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 北河は沈黙の中に閉ざされている。

 昼前になって、風が吹き始め、やがて吹雪になった。向かい風だったので、、隆哉たかやは橇を降り後ろから押した。進路を遮ってくる風と雪の壁に、橇は幾度か止まった。

 

 少女の声がしたが、すぐ風が消してしまった。

 再び声がした。

「らい……も、くる……んですか」

 風に乗って、微かな声が聞こえた。

「ああ」

 と、隆哉は大声を上げた。

 再び声がしたが、聞き取れなかった。橇を止めた。

 彼女の傍に行き、橇の縁に腰を落とした。

「来年も来るの?」

 風の中にすっと溶け込んでいく微かな声だった。その声があまりにも落ち着いていて静かだったので、隆哉はすぐには口を開けなかった。

 ただ頷いて、彼女を見詰めた。


「東京に帰るの?」

「あした、一番の列車で帰る。これから、一年生きていけそうだから」

「家族、いるの?」

「おふくろと、暮らしている」

「どんな仕事をしているの」

「役所で、税金の仕事」

「どうして、東京に行ったの」

 

 言葉に詰まった。

 心中事件を起こしたので、この町では暮らしてはいけなくなったのだ。行ったのではなく、逃げ出したのだ。

 何も言わずに橇の後ろに行き、勢いよく橇を走らせながら飛び乗った。

 少女は自分以外のことに興味を持ち始めている。そう思だけで、安らかな気持ちになれた。


 昼過ぎに、白い町影が見えだした。町全体がすっぽりと吹雪に埋もれている。

 橋の上に出ると、橇を止めて少女を見詰めた。

「家まで送っていこうか?」


 少女は毛布をよけて橇から降りた。

「わたし、原田弓子はらだゆみこといいます」

 はっきりした口調で言うと、深く頭を下げた。そして、少し足を引きずりながら、町の中へ歩き出した。


 フードを被り直すと、橇に腰かけて、雪の中に消えていく少女の後ろ姿を眺め続けた。彼女は一度も振り返らなかった。幻となった人影が、隆哉の瞼に残った。


 なにか、遠い過去の出来事のように思えた。

 ユミコ……。声に出してみた。静かだった。風の音さえ聞こえなかった。



 隆哉は駅のホームに立っていた。

 薄い雲の流れていく灰色の空から、白い太陽がうっすらと浮かんでいる。目の前に、ふっと雪が流れてくる。悲しいほど静かで、そっとそのまま気を失っていきそうだった。


 地響きを立てながら気動車がホームに入ってきた。ボストンバックを持って列車に乗り込んだ。列車の中は空いていて乗客の数を数えきれるほどだった。

 ホームよりの真ん中あたりの座席に座った。発車まで二分あった。単線なので、交換の下りの列車を待っているのだ。


 ボストンバックの中の本を捜していると、トントンと車窓を叩く音がした。顔を上げると、弓子が覗きこんでいる。彼女は緊張した面持ちで。隆哉に頷いてみせた。

 出口に急いだ。弓子もホームを彼の後を追った。


 ホームに降りると、弓子は声を弾ませて言った。

「約束してください、わたしと」

 隆哉は彼女の勢いに押されて訳も分からず頷いた。

「今年の夏、わたしを、十勝岳に連れていってください。そうしたら、わたし、約束します。毎年、元日に、わたしは、水仙の花を、あの河に供えます」


 隣の車線に気動車が入ってきた。

 発車のベルが鳴る。隆哉はあわてて列車に乗って、弓子を見詰める。彼女は動悸が治まっておらず、肩で息をしている。


「約束した」

 隆哉は声を弾ませて言った。

 ふっと、弓子の表情に笑みがこぼれた。

「これ、わたしの住所」

 彼女は隆哉に紙片を渡した。


 列車が動き出した。弓子は手を振った。隆哉もデッキを掴んで体を支え、身を乗り出して叫んだ。

「約束したぞ」

 急に瞼が熱くなり、視界がぼやけた。

 駅が遠ざかっていく。もう一度身を乗り出して弓子を捜した。

 弓子は両手を上げ、大きく振っているのが見えた。


 大きく息を吸い込んだ。

 そして天を仰いだ。

 灰色の空から、目の前に雪が生まれてくる。温かくなった心の中に、雪たちは祝福するように舞い降りてきた。


  完結

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北河 サトヒロ @2549a3562

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