RAKUGAKIST

第1話

 理科室の雰囲気って嫌いじゃない。

 授業で教室を移動するたびにそう思う。少し黄ばんだ骨格標本も、よくわからない何かが漬けてあるホルマリン漬けも、埃を被った人体模型も。みんなが“不気味”だと表して敬遠するそれらが、私はそんなに嫌いじゃなかったりする。

 理科室の隣の準備室前の廊下に設置されている古びた棚。端の方にヒビが入ったガラスはセロテープで申し訳程度に補強されている。そのガラスの向こうには、おそらくネズミであろう小さな物体が入れられたビンが置かれている。そのビンの中は黄色くてよくわからない液に満たされていて、不気味さとかよくわからなさが増している。

 その棚の前を通るとき、女子だけでなく男子でさえも見ないふりをする。視界の端に少なからず見えているはずなのに。むしろそっちの方が、私には不気味だった。


 理科室に雪崩れ込むクラスメイトの波に紛れて、私も理科室に入る。廊下の突き当りにあるこの教室には窓が左右に二面あって、意外と日当たりがいい。左側の窓から入ってくる光が眩しかった。

 学期の初めに先生が決めた席順で座る。残り5分もないけど、一応、休み時間だからって仲の良い者どうしで集まって話している子たちもいた。左側の一番後ろ。そこが私の理科室内での定位置だ。視力が悪いせいで黒板が見えにくいという問題はあるけれど、それ以外には何も問題はないから、この席順に特に不満はない。真ん中の一番前の席の子は「はやく席替えしたい」とよく言っていて、それには同情してしまうけれど、でもこの席の居心地がいいから席替えはしばらくなくていいな、とも思う。

 小さく欠伸を漏らす。視界が少しだけ潤むけど、瞬きをすればおさまった。

 特に教科書やノートを開くこともなく、机に頬杖をついてぼぅっとする。そうやって過ごすこの5分があるから、どちらかといえば理科の授業は好き。かもしれない。なんて思って、でもすぐに否定する。ううん、私が好きなのはあくまでも『授業前の時間』であって、授業そのものじゃない。


 周りのみんなの話し声を音として聞く。ひとりひとりが何を話しているのかなんてわからない。それは授業が始まっても同じ。先生の話くらいはちゃんと聞いた方がいいってわかってる。わかってるけど、でも、つい聞き流してしまうんだ。

 中にはノートや教科書さえ広げてない人もいて、そういう人に比べれば私って真面目だと思う。だって、教科書もノートも広げてる。板書だってちゃんと写してる。私語もしてない。ただ先生の話を聞いてないってだけ。

 黙って黒板を写すのにも飽きて、ノートや教科書を見るふりをして机の一点をじっと見つめる。それを見つけたのは、ただの偶然だった。


『暇じゃね?』


 理科室の机は他の教室と違って大きい。色も黒いから、みんな落書きをしてる。実は結構、鉛筆のあとってわかりやすいのに、そこまで考えが至らないのだろうか。わかっててやってる人もいるかもしれないけれど。

 机の端、ちょうどノートを広げた横の辺り。よく見てみれば、それは小さな文字だった。さっきも言ったみたいに机の天板と、鉛筆で書いた文字の色って、同じ黒色でも微妙に違うからすぐにわかっちゃう。


 先生が黒板の方を向く。同じ班のメンバーも黒板の方を向いたりノートを書いたりしてて、私の方は誰も見てない。それを確認した私は、ノートで隠すようにしつつ、そのメッセージに返事を書き込んだ。『わかる』って。頭で考えるより先に相槌を打つみたいに、反射的にシャーペンを走らせていた。

 書き終わったあとになって、心臓がどくどくと走り始める。シャーペンを握り込む手のひらが、じんわりと湿り気を帯びていく。


 ああ、どうしよう。こんなの、初めてだ。


 説明のために先生が振り返る。向かいの席の子はふと顔を上げる。二人ともが私を見ているような気がしてしまう。無意識の内に身体を縮こめていた。意識しすぎてるだけだって、冷静な自分が頭の中で言う。そんなの、わかってる。だって、先生とも向かいの席の子とも、全く目が合わなかった。

 ノートをとるふりして顔を俯ける。結んでない髪が肩から滑り落ちて、顔を隠してくれる。いつもだったら邪魔だなぁって思っちゃうのに、今日は、今だけは、この鬱陶しい髪が邪魔じゃなかった。


 理科の授業があるのは週に2回、火曜日と金曜日だけ。今日は金曜日だから、この返事にまた誰かが返してくれたとして、私がそれを確認出来るのは来週の火曜日ってことになる。ただ、6時間目の授業だからそれまでに消えている可能性が高い。それに、返事が返ってくるとも限らない。というか、何も面白いことなんて書いてないんだから、スルーされるだけだと思う。せいぜい、他のクラス・学年の誰かの目に留まって、何か書いてある、と話のネタになるだけだろう。それならまだいい方で、最悪、問答無用で消されるだけだ。

 そんなことわかってるけど、でも、私はこの落書きに返事を書いてみたくなったのだ。普段だったら、たぶん、そんなふうに思うこと自体ないと思う。だから自分でも不思議だった。なぜ返事を書こうと思ったんだろうって。

 机の落書きを見かけるのは、これが初めてじゃない。何を書いているのかわかるようなわからないような絵だったり、同じ班の子と話しながらふざけて書いたような文字だったり。先生にバレたら怒られそうだなと思いこそすれ、それに何か反応しようとは思わなかった。というか、興味すらなかったんだ。


 いつも以上に息を潜めて、授業が終わるまでの時間を過ごす。今日が実験のない日でよかった。もしも今日、実験があったらものすごい失敗をしてしまいそうだから。

 チャイムが鳴って授業が終わる。クラスメイトたちが喋りながら教室へと戻っていく。ちらりと机の落書きを一瞥してから、私も理科室を後にした。

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