兄と妹
石濱ウミ
運命
少女は懸命に走っていた。
おさげに結った髪を背中で揺らし、前髪は汗で額にぺたりと張り付いている。
はあ、はあ。
息を切らし、ランドセルを鳴らし走る。
普段なら少女は兄と一緒に登校していた。朝の短い時間は、常に慌ただしく、いつだって兄に急かされるように歩いていたが、置いていかれることなんて一度もなかったのに。
このところ、お兄ちゃんの様子がおかしいことに気づいていた。いつも明るくて、優しいお兄ちゃんが塞ぎがちなのは、きっと何があったからだ。
気づいていたから、元気を出してって言うつもりだったのに。
少女は半分涙目になりながらも、遅れてしまった時間を取り戻すべく、懸命に走る。
あ! お兄ちゃん! 待って!
少女の目の先に飛び込んできた黒いランドセルの背中は遠く、果たしてその距離は、なかなか縮まらない。その上、涙が邪魔をして、その背中が少女の兄のものかどうか自信がなくなってきた。
黒いランドセルの背中は、後ろを振り返ることなく、曲がり角を曲ってしまう。
少女は、名を叫んだ。
「お兄ちゃん……アキラくん!」
呼ばれて、アキラは嫌そうに振り返る。
小走りで近づいてくるのは、隣家の女の子。
顔には満面の笑みを浮かべ、アキラが立ち止まるのを当たり前だと思っている様子に、イラッとする。
「また、先に行くつもりだったのね?」
この子、里崎
面倒くさいと思われているのを知ってか知らずか、佑は可愛らしく見えるように小首を傾げている。
そのわざとらしい仕草にまた、アキラは苛立つ。
「あのさ、いつも勝手についてきてるけど一緒に通う約束なんてしてないよな?」
「約束しないと、隣を歩いてはいけないの?」
小賢しいところが、また余計に腹が立つ。
アキラは踵を返して、歩き始めた。
佑はその隣を、澄ました顔で歩く。
勘弁してくれよ。
変な噂話の的には、なりなくなかった。
幼い頃とは違って中学生ともなれば、周囲は好奇に満ちた視線だらけで、その犠牲者にはなりたくない誰もが、自分以外の誰かが標的にされるのを切願しているというのに。
一緒に歩いているというだけで、どこからか冷やかしを含んだ視線をかんじるのは、気のせいではないとアキラは思う。
……正門をくぐったら、なんとかして離れよう。
アキラは苦虫を噛み潰したような顔で、歩く。そんなことはお構いなしに、佑は澄ました顔で制服のセーラー・カラーを
思えばあの日、折しも同じタイミングで玄関を開けたアキラと佑の目が合ったせいで、こんなことになったのだと考える。
そうだ。
あの日、真新しい中学の制服に身を包んだ佑が、隣の家から出て来たアキラの姿を見て顔色を変えたのが始まりだった。
「おはようございます。あの……その……制服。同じ……同じ学校ですよね?」
アキラは突然話しかけられたことに驚き、同時にこんな奴、隣の家に居ただろうかと不審な目を向ける。
「あ、先月、引っ越して来ました。母とご挨拶に伺った時にはお会いしませんでしたね。……佑です。里崎、佑です」
そう言えば、お隣がどうとか、母子家庭がどうのとか言っていたような気がした。
「……ああ」
アキラが思わずぶっきらぼうな答えをして背を向けると、佑の呟く小さな声が聞こえた。
「運命って、あるんだ……」
やべー。関わりたくない。
アキラは聞こえなかったフリで、その場から足早に去った。次の日から、佑による付き纏いが始まるとは、考えもせずに。
佑が勝手に運命を感じるくらい、確かにアキラは見た目が良いと自分でも分かっていた。
小学校のカーストでは学年上位5%の部分に属し、その外見の良さと底意地の悪さで、クラスの意を欲しいままにしていた。
もちろん直接何かをする訳ではない。
アキラが気に入らない奴をそれとなく示せば、そいつはクラス中から除け者にされる。さらには気紛れに、嫌いな奴を変えてみたりして、煽動されたクラス中が右往左往するのを面白がって見ていた。
不幸にも、あの事故が起こるまでは。
あの後、小学校の友達とは縁を切り地元から離れた私立の中学に進んだアキラは、起こったことをすべて忘れ、外見にふさわしい人物を演じ続けている。優しくにっこりと笑うだけで、大抵は思い通りに事が進んだ。
なんてお気楽な人生。
そのため佑ひとり、簡単に軽くあしらえると高をくくっていたのがいけなかったのかもしれない。
アキラが笑顔で拒絶していることも感じとれない佑は「お兄ちゃん」とそのうち背中に親しげに声を掛けるようになる。
その鈍感さにうんざりしたアキラが、本性を覗かせても一向に幻滅する様子もなければ、諦める気持ちもないようだった。
「もう少し、離れろよ」
駅のホームで電車を待つ間も、佑はアキラのすぐ後ろにいる。
アキラは一歩前に、出た。
「ねえ、お兄ちゃん覚えてる?」
佑はアキラの背中に話しかける。
「……何が」
「あの日。わたし、お兄ちゃんと一緒に学校へ行けなかった日」
アキラはそれが、いつの日のことか分からない。何しろこの何日間か、佑を避けることに成功していたからだ。
昨日か? それともその前か?
「いつだよ?」
「忘れてないよね? あの日のこと」
思わせぶりな佑の態度に腹が立ってくる。
「まさかあの日……あんなことがあるなんてね」
「おまえさ、何言っちゃってるわけ?」
アキラは振り返り、佑を睨みつける。
「いつもお兄ちゃんは、わたしを待ってくれてた。だけど、あの日はいつもより早く学校に行ったよね? 友達の探し物があるからって。大丈夫だよすぐに見つかるって、お母さんに言って家を出たんだよね。わたし、すぐ追いかけたんだ。なんだか嫌な予感がして……」
「何? なんの芝居ぶってんの?」
「お兄ちゃんは、誰にでも優しかった。困っている友達を、助けてあげようとしたんだってね」
そんなこと、一度もないけど?
白昼堂々と夢でも見ちゃってんのか?
アキラは気持ちの悪いものでも見るような視線を、佑に送る。
「お兄ちゃん。……名前、忘れちゃった? 岡部
今や佑は涙目だった。
アキラは漠然と、その顔を思い浮かべようとする。あの日、クラスがある四階校舎の窓から転落した……。
「……おまえ?」
目の前にいるのは、誰だ?
「わたしは岡部佑、だった。あの日、あなたがお兄ちゃんを殺すまで、わたし……わたしは」
アキラはまた一歩、佑から遠ざかる。
それを見て佑が鼻で笑った。
「あなたに魅力があるから、わたしが付き纏っていると思ったの? 自惚れもいいとこよね? お兄ちゃんを殺して、家族をバラバラにしたアキラくん?」
「……俺が? 俺は何にもしてない。あいつが教科書を奪い返そうとして勝手に落ちたんだ。その場にいて、見ていた誰もがそう言ったんだぜ? 俺は何もしてない」
佑は首を可愛らしく傾けて言った。
「そうかしら? お兄ちゃんに聞いてみたら、何て言うかしら?」
「バカか? 聞けるもんなら聞いてみろよ」
佑は、にっこりと笑った。
そしてアキラの背中に向かって言う。
「お兄ちゃん、聞こえた?」
アキラは思わず振り返る。
目と鼻の先。その触れそうなまでに近くあるのは、不自然な角度で首を傾げ頭蓋骨は陥没し、片方の眼玉が飛び出た血みどろの岡部晴人の顔。
悲鳴にならない声を上げて、闇雲に走り出した先は……。
最後には
ね? お兄ちゃん。
電車の警笛が、鋭く長い音を立てた。
兄と妹 石濱ウミ @ashika21
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます