第3話


 清洲城から熱田神宮までは現在の国道を使って約15キロ。信長は午前8時頃に到着した。さまざまな方面から兵も集結してくる。

 その数二千ほど。

 軍は熱田神宮を出発して鳴海城なるみじょうを囲む善照寺砦ぜんしょうじとりでに入った。鳴海城の東側に鷲巣砦わしずとりでと今川勢が守る大高城おおだかじょうが対している。


 ああ、この城と砦の配置、わかりにくいよね。あのね、三河方面に多くの砦と城があって、それを今川が攻めていたって、ゆる〜く考えといてね。

 そんな状況で続々と報告が入ってくるんだ。心が折れるようなね。


「お館様」

「申せ」

丸根城まるねじょう、陥落しました!」


 将軍たちからため息がもれた。


「佐久間盛重どの五百名のものと城外にでて討死うちじに!」

「鷲巣砦、陥落かんらく。飯尾貞宗どの、織田秀敏どの討死」


 出陣を待つ重臣たちの顔は沈んだ。しかし、信長の顔に変化はない、ただ目を半眼に黙している。凍りつくような沈黙が支配した。


「大高城周辺、今川軍が制圧」


 次々に届く伝令は悪いものしかない。

 午前10時。風が起こり、空をおおう雲は黒くとぐろを巻くように走っている。


「よし!」と、低く信長は命じた。

「出陣じゃ!」


 信長の声は甲高い。その声は遠くまで通る。彼は馬上から大音量で怒鳴った。


「遅れるな! 我らの勝利の日ぞ! 勝どきをあげよ!」


 全員が気負い立つしかなかった。信長の馬上姿は凛々りりしい。鬼神のような迫力がある。


「よいか! 殺されるようなやつはワシが殺す! この戦、勝機がきた!」


 兵は信長の言葉に半信半疑だ。

 信長はかつを入れると、すぐさま馬の首を東南方向へ向けた。

 この先に中島砦がある。この誘いに今川は乗るか? 信長の頭にあったのはそれだった。

 この日は湿気が多くまるでサウナのような蒸し暑さになっていた。


 正午、信長が陣をはる中島砦に間者すぱいが到着した。


「お…、お、お館様は」

「そなたは」

「で、伝令じゃ」

「来い!」


 抱きかかえられて陣内に入ると信長に向った。


「お、お館様。義元、沓掛城くつかけじょうを出て桶狭間おけはざま方面に兵を進めました。本陣ほんじんは桶狭間の谷間」


 知らせを聞いて、信長は片頬をあげた、ついに奴が城から出て来た!

 空を見上げた。

 黒く不吉な雲が走り、遠雷が聞こえる。

 南の海からは強い風が吹き、木々を揺らした。


 先ほどまで少し晴れ間がでていたのに、今は嵐になりそうだ。


 この地で子ども時代から野を駆け山を駆けてきた信長である。気候の変動、空気の色、道の様子、すべてが彼の体になじんでいた。地図をみるまでもなく、彼は今川が本陣を張る場所を肌で感じる。


「お館様」

「出陣じゃ! 兵に伝えよ」


 言葉と同時に彼は早歩きで馬に向かう。


「者ども、聞け! 嵐がくる。この嵐は我らを隠す勝利の道だ。運は我にあり。敵がかかってくれば引け、退けば押せ、個々の巧名争いをするな、常に仲間とともに行動せよ」


 兵は応えた。


「おおう!」

「われらの強さを見せつけようぞ。義元は輿こしにのって酒を飲んでおる。笑え! わが兵よ。そんな貴族かぶれに負けるはずはない! 勝どきをあげよ!」

「えいえいおー!」

「えいえいおー!」


 その声と同時に雨が降り出した。

 信長は空気を読み、背後からの風を確認した。

 雨は雷を伴い豪雨になった。


「走れ!」


 信長は常にトップを疾駆しっくする。

 雨が滝のように顔に流れるのもかまわず、彼は走る。

 視界がブレる。腕で拭うと水分が塊になって飛び散った。

 息が荒くなり、胸が苦しい。

 彼の向かう、その方向に今川義元がいる。


 信長の戦略はこうだ。

 先遣隊五百ばかりが敵を引き付け、残りの二千で本陣に突っ込む。

 雨で視界が悪く人の形も定かにはないなか、信長は桶狭間に向けて軍を走らせた。


 同じ頃、桶狭間の谷間に本陣をおいた今川勢は嵐をしのいで休んでいた。

彼らは酒を飲み交わしながら、優勢な戦いにあぐらをかき勝利を確信していた。


 雨が上がった。


 と、いきなり深く白い霧の中から織田軍が出現した。彼らの驚きはいかほどのものであったろう。

 一瞬、今川勢は目を疑った。

 なぜ、ここに。

 今川の軍勢三万は分散して各地の城を攻めている。本隊は五千ほど、そのすきをつかれた格好である。

 信長は叫んだ。


「大声を出せ! 海風が我らの味方だ! 大声を出して攻めろ!」


 うぉぉおおお!


 風に乗った怒涛どとうの声、休んでいた今川軍本隊は怯えた。

 敵に背を向けた軍ほど弱いものはない。

 慌てた彼らは無残に槍でつかれ、馬に踏み潰されていく。

 信長は馬で疾駆する。

 狙うは三百名の親衛隊に守られ輿こしに担がれた義元ひとり。


 信長の精鋭部隊は黒母衣衆くろほろしゅう赤母衣衆あかほろしゅうと呼ばれていた。

 主に土豪の次男や三男で構成され、信長とは同年代の若者たちである。武勇に優れたエリート集団で、この戦いが実質的なデビュー戦であった。

 彼らは常に信長に寄り添い、ともに先頭にたって戦う。


 その精鋭部隊が義元に向かって先頭をきって走ったんだ。

 慌てふためいた義元に襲いかかる。

 義元は輿こしから降り、馬で逃走しようとするが、判断に遅れた。


 乱戦になった。


 信長はただひたすらに大将首に向かった。


 その意気込みを受けた精鋭部隊のひとり、服部一忠が今川義元に届いた。すかさず槍をくりだす。義元の股をさしたが、彼も名のしれた猛将。同時に槍で服部を刺し返り討ちにした。その瞬間、毛利良勝が体ごとぶつかって、義元を組みしいたのだ。

 首を切り取ろうとした毛利に対して、股を刺された義元は逃げることができない。

 彼は、刀を撃ち下ろそうとする毛利の左手をつかむと、その左指を食いちぎった。凄惨せいさんな戦いである。まさに、ケンカだ。


「死ねぇ〜〜!」


 戦闘状態の人間の心理状態は異常だ。

 指を食いちぎられようと、彼はそのまま刀を降ろし義元の首を掻き切った。

 槍に首級をさすと、頭上高くあげた。


「取った! 義元の首を取った!」


 その瞬間、時間が止まった! そして、信長が叫んだ。


「勝どきじゃ〜〜」


 すかさず味方が吠える!

 信長軍の勝利の瞬間だった。信長は血に染まった右手を天に挙げると、高らかに宣言した!


「勝利じゃ! 者ども、勝利じゃ。われらの勝利よ‼︎」


 完全な勝ち戦と浮かれていた今川軍の落胆は底なしだ。

 悪夢なのか……、それまで信じていた土台がボロボロと足元から崩れていく恐怖を味わっていた。

 もともと兵士ではなく、戦のたびに徴兵される一般の雑兵にいたっては逃げることしか考えない。大将首を取られたと聞けば、あっという間に敗走していく。


 今川方の武将が「逃げるな!」と声を枯らしても無益であって、その武将自身も義元の死に涙を浮かべていた。

 勢いづいた織田勢は敗走する今川軍を追撃した。


 十倍の兵力に勝利。

 だからこそ桶狭間おけはざまの戦いは歴史に残り、当時の人々を驚嘆せしめた。この勝利は偶然のラッキーが重なったからか、あるいは、勝つべくして勝ったのであろうか。


 どんな勝負にも偶然や運はある。しかし、そのラッキーな運を手中にするための戦略と努力、めげない心なくしては存在しないのも事実だ。

 この時、遠くで戦いの行く末を見つめていた人間たちが密かに走り去った。それぞれの国を支配する大名の間者すぱいたちだ。

 予想外の信長の勝利、このどんでん返しに、多くの大名から武将、庶民に至るまで驚嘆した。




「勝った……」


 この勝利を最も信じ、そして、最も疑っていたのは信長自身ではなかったろうか。


 興奮に意気揚々とする配下のものをねぎらい、26歳の彼は空を見上げた。

 そこには幼いころから走り回った野山と知り尽くした空がある。雲が切れ、隙間からいく筋もの白い光が地上に降りていた。


 これはまだ、スタート地点だ。彼はひとり孤独の上に立って考えていた。


=了=

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戦国時代最大のどんでん返し 雨 杜和(あめ とわ) @amelish

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