上書き保存

田中ケケ

上書き保存

 雲一つない六月の青空を見ていると、少しだけ胸が締めつけられる思いがした。


 ジューンブライドですか。ああそうですか。

 結婚はそんなにいいものですかねぇ。


 って、わたしにはもうそんなの関係ないんだった。


 わたしは今、空を飛んでいる。

 だけど天使みたいな純白の翼は背中から生えてはいない。代わりに白いワンピースを着ており、そのワンピースの腰まわりには、レースのカーテンが白の養生テープで貼りつけられている。

 子供が作ったかのような簡素な衣装だ。

 それを二十七歳の女が着ているのだから、たいそうみすぼらしく見えることだろう。


 ただ、わたしの姿が見える人は、もうこの世にはいない。


 ううん。


 わたし自身が、もうこの世にはいない。


 わたしは幽霊だ。


 さっき神様にそう言われた。


 あなたは幽霊で、現世に心残りがあるから幽霊になってしまったのだと。


 だからわたしは、こうして空を飛んでいる。


 きちんとアイクが『上書き保存』できているか、確かめなければいけないから。






 わたしとアイクは産まれた時から一緒に遊んでいた。母親同士の仲がよくて、アイクはアイクの母親と共によくわたしの家にやってきた。


 あれは、確かわたしが六歳の時。


 その日も、お母さんたちを一階のリビングに残して、わたしとアイクは二階のわたしの部屋に向かった。


「結婚式ごっこをしようよ。メアリー」


 わたしがなにをして遊ぼうかと考えていた時。


 背負っていたリュックサックの肩ひもをぎゅっと握っていたアイクが言った。


「そうしよう。アイク」


 わたしは笑顔で頷く。


 三日前に、父親の友達の結婚式に出席していたわたしは、結婚式というものに一瞬で魅了されていた。


 真っ白のウエディングドレスが着られて、きらきらした髪飾りをつけられて、薬指に指輪をはめられる。

 そして、その日を境に大好きな人と永遠に結ばれることができる。


 そんな素敵な催し事が結婚式だと知ったからだ。


「ありがとう。そう言ってもらえてよかった」


 アイクはホッとしたように笑い、リュックサックを床に下ろした。


「ねぇねぇアイク」

「ん?」

「ウエディングドレスはどうするの?」


 わたしは当然のように聞く。


 だって結婚式にウエディングドレスは欠かせないから。


 今思えば、アイクがなぜ『結婚式ごっこをしよう』と唐突に提案したのか、この時にもっと考えるべきだったのだけど。


「それは……もう用意してあるんだ」


 アイクが鼻を掻きながらぼそりと呟く。


「え? どこに?」

「この中だよ。昨日、一生懸命作ったんだ」


 アイクの声はだんだんと小さくなっていった。万引きした商品を取り出そうとしているかのように、恐るおそるリュックサックを開けて中に手を入れる。


「これだよ、どう?」


 そして、中から白い布を取り出し、わたしの前に突き出した。


「……え」


 困惑しつつそれを受け取る。

 広げてみると、それは洋服だった。

 白いワンピースに、切断されたレースのカーテンが貼りつけられているだけの、なんともみすぼらしい洋服。


「これ、は?」


 聞くと、アイクは目を伏せながら、


「うん。時間がなくてこれしか用意できなかったけど」

「こんなの、違う!」


 わたしはそれを床に投げ捨てた。


「こんなのウエデェングドレスじゃない。可愛くない! こんなの着て結婚式なんかしたくない!」


 わたしはアイクを睨みつけていた。


 アイクは床の上のウエディングドレスを悲しそうに見つめながら、声を震わせる。


「ごめん。……そうだよね」


 手を伸ばして自作のウエディングドレスを拾い上げるアイク。一度はそれを胸に抱えたが、意を決したように頷き、それをまたわたしの前に差し出してきた。


「でも、これはメアリーのために作ったから、メアリーにあげる。いつか着てくれるのを楽しみにしてるから」

「……着ないよ。こんなの」


 わたしがそう言うと、アイクは諦めたように笑った。


「へへへ。そうだよね。やっぱりいらないよね」


 アイクの表情を見て、胸がきりきりと痛み始めた。

 気がつけばわたしはアイクの手からそのみすぼらしい洋服を奪っていた。


「……でも、一応もらっておく」


 アイクは目を見開いたが、すぐに本当に嬉しそうに笑った。


「ありがとう」


 そして、その三日後。

 アイクは遠くの街に引っ越してしまった。


 その事実を知った夜、わたしは自分の部屋でアイクからもらったウエディングドレスを着てみることにした。

 鏡の前で何度かポーズを取る。


「どう? アイク。似合ってる? 可愛い?」


 部屋にはわたし以外ないから、当然誰も返事をしてくれない。







 長いこと空を飛んでいたわたしは、とある建物の上で飛ぶのをやめた。ゆっくりと降下し、屋根をすり抜ける。するとそこには、試着ルームと書かれた扉の前を行ったり来たりする、大人になったアイクがいた。


 声をかけても届かないことくらいわかっているし、そんな無駄なことをするつもりもなかったから、わたしは落ち着きを失っている彼のことを、上からずっと眺めていた。


 しばらくすると、扉が開いた。


 中からスーツ姿の女性が出てきて、アイクに声をかける。


「着替え終わりましたよ」

「あ、そうですか」


 つと顔を上げたアイクの後ろに続いて、わたしも部屋の中に入る。


「うわぁ……」


 アイクの感嘆の声が耳に届く。


 わたしもアイクと同じ気持ちだった。見惚れていた。子供のころの気持ちを思い出していた。


 部屋の中には、純白のウエディングドレスを着た一人の女性がいたのだ。


 アイクは扉の横で足を止めて、純白のドレスに身を包んだ女性をじっと見つめている。

 その女性も頬を赤く染めて、恥ずかしそうにしていた。


 ……よかった。


 わたしはほっと胸をなでおろした。


 きちんとアイクは『上書き保存』できていた。


 彼にはもう結婚を約束した、わたし以外の相手がいる。まあ、考えてみればそりゃそうだよねって話だけど。


 引越し以来、アイクとは一度も会えていなかった。


 かれこれ二十年。


 そんなやつのことを今まで気にかけていたなんて、心配していたなんて、わたしはお人好しだなぁ。


 わたしは空に戻ろうと決意した。


 ずっと心に引っかかっていたモヤモヤが消えて、ようやく空より上に行ける気がした。


 そう思っていたのに。


 気がつけばわたしは、アイクが見つめている先、アイクの結婚相手の体の中に突入していた。

 彼女の体に憑依していた。


 頬を赤くしたアイクと、わたしは二十年ぶりに見つめ合う。目元とかあの頃と何も変わっていない。胸板は厚くなっている。心臓の鼓動が鳴り止まない。わたしは今、アイクの前でウエディングドレスを着ている。


「どう? アイク。似合ってる? 可愛い?」


 首を少しだけ傾けて、柔らかな笑顔を作ってから、わたしはゆっくりと唇を動かした。

 口の中が乾燥している。

 背中から汗がにじみ出る。

 アイクはわたしにどんなことを言ってくれるのだろうと、興奮と恐怖とが交互に心を支配した。


 ぽかんと口を開けていたアイクは、ゆっくりと頬を緩めて、笑顔で頷いた。


「ああ。可愛いよ。サーシャ」


 その瞬間、わたしは彼女――サーシャの体からはじき出された。


 サーシャ。


 そっか。


 メアリーじゃないんだね。


 幸せそうに笑うアイクを見ていると、目から涙が溢れてきた。

 涙を拭うと、すぐに笑みがこぼれてきた。


 確認できて、よかった。


 見せられて、よかった。


「アイク。ありがとう」


 呟いてから、わたしはみすぼらしいウエディングドレスをすぽっと脱いで、くるくると丸める。


「でもこんなの、もう、いらないんだよっ!」


 それをアイクめがけて投げつけて、清々した気持ちで空の上へ飛んで行った。

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