第3話

 友だちと交換ノートをしたことはある。でも、いつも私で止めてしまってた。だから、“彼”とのやり取りもすぐに終わってしまうって思ってた……のに。初めて落書きを見つけたあの日から季節が変わっても、それは続いていた。

 好きでも嫌いでもなかった理科の時間が、だんだん楽しみになってくる。ちょっとだけ好きになれた気がする。あくまでも「理科の時間の“彼”とのやり取り」が好きなのであって、理科の授業そのものが好きなわけじゃないってわかってるんだけど。


『この前のテスト、めっちゃヤバかった』

『そっちはどうだった?』


“彼”はどんな人なんだろう。最近はよくそんなことを考えている。“彼”のことをもっと知りたい。

 だって、私が“彼”について知っていることってあんまりない。

 一人称が「俺」だから、たぶん男の子。だけど、女の子が男の子のフリしてるって可能性がなくもない。

 授業の担当は高野先生。だから3年生か、2年生の1、3、4組以外の人。

 それから、授業が金曜日の4時間目から火曜日の5時間目の間と、水曜日から金曜日の2時間目の間の2回あるクラス。

 たったこれだけ。名前や学年っていう基本的なことはもちろん。何が好きで、何が嫌いなのか。部活には入ってる? 趣味は? どんな性格なんだろう。知りたいことはたくさんあるのに、なんにも知らない。

 職員室とかで他学年・他クラスの時間割を確認して、それぞれのクラスの人に席順を聞いて。そうすればたぶん、“彼”が誰かわかると思う。落書きが、なんて本当のことは言えないから上手く誤魔化す必要があるけど、調べること自体はそんなに難しくない。ほんのちょっぴり勇気を出せばいいだけ。

 けど、知っちゃうのは少し怖くもある。それから、“彼”に悪いなって気持ちも。


 いつものようにノートを書くフリしながら、“彼”への返事を考える。

 この前のテストか……ぼんやりと返却された点数を思い出す。全体的に平均くらい。特別よくもなければ悪いわけでもない。強いていうなら、理科の点数がほんの少し下がったくらい。もともと得意な教科でもないから、誤差の範囲なんだけど。

 私もヤバかった。前とあんまり変わんないかな。それとも見栄を張って、それなりだったよ? うーん……。


 深くまで考え込みそうになった私を現実に引き戻したのは、ガタガタとクラスメイトたちが椅子を引く音だった。ハッと顔を上げると、それまで聞こえなかった音が耳に入ってくる。黒板を見て、みんなの会話を聞いて。そうしてやっと、何か実験をするらしいことを知った。

 ノートや教科書を仕舞って、机にサッとシャーペンを走らせる。ワンテンポ遅れて立ち上がった私に、同じ班の子がビーカーを取ってくるように頼んだ。


『微妙かなぁ』



 理科のある日は朝からずっとドキドキしてる。教室に行く前に寄ろうかな、なんて考えて、階段の途中で足を止めてしまう。何か事情があって授業で理科室が使えないとき、残念だなって思う。

 …………きっと、私。“彼”に惹かれてる。その想いは日に日に降り積もって、いつか押し潰されてしまいそう。胸の奥がきゅっと締め付けられて、切なくて苦しくて。けど、それだけじゃなくて温かくて甘い。

 はじめてのこの気持ちの名前はわからないけれど、でも、一般的にはこう呼ぶんだろうな。


 ──「好き」って。



 授業が終わったらいつもすぐに教室に戻るけれど、この日は違った。机の上に広げたノートや教科書を、わざとゆっくりと片付ける。いつも以上に丁寧に、使った筆記用具をペンケースの中に戻す。消しカスも一か所に集めて、それから理科室の前の方にあるごみ箱まで歩いていって捨てる。

 その間にも、クラスメイトはひとり、またひとりというふうに理科室を後にする。そのたびに室内の騒がしさも減っていく。やがて先生も理科準備室に引っ込んで、残っているのは私一人だけになった。


 自分の呼吸や衣擦れの微かな音でさえうるさく感じるくらい、静かな教室で。私は、今しまったばかりのシャーペンをペンケースから取り出した。

 カチカチと芯を出して、そして。

 黒い机に、ペンを滑らせた。

 ノートと教科書を並べれば隠れちゃうくらいの位置。目立たないように小さく短く、でも気付いてもらえるようにはっきりと。


『今度、よければ会いませんか』


 頬に熱が集まっていくのを感じる。顔だけじゃなく、身体までが熱かった。トクトクと心臓が走り始める。

 せっかく書いたけれど、消してしまおうか。そんな考えが一瞬、脳裏をよぎる。けれど、それを実行する前に静かな教室に予鈴が響く。開けられたドアの、さらに向こうの方から、ざわめきが近付いてきている気がした。次の授業まで、あと5分。次にここを使うクラスの人たちと出くわさないように、素早く静かに教室を後にした。

 理科室を出てすぐ横の階段を上る。踊り場で身体の向きを変える。

 後ろの方から聞こえた騒めきが廊下を真っ直ぐ進み、空っぽの理科室に吸い込まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

RAKUGAKIST @fi_na

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ