第2話

 これきりのやり取りなんだと思っていた。


 火曜日、6時間目。昼休みまではそわそわした気持ちでいっぱいで、あまりにも心臓が騒がしくって、吐いてしまいそうなほどだった。大げさだって笑われそうだけど、私にとってはそれくらいのことなんだ。

 なんだけど。


 5時間目が終わる頃、私は先週の落書きのことなんて忘れていた。数学の授業終わり、欠伸を噛み殺しつつ教科書やノートを用意する。クラスメイトたちのほとんどが移動し始めたのを見て、私も教室を出る。10分間の休み時間、騒がしい廊下を真っ直ぐ進み、突き当りの階段を下りてすぐそこにあるのが理科室だ。

 いつも通り、左側の一番後ろの席に向かう。背凭れのない椅子に座り、頬杖をつく。クラスメイトたちの話し声が耳を通り過ぎていく。その感覚は、結構心地いい。思考がぼんやりとして、意識がふわふわと溶けだしていくみたい。なにか考えているようで、なにも考えていない。どこか見ているみたいで、どこも見ていない。

 何気なく視線を滑らせると、机の黒とは違う黒い輝きが目に留まった。じっと見て、気付く。

 落書きが、増えてる。


『同士! 笑』

『Y? T?』


 先週、私が書いた文字の下に書かれた二行。それを見て、今の今まで忘れていた落書きのことを思い出す。ちゃんと、返してくれたんだ。

 とくとく、心音が僅かに早くなる。叫び出しちゃいそうな、今すぐ顔を覆ってしまいたくなるような、そんな気持ち。あのときみたいに、手のひらがじんわりと熱くなってくる。もう机に突っ伏してしまおうか、そう思った瞬間、6時間目の始まりをチャイムが告げる。ドキンとひときわ大きく心臓が跳ねた。

 先生が話し始める。でも落書きのせいでいつも以上に話が入ってこない。胸に手を当てて深呼吸をしてみる。肺が空っぽになるくらい長く息を吐いて、ようやく落ち着いてきた気がする。

 教科書とノートを開く。シャーペンを握って、そろそろと机の端に目を向けた。


『暇じゃね?』

『わかる』

『同士! 笑』

『Y? T?』


 先週から少し進んだやり取り。最後の行の『Y? T?』というのは、先生の名前のことだろう。

 この学校に理科の担当の先生は二人いる。芳山よしやま先生と高野たかの先生。芳山先生は1年生、高野先生は3年生の担当だ。ちなみに2年生は1、3、4組が芳山先生、残りが高野先生っていうふうになってる。なんでそんなふうにややこしい分け方にしたのか、それはさすがに知らないけど。

 カツカツと黒板をチョークが叩く音。顔を上げて前を向くと、肩までの髪をひとつに結んだ先生が振り返るところだった。眼鏡のガラスがきらりと光る。私のクラスの担当は芳山先生だ。だから小さく『Y』と書き込む。



 そして、金曜日。3時間目。


『Y』

『え、羨ま』


 顔を伏せてにんまりと微笑む。あれ、なんだろう、これ。なんていうか、うん……面白い、かもしれない。


 とにもかくにも、その日から私と彼のやり取りは始まった。私が勝手に“彼”と呼んでいるだけで、もしかしたら“彼女”なのかもしれないけれど。理科室の机の上、週に2回だけの筆談。他のクラスの人が書き加えたり消したりしてもよさそうだけど、たぶん、そんなことはされてない。お互いの言葉に返事を書くのも、書く場所が減ってきて消すのも、私と彼の二人だけ。

 だからときどき、“彼”の書く字は私だけにしか見えてないんじゃないかって思うことがある。もしかしたら、“彼”という存在自体、私が創り上げた妄想なんじゃないかって。


 黒い机の上のシャーペンの文字を指でなぞる。ちょっとだけざらついた感覚。

「ね」「れ」「わ」の2画目は、ちゃんとはみ出してるのに、縦画を止めずにハネてある。私の字にはないその癖が、“彼”の存在は妄想なんかじゃないって教えてくれてる。

 指を机から離して、何の気なしに指の腹を見る。少し黒い。

 ハッとして机に目を戻すと、文字の輪郭がぼやけてしまっていた。ちょっと焦る。でも落ち着いて確認すれば完全に消えてるわけじゃなくて、それにちゃんと読めるからほっと胸を撫でおろす。


『準備室系の教室って何で入っちゃいけないんだろーな』


 これで何度目だっけ。机の上の文字に目を走らせる。何度も何度もその言葉を脳内でリピートする。

 どう返事するのがいいんだろう。“彼”とやり取りをするようになって、そんなことを考えることが増えた気がする。他の人が相手だとめんどくさいなって思っちゃうんだけど、何かこれは違う。わくわくする。ドキドキする。照れくさくって、でもそれが楽しい。気付いたら落書きのことばかりが、頭の中を占めている。

 授業時間いっぱいを使ってじっくりと考えてみても、なかなか言葉は出てこなくって。それで結局、短い文で返事をする。


『わかんない。でも、面白そうだよね』


 一、二秒で書きつけた文字を、何度も何度も、字がゲシュタルト崩壊してしまうくらに読み返す。我ながら素っ気ないなと思う。もっと別のいい方をすればいいのにって。例えば向かいの席の子だったら、例えば真ん中辺りに座ってるあの子だったら。きっと、私なんかよりもっとずっとかわいい返事が出来るのだと思う。

 これを読んで、“彼”はどう思うんだろう。話題を振るのはだいたい“彼”で、私はそれに返すだけ。全然盛り上がらない。いつ会話が途切れてもおかしくない。

 次の授業時間に机を見たとき、落書きがなかったら嫌だなって思う。なのに、返事を書いてもらえそうな言葉なんて何ひとつ思い浮かばない。そういうとき、私が私じゃなければいいのにって考えちゃうんだ。


 授業が終わる。みんなが移動するのに合わせて、私も理科室を出る。

 ドアを潜る前、ちらりと机を振り返る。窓から射し込む光が室内を照らしていた。空中を漂う埃がきらきらと光る。


“彼”はまた、何か返してくれるかな。

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