあった。その為止む無くその場にいた、最も年上で役職が高い祥子が告げた。

「そろそろ皆、席に戻りましょう。でも周りの人には、またこういうことがあったと知らせてね。誰か心当たりのある人がいたら、声をかけ合うようにしよう。何か分かったことや気付いたことがあれば、私か一課の廻間主任に相談してください」

 いきなり英美の名が告げられたので驚く。しかし周りを見渡すと、祥子の次に自分の役職が上だからだと理解した為、しょうがなく同意の意味を込めて頷いた。

 そこで解散したが、席に戻ると早速皆それぞれ同僚達に声をかけていた。特に隣の二課では、盗まれた当の本人である七恵が大きな声を出して同情を誘っていた。

「ちょっと聞いてよ、私のジュースが盗まれちゃってさ」

 その姿を横目に英美は席に座ると、周りの後輩が話しかけて来た。

「また冷蔵庫の物が盗まれたんですか?」

「そうみたい。今度は小さいパックのリンゴジュースだって。名前も書いてあったらしいけど、誰かに飲まれちゃったらしいの」

「確か少し前にオレンジジュースが無くなって、シュークリームも盗まれたんですよね」

「他にもヨーグルトが無いと言っていた子がいましたよ。でも名前を書き忘れたからしょうがないかって諦めていましたけど、これだけ続くと少しおかしいですね」

 今回は祥子に巻き込まれてしまったが、本来英美はこうした話題に首を突っ込むことを好まない。しかし立場上無関心を装うことも出来なかった為、彼女達に聞いてみた。

「何か心当たりはある? 誰かが飲んでいるのを見たとか、そういう話は聞いてない?」

 一課には英美を含めて事務職の女性が五人いる。他にスタッフと呼ばれる女性のパートが三名、課長を含めた総合職と呼ばれる男性が六名の計十四名で構成されていた。

 スタッフの中でも冷蔵庫を利用している人がいるからか、関心があったようで今回の話題に耳を傾けていた。あれだけ隣の課で騒いでいるのだから当然だろう。

 皆が顔を見合わせ、首を横に振ったので英美は呟いた。

「誰が怪しいとか、そういう話はまだ出ていないようね」

 すると一人が身を乗り出し、喋り出した。

「具体的に名前は上がっていませんが、この七月に人事異動で来た人が怪しいって噂されていますよ」

 その意見に同意する子が、他にも出て来た。

「そうそう。今までにも全くなかった訳じゃないですけど、今月になって急に増えていますから。多分そうですよ」

 話が盛り上がりかけたその時、英美の隣の席に戻って来た総合職の浦里うらさとしげるが注意した。

「誰が怪しいって? もう休憩時間は過ぎているんだから、余り長くなるような雑談は止めてくれ」

 注意された子達は首をすくめ、そそくさと各々の席に着いた。最初に話題を提供したのは英美だったので、代わりに謝った。

「ごめん、ごめん。ちょっとした騒ぎがあったものだからつい、ね」

 彼は入社八年目で、三十二歳の英美より二つ年下の主任だ。損保業界では、取引先の事を主に代理店と呼ぶ。英美は彼が担当する代理店の事務処理を、ほぼ全て行っていた。

 その為二人の席は隣同士で、仕事上の打ち合わせをする機会も多い。それに年下だが付き合いも長くなったことから、二人で話す時は互いにタメ口だ。

 名古屋に来る前は京都に四年いた彼が、この営業一課に配属されてから今年で四年目になる。その間ほぼ担当が変わらなかったことと、元は関西出身だからか遠慮のない彼の性格も手伝い、気を使わなくなったからだろう。

 担当者として仕事は間違いなくできる為心強い彼だが、時には土足で踏み込んでくる性格を、英美はやや苦手に感じることも少なくなかった。

 ちなみに入社十年目の英美は、一課に来て五年目だ。その前は、同じビルの九階にある企業営業二課いた。総合職とは違って、事務職は転居を伴う異動が無い。

 しかし基本的に、数年すれば部署は変わる。期間は違うけれども、現在所属する一課が二か所目の赴任先である点は、彼と同じだった。

「何、何? 何があったの?」

 背後にあるパーテンション越しに、プロ代理店の古瀬こぜりょうが顔を覗かせて声をかけて来た。思わず振り向いて注意する。

「古瀬さん、そこから覗かないで下さいと、何度も注意したじゃないですか。駄目ですよ」

 英美達の机上には担当代理店等から回収された申込書など、個人情報が記載されている書類が大量に置かれている。よって社員以外には立ち入らせない様、机の周りは壁のように区切られていた。

 けれど高さが一メートル五十センチほどの為、少し背が高い人なら簡単に上から垣間見ることが出来る。百六十センチ弱しかない英美の場合は、背伸びしないと見えない。百八十センチほどある彼や浦里などは、普通に歩いているだけで覗けるのだ。

「まあ、まあ、硬いことは抜きにして。で、何かあったの?」

 しつこく尋ねる彼に、今度は浦里が注意した。

「古瀬さん。もう打ち合わせは終わったじゃないですか。余り長い間フロアにいると、他の人に怒られますよ。もう社員じゃないんですから」

 二人は先程まで、パーテーションの向こう側にある応接間を使っていたのだろう。下の会議室を抑えるまでも無い簡単な打ち合わせの場合は、そこで済ませる場合が多い。

 ただ彼は二年ほど前まで、こちら側に席を与えられていた立場だった。だから個人情報云々という理由で入るな、見るなというのも確かに薄情な気もする。

 浦里も英美も本気で怒っている訳ではない。ただ規則であり他の代理店さんや社員の手前、言わなければならないから口にしているだけだ。それが解っているからか、彼は諦めず聞いてきた。

「何があったのか教えてくれれば、素直に帰るよ。で、どうしたの?」

 しょうがないと諦め、英美は席を立ち壁に近寄った。そこで彼は顔を引っ込めて一歩、後ろに下がった。話してくれるなら覗かない、との意思表示らしい。

 そんな彼を見上げながら、先程給湯室で起きた出来事を説明した。

「ここ最近フロア共有の冷蔵庫から、飲み物や食べ物が無くなっているって話です」

「へぇ。あっ、俺じゃないよ。研修生時代にそんなことしたら酷い目に遭うって、散々脅されたから」

 英美が一課に来た当時、すでに彼はここにいた。その頃は一応社員という立場だが、厳密にいうと英美達とは違う。三年の研修期間を過ぎて無事卒業出来れば、獲得した保険契約の手数料収入だけで生活できるプロの代理店となり、独立した個人事業主か法人代理店になるのだ。

 年は英美と同じ三十二歳でプロ三年目になる彼は、去年結婚したばかりだった。ちなみに奥様はツムギ損保の元事務員で、同じフロアの企業営業一課にいた四つ年上の悠里ゆうりだ。 

 英美が一課に配属される一年前に、古瀬が研修生として入った。その頃彼女は隣の二課にいたらしい。そこでお互いに見初め合ったのか知らないが、二人はこっそり付き合っていたという。その後結婚した現在、彼女は古瀬が独立と同時に法人化した代理店の副社長兼事務員として働いている。

 浦里が一課に異動してきた際、前任の総合職からまだ研修生だった彼の担当を引き継いだ。それを機に英美の担当になり、彼が獲得してきた契約の申込書をチエックするなど、事務面での教育を行ってきた。

 そうして彼が研修期間を終え無事独立し、プロになるまでの道程みちのりを浦里と見守って来たのだ。加えて三人共年齢が近いこともあり、担当代理店の中では最も親しいと言っていい。さらに奥さんとも顔見知りだったこともあり、二人は古瀬達の結婚式に呼ばれ参列している。

「そういえば研修生時代の最初の二年弱は、板野さんが事務担当でしたね」

 浦里が話に参加すると、彼は大きく頷いた。

「廻間さんと違って、あの人は厳しかったからさ。いつだったか、」

「ああ、もうそれ以上言わないでください。後で祥子さんの耳に入ったら、酷い目に遭いますよ」

 先程給湯室の騒ぎで仕切っていた彼女は、以前一課で彼の担当をしており英美の前任者だった。よって仕事やマナー等に厳しい人なのは、良く知っている。

 彼女の悪口を言ったなら、直接本人が聞いていなくてもすぐ耳に入ることは確実だ。そうなると英美も巻き添えになってしまう為、慌てて止めた。浦里も大きく頷いた。

「そうですよ。独立して社員でなくなったからと言っても、彼女の影響力は大きいですからね。これから仕事がし難くなりますよ。先程の打ち合わせでも話したように、新婚さんだからまだまだこれから稼がないといけませんからね」

「そうでした。危ない、危ない。口にチャック」

 周りを見渡し彼女がいないことを確認しながら、彼はおどけた。しかし話している内容はシビアだ。実際彼の保険契約の取扱件数や手数料だと、経済的には相当厳しい。もっと奮起しないと、やがてプロではやっていけなくなる時が来るかもしれないのだ。

 彼は二十七歳の時、ツムギ損保へと転職してきた。前職は、コンビニのフランチャイズ店の店長だった。彼の実家はかつて酒屋を営んでいたが、父親の代でコンビニ店に事業転換したそうだ。

 しかし父親が病気になり、店頭へ出られなくなった。そこで高校を卒業して店の手伝いをしていた彼が、後を継ぐことになったらしい。だが結局、廃業せざるを得なくなったと聞いている。

 性格は人懐っこい。お年寄りにも若い人にも柔らかい対応ができる為、営業向きだとは思う。酒屋時代からの人脈もあり、研修生として入社した時は、かなりいい成績だったという。

 しかし優しすぎる分少し頼りなさも手伝ってか、ある程度伸び切った所で頭打ちしているのが現状だ。その為浦里も何とかしようと、打ち合わせを重ねて新規の企業工作等を提案しているらしい。

「さっきまで隣の二課や廻間さん達が話していたのは、その件でしたか。今月になってから何度も起こっているとなると、新しく入って来た人の可能性が高いかもしれないですね。まだこのフロアのルールとか、判っていないのかもしれない」

 浦里の言葉に、英美が答えた。

「そういう話が給湯室でも出て、具体的に犯人探しが始まっているようです」

 年齢は前後しているが、社内ではお互いさん付けで呼び合うことが通例となっている。それに社外の代理店である古瀬がいるため、周囲の目を気遣ってここでは敬語を使い話した。

 三人だけしかいなければ、タメ口で話すところだ。しかしそれでは他の社員から、公私が区別できていないと叱られかねない。

「この七月にこのフロアへ異動してきた人とすれば、限られるでしょう。さすがに他の階の人が、わざわざ来るとは思えませんからね」

 浦里の意見に、古瀬が口を挟んだ。

「いやいや限られているって言っても、七月だと研修を終えた新人の事務職も沢山いるでしょう。ねぇ、廻間さん」

「いえ、今は事務職の研修が以前より短くなって、五月の連休明けには着任していますから外していいと思います。それでも総合職や他の支社から異動してきた事務職を入れると、このフロアだけでも十数人はいるでしょう」

「そうか。この階は、事務職の人が多い業務課がありましたね。でも一課で異動した人はいないし、二課は主任さんが一人でしたっけ。後の総務課や企業営業一課は、誰が来たのか知らないな」

 古瀬の呟きに、浦里が答えた。

「総合職は二課以外だと企営で新人が一人、主任クラスが一人、総務課でも一人いますね。ただ事務職までは詳しく覚えていないな」

 そう言って英美に視線を向けた為、気が乗らなかった作業を行う。

「ちょっと待ってくださいね。今端末で調べますから」

 席に座りデスクトップのパソコンを操作して、七月の人事異動データファイルを開く。そのリストを見て、今回の異動で八階フロアに入ってきた事務職の名を数える。すると十三人の名が出てきた。その事を告げると彼らは唸った。

「総合職で四人、事務職で十三名か。ちょっと多いな。絞り込むのは難しいね」

「浦里さん。それだけじゃないですよ。最近入ったスタッフさんまで含めると、何名になるか」

 だから嫌だったのだ。タイミング悪く給湯室の前を通ったおかげでこれだけの社員を疑わなければならない。考えるだけで気が滅入った。

 一課ではスタッフの入れ替えがなかった為、対象から外せることだけが唯一の救いだ。しかし他の課とはいえ、同じフロアにいる職員に対して怪しい目を向けるなど、面倒を起こすことは勘弁して欲しい。ただでさえ人数が多い為に、社内の人間関係は難しいからだ。

 特に女性が多いこのフロアでは、下手にこじらすと仕事がやりにくくなる。入社して十年目になる英美は中堅クラスとなり、後輩を指導する立場となった。ある程度の仕事は一人でもできるようになったが、代理店対応やお客様対応で苦労することはまだまだ多々ある。

 しかしそれ以上に神経をすり減らすのは、社内営業とも呼ばれる対人関係だ。何故社外より、中に向けるエネルギーが必要なのだろうと嫌気が差す。けれどそれもしょうがないのだろう。

 この会社では、入社して数年もしない内に辞める若手社員が少なくない。加えて毎年男女共に入社十年超のベテラン社員の一定数が、精神を病み休職しているのが現状だ。

 それでも二十年以上勤務する先輩方に聞くと、皆口を揃えて残業など昔の勤務状況は相当酷かった、だから今は楽な方だと言う。実際金融監督庁や労働基準局が残業実態に関して煩く言い出した二〇〇二年頃から、職場環境は徐々に改善し始めたようだ。

 英美が入社した時は既に、社員一人一台配置されているパソコンの電源を入れた時間と、シャットダウンされた時間が記録されるようになっていた。

 そこで年二回の社内による検査部検査等により、過剰な残業や労働実態がされていないかを確認するようになったという。それ以前の特に二〇〇〇年より前だと、女性の事務員でも部署によっては夜十時以降まで残業することなど珍しくなかったらしい。

 男性総合職は十一時や十二時、下手をすれば応接間で寝泊まりしている者もいたと聞く。土日の休日出勤など、当たり前のように行われていたそうだ。

 今ならそんなことをしていると、管理職に責任が及ぶ。その為勤務時間に関しては、ほとんどの部署で改善されている。

 だが問題は働く時間だけではない。勤務時間を少なくさせられた分、短時間で仕事をこなさなければならなくなり、よりハードになったと言われていた。

 時短と言われても、仕事自体が減る訳でもない。ましてや人手不足と言われる世の中で社員を増やし、一人当たりの負担が少なくなるなど有り得なかった。

 ツムギ損保も含め、合併を重ねてきた保険会社であるが故に、退職する社員も少なくないと聞く。なぜなら文化の違いからか、スムーズな運営ができなかった部署も多かったからだろう。

 そこに加え派閥の対立もあり、人間関係はより複雑になったようだ。そこにきて育休制度を取ったり、有給を消化せよとのお達しで休む人達が増えたりする中、心を病んで長期休職する人達は一向に減らない。

 そうした現状では、休んだ人達の分までフォローしなければならず、仕事は増えるばかりだった。通常でさえ溜まりに溜まった自分の仕事も、短時間で終わらせなければならないのだ。

 よって仕事中は皆神経が尖る。余計な仕事はしたくないといった空気をまとうことで、自己防衛を図っているからだろう。そんな職場など、楽しいはずがない。

 自分の事で精一杯になって息がつまり、対人関係もぎくしゃくする。そうした雰囲気が、また退職者や休職者を増やす。またできるだけ会社を休もうとする人達や、仕事を減らそうとする人達で溢れるようになるのだ。

 すると残った人達に仕事が押しつけられ、できる人達に集中していく。その結果一人一人と会社を辞め、また疲労して心を病む人が増える。またはなるべく仕事を受け付けない要領の良い社員の占める割合が、どんどんと増えていくのが現実だった。

 しかしそうした悪循環に苦しむ会社の状況など、お客様には関係無い。相手は決して安くないお金を払って、安心を買っているのだ。万が一事故や病気など困ったことがあれば、相談に来る。よって顧客満足度を上げる為に、そこで手を抜くことはできない。

 ならばどこで仕事の効率化を図るか。それが社内における雑務等だ。それらをできるだけ抱えないようにする事が、この会社で長く働く秘訣とも言える。

 だからこそ、英美も今回のような犯人探しをやっている暇は無い。骨が折れるばかりで、得をすることなどまずなかった。ましてやその相手が、同じ事務職だったなら最悪だ。

 もし見つけたとしても、同じフロアで働き続ける間、ずっと気まずい関係が続くだろう。だから英美はこの問題だけでなく、できるだけ社員との深い付き合いを避けてきた。

 しかし今回はそんな事を言えない状況に追い込まれ、頭を悩ましていた。そんな時だった。隣の課でも同じ話題が続いていたらしく、わざと周りに聞こえる声で七恵が叫んだ。

「あの死に神が盗みもしているとしたら、最悪よね」

 またその話かと英美がうんざりしていると、事情を知らない古瀬がきょとんとした顔で尋ねて来た。

「何? 死に神って誰の事?」

 浦里も耳にしていたのか、眉をひそめながら小声で説明した。

「新しく総務課に赴任された、総合職の事ですよ。事情があって、死に神というあだ名がついているんです」

「着任早々死に神と呼ばれるなんて、よっぽど酷い事でもしたの?」

 英美がこの手の話が嫌いな事を知っている浦里は、ちらりとこちらを見てから答えた。

「色々あるようです。他所よその課の人だし、古瀬さんのような代理店さんと絡むことはまずありませんから、気にしないでください」

 暗にこれ以上詮索しないよう諭すと、彼も気づいたらしく素直に頷いた。

「プロ代理店は食べていくのに苦労するけど、社員さんは人間関係が大変ですね。給料が良いから経済的には困らないだろうけど、俺達は個人事業主だから、お客様対応以外の人間関係で面倒な事はまずないし。どっちがいいかと言われれば人によるとは思うけど、俺は今の立場の方が良いかな。嫌な客は断ればいいし、欲しい契約は頑張ればなんとかなる場合が多い。だけど会社内の対人関係は、自分の努力だけで解決できないからね」

 痛い所を突かれた英美達が否定出来ず黙っていると、彼は空気を察して言った。

「じゃあ、打ち合わせも終わったことだし、俺は帰りますね」

 遠ざかる彼の背中に、浦里が声をかけた。

「頼みますよ! 先程掲げた今月の目標は、必達ですからね!」

 こちらを見ずに片手を挙げて廊下へと出て行く姿を見ながら、英美は小声で尋ねた。

「総務課に赴任した久我埼くがさきさんの件、浦里さんはどう聞いている?」

 古瀬を見送って隣の席に座った彼は、声を抑えて言った。

「転勤先で気に食わない上司が、次々といなくなったみたいだね。確かこれまで異動した三つの部署で一人ずつ、合計三人が事故にあったり病死したりしたと耳にしたけど」

「私も噂で知ったけど、それって本当なの?」

 二人きりで話していた為、互いに言葉が雑になっていた。すると彼は皮肉で返してきた。

「こういう話って、嫌いじゃなかったっけ?」

 むっとした英美は、少し言葉を荒げた。

「嫌いだけど、これは普通の風評じゃないから聞いたの。もういいわ。別に興味ないから」

 そっぽを向いた為、彼は慌てて言った。

「冗談だって。そんなに怒らなくてもいいだろ。でも間違いないみたいだ。何人かから同じ話を聞いたし、中にはかなり事情に詳しい人もいたから」

 聞き捨てならない言葉に反応して尋ねた。

「事情に詳しい人って誰よ」

 少し躊躇していたが、彼は教えてくれた。

「SC課の三箇さんがさんだよ」

「途中入社で賠償ばいしょう主事しゅじの彼が、何故そんな人の話を知っているの?」

「それも色々事情があるみたい。その辺りの事は個人的な話になるからこれ以上言えないけど、気になるなら本人から聞いてくれ」

 三箇佳史よしふみは英美の一つ年上の三十三歳で、途中入社組だ。自動車事故の対応を行うサービスセンター課、略してSC課に所属しており、浦里や古瀬と共に顔を合わせれば必ず会話を交わす仲だった。

 彼の役職である賠償主事とは、人身事故を起こした契約者や運転手等に代わって、怪我をした相手被害者に対するケアや、示談交渉などの仕事を主に行う専門職の事を指す。

 SC課では怪我がなく、自動車の損害だけで済む物損事故の場合等の多くは、特に問題がない限り電話だけで示談を済ませる。しかし人身事故となるとそうはいかない。直接被害者と面談する等の対応が必要だからだ。

 特に相手が感情的になるなど、揉めるケースも少なくないので専門職が配置されている。以前はそうした交渉だと、経験を積んだ年配の男性が良いとの風潮もあった。

 だが今では若くから採用し、育成する方向に代わったと聞く。仕事の質からも、元警察官などを採用するケースが多かったらしい。その流れを汲んでか、三箇も以前は元警察官だったようだ。

 愛知県警で六年ほど勤めた後に転職したらしい。そしてこのビルの七階にある名古屋第一SC課の人身チームに配属されて、もう九年目になるはずだ。

 一見人当たりは良さげだが、空手と柔道、合気道の有段者だと耳にした。浦里達と同じ高身長で、がっしりした体形をしている。それに元警察官だけあって、観察眼が鋭い。険しい目をしていたり怒ったり睨まれたりしている姿を見れば、怖いと感じることもあった。 

 そんな彼が、着任したばかりの久我埼の事を良く知っているという。それが不思議だった。

 しかし今はそんな事など重要ではない。余り関わりたくない類の話なので今まで避けてきたが、ここまで聞くと確認しておかなければ気持ちが悪い。そこで再度尋ね直した。

「三箇さんのことはいいから、噂の話は何が本当なの?」

 すると浦里は、意外なほど詳細に説明し始めた。

「久我埼さんが最初に赴任した京都で、入社四年目の時に車を運転していた当時の支社長が事故を起こして亡くなっている。久我埼さんもその時助手席にいて大怪我をしたけど、命に別条は無かったらしい。その後、二か所目の赴任地が愛知県の一宮支社で入社九年目の時、当時の支社長が自宅で突然の心不全で病死したそうだ。二人共久我埼さんに厳しく当たっていたようで、その頃から疫病神呼ばわりされ始めたらしい。それで久我埼さんは精神的にも参ってしまい、うつ病に罹って一年半休職したそうだ」

 予想外の話の展開に、英美は顔を顰めながら言った。

「え? 事故死と病死で疫病神扱い? それって酷くない?」

 彼は素直に頷いた。

「酷いと思うよ。でも二人目の時は警察が本当に病死だったのかと疑って、会社にも立ち入り検査が入ったらしい。だから余計にそういったデマが広まったんだろう。結局は病死扱いになったようだけど、久我埼さんが復職して半年後に異動した大宮SCにいた時、また上司が急に変わったんだ。今度は久我埼さんが入社十三年目の時、ゲリラ豪雨時に増水した用水路へ誤って落ちたらしい。溺死したと聞いている。その上司とも上手くいっていなかったせいで、今度は死に神扱いされたようだ。その後また彼は心を病んで長期療養が必要となり三年半休職し、その後再び復職してこの七月に名古屋支店ビルの総務課へやって来たというわけ。だから入社十九年目だけど、未だ主任のままらしいよ」

「そうなんだ。合計五年も会社を休んでいたんだから、役職は仕方がないかもしれないけど、たまたま相性の悪い上司が亡くなっただけじゃない。それで死に神扱いってあんまりでしょ」

 元々嫌な噂話だったが、聞けば聞くほど周囲の扱いが悪質極まりない。怒りが収まらない英美に対し、彼は宥めるように言った。

「異動先の三か所で三人の直属の上司が突然変わったというのは、余りにも偶然が重なり過ぎているとは思う。だけど彼の上司になった人が全員死んだわけじゃない。京都東支社では入社三年目の時に新しく赴任してきた二人目の支社長だし、一宮支社でも亡くなった支社長は途中で変わった二人目だったらしいから。在職十九年の間で直接指導した管理職は九人、今度の総務課で十人目のようだ」

「でも九人の上司の内、三人が事故や病気で亡くなったんだ。それで死に神って呼ばれている訳ね。それにしても酷いよ。一件目と三件目も、警察が捜査していたの?」

「いや、普通に事故として処理されたらしい。二件目は病院へ行く前に家で急死してしまったから、変死扱いになって警察が動いたようだ。それに死因は何か特別なウィルスが、心臓に負担を与えたからだったみたい。だから会社でも他に感染者がいないかを調べる必要があって、大袈裟に騒がれたとも聞いているけどね」

 確かに直属の上司が亡くなったりして代わりの人が来ることなど、そう経験することではない。しかも三人となれば尚更だ。偶然が重なれば、必然と疑われるのも理解できる。

 しかし三件の内、少なくとも二件は事故として片付いているのなら、全く問題無いはずだ。単に面白がって、噂が先行したのだろう。やはりその程度の事かと、英美はため息をついた。

 仕事もまだまだ溜まっている。憂鬱だが目先の事に集中する為浦里との会話を終わらせ、総合職が代理店から回収してきた申込書等に不備がないか、チエックし始めた。

 その後証券発行までの手続きである計上けいじょうと呼ぶ処理をすることが、事務職に与えられた仕事の多くを占める。日によってまちまちだが、書類は次々とやってくる為終わりがない。

 総合職達にとっては、申込書が契約保険料の数字となり成績になる。その為必死にかき集めてくるからだ。昨年以前に締結した一年契約の更新された申込書も、当然数字に加算される。

 だが新規と呼ばれる新たに契約を結んだ申込書は、特に嬉々として持ち込まれた。それらを確実に契約として反映させなければ、社員が抱えるそれぞれの目標数字に達しない。 

 代理店が獲得してきた契約が自分達の飯のタネになる為、本来社員として喜ぶべきものだと理解はしている。しかし懸命にそれらを処理しなければならない事務職にとって、大量に持ち込まれる申込書の束が、時折憎らしく思えることもあるのだ。

 噂話に花を咲かせていた二課の面々でさえ、いつの間にか静かになっていた。目の前に突き付けられた書類の束の計上に、没頭し始めたからだろう。外出したり戻ってきたりする社員達の出入りも、ようやく落ち着き始めていた。

 浦里も横でパソコンを開き、何か作業をしている。午前中は朝一から外に出ていた彼も、午後は社内で仕事をする予定らしい。フロアにいる誰かがお土産で買ってきた、机上に配られたお菓子を無造作に口へと運びながら、黙々とキーボードを叩いている。

 朝の九時からお昼一時間を含めて八時間勤務した夕方五時を回っても、仕事が終わらないことなど当たり前だ。今日の英美がそうだった。

 早ければ、六時までには帰ることができる。しかし今日の流れだと、少なくとも七時は過ぎるだろう。これもしょうがない。今月は営業にとって忙しい時期だ。

 六~七月に保険獲得キャンペーンを張ることが多く、その最終月だから尚更だった。さらに損害保険業界では、生命保険の併売も今や当たり前になっている。そちらも上半期の中で、最も力を入れる月が七月だ。

 締切り最終週の一週間前だから、まだこの程度で済んでいる。月末の締切日となれば、八時でも帰れないと覚悟しなければならない。営業職にとって、そんな忙しい月に余計な仕事をしたくないと感じるのは、誰も同じだ。

 そんな時にジュース泥棒の犯人が誰か、などと言っている余裕は無い。それでも六時が過ぎると手が空き始めたのか、数人の事務職達が英美の元へとやって来た。

「廻間さん、紛失事件の件ですけど今いいですか?」

 心の中では良くないと思いながらも、やはり来るだろうと覚悟していた分、不自然ではない笑顔で応じることが出来た。

「いいわよ。何かあった?」

 何か分かったら私か一課の廻間主任に相談してください、と祥子が言った時点で多くの子がこちらにやってくることは予想していた。何故なら彼女は業務副長へと昇格してから、特に下の事務職に対して厳しく当たっていた為、恐れられているからだ。

 以前はそれほどでもなかったが、役職が上がった分上から色々言われているらしい。だから後輩達は怖がって、自らは近づかなくなってしまった。その事に彼女も上司も気づいていないようだ。

「今日あれから周りの人に話をして、リンゴジュースを飲んでいた人を見かけていないか、他に盗まれたりはしていないかを聞いたんです。そしたら、総務課に新しく来た総合職の男性が何か飲んでいるのを見たとか、企営課に配属された新人総合職の席のゴミ箱でジュースの空箱を見たかも、という話が出てきました」

 話している事務職は確か業務課にいる子だが、祥子とは違う班の女性だ。ただ周りにいたのは、企業営業一課の事務職も混じっている。英美は話を聞き終わった後、一応尋ねてみた。

「この中で、実際そうした現場を見かけた人はいる?」

 すると全員が首を横に振った。しかし先程とは別の事務職が説明し出した。確か企営課の女性だ。

「総務課の人の話は、不確かな伝聞です。でも新人総合職のゴミ箱で見たというのは、私が清掃のおばさんに確認したから確かだと思います」

 各フロアでは、各人の席に置かれているゴミ箱やシュレッダーされた紙ごみなどを、夕方になると回収してくれる外部の清掃業者がいた。恐らく彼女は、その人から聞いたらしい。

「分かった。ありがとう。どう対処するかは、板野さんとも相談してみる。だから皆はいつも通りにしていて。その二人の内どちらかが犯人と決まった訳じゃないから。特に企営課の人は注意してね。新人の子を変な目で見たら可哀そうでしょ。でもまた気付いたことがあったら、教えてくれる?」

「分かりました。そうします」

 やはり二回目に話をしてくれた人は、同じ課だからだろう。深く頷いてくれた。

「ちなみに聞くけど、その新人さんはそんなことをしそうな感じの人なの?」

「いえ、全くそういう風には見えません。今は仕事で判らない事が多く大変だからか、とても真面目で一生懸命にやっています」

「そう。だったら、そっとしてあげて。もし彼だったとしても注意するのは、私か板野さんからした方が良いと思う。同じ課の人に指摘されたら、恥ずかしいでしょ」

「そうですね。ではよろしくお願いします」

 彼女達も安心したようだ。近づいてきた時の緊張感がほぐれたのか、ホッとした顔をして出て行った。その姿を見送ると、隣の席で話を聞いていたらしい浦里が話しかけて来た。

「今の話だと、新人君が犯人かもしれないな。総合職は給湯室の冷蔵庫を使うことが余りないから、このフロアのルールなどを先輩から教えられていない可能性がある」

「だからといって、自分が買ってきたわけでもない物を、勝手に飲んだり食べたりしていい訳ないでしょ。それに名前も書いてあるんだから」

「それはそうだ。まあ意図してそんなことをしたのか、悪気が無かったのかは知らない。だけど大学を出たばかりの新人君なら、やりかねないだろ。久我埼さんがどういう人か俺も良く知らないけど、四十を超えた総合職だから、さすがにそんな事はしないと思うよ」

「私もそう思う。変な噂話が先行しちゃっているからか、容疑者の一人みたいに言われているけど、それはないでしょう。余程変わった人なら別だけど。浦里さんは、久我埼さんと話したことある?」

「見かけただけで、話したことはまだ無い。少し暗い感じがするけど、そう変わった人だとは思わなかったよ。十九年目でまだ主任だというのも、病気で長期離脱していたからだろうし」

 二人とも手を止めることなくそんな話をしていると、突然祥子が現れてつかつかと近づいてきた。そしていきなり切り出した。

「今日の昼間の話、何か聞いている?」

 相手が仕事中で、忙しい最中だと気付かないはずは無い。彼女だってこの一課で仕事をしていた時期があったのだ。しかし四年前に業務課へ異動し、昨年主任から副長へと昇格した。

 このフロアでは、英美達とは別の時間が流れている部署がある。それが業務課と総務課だ。業務課の仕事内容は多岐に渡り、いくつかの班に分かれていた。

 例えば名古屋支店を含む中部地区管内における全体のキャンペーンを周知させたり、研修を開くなどの運営を行ったりする班もあれば、事務職達を指導する班もある。

 他にもいくつかあるが、祥子は事務職を指導する班の責任者の一人だった。つまり今は数字や書類の計上等に追われる仕事から外れている。中部管内にいる事務職が日々行う業務が、円滑に進むよう心を砕く役目だ。

 その為今回のような問題が自分の席があるフロアで起こったからこそ、放っておけないと彼女は張り切っているのだろう。だが英美には迷惑だった。

 彼女の仕事が楽だとは言わない。時には計上業務などで不明な点があれば問い合わせを受けることもあり、忙しいこともあるだろう。

 けれど事務職が余裕のある時でないと、彼女達は指導する時間を取ることや、日々の悩みなどを聞いてあげることもできない。つまり繁忙期が完全に違うのだ。

 決して悪い人で無いと知っている。彼女とは一年だけだが一課で共に仕事をした関係だ。その時は数多くの事を教えて貰ったし、頼りになる先輩だと思っていた。

 しかし当時から噂話が好きで、しかも話に加わるだけでなく、中心となって仕切りたがる傾向があった。そこが全く英美とは、相いれない点だった。

 異動して四年も経てば忘れてしまうのか、こちらの都合などお構いなしの態度に、心の中で思わず舌打ちする。だが感情は表に出さず、手元を動かしながら顔だけを横に向けて言った。

「少し前に、企業営業課の人達が何人か来ました。新人総合職のゴミ箱で、ジュースの空箱を清掃のおばさんが見たらしいという話をしていきました。他にもジュースを飲んでいたらしい男性がいたとも聞きましたが、そっちは少し疑わしいと思います」

「そう。こっちでもフロアにいる事務職を中心に被害の状況を聞いたり、こういうことがあるからと注意を喚起して回ったりしたの。そうやって情報収集もしていたんだけど、今月の異動で総務課にきた人が怪しいって話を耳にしたわ」

 久我埼の事を言っているのだと分かりカチンときた英美だったが、穏やかに聞き返した。

「飲んだり食べたりしている現場を、見た人がいたんですか?」

「そうじゃないけど、久我埼って人は色々訳ありの人らしいから」

 やはりその話かと飽き飽きしながらも、適当にそうですかと相槌を打った。その態度が、期待するものでは無かったからだろう。彼女の声が尖った。

「それでどうする? 主任さんとはいえ、十九年目の総合職に対して私達から注意するのは、難しいわよね。総務課の課長に相談してみるしかないかな」

 彼女の頭の中には、英美が話した新人総合職のことなど眼中にないらしい。既に久我埼犯人説が出来上がっているようだ。その為反論した。

「でもしっかりとした証拠がありませんよね。それだけで課長に話すのは、無理だと思います」

「やっぱりそう思う? でも証拠って言っても、監視カメラを置くことはできないし、難しいでしょ。本人に直接言って、聞くしかないと思うんだけど」

「カメラはまずいですね。そこまでやるとプライバシーの侵害だとか、余計な騒ぎに発展しかねません。それにお金を盗まれたとかって話じゃないので、管理職の人達に言ったって相手にしてもらえないと思いますけど」

 横から浦里が助け舟を出してくれた。彼女もそう思ったのか、眉間に皺をよせながら頷いて言った。

「そうなのよ。この話をした時も、無関心な人が多かった。総合職のほとんどは冷蔵庫を使わないからでしょうね。それどころか目くじらを立てる程の事でもないとか騒ぎ過ぎだとか、犯人探しをするのは不謹慎だと文句を言う人達もいたわ。全く他人事だと思ってさ」

 どうやら一部の総合職から、既に叱られたらしい。そこで英美は言ってみた。

「だったらもう少し、様子を見ませんか。板野さん達が色々フロアで話を広めていただいたおかげで、今後冷蔵庫を使用する業務職も気をつけるでしょう。それに今回の騒ぎを聞いた人が、つい間違って飲んでしまったと気付けば、問題も収まるかもしれませんよ」

「そうね。しばらくはそのままにしておこうか。それでもまた盗まれた人が現れたら、その時もう一度話し合って決めましょう」

 自分に言い聞かせるように結論付けた彼女は、さっさと部屋を出て行った。全く始末の悪い事が起こったものだ。こんなものは本業でも何でもない。

 業務の合間、適当に済ませよう。それにあの様子を見て、企営の新人総合職に声をかける役は、英美自身がするしかないと諦めた。しかし話はそれこそ、次に起こった後でいいだろうと思っていた。

 その考え方が甘かったと気付かされるのは、次の日だった。恐らくフロア中で、昨日の件が広まっていたのだろう。それだけでなく、祥子と英美が中心となって犯人探しをしているという、間違った噂まで立ち始めていたのだ。

 その為別件で席を離れ他の課による度に、とうとう犯人を見つけたのか、注意しに来たのかと揶揄やゆされ始めた。さらにはそんな馬鹿なことは止めろと、良く知らない総合職にまで注意されたのだ。

 その為腹を立てた英美と、揉めることがあった。こんな嫌な思いを、いつまでもしている余裕など無い。さっさと新人総合職に声をかけ、白黒はっきりさせて終わらせるべきだ。

 そう考えて浦里に相談すると、意外な答えが返って来た。

「しかし厳密に言えば、窃盗は犯罪だ。しかも相手が他所の課の総合職となれば、言い逃れ出来ないようにした上で、しっかり教育してやらなければいけないんじゃないかな」

 ちょうどそこには既に事情を聞かされた古瀬の他、SC課の三箇もいた。たまたま事故の件か何かで、浦里達と打ち合わせがあったらしい。その二人が同じことを言いだした。

「そうだよ。もうフロア中で話題になっているくらいだから、下手な言い方をすると問題が大きくなるぞ。ただでさえ最近はすぐにパワハラだ、なんだと騒がれる風潮があるから。それに開き直られると厄介だしな」

「じゃあ、どうすればいいのよ」

 苛立ちを隠せずつい厳しい口調になった英美に対して、四人の中で一番年上の三箇が宥めながら言った。

「ちょっと落ち着けって。俺に考えがある」

 彼は四人だけが聞こえるような小声で、ある方法を口にした。それを聞いた古瀬は、首を傾げてやや懐疑的に言った。

「上手くいくかな。すぐバレない? それに冷蔵庫の中の物全てに仕掛けるのは、無理でしょう」

「もちろん、そこは工夫しなければならない。仕掛けたものの一部を、手に取らせるようにする必要がある」

 三箇はそこで具体的にどうすればいいか、手続きの仕方を英美に詳しく教えてくれた。最初は古瀬と同様の感想を持っていたが、聞いている内にダメ元でやってみるのもいいだろうと思い直した。

 そこで早速昼休みの間にコンビニで、リンゴジュースのパックとシュークリームを二個ずつ購入し、三箇の言う通りの仕掛けを施した上で、冷蔵庫の中に閉まっておいた。

 だが残念ながら、その日は空振りに終わった。しかし次の日の十時過ぎに、早速動きがあった。丁度その時、隣に浦里が在席していた為思わず声をかけた。

「ちょっと、見て、見て! 動いている!」

「え? 本当に?」

 英美の机の上には、着信音をオフにしたスマホを置いていた。すぐ目が届く場所にあった為、二人で画面を覗き込んだ。間違いなく、点滅した点が移動している。

「早く追いかけなきゃ!」

 慌てる英美を、浦里が制した。

「ちょっと待って。三箇さんが言っていただろ。追いかける場合は、点滅した点が止まった場所を確認してからの方が良いって。どこで飲み食いするか、判らないからね」

「そうだった」

 そこで点がどのように動き、どこに向かっているかを確認する。事前にどこの部署へ移動すればどう動くかをテストしていた為、どこの場所かは途中ですぐに分かった。

 やはり予想していた通りの人物がいる課だ。

「あっ、止まった!」

「よし! 行こう。俺も一緒に行くから」

「ありがとう。お願いね」

 浦里や三箇は、日中外出してしまう可能性が高い。その為基本的に一日中ビル内にいる英美が、動きのあった場合は一人で決行する予定だった。

 しかしたまたま彼がいてくれたおかげで、明らかに心強かった。英美は正面に座っていた後輩に少しの間席を外す、と声をかけてから急いで廊下に出た。そして目的の部署へと真っすぐに向かう。

 すると目を付けていた人物が、まさしく英美が昨日買ってきたと思われるシュークリームに手を付けていた。驚いたことに、包装フィルムをはがしてゴミ箱に捨てたかと思うと、二口で食べ終わっていた。

 英美達はその様子を見ながら速足で彼に近づき、横に立った。いきなり知らない事務職と、見かけて挨拶ぐらいしたことはあるかもしれない総合職が現れたからか、相手は目を丸くしている。

 動かしていた口が、中の物を飲み込んだ。それを確認し、話せる状態になった時点で英美は小声で尋ねた。

「今、シュークリームを食べたでしょ? それ、あなたが買ってきたもの?」

 一瞬間があったけれど、彼は素直に首を横に振った。

「い、いえ、違います」

「そうよね。私が昨日買って、冷蔵庫の中に入れたものだから」

 先程彼が放りこんだ包み紙を、ゴミ箱から拾い上げて告げた。

「あ、ああ、そうだったんですか。すみません」

 驚きながらも謝っていた彼に、再び質問した。

「どうして人の物を、勝手に食べたりするの? あの冷蔵庫の物って皆、名前を書いてあるんだけど」

 英美は手にした、“はざま”とひらがなで書かれているフィルムを見せる。本人は、全く気付いていなかったらしい。

「あ! 本当だ。すみません。知りませんでした」

「あそこの冷蔵庫は、このフロアにいる人達が各々買ってきたものを冷やして置くところなの。後で飲んだり食べたりできるようにする、共有の場所って知っていた?」

 ここまでくれば小声で話していても、周囲の事務職や席に付いていた総合職達が気付き始める。業務時間中、新人総合職の席に他部署の事務職と総合職が立ったまま、何やら呟いているのだ。何かあったと思うのは当然だろう。

 案の定、彼の席の正面にいた英美より年下の事務職が、恐る恐ると言った調子で尋ねて来た。

「あ、あの、何かあったんですか?」

「ちょっとね。で、どうなの? 知っていた?」

 彼女の問いかけをさらりと交わし、改めて新人総合職に質問した。彼は曖昧な調子で頷いた。どうやらその事は、誰かから聞いていたらしい。

「だったらどうして、自分が買ってきていない物を勝手に食べたりしたの? 怒っている訳じゃないよ。さっきのシュークリームも食べちゃったんだから、もういいの。ただどうしてそんなことをしたのか、聞きたいだけだから」

「す、すみません。食べていいものかと思っていました」

「誰かにそう教わったの?」

「え、えっと」

 はっきりしない答えに苛つきながら、静かな口調でさらに続けた。

「これまでにもリンゴジュースとか、飲んだりしたことがある? ここ最近、同じように買ったものが無くなったと言う人が何人かいたから」

「あ、あります。すみません」

「自分が買ってきたものとか、食べたり飲んだりして良いと言われたものだけしか、口にしちゃいけないって分かる?」

 時々どこかに出張してきた総合職や長期の旅行をしてきた人達が、お土産といって大量に食べ物や飲み物を持ってくることがある。英美自身も業務主任になった時、全国各地の対象者が本社へ研修で呼び集められた。その際、東京ばななを買って配った事があった。

 そうしたお菓子の中には日持ちさせる為、冷蔵庫に冷やして置いた方が良いものがある。もしかすると彼は、一度冷蔵庫の中の物を食べて言いとだけ教えられ、そのまま勘違いした経験があったのかもしれないと思いついた。

「は、はい。判りました。名前が書いてあるなんて、全く見ていなかったものですから」

「そう。今後は気を付けてね」

「は、はい。申し訳ありませんでした」

 そこで彼はようやく席を立って、頭を下げた。それまでは座っていたので、見下ろしていた二人の迫力に押されていたのだろう。

「分かってくれたらそれでいいから。じゃあね」

 英美はそのまま席を離れたが、後ろで黙って立っていた浦里が企営の事務職や総合職に捕まっていた。恐らく事情を聞かれているのだろう。これまでの経緯など、ややこしい話などしたくなかったため助かった。

 彼なら上手く説明してくれるはずだ。これからさらに忙しくなる月末最終日に近づく直前で、面倒な案件を片付けられたことに英美は胸を撫で下ろす。これも三箇のアイデアのおかげだ。後でお礼を言っておかなければならない。

 彼が教授してくれたのは、まずこれまで紛失したリンゴジュースやシュークリームと同じものを、複数用意することだった。そこにGPSシールを張り付け、冷蔵庫から移動すれば英美のスマホで感知するよう設定し、その後を追いかけ現行犯で問い詰めるという作戦だった。

 GPSシールとは、財布などが紛失した場合に場所を特定するため使用される、縦二センチ強、横三センチ弱、薄さ三ミリという極薄で重さ三グラムと超軽量のものだ。

バッテリーは数カ月持つが、電波をキャッチする範囲は約三十メートルとそれほど広く無い。しかしビルの冷蔵庫の中に仕掛けた物なら、それで十分だった。

 ジュースには底に貼り付け、名前もそこに書いてわざと判り難くしていた。シュークリームも包み紙に貼られたシールの下に貼り直して隠し、一見すると分からないようセットして手前に置いたのだ。

 そして仕事が終わった勤務時間外に、企業営業部へ移動する場合はこう動く、総務課へ移動した場合は、などと事前シュミィレーションを行った。

 おかげでGPSの信号が動きだした時点で、すぐに今回の犯人が事前に目撃情報があった企営課の新人総合職だと判ったのだ。

 英美は自分の席へ戻る前に給湯室へ寄り、冷蔵庫の中から用済みとなったジュースともう一つのシュークリームを回収した。一課に戻ると、すでに浦里が帰ってきていた。

「お疲れ様。ありがとう。これ、お礼ね」

 GPSシールを剥がしてから、ジュースとシュークリームを彼に手渡す。もう一つのジュースは後で三箇に持っていくつもりだ。ついでといってはなんだが、これまで机上に配られまだ手を付けていないお菓子を付けておこうと考えていた。

「ありがとう。あの後掴まって色々聞かれたけど、それ程問題にはならないと思うよ。意図的ではなく、単なる勘違いだと理解されたみたいだから。それに課の人達からもちゃんと注意して貰ったので、二度と同じことはしないはずだ」

 彼の話では、英美が途中で予想した通りだった。彼が着任して間もない頃、企営課の課長がお土産を買って来たことがあったらしい。その時冷蔵庫に冷やしてあるから、飲んだり食べたりしてくれと言われたことがあったそうだ。

 そこであの場所にあるものは、飲んだり食べたりして良いものばかりが入っているものだと、彼は勝手に勘違いしていたという。

「じゃあ、もう大丈夫ね」

「そう思う。企営課でも冷蔵庫の中のものが紛失している件は、知れ渡っていたよ。でもまさか自分の課の新人君が犯人だとは、思っていなかったらしい。一部の人は怪しいと睨んでいたようだけど。でも解決したから助かったと、お礼を言われたよ。本当は廻間さんと三箇さんの手柄なのに。さっさと出て行っちゃったもんだから、廻間さんにはくれぐれもよろしく伝えておいてくれ、って課長にまで言われたよ」

「分かった。この間あの課の事務職でここへ来てくれた人達がいたから、後で顔を出しておく。課長にも余り怒らないでやってと、言っておかなくちゃ」

「それはもう言った。向こうも恐縮していたよ。自分達が言葉足らずだったって。最近の若い子にはそれぐらい判るだろう、では済まないことが多いらしい。具体的に教えないといけないんだなって、しみじみと言っていたのには笑ったけど」

「管理職も大変よね」

「いい大学を出ている新人らしいけど、こんな事が起こるんだからそうだろうな」

「私もこの会社に入って、何十人と高学歴の総合職達をみてきたけど、全くと言っていいくらい、どこの大学を出ていたかって関係ないからね」

「全くってことは無いと思うけど、まあそうかもしれないな」

そういえば浦里も早慶出身者よりも偏差値の高い、某国立大学出身者だったことを思い出す。ただ彼の場合はいい意味で、高学歴を感じさせないタイプだから問題無い。

「じゃあ、三箇さんにこのGPSシールを返しがてら、上手くいったって報告をしに行ってくる」

「だったらこのシュークリームは、三箇さんにあげてよ。俺はジュースだけでいいから」

「いいの? じゃあそうしよう」

 彼から受け取ると、速足で階段へと向かった。下の階のSC課に行くのなら、エレベーターを使うより早い。左手にジュース、右手にシュークリームを持ったまま転ばないよう駆け下りる。

 その後、しばらくは冷蔵庫から物が無くなったという話は聞かなくなった。煩わしい問題が早期に片付いたことで、祥子も喜んでくれた。英美自身も肩の荷が下りたと同時に、これまで味わったことのない充足感を覚えた。

 だがこの騒ぎが、その後次々と起こる問題のきっかけに過ぎなかったことを、英美達は追って知ることになる。

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