第3話
我が家に帰りついたわたしは、ついに決断しました。
わたしは応接室に置いてあった壺を持ち上げました。ついに、この壺のおかげで人生を浪費する愚かさにわたしは気付いたのです。いっそこれを割ってしまおうと思い立ちました。そうです、こんなものがあるから悩むのです。苦しいのです。
わたしの中で何かが変わってしまったのでした。わたしはもうこの壺について思い悩むのもうんざりでしたし、それにまつわるあれこれで諍いを起こすのも嫌でした。妻に言わせればようやく憑きモノが落ちた、と言ったところでしょうが、本当にそうでした。あまりにも長い迷妄でした。
わたしが、壺を床に叩きつけようとしたその時です。わたしは、この壺がとても美しい壺だったということに思い当たりました。
はじめに市場でこの壺を見かけた時、わたしはこの壺の美しさに息を呑んだのでした。いま、ようやく長い年月を経て、もう一度わたしは、値段や来歴ではなく、その美しさに息を呑みました。ずっとともに過ごしてきたというのに!
わたしは壺を壊すのをやめました。それからは、わたしは壺をぞんざいに扱うのでもなく、かといって必要以上に大切に保管するのでもなく、いつでも好きな時好きなだけ眺めていれらる場所に置くことにしました。
ある時、ひとりの金持ちが壺を売ってくれと申し入れてきました。金持ちの使いは買値の三倍支払ってもいいと言いました。ことによるとこの壺は高価な方の壺だったのかもしれません。しかしもうわたしは壺の値段に頓着しませんでした。
わたしは心ゆくまで壺のうつくしさを味わうために、金持ちの申し出を断りました。妻はまたしてもぷんぷんです。やがて使いではなく、金持ちの男本人が、赤い縫い取りのある高価な服を着て我があばら家をノックすることになるのでしたが、わたしの答えは同じです。
「五倍、いや十倍支払おう。もし君が交渉を長引かせることでこれ以上値をつり上げられると思っているのならそれは間違いというもの」
しかしわたしは、金持ちにも、金持ちの並べ立てる数字にもなびきませんでした。
金持ちの男は、不機嫌になり、より尊大になりました。わたしたち一家は、男が縫い取りのある袖をバッと翻して去っていくのをぼんやりと見送りました。
それなのに別のある時、気まぐれに、わたしはこの壺を通りがかりの女乞食にくれてやることにしました。乞食がさしてうれしそうでもなく壺を抱えてどこかへ立ち去ってゆくと、妻の痩せた頬に喜びとも失望ともつかぬ涙が伝いました。
その頃のわたしは長年壺の美しさを堪能し、じゅうぶんに記憶に止めたので、もう本物の壺がいらなくなっていたのです。いつでも必要な時に、必要なだけ記憶の中から取り出せるのです。
これでわたしはあの美しい壺を本当に手にいれたことになったのだと思いました。こうして手に入れたものは決して失うこともなければ奪われることもない上、ちっとも場所を取らないという点でも便利でした。
さらに長い年月が経ちました。わたしたちは歳を取りました。ミーナはショッピングモールの売り子になり、そこで知り合ったクレジットカード会社の男と結婚しましたが、間もなく、亭主に先立たれて寡婦となりました。息子たちはそれぞれに成長し、ひとりはベンガル地方に、ひとりは南インドに、ひとりはカナダに住んでおります。
歳を取れば取っただけ、身の置き所が曖昧になり、心持は索漠としてまいりますが、良いことだってあります。ひとつに、妻の寝返りに潰される心配は要らなくなりました。なにしろ、妻はローラーのように亭主を圧し潰すのほどの巨体ではなくなったのですし、それ以前にベッドどころか寝室までも別になったのですから。
風の噂では、あの壺は女乞食の手から金持ちの手に渡ったということです。乞食は大金を手に入れて大喜び。金持ちは念願の壺を手に入れて大満足、のはずでした。
しかし、なんと、金持ちはいま悲しみにうち沈んでいるというではありませんか。わたしが不審に思っているところへ、その金持ちの男から、是非我が家にいらしてくださいと招待がきました。妻は、わたしをギリシュの店で購入した一張羅にねじ込むと空き缶のごとく通りに蹴り出しました。立派なファサードの前で、もう一度、口ひげをピンと整えて、わたしは来訪を告げました。
豪奢で入り組んだ屋敷を召使に案内され、奥の間へ進んでいったところには、尊大な金持ちの主人と、彼が愛した美しい壺が待ち受けていました。しかし、それらは、わたしの記憶にある姿とは違っていました。金持ちの男は老いさらばえて皺だらけでくすみがかっていましたし、壺は割れていました。屋敷の使用人の不注意だということでした。
「お久しぶりです。あれからわたしも歳を取りました。この数年で、家族と死に別れ、愛すべきものは、この壺だけになってしまったのです。しかし、それもご覧のとおり。ああ、数年前の非礼をお詫びしたいのですが。あの頃、わたしは傲慢だった。すべてが金で購えると信じていた。だからなのか、この壺は、あなたの前で演じたという奇跡をわたしの前で顕すことはありませんでした」
「あなたまでそれを信じるとは」わたしは主人の悲愴にやつれた相貌を正視しかねました。「まあいい、本題に入りましょう。なぜわたしを呼びつけたのですか?」
「あなたなら、この壺を修復できると思ったのです。この壺について知り尽くしたあなたなら、知恵をお貸ししてくれるだろうと。あなたはこの壺のことならなんでもご存知だという。是非、修復に力を貸して頂けないだろうか?」
このような贅沢な屋敷に住む金持ちがわたしのような男に頭を下げるのはどれほどみじめな気持ちだったでしょうか。
「わかりました。できるだけ協力いたしましょう」わたしは言いました。「しかし」とわたしは続けました。「あなたが取り戻したいのは壺ですか。それともその美しさですか?」
金持ちは眼をぱちくりさせました。
「壺か美か。わたしがお手伝いできるのはふたつのどちらかだけです」
「そりゃあもちろん……」言いかけたものの金持ちは言葉が継げません。喉を詰まらせたまま石像のように固まってしまいました。
「もちろん?」間髪いれずわたしは詰め寄ります。
「……うう」
その時、何かが壊れた音がかすかに遠く響きました。
「ほら、いまの音」わたしは石像に耳打ちしました。
「ああ、壊れた音がしたぞ。また使用人が失態をやらかしたのか。役立たずめ」
「いいえ、いまのは、あなたが壊れた音です。もう誰にも直せません。二度と。おめでとう」わたしは壊れた石像に向かって微笑みました。
金持ちは眼をぱちくりさせて、自分の屋敷のあれこれを物珍しそうに見回し、すべてがはじめてだとでもいうみたいに、まるで見慣れぬ世界へ紛れ込んでしまったかのようにキョロキョロしていました。
わたしは言いました。
「割れた壺は用を為さない。しかし、割れた壺には宇宙がまるごと収まる」
「ああ、そうだ! 本当にそうだ!」金持ちの男は歓喜に満ちて繰り返しました。
暇を告げ、手入れの行き届いた庭園を抜けたのは正午を回った頃でした。大通りにさしかかるあたりで、わたしはあの男と再会したのでした。そう、昔、市場で美しいふたつの壺を抱えていた男です。男は、あの日からまるで歳を取っていないように見えました。
アッラーの御使いか、それとも砂漠の精霊に出くわしたといったふうに、わたしはよろめき駆け寄りました。そうそう、いまではわたしは宗教の違いにあまり頓着しなくなりました。伝統的なヒンドゥー教徒でありながら、異教の神さえ敬うほど寛容になりました。あるいは耄碌しただけなのかもしれません。ラーマと言い、アッラーと言い、わたしにはもはや大層な区別をつけられそうにありません。
さて声をかけてみれば、自分はその男ではないと言い張ります。
「わたしはこの屋敷のしがない使用人でさ。それもとんでもないドジをやらかしてお役ご免になったばかりのね」
「そうかあなたが壺を割ったのですね。でも、きっともうご主人はあなたをクビにしたりしないと思いますよ。もう一度、お戻りになってはどうか」
「いいや、いいんでさ。あの屋敷にはもう壊しがいのあるものはなさそうだしな」
「確かに。カビール」
「いま何と仰いましたか?」
「カビール」
「カビール? それは一体?」
「あなたの住所には昔、偉大な聖者が住んでいた。その人は太陽であり、ブラフマであり、そしてあなたであるに違いない」
男は首を傾げました。「さあ……いや、それなら確かに近所にそんなものがあったな。聖者の生家だとかで記念館になってた」
「いいえ、現在はある親子が住んでいます。母と娘が」咎めるようにわたしは言いました。聖者というものは己の偉大さをあからさまにしないものですが、わたしは追求の手を休めるわけにはいきません。なにしろこの男と、いまは失われてしまった美しい壷によって、わたしの人生はすっかり変わり果ててしまったのですから。
路上は相変わらずの騒がしさです。オートバイのエンジン音、クラクション、犬の遠吠え、若くしてしわがれた女の嘆き声、老人たちの空咳。ヴァラナシ、それはひとつらなりの喧騒の名。そこに男はささやかな沈黙でもって楔を打ち込みました。ほんの束の間の空隙。ややあって沈黙は破られます。
「……そう、では近所の記念館は別の聖者の家だったんでしょう。何しろこの国にはごまんと聖者がいる。それにさらに多くのエセ聖者も。とくにこの街であればなおさらだ」
「わたしは知っています。あなたがわたしにとってたったひとりの聖者であることを。たとえカビールでなくても。あなたなら、わたしを導いてくれるでしょう。わたしは望む。それは
わたしは一気呵成に言いました。男はさきほどよりさらに長い沈黙に浸り、あげくに、わたしの懇請を無視して「あなたは主人の屋敷にどんな御用があったのですか?」と話題を変えてしまいました。
「壷を修復するためでした」わたしは自分の恨めしげな声を聞きました。
「それは無理でさ」と男。
そう、無理なのです。その理由がわたしにはわかりました。壷の残骸を見た時、わたしは壷の破片が不足していることに気付いたのでした。確かにあの破片をいくら精微に組み合わせてみたところで元の壷にはなりません。
「憂さ晴らしにくすねてやったんですよ」
「取手でしょう。龍蛇の取手。あなたが盗んだのはそれだ」指摘すると、男はにやりと笑うのでした。ふいにわたしの確信が揺らぎます。こんな卑しい男がはたして聖者と言えるのだろうかと。言葉を発するたび、男の歯の欠けた口から耳障りな擦過音が漏れてきます。ますますわたしは幻滅しました。
「そうそう、……あれ、どこだろう?」男は懐を探り、あちこちのポケットをまさぐったあげく、ようやくお目当てのものを見つけたようでした。「さあ、あったぞ」
言うが早いか、盗人はそれをわたしの目の前に突きつけたのです。
瞬間、わたしは声も出せずたまげて、ぺたんと尻餅をついてしまいました。なんと、男が取り出したのは、蛇の取手でなく、本当の蛇だったのです。灰褐色に肌に白い斑紋の浮いた蛇が男の手からするすると解ける縄のように落ちて、わたしの足首に絡みつきました。
蛇はわたしに巻きつき――わたしはといえば無我夢中で蛇を投げ捨て、男はわたしと蛇との騒擾に笑い転げるのでした。
「な、何のつもりだ!」言うなり、わたしはむらむらと込み上げた怒りに任せて男に掴み掛りました。
しかし男は笑いやめません。ふたりの男は、揉み合いになり、果物売りの籠を四つばかりひっくり返しました。わたしは額から、男は鼻の穴から、それぞれ血を流していました。もはやこの男が聖者であるなんて信じようもありません。ペテン師め!
「ひひひ、蛇は噛んだか?」言われてみれば、蛇は離れざまに確かにチクリと痛みを残したのでした。「噛んだ、噛んだぞ! くそっなんてことだ!」
「悪いね。なんでこんなことをするんだ、なんて訊かないでくれ。仕事を失ってムシャクシャしてたんだ。他人に蛇をけしかけるに十分な理由だと思わないか?」
「ふざけるな。わたしは噛まれたんだぞ!」
「大丈夫、毒はない」
男の断言にもかかわらず、わたしの身体は痺れてきました。パニックです。わたしは立ち上がることさえできず、びっしょりと汗をかきながら、恐ろしい死に様を想像しました。
「……これは毒だ。そうなんだ」
「大丈夫さ」さらに込み上げる笑いをこらえながら男は言います。
わたしは怒鳴りました。
「なんでそう言える? 噛まれたのはわたしだ! この感じ、もうすぐわたしは……」
どこの馬の骨とも知れぬ男に面白半分の八つ当たりで殺されるという人生の幕引きは、さすがに寂しすぎます。こいつは聖者でないどころか立派な狂人だ、蛇使いでもないのに蛇を持ち歩く男の頭がまともなはずがない。どうしてわたしはこんな人物に関わりあったのでしょうか。胸中に後悔の念が渦巻きます。
すると男の口調は駄々っ子をなだめるような感じに変わりました。その瞳は、慈愛の光も、叡智の影もないまま、ただひたすらに澄み渡って、わたしを射すくめます。
「なぁ、ヴィシャール。涅槃を望むなら、どうして死を気にすることがある?」
わたしは口ごもりました。いえ、もはやまともには喋れなくなっていました。すっかり毒が回ってしまったのでしょうか。
「……いやだ。まだ。いや、だ」
白昼に星が瞬きました。視神経に異常をきたしているのかもしれません。わたしはわたしを蝕むものがわたしと分かちがたくあることに不思議な安心感と恐怖を覚えました。いっときは、すべてが解けた気がしたものですが、蓋を開けてみればよりいっそうの混迷のただ中に放り込まれているというわけです。
見ると、さきほど投げ捨てた蛇が、通りの排水口から、鎌首をもたげてこちらを眺めていました。男が口を動かし、蛇は意味を吐き出しました。
「もうすぐ、長い夢から覚めるのかもしれないぞ。ひょっとしたらあと数分で」男は冷然と言い放ちます。いいえ、口を動かしているのは男でしたが、意味を放っているのは蛇の方でした。
「たの、む……助け」男にか、蛇にか、わたしは言いました。
「壷はどうだった? あの中は暗かったか、広かったか? 居心地は? いまここと同じくらい? 平原のように大空のように窮屈だったろう? おまえには恐れるものがたっぷりある。愛してるものだってほんのちょっとばかりある。なら、あとしばらくは虚構の中に留まれ。新たな夢を生きるのだ」
「ま……ま、待て」
「さあ、もうそろそろ日が暮れる。いずれ、また会おう。その時、
男は天空を指差しました。日没には早すぎるとわたしが考えたその瞬間、暗闇が降ってきました。まるで底の深い壺を被せられたような。
――夜よりも深く確実な闇。
するすると記憶が薄らいでいくようでした。いいえ、この壺の中では時間というものがすっかり希薄になってしまいました。わたしは亀のように壺に手足を収めて宇宙の真ん中に腰を落ち着けました。
おお偉大なるカビールよ!
と、そこに青い亀裂が走ります。闇は砕け、剥がれ落ちました。
気が付けば、わたしは、テニスコートで結跏趺坐を組み、太陽の真下に居座っていたのです。ああ、年を取ったとはいえ、まだ老いさらばえてはいなかったかの日。思い出したか、ヴィシャール? あの日の入道雲を。あの日はいま、まさに今日でした。家族の下らない内輪もめの中途でおまえは滑稽な意地を張ったあげく、よりによって頭から壺に突っ込み、こうして親類どもの笑いものになっている。しかも賭けに負けて、お気に入りの壺は割れてしまった。
長い夢の終わりをわたしは直観しました。きれいさっぱり忘れてしまうことで完結をする夢をわたしは見ていたのでしょう。わたしも娘も妻もまだ若く、曲がりくねった人生は、ずいぶんと向こう側のもっともっと先まで続いているようでした。
コートにはエメラルド色の破片が散らばっていました。ネットの向こうには娘が腕を組み、仁王立ちしています。野次馬どもの喝采。鎖骨に受けた二球目の痛みがジンジンと疼きます。
「これで決まりね」娘が言いました。「ああ」わたしは答えました。そうなのだ、これでいいのです。わたしは厄介な壺をこうして打ち砕かれて、いつもの商いに精を出すことでしょう。壺の価値にも美しさにも拘泥することはもはやありません。
数年後、わたしはテレビの中で、自信に満ちた娘の勝利の立ち姿を眺めることになります。コート上のドゥルガー女神さながらに優雅で輝かしい我が娘の姿を。
遠くない未来のその光景が気まぐれな潮の流れによって今ここに漂着したかのように、わたしは娘の栄光を確信しました。しかし、それも美しくも脆い壺の中の出来事に過ぎません。
てん、てん、とコートを弾むボールのリズムが歪な時を刻みます。娘は敗者に憐れみの一瞥をくれると、さっと身を翻して、コートを去っていきました。わたしは座を解いて、大の字に寝転がりました。
未来における激戦の末、娘に打ち負かされたブロンドの女子選手がそうするように。あるいは貧しい聖者の午睡のように。しかし、ここは未来でも過去でもありません。むき出しのありのままの現在でした。
親類の少年がパタパタと駆け足でやってきて口を開きます。
「バウンドして、それからね、スライスした。絶対に壺に当たるなって思ったんだ」
「うん」わたしは身を起こしました。
「当たったよ。当たったんだ」少年は釈然としない顔をしています。それはまるでデジャ・ヴュを書き換えられた人間の浮かない表情。
「ならばそれでいい。壺は割れた。割れた壺は美しい」
わたしは、たったそれだけの変哲のない事実を、ひとり噛み締めました。少年は詰まらなさそうに地面に唾を吐くと手庇を作って傾きかけた日の光を遮ります。やがてバニヤンの樹の影が伸びて、その黒々と地面を這う四本の腕がわたしを抱きとめるのでした。
この日から、またぞろニーラムはふくよかに脂肪を蓄えはじめました。愛妻の寝返りに怯える数限りない夜が、お馴染みの苦い夢とともに、ふたたびわたしに戻ってきたのでした。
うつくしい壺と三人の男 十三不塔 @hridayam
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