北河
サトヒロ
1
外は夜だった。
車窓に浮かぶ自分の顔を、
激しい吹雪は止んでいた。
だが、闇を裂く風の音は。車窓硝子の振動を通じて伝わってくる。深い沈黙に酔いしれながら、生気のない自分の眼差しを、ぼんやりと眺めていた。
長いまどろみから目覚めたように、ゆっくりと列車は駅のホームに止まった。
札幌で買った真っ白い水仙の花束とボストンバックを抱えてホームに立った。跨線橋を渡って改札口を通り、駅の外に出る。そこは見慣れた風景だった。
冬、そして夜の色、頬を刺す風の音と香り、雪を踏むブーツの響き。一年の歳月が、一瞬のうちに蘇ってくる。ダッフルコートのフードを被って、長い間駅前広場を眺めていた。
十二月三十日の凍りついた時間が、秒針を刻み過ぎていく。隆哉は身じろぎひとつしなかった。誰もいない広場は、白い街路灯の光の中で、しぃーんと鳴っていた。
一閃の風が、鋭い刃のように広場の空間を切り裂いていった。後に風の模様が虹となって描かれ、みるまに流されていく。
その夜、町はずれの宿に泊まった。この宿と隣接する食料店を営む老夫婦は、近くに住んでいた隆哉を子供の頃から可愛がってくれた。
小学四年のときに、初めて犬橇に乗った。中学二年のときには、犬橇を操ることができるようになった。宿の老主人が指導してくれたのだ。
中学三年のとき、父が病死した。高校生になって、学費を稼ぐために犬橇でアルバイトをするようになった。高校を卒業し十九になった時、病弱の母と共に遠縁の親戚を頼って東京に引っ越した。
今は、隆哉が働いて家計を支えている。
朝方、舞子の夢を見た。彼女は十六歳のままで、水仙の花束を抱いている。彼女は水仙の花のように淑やかだった。夢の中の舞子はいつも悲しい佇まいで、目を伏せている。そのやるせない気持ちが目覚めた後も続き、どうしても隆哉は寡黙になりがちだった。
老主人は昨年と同じく四頭立ての犬橇を用意してくれた。毛布二枚、ジャー、魔法瓶、昼の弁当、牛乳瓶、犬の餌、いつもの物が犬橇の中にある。
老婦人が大きな竹籠を持ってきた。温泉街にある、卓哉がいつも泊まる診療所に届けてほしいと言う。竹籠の中には、正月用の食べ物と薬の箱が四つ入っていた。
「お母さん、元気にしているかい」
「はい」
母は隆哉が幼いころから病弱で入退院を繰り返してきた。今も東京の病院に入院している。気にかけてくれる老夫人を、徒に心配させたくなかった。隆哉は橇に乗り、胸に水仙の花束を載せて、彼女に微笑んで見せた。
風が雪を強く吹き始めた。むちを振り、声を上げると、犬たちは勢いよく走り始めた。鈴が軽やかに鳴る。
町から橋の下に回ると、河畔だった。
沖積平野を流れる河は、凍結と積雪のため河の色は失われている。そのためか、平凡な野山の姿がなおさら平凡に見えた。河面が浅かったので、川は窪んだ道になっていて、おりからの風で橇はそっと河底に沈んでいくようだった。
真珠のような氷の粒が風に吹かれると、涙となって飛び散るのだった。それは、ずっと彼方まで続いていて、夏の日に見る陽炎に似ていた。
今、ここにいることが徒労であるのだろうか、そう考えると、考えることさえ徒労であるように思えて、悲しい気持ちになった。
この凍りついた北の河で、舞子と死の約束をしてから二年経った。彼女は遠い沈黙の世界へ旅立った。約束を果たせなかった重荷を背負ったまま、今もなお、隆哉の心はこの北河をさまよい続けている。
遠い山脈は。柔らかな乳色に包まれている。しーんと氷が割れて、川底の水流までも凍ってしまうようだ。
雲が流れていく。白と青の流れは不調和であった。灰色と灰色の間から現れる天の青さは、氷の持つ冷たい碧だった。その碧が広がれば広がるほど、河面の青さはその色を失っていく。
二時間ほど橇は走った。
白い太陽が天空にあった。風景はそれほど変わらない。遠く見える山脈の稜線が、幾分角度を変えて見える程度であった。隆哉は橇を止め、水と肉を犬に与えた。
犬たちが落ち着きを無くして、体を動かし始めた。
隆哉は犬たちの視線の先に目を凝らした。
河畔は深い風と光の層の中にあった。粉雪がその層の中で躍っている。隆哉はその躍りの中に入っていった。灰色の、すごく薄い灰色の幻が、蜃気楼のように揺れている。
隆哉は目を凝らした。それは、ゆるやかに舞っている人の影だった。
隆哉はその人影の方向に歩いていった。
その人影は少女だった。
傍にいっても、少女は舞をやめなかった。手の届く所まで行って、彼女の顔を見詰めた。毛皮の帽子が風に飛ばされ、肩まで伸びた髪が氷の真珠の中に流れていく。
時が刻まれ、風は止み、少女の舞は止まり、そして彼女の体は隆哉の腕の中に崩れ落ちた。
「眠い……」
少女の唇は微かに震えた。
「一人にさせて……、このまま」
隆哉は大声を上げて、少女の体を揺すった。
「眠い……」
少女は腕の中で眠りに落ちた。時を忘れて、長い間彼女を抱きしめていた。
少女の顔を見詰めながら呟いた。
「
少女の規則正しい安らかな寝息が、隆哉を二年前の悪夢から目覚めさせた。彼女は眠っていたが、それは苦しみに閉ざされた眠りではなかった。深呼吸すると、隆哉は安堵の疲労から彼女を抱き抱えたまま、膝を落としてしまった。
少女を橇に乗せ、毛布で体を巻き、縄で橇に括り付けた。そして、コートのフードで顔を覆う。バックから防寒用クリームを出し、少女の顔に塗る。自分のカイロを毛布の中に入れる。
隆哉はそこで遅い昼食を摂った。風は北風に変わり、空は灰色に包まれ始めていく。山峡は日陰になるのが早かった。山脈は、寒々と夕暮色が垂れこみ始めている。
少女の胸に水仙の花束を置いた。少女の顔が安らかに見え、隆哉はほっと吐息をついた。
犬たちと共に、橇を引いた。寒さが痛みとなって足を襲う。歩いていなければ、体全体が凍り付くようだった。
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