陰野家殺人事件
尾八原ジュージ
陰野家殺人事件
「これは殺人です」
と探偵は言った。
僕たちが訪れたのは、日本有数の大金持ちである
袋戸先生は現場となった部屋を見るなり、
「これは殺人です」
と言い放った。
そこは金太郎氏の寝室であった。いわゆる「贅を尽くした」ってのはこのことなんだろうな、と見ればすぐにわかるくらい、滅茶苦茶に豪華な部屋だった。高級ホテルのロビーのように広々とした洋室の真ん中には、どどーんとキングサイズのベッドが置かれ、壁には金糸銀糸を使って春画を描き出したタペストリー、水槽の中ではピラルクーが泳ぎ回り、挙句の果てには大きなゴリラの入った檻が隅に設置されている。さっきから胸を叩いたり口をもぐもぐさせたりしているので、そいつが生きていることは確かだ。
しかし今、それらの豪華な調度品は血にまみれ、生臭いにおいが部屋中に立ち込めていた。そしてベッドの脇には、この家の主である陰野金太郎が、バスローブの前をはだけ、パンツも履かないあられもない姿を晒して倒れているのだった。
「しかし……」
と、老執事の
「では密室殺人です」
寝室のドアの傍に集まって立ち、困惑した様子の陰野家の人々に向かって、袋戸先生はさらに言い切った。
僕は先生のくたびれた着物の袂を引っ張った。
「先生、まずは殺人だという根拠を見せないと、皆さん納得しません」
「おお、そうだな。尾南穂くん」
袋戸先生は優れた探偵だが、時々こういう一般的な感覚を忘れ去ってしまうことがある。説明のためにドアの方にしっかりと向き直ると、それぞれ一癖ありそうなギャラリーに向かって、彼は話し始めた。
「まず拝見した限り、陰野氏は大量に出血していながら、凶器らしきものを何ひとつ持っていません。自殺なら、凶器は死者のすぐそばになければなりませんからね。それに、日本有数の大富豪である彼に、果たして自殺などする理由があったでしょうか? 会社経営はまことに順調。財産はどんどん増え、おまけにこのようなお美しい奥様がいらっしゃるのに……」
「ハァーイ」と言いながら、ピンク色のドレスを着た金髪の豊満美女がクネクネした。金太郎の年若い後妻、陰野シモネッタである。
「確かに父は自殺などするようなタマではなかった」
仕立てのいい細身のスーツを着こなした神経質そうな男性が、眼鏡をクイッと上げながら言った。こちらは金太郎の長男、
「しかし、事故という筋はどうです? 何かこの部屋に、重大な事故を引き起こすようなものがあるのでは……」
「おいおい、兄貴は殺人だったら都合が悪いってのか?」と、派手なジャケットを着た、見るからに遊び人らしい男が口を挟んだ。金太郎の次男の
「親父が死んだら、陰野家は兄貴のモンだ。なのにいい年してちっとも引退の気配がないとボヤいてたのは、どこの誰だっけなぁ?」
「なんだと!?」
あわや喧嘩が始まろうというところに、先生が割って入った。
「まぁまぁ、お二人とも。今は争っている場合ではありません」
二人はしぶしぶという感じで口をつぐんだ。
「事故の線も考えにくいでしょう。御覧なさい!」
先生は遺体を指さした。
「下半身を血に染めたあの遺体を……彼には、その」
少し言いよどむ。「あの、ないのです! 股間のいわゆる八畳敷が失われているのです! 何者かに引きちぎられて!」
「な、なんだってー!」
僕を含め、同じものが股間についている男性陣は、皆思わず手でそこを押さえて体を震わせた。
陰野金太郎は、何者かに彼のいわゆる八畳敷を引きちぎられ、その出血とショックで死んだのだ。なんて恐ろしい死因だろう。遺体をパッと見た限りでは血まみれでよくわからなかったが、よくよく見れば確かに、その股間にはあるべきはずのフニャフニャしたものがなかった。
「なんという凶悪な犯罪だ……」
先生は、ヨレヨレの袴の股を押さえて呟いた。「これが事故や自殺であるはずはない! 明らかに殺人なのです」
「そんな……旦那様がそんな恐ろしい死に方をなさるなんて!」
若く愛らしいメイドが、口元に手をあてて叫んだ。「一番犯人らしくないようでいて、実は一番怪しい登場人物」の鑑のような女性だ。
「旦那様は、孤児のあたしを拾ってくださったお優しい方です! 他人様にそこまで恨まれるような方ではございません!」
「ヒヒヒ……祟りじゃ」
紫色の着物を着た、猿のように小柄でしわくちゃな老婆が、一同の後ろから姿を現した。金太郎の母の
「三代前の陰野家にも、同じ死に方をした者がおった……同じものを失い、股間から大量の血を流してな! この家は祟られておるのじゃあ!」
「大奥様!」メイドが万子を押さえて、部屋から連れ出した。
「父のキ……いや、アレがないということは……まさか!」
物一郎が大声を上げた。「まさか、例の金庫が目的では!」
「例の金庫とは?」
先生が尋ねた。物一郎は青ざめた顔でうなずいた。
「会社の社長室にある金庫のことです。社判や父個人の実印、それに会社に関する機密書類など、重要なものが入っているのです」
「それと、お父上のキン……アレと、どのような関係が?」
「その金庫の開け方が問題なのです。世間には指紋認証とか、顔認証というものが広く知られていますが、当社の金庫はその、アレの形状や皺を認識してロックを解除するという、特別製なのです」
「なんと!」先生が甲高い声を上げた。「そんな技術が確立されていたとは……ていうか、そうすると陰野氏は会社で印鑑が必要になるたび、金庫の前でパンツを脱いでいたということになりますが……」
「まぁその、社長室に勝手に入ってくる者はおりませんから。それになんと申しますか、その、父には昔から露出のヘキがございまして……」
物一郎がそう話しながら、ハンカチで額の汗をぬぐった。
「先生! 話が脱線しかけてますよ!」僕はふたたび袋戸先生の袂を引っ張った。
「あ、ああ、すまない尾南穂くん。つまり犯人は、その金庫を開けるためにキン……いやその、アレを奪っていった可能性があるということですね?」
「ああ、あの金庫の中身を盗られたら大変なことに……!」
物一郎は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。執事が使用人を呼びつけ、「誰か社長室を確認してこい」と言い渡しているのが聞こえた。
もしも、この殺人の目的が天下の陰野コンツェルンへの攻撃なのだとしたら、日本経済全体にも関わるほどの大事件になりかねない。そしてこの事件を解決することは、社会正義を成すのみならず、我らが袋戸探偵事務所の飛躍と発展にもつながるのだ。
僕は陰野家の人々と話している先生をよそに、部屋の奥へと足を踏み入れた。先生が容疑者たちの話を聞いている間に、僕が現場を観察して、怪しいものがないかどうか探しておこうという計画である。
被害者はベッドの脇に倒れていたが、血はほとんどまんべんなく部屋中に巻き散らかされている。室内のどこかでキンタ……アレを引っこ抜かれ、苦しみのあまり部屋中をのたうちまわったのだろうか。改めて恐ろしい話だ。もっとも、アレを引き抜かれてそんなに出血するものかどうかはちょっとわからないが……などと考えながら血痕を追っていくと、飛びぬけて血の染みが大きな個所にたどり着いた。
そこはゴリラの檻の前だった。黒い体毛に覆われていてわかりにくいが、よく見ればその毛皮にも、陰野氏の血が飛び散っているようだ。
ずっとこの部屋の中にいたこいつなら、犯人が誰かを知っているはずだ。ああ、ゴリラがしゃべることさえできたなら……と思って見ていると、ゴリラは僕に関心を持ったのか、黒く光る瞳でこちらをじっと見つめ返してきた。そして、さっきからモゴモゴさせていた口を開けると、何かを手の上に吐き出した。
なんだろう? フニャフニャして、皺がよっていて……
「うわぁーーー!!!」
次の瞬間、僕はすべてを理解して悲鳴をあげていた。
「ゴ、ゴリラの口からアレが!」
「何だって!? う、うわぁーーー!!」
走り寄ってきた先生も、僕と同じものを見て叫んだ。
ゴリラは筋肉に覆われた鋼のような肉体を持ち、その力は人間をはるかに凌駕すると言われる。加えてその手の形は人間に似て、ものを掴むことができる……
「つ、つまり例の露出癖が疼いた金太郎氏が、ゴリラの前でバスローブの前を開けてブラブラさせていたところを……」
「たまたま興味を持ったゴリラがその怪力で……掴んで引きちぎ」
僕が青ざめながらそう言ったとき、ゴリラがその長い腕を、檻の隙間からヌッと差し出してきた。
その掌に、例のブツを載せたまま……。
「うわぁーーー!!!」
僕と先生は、脂汗を垂らしている顔を見合わせてまた悲鳴を上げた。なにかしら察したらしい陰野家の人々も、一斉に悲鳴を上げた。
その声は、10キロ先のラブホテルまで轟いたとか、轟かなかったとか。
かくして、陰野家殺人事件は幕を下ろした。
のちに例のゴリラは、あの檻の中で陰野氏の露出癖に付き合わされていたことから、かなりストレスを溜めていたらしいということがわかった。今はどこかの研究施設に引き取られ、案外安らかな余生を送っているという。
陰野家殺人事件 尾八原ジュージ @zi-yon
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