3

 

 河畔は少しずつ明るさが漂ってくる。


 東の空の明るさが、空全体に広がってくると、河畔の風がきらきらと音を立てて輝き始めた。山脈から風に乗って流れてくる風花が、光の中で舞っている。

 河畔がますます明るさを深めると、山影は影絵のように浮き出てきた。空の青は徐々にその色彩を強め、太陽を迎える準備をいている。金色に染まり始めた東の空は、陽の光に消されてしまいそうだった。


 空に閃光が走ると、白い光の帯が空を走り、山脈を下り、河畔に流れた。真っ白い太陽が、ぎらぎら輝きながら姿を現してくる。

 河畔の隅々まで陰影が生まれ、山脈は赤くその色を強めた。


「こんなの、初めて……」

 少女が呟いた。

「空が、光っている」


 太陽が眩しかった。

 犬橇は黄金色の朝日を浴びながら、河の道を走った。時間という観念が失われ、銀鱗の粉煙の中を、宙に浮かぶ舟のように犬橇は流れていく。


 少女は前を向いたまま動かなかった。隆哉たかやも長い間じっとしていた。

 やがて、エゾマツの大木が見えてくる。そのエゾマツに向かって橇を進める。

 

 隆哉は橇を止め、エゾマツに向かって歩く。そして梢を見上げる。

 雪を覆った赤色の木立は、昨年となにも変わっていなかった。

 少女から水仙の花束を受け取り、根元に供えた。そして合掌した。眩暈に襲われ、エゾマツの幹に手をつき、体を支えた。


 振り返ると、少女が橇から降りて隆哉を見詰めていた。

「ぼくは、ね」声を振り絞った。

「ここで、約束したんだ。二人で永遠の旅に行こう、って。そして、ぼくだけが、約束を果たせなかった……。そのとき、その子は、君と同じくらいの年頃で、名前は舞子まいこ……」

 

「今朝、先生から、聞きました」

 少女は髪をかきあげながら卓哉を眩しそうに見つめている。

 隆哉も頷きながら少女を見詰めた。


「ぼくのした事は、まだ、許されているとは、思っていない。去年も、この日、ここに来た。舞子は、ぼくの心の中で生きている。いっときたりとも、忘れたことはない」

 一言ひとこと、言葉を選びながら言った。


 風が少女の髪を流し、顔を幾度となく遮った。

 隆哉の瞳を真正面から見詰めている。

 彼女の瞳から涙が溢れててきた。

「わたしも、同じ……。わたしのために、あの人は死んでしまった」

「君は、その人との約束を守らなければならない」

「約束……」


「君は命をもらったんだ。そのとき、その人と約束を交わしたはずだ。命を大事にするって」

「そんな約束、していない」

 少女は全身の力を振り絞って叫んだ。


「あの人、かわいそう。あの人のために、何もしてやれない。……傍にいてやることしか」

 少女は体を固くして、身を震わせた。

「そうだった」隆哉は静かに笑みを浮かべた。

「ぼくも、そんな偉そうなこと、言える立場になかったね」


 ジャーとお椀、箸を二つずつだし、橇の縁に置いた。ジャーの蓋を開ける。湯気と共に雑煮の香りが立ち込める。


 少女はエゾマツの幹に背を寄せて、遠い空を眺めていた。

「ぼくはね、この河が好きなんだ。春にも、夏にも、秋にも、ただ自然のなすがままに流れている。河の姿を失ってしまう冬でさえも、河は、この分厚い氷の下で、とめどもなく流れている。河は、何か何か大きな力にすべてをゆだねて、自分の姿を失ったその時でも、流れている」


 隆哉は雑煮をお椀に入れながら呟いた。

 湯気のたつお椀と箸を橇の縁に置き、少女に視線を送った。少女は瞬きひとつせず、隆哉を見詰めていた。


「あの先生はね、ぼくの命の恩人なんだ。そう、君もそうだったね。ぼくが、あの診療所で気がついたとき、狂ったように泣き叫んでね、手がつけられなかったそうだ」

 少女にふっと笑ってみせた。

「できることなら、ぼくの大事だった人も、君の大事だった人も、先生に助けてもらいたかったね」

 大きな潤んだ瞳を見開き、唇を噛みしめて頷いた。


 お椀と箸を少女に差し出した。少女は嵌めた手袋のまま涙を拭った。そして、お椀を手にした。


 突然、風が立った。

 水仙が一輪、花束から飛ばされて北河を流れ、白い背景の彼方へ飛ばされていった。生き返ったように舞い続けていく白い水仙の花びらを、隆哉はなにか遠い過去を見るように追い続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る