夏の水葬

雪庭瞳

人魚

 ――人魚は月明かりの下 永遠を生きる。


 彼女はうつくしい少女だった。決して人目につくような派手な華やかさは無かったが、おろしたての石鹸のようなきよらかなうつくしさを持っていた。彼女はあまり勉強が得意ではなく、愚鈍で不器用で要領も悪かった。だが、容姿以外の優れた点と言えばたった一つだけあり、それは泳ぐことだった。彼女は非常に速く泳ぐことができ、またそのフォームは見た者が息を止めて魅入ってしまうほど整っていた。幼い頃から水泳スクールに通っていたのもあるかもしれないが、確かに天性の才があったのだろう。学校や市民プール、海、川、お世辞にも綺麗とは言い難いところでも彼女は実に気持ち良さそうに泳いだ。日々の疲労や辛苦も全て忘れたように楽しげだった。水の中にいるときの彼女はまさに幸福そのものだった。その姿を見て、誰かが「人魚」と名付けた。はかなげな雰囲気とも相まって、まさに言い得て妙だなと感心していた。


 


 いつの頃からだろうか、気が付けば私が彼女のことを目で追うようになっていたのは。時折見せる曇りなき笑顔を盗み見るだけで胸は躍り、邪気のない少し舌足らずな小さな声を漏れ聴くだけで心が華やいだ。学校の人気者だった私が正反対の彼女に心を奪われている、だなんて誰が想像出来ただろうか。だが、私は彼女に「恋」をしていた。彼女は私の天使であり、つまらない人生においてたった一つのオアシスだった。私はうつくしい彼女を誰よりも愛していた。


 


 彼女が、一年間でたった一日だけ主役になれた水泳大会では、私の胸は期待と不安で複雑に支配されていたものだった。普段は教室の片隅でひっそりと忘れ去られている彼女が、全校生徒の喝采を浴びる。彼女のうつくしい姿を、不特定多数の卑しい目に晒さなくてはいけない不安と苦痛、だが、それを上回るほどの、自分しか知らない至宝を見せつけることができるという昏い優越感と誇りとが入り混じっていた。無駄な肉が全く付いていない、細く長い手足をまざまざと剥き出し、カルキで色の抜けた柔らかな髪の毛をきゅっと帽子にしまい込んだ彼女。ああ、なんとうつくしいのか。学校指定の無粋な濃紺の水着だって、彼女の陶器のような肌には良く映えていた。彼女が泳ぐたびに白い肌が波間からちらちらと木洩れ日のように覗いていた。この世で唯一きよらかでとうといものだった。


 だが、それは2年生の秋に唐突に終わりを告げた。彼女はクラスで「浮いて」いるようだった。隣のクラスに所属していた私には詳しく知るすべはなかったが、どうやらクラスの中心格の女子に疎まれてしまったらしい、と遠い風の噂できいた。不幸にも、彼女の複雑であまり恵まれていない家庭環境も手伝い、もともと友達のいなかった彼女に話しかける者はいなくなってしまった。彼女は、その群を抜いて整った顔で笑うことは無くなった。形の良い薄紅色の唇からは怯えたような昏い声しかこぼれなくなり、伏しがちな長いまつ毛に縁取られた大きな目は常に周りを気にするように所在なさげに揺れていた。彼女の周囲にはいつも嘲笑が渦巻いていた。持ち物は隠され、壊され、それを探す彼女の哀れで懸命な姿もまた格好の材料になった。



 最初は私もひどく口惜しがった。あの笑顔を見ることができないだなんてあまりにも残酷な仕打ちだった。生きる希望を失ったようだった。

 だが――……、私は見てしまったのだ。学校の裏で彼女がひっそりと泣いている様を。あれは確か、3年生になったばかりの新学期のことだったか。記憶が定かではないが、その時の光景は私の脳裏にはっきりと焼き付いている。



 ――白くほっそりとした指で手にしていた上靴は、真新しいはずなのにマーカーやら泥やらでひどく汚れていた。見るに耐えない低俗な言葉が書き散らしてあった。おそらくまたクラスの連中のせいだろう。私は猛烈に腹を立てた。またくだらない事をして私の宝物を苦しませたな。腹の中でできる限りの呪詛を吐いていたとき、彼女はゆっくりと膝を折り始めた。スカートが土で汚れることも厭わず。息を潜めて陰から窺う私に気付くことなく、彼女は地面に膝を付き上靴を胸に抱いた。そして今にも折れてしまいそうな華奢な手でその小さな顔を覆い――……、ひっひっという嗚咽と共に雫が手の隙間から零れ落ちてくる。その雫が涙であると認識するまでやや時間が要した。今までの彼女はどんなに揶揄されても虐げられても曖昧な「笑みのようなもの」を浮かべているだけだった。だが今、苦しみと悲しみを素直に爆発させ、絶望を外へ吐き出している。激しい感情の吐露。何といううつくしい姿か。私は半端恍惚の眼差しで見つめた。いつまでも泣き続ける彼女を、満開の桜の花びらがひらひらと飾っていた。いっそ憎らしい程脳天気な青空と、ほの白い彼女と可憐な桜の薄桃色。人生の中で1番うつくしい光景であったと確信している。


 また、私は知っていた。彼女が一人でいる時に、ポケットから取り出した小さなカッターナイフで手首を裂いているのを。白く細い腕に咲く赤い華。浮かんだ恍惚とした表情も、大好きだった。



 それからというもの、私は彼女をより一層愛した。いつでもどこでもどんな彼女でも受容できるようになった。苦しみに僅かに歪んだ顔、羞恥混じりの涙ぐんだ顔。目から溢れ落ちるサファイアを、手首から滴るルビーをいつも待ち望んでいた。私の楽しみが、また一つ増えた。





 ある夏の日のことだった。最後の夏。私は生徒会長を務めていたので、必然的に帰りが遅くなってしまうことが度々あった。その日も、その多々ある日の内の日常の何の変哲もない一日だった。




 ――おびただしい数の雑務を片付けている内に、いつの間にか辺りは暗くなっていた。昼間のうだるような暑さは薄らいでいたものの、黙って座っているだけでもじっとりと汗ばんでくる。時折申し訳程度に吹く風も、むっと籠もった熱気を孕んでいて不快さを増すだけだった。


 かつかつと廊下に響くのは私の足音だけだった。当たり前だ、他の生徒はとっくに帰っている時間なのだから。暗く緑の非常灯に照らされながら玄関を出る。


「〜〜!!」

「ーー!ーー!」


 不意に怒鳴り声が耳を掠めた。怪訝に思いながらも声のする方に向かって歩く。


 近づくにつれ、口論の主が若い女の声であることに気がついた。甲高い悲鳴。恐怖に晒されたような。そして――……私の愛する声。

 私は弾かれたように駆け出した。彼女に何かあっては、私の生きがいが消えてしまう。そうなっては何を頼りにしてこれからを生きれば良いのか。私がプールサイドに着いたのと、ばしゃんという激しい水音が響いたのは同時だった。




 私は見た。

 彼女が、制服を着た少女を、プールへ突き飛ばしたのを。


 少女はバシャバシャと水を掻くが、制服が水を吸って重くなっているのと気が動転しているので陸地に上がることが出来ない。ぶくぶくと命の泡が水面に浮かぶ。醜く歪んだ顔が波の合間から見え隠れした。少女は、彼女を悩み苦しませていた元凶であった。


 彼女は微動だにしなかった。少し蒼ざめた小さな顔には、罪の意識も、解放される悦びも浮かんでいなかった。大きな瞳は無機質に目の前の生き物を眺めていた。今まさにその生を終えようとしている生き物を。生ぬるい風が彼女の柔らかな髪の毛を揺らした。濃紺のスカートの裾がぱたぱたと翻った。息を呑むほどに彼女はうつくしかった。今までのどの時よりもどんな顔よりもうつくしかった。彼女は、女神だ。



 少しずつ、少しずつ少女は暗い海の底へ沈んでいった。白い気泡の数が減っていく。やがて、少女の全ての生命活動が完全に消失した時――……、




 ――彼女は我に返った。





 取り返しのつかない過ちを正すことは出来ないのに、彼女は必死だった。やはり彼女はうつくしいけれど愚かだ。がたがたと震える身体で死の海に飛び込み白いカタマリを救い出す。こんなときでも彼女の泳ぎは乱れ一つなくうつくしい。もう二度と意思を持つことのない軟体は、あれ程までに切望していた陸に上がっても虚ろに天を仰ぐだけだ。それでも彼女は必死にその胸を押す。ごぼりごぼりと水が溢れ出る。濡れ鼠の生者と死者。共に同じだけ濡れ、衣服が肌に張り付いている。きよらかさは無いが扇情的で妖艶で、これもまた違った良さがある。これでこそ人魚だと言えるかもしれない。


 

 懸命な救命活動は、あと数分早かったら間に合っただろう。だが、遅かった。どれほど彼女が手を尽くしても神に祈っても、目の前に転がるのは骸だった。神々しいまでにうつくしくても、彼女は人の生を奪うことはできたが、与えることはできなかったのだ。やがて彼女は諦めた。半開きの口からは嗚咽が漏れ出る。彼女はへたりこんだまま泣き始めた。濡れそぼった髪の毛から雫がぽたぽたと滴り落ち、私の大好きな泣き顔が見えない。隠さないで私に見せて。私は彼女に向かって大股で歩き出した。その場に不釣り合いな革靴の音に彼女がびくりと身体を震わせ顔を上げる。怯えきった瞳に、色を失った唇。彼女は絶望していた。




「〇〇」




 私は彼女の名を呼んだ。

 地味で目立たない一生徒である自分が、私のような人気者に名前を知られていることに驚いたらしい。私は彼女のことなど彼女以上に知っているのに。


「……✕✕ちゃん」



 彼女が私の名前を読んだとき、背中にゾクゾクという喜びが走った。私は怖がらせないように、にっこりと微笑んだ。計算し尽くされた天使の微笑。45度口角を上げ目尻をやや下げ、少し小首を傾げるのがコツだ。だが彼女は恐ろしいものを見るような顔で後ずさる。なぜだ、なぜ逃げる。きっと錯乱しているに違いない、人を殺めた後なのだから無理もない。それより、もっともっと見せて欲しい。前だって、感情の爆発の後には、更にうつくしい姿を見せてくれたのだから。


「……ちっ、違うのっ!わたし、私、そんなっ、つもりじゃなくてっ!」


 そんなことはどうでもいいのだ。いいから逃げないで、私のうつくしい宝物。誰よりも愛しているわ。


 腰が抜けたのか、立ち上がれないでいる彼女。足を持たない人魚姫。抱き締めようと伸ばした私の手を、彼女は震えながら振り払った。明らかなる拒絶の色。私はその場に立ち竦んだ。理解できない。どうして私を拒むの。どうして私のことを愛してくれないの。どうして私を、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして




 どうして?




 裏切られた苦しみと行き場のない愛が、私の胸に渦巻いた。うつくしい彼女。生ぬるい風が、私と彼女の間を気だるげに吹き抜ける。彼女のじっとりと汗ばんだ頬に浮かぶのは、絶望と嫌悪だけだ。その嫌悪が自分に向けられているという事実が、受け入れられない。


 いや、あれ?


 何かがおかしかった。うっすらと感じた違和感を確かめるために、私は一歩彼女に近づいた。いつも通りの彼女……、


 みにくい。唐突に襲った感情に、私自身が驚いた。しかし、みにくかった。吐き気が込み上げてきて、私はその場で吐いた。苦く酸味のある胃液しか、出なかった。


 青白い顔に髪の毛がべたりと汚らしく貼り付いていた。真っ赤に腫れた瞼に、青を通り越して黒っぽくなった震える唇。小さな鼻からは一筋、鼻水が垂れていた。違う。こんなの彼女じゃない。違う違う違う。こんなにみにくいはずがない。地面に卑しく這いつくばり四足で後ずさる様は私の愛した彼女とは程遠かった。これでは人魚でも人間ですらもなく、獣ではないか。


 なぜ?私の宝物。私の天使。私の女神。私の幸福……。それは全てまやかしだったのだろうか。プールサイドから覗く水面の月が揺らいで見えるように。あのきよらかさも、うつくしさも。違う。そんなはずはない。だって私は間違えたことがないのだから。幼い頃からいつも私は正しいのだから。なら、どうすればいい?私は常に正しい。失敗もしないし目測を誤ったこともないのに。


 ――手首に咲いた赤い華。恍惚の表情。

 脳裏に浮かんだ希望の光に突き動かされるように、私は彼女へ突進した。その勢いのまま彼女のポケットをまさぐる。確か、スカートの右ポケットにそれは入っていたはずだ。いつも見ているから知っている。彼女が抵抗に出る前に私は目的の物を掴み取った。


 ちゃちなカッターナイフ。この場には不釣り合いな色合いの安っぽいピンク。どうせなら、もっとうつくしいもので彼女をうつくしくしたかった。うつくしくないなら、私の手でもう一度うつくしくしてあげればいいのでしょう?


 きりきりきり……と刃を繰り出す。月の光を反射して鈍く光っていた。ゆっくりと構えると、愚かな彼女も運命を悟ったらしく泣き叫んだ。


「いやーーーーーーーーー!」


 嗚呼もう五月蝿い。せっかくうつくしくしてあげるのに。苛立ちながら腕を振ると、肉を切り裂いた感触があった。彼女の薄い肩から血が噴いた。力を込めれば案外こんなちゃちな造りでも傷をつけられるみたい。今度こそ。肩を抑えながら喘ぐ彼女に刃を向けようとした矢先、私の体はぐるんと反転していた。足に鋭い痛みが走る。カタンと軽い音を立ててカッターが手から落ちた。彼女に突き飛ばされたらしいと気がつくまでにやや時を要した。互いの目を見つめる。その時間は永遠のようで――……、恐らくは一瞬だったのだろう。刹那、二人同時にカッターに手を伸ばした。


 後はひたすらに泥沼状態だった。必死に揉み合う私達。肩を負傷しているとはいえ、死物狂いの彼女は強かった。先に転がる得手物を取り上げたのも彼女だった。奪おうと私も手を伸ばす。振り払おうとした瞬間、私は勢い余った彼女に刺された。


「!」


 腹がひどく熱い。燃えるような痛みが私を襲い、脂汗が滲み出てきた。はっとして動きを止める彼女。うずくまる私。腹を抑えると、手にぺたりと鮮血が付いていた。私は、死ぬのか。


 自分が死ぬことよりも、彼女をうつくしくできなかったことが許せなかった。嫌だ。私は咄嗟にカッターを引き抜く。血が噴き出た。手先が冷たい。純白のセーラーに血の花が咲く。


 最後の力を振り絞って、私は震える彼女を躊躇なく刺した。


 狙った通り心臓に刺さった刃。どさりと倒れる彼女。嗚呼駄目ね、人魚は海に帰さなきゃ。覚束ない足取りで彼女を引きずり、プールに沈めた。みにくい人間の彼女は死に、うつくしい人魚の彼女の復活するのだ。呻きながら逃れようと力なく手足を動かす彼女を抑えるために私も入水する。彼女をきつくきつく抱き締めた。


 二人の血がゆらりと水の中を揺蕩う。赤い華が散る。ちっとも怖くも悲しくもなかった。なぜなら、人魚は月明かりの下で永遠に生きるのだから。赤く染まった水の中から眺める満月は、とてもきれいだった。







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