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 山峡が墨絵のように色彩を失ったころ、河畔は吹雪になった。

 白い闇の中を、稜線を頼りに一時間ほど歩いた。河の道から橋桁を回って丘への道を上がっていくと、そこは温泉街に近い山村だった。


 診療所の前で橇を止めた。鈴の音が止まると、診療所の戸を叩いた。中から枯れた老人の声がして、凍りついた結晶の窓ガラスから、ぼんやりとした顔を覗かせた。

隆哉たかやです」

 大声を張り上げる。窓ガラスの中の老人は表情を崩すと、がたがたと音を立てながら引戸を開けた。


「遅かったな、心配していたんだ」

「先生、手を貸してください」

 隆哉は橇を指さした。老医師は寒さで身震いしながら橇を覗き込んだ。

「どうしたんだ」

「二年前のぼくです。でも、大丈夫です。呼吸も脈もしっかりしています」

「この子は、二度目だ」

「二度目……」

「この夏、睡眠薬を飲んで、河に身を投げたんだ」


 隆哉は少女を抱き上げると、戸口から診察室の玄関先に運んだ。老夫人が整えたベッドに横たえる。

「その時もね」老医師は話を続けた。

「ここに、運ばれてきたんだ。酷かった。おまえさんの時と同じ、もう駄目だと思った」

「ぼくと出会わなかったら、今頃は凍死していましたよ」


 老医師は聴診器で心音を聴き、脈をとった。看護師の老夫人は腕に注射をうった。

「前の時は、よほど苦しかったんだろうね。今度は眠るように死ぬつもりだったのだろう」


 隆哉は外に出ると、犬たちに水と餌を与え、納屋に入れた。荷物を家の中に運び、橇が雪に埋もれないように、納屋の外壁に立てかけた。

 家に入ると、老婦人が少女の家に電話をしているところだった。

 電話を終えると、彼女は寂し気に言った。

「あの子の母親は、あの子がまだ幼いころに病死してね、今は病気がちなお婆ちゃんと、二人で暮らしているんだ」

「父親は、どうしているんです」

 隆哉は靴を脱ぎなが尋ねた。

「外国船に乗っているらしい。詳しいことは分からないけど」

「連絡はとれないんですね」

「そだね……」


 風呂に入ると、どっと疲れが込み上げてきた。

 ガラス窓の隙間から、細かい雪が絶えず吹き込んでくる。遠い山峡を吹き抜ける風の音が聞こえてくる。

 隆哉は父母と暮らした子供の頃のことを思いだしていた。風の音、雪の冷たさ、それは懐かしい冬の記憶であった。

 

 ストーブの傍らで、温かいミルクを飲んでいた。老医師は日本酒を炙ったみがきニシンをしゃぶりながら酒を飲んでいる。

「いくつになった」

 老医師が訊いた。

「十九です」

「来年は酒をのみ交わそう」

 酒を美味そうに呑みながら言った。


 隆哉がミルクを飲み干すと、老医師はためらいがちに言った。

「今年の夏ね、あの子は男友達と十勝岳に登ったんだ、二人でね」酒を口に含み、少しずつ喉に落としていく。

「落石があって、あの子が押し潰されそうになった時、男友達が助けに入ったんだが、滑落して死んでしまったんだ。あの子、足を引きずっていただろう。その時の後遺症なんだ」


「それが、自殺の、原因ですか」

 老医師はストーブの焚口の明かりを見詰めながら頷いた。


「来年は、元気な、あの子と会えると、いいですね」

 老医師は二、三度小さく頷いた。

「自分の意思で、道を切り開いていくしか、方法がないんだ。重たい過去を引きずってね。おまえさんが、自分から逃げきれないのと、同じかもしれない。わしらが、何を言っても、虚しいだけだ……」

 老医師は隆哉を見詰め、優しい微笑みを浮かべた。


 新年の朝、窓ガラスを叩きつける風の音で目覚めた。まだ陽が昇っていないのに、窓ガラスは白っぽく染まっている。

 身支度をして居間に行った。ストーブには、もう火が入っていて、薬缶の蓋が鳴っている。


 老夫人が食事の用意をしていた。タオルを凍りつく水で濡らし、手で温めて顔を拭う。

「もう出るのかい?」

 老夫人の声がした。隆哉は背中を向けたまま、はい、と答える。

 洗面所に置いていた水仙の花束は少し萎れていたが、その淡い色彩をかろうじて保っている。花束を新聞紙に包んで胸に抱えた。


 外は昨夜よりも一段と寒かった。老夫人が犬たちに餌を与えている。卓哉は橇に荷物を運んだ。今年も、彼女の心遣いでジャーに雑煮を入れてもらっている。

 橇に四頭の犬を繋ぐ。

「これ忘れないで。品物と薬の受取書」

 彼女は隆哉の肩を叩いて微笑むと封筒を渡した。


 戸口に少女が立っていた。フードを被っていて顔がよく分からない。老医師が戸口から出て来た。

「この子を町まで送ってくれないか。この子のお婆さんが心配しているから、早いほうがいいだろう」

 彼は少女の肩を押して言った。


 少女の視線を捜した。彼女は俯いたままだ。

「分かりました」

 少女にはっきり聞こえるように大きな声を出した。


 橇は氷の上を這うように進む。

 視界はまだ灰色の闇の中に閉ざされている。河の道を、粉雪が幾筋もの模様を描いて流れていく。


 隆哉は橇の後ろで手綱を握って立ち姿で乗っている。少女は橇の中で水仙の花束を胸に抱いて、毛布に包まったままじっとしている。

 静かだ、と隆哉は思った。


「きのう……」

 ぽつんと少女の声がした。隆哉はじっと次の言葉を待った。

「わたし、花の中で、眠っている夢を見たの」

 風の音で彼女の声は流されていく。かぼそい彼女の声に聞き耳をたてた。

「この水仙、この水仙の香りだったのね……」

 彼女の声が切れ切れに風の中に溶け込んでいく。ランプの灯りで、彼女の肩が震えているのが分かった。


「きのう、君はどこへ行こうとしていたの」

 そっと訊いてみる。

「わたし、新しい年、迎えたくなかった。……だから、どうでもよかったの」

 少女はそう言って振り向いた。


 少女の優しい顔立ちが、ランプの灯りの中に浮かび上がった。長い睫毛と切れ長の目が、緩やかに揺らいで見えた。

 その清楚な憂いに、隆哉は胸が震えた。俯いた彼女の瞳から、涙がひとつ、頬を伝って水仙の花に落ちた。


 手綱を振るい犬に気合を入れた。

 灰色にぼかせれた河畔の風景は、まだ闇の中に溶けている。日の出までまだ時間があった。虚ろなとりとめのない闇の流れが、幾度となく行方を遮ってくる。

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