第2話


 週末、わたしたち一家は炎天下のテニスコートに参集しておりました。


「本気か? ミーナ」とわたしはしつこく食い下がります。


「うん、失敗したら諦めるわ」ミーナは決然と言いました。このやりとりはもう何度目でしょう。ミーナの気持ちは揺らぎません。「もし、失敗したら、留学はしない。歯医者の受付でも、ガス警報器の取付でもなんでもやるわ。ラケットには金輪際触れない」


「なにもそこまで……」とわたしは言いました。ミーナは幼い頃からテニスに才を示し、資産家である妻の実家のバックアップもあり、地道に実力を伸ばしてきたのでした。このまま力をつけていけば、国内はもとより、もしかしたら世界にも通用するプレイヤーになるかもしれない、親の贔屓目でありましょうが、そんな期待をかけておりましたところに、このような事態が出来したのです。


 手入れのされていないローンコートのコーナーにわたしは壺を置きました。ネットを挟んだ反対側、対角線上のコーナーでウエア姿のミーナが迫力ある素振りをしています。幼き日より修練を重ねたテニスの技量をもって、わたしの壺を打ち砕こうというのです。チャンスは三球のみ。彼女のサービスが壺に触れることができなければ、欧州へのテニス留学を断念するというのです。それが彼女の言う、決戦、らしいのです。


「パパが賭けるのはあの壺だけ。しかもわたしは目隠しをする。どう? 逃げる?」

「逃げないさ、おまえの実力がどれほどになったのかじっくり見せてもらおう」

 と虚勢を張ったのもつかのま、第一球がいきなり、壺のわずか数センチをかすめ、わたしは顔色を失いました。妻をはじめ、子供たちは喝采を上げました。それどころか、どこから沸いて出たのか親族一同が、ハイエナのごとくこの珍事に群がり、話の種に、酒の肴に、と大騒ぎを繰り広げています。バニヤンの木陰に参集した我が一族が叫びます。


「叩き割れ! ぶっ壊せ!」


 わたしはコートに躍り出て、「ちょっと待った!」と言いました。


「何よ」ミーナは不機嫌に地面を蹴りつけました。

「この壺は父さんにとって何だかわかるか?」

「さあ、我が家の疫病神ってことは確かね」目隠しを片方ずり下げて睨みつけてきます。

「あと、二球。おまえの覚悟はよくわかった。父さんもコートの外で見ているわけにはいかん」


 そう言って、わたしはコートに入ると、壺を逆さに頭からすっぽりとかぶり、湿っぽい闇の中で、言葉を継ぎました。


「これでどうだ? これでもおまえは賭けを続けられるか?」


 自分の声が反響して、ぐわんぐわんと頭蓋を揺さぶります。壷の口はちょうどわたしの頭を飲み込むくらいの径でした。頭部にぴたりと貼りつく、それは一種のマスクのようでもありました。


 わたしの言葉が外にまで聞こえていなくても意図は伝わったはずです。我、壺と共に在り。わたしは壺に頭を突っ込んだまま、苦行を旨とするヨーガ行者のごとく結跏趺坐を組み、決死の覚悟、堅忍不抜の意気込みをアピールしました。したつもりだったのですが、娘はおろか家族の誰も止めに来ません。あれ、おかしいな、と思い、いったん外の様子をうかがうべく、壺に手をかけたその瞬間……


 左肩にすさまじい衝撃。強烈な一撃が鎖骨を貫き、わたしは壺中の暗がりで悲鳴にならない悲鳴を上げました。内なる嗚咽に対し、外からは、陶器ごしからもわかる大歓声。押し寄せる興奮のパルスが、本日のクライマックス、馬鹿げたこの一幕における最大の山場が迫っていることを教えてくれます。


 光無き孤独な世界で、愛娘の容赦ない打球を待つこの気持ち、みなさんにおわかりでしょうか。残り一球とはいえ、それは数刻にも思えるほど長い時間に感じられました。ええ、いっそ、壺もろとも視界を覆う闇が粉々になって、新鮮な空気と晴れ晴れとしたインドの青空が戻ってきたなら、それが一番だと思ったりもしました。


 それでも最後の瞬間はすぐさまやってきたのでしょう。たぶん、実時間にして数秒後に。


 あっけなく見世物は終ったのでした。


 娘は大きく伸び上がり、渾身のスウィングを放ちます。地面を鋭くバウンドしたテニスボールは、正確無比な黄色の凶弾と化し、美しい壺を破砕すべく、ゼロ・コンマ数秒ごとににじり寄ります。壺の内壁を巨大なスクリーンにして、わたしはそんな見えないはずの光景を見た気がしました。


 が、もちろんそんなものはすべて想像の産物にすぎません。


 わたしが感受したのは、小さく震えるような衝撃のみ。それはまったく壺を破壊するには足らないものでした。その証拠に壺も、わたしの暗闇も、平穏無事です。カタカタと壺が振動していました。わたしの脳みそも同じようにシェイクされていたのでしょう。ふいに吐き気がこみあげてきましたが、こんな狭い壺の中で嘔吐するわけにはいきません。急いでわたしは壺から頭を取り出しました。幸運にも壺には傷ひとつありません。


 ですが、驚くべき結果がそこには生じていました。わたしは吐き気をこらえながら、まじまじと壺を見つめました。野次馬たちはその奇跡とも、芸術とも言えそうな有様に息を呑んでいます。こんな時、信心深いインド人なら神の名を叫ぶべきでしょう。


「おお、ラグヴィール!」


 なんとテニスボールは壺の取っ手部分に嵌っていたのでした。その優美な曲線が壺の魅力のひとつとなっている龍蛇ナーガを象った取手部分には、確かに壺の表面との間にテニスボールがすっぽり収まるだけの空間がありました。


 奇跡というなら、これは本当に奇跡です。ミーナは目隠しを外し、己の行為の結果を鋭く眺めました。この離れ業を娘は狙ってやったのでしょうか。いえ、そんなはずはありません、その証拠に娘は、鳥肌立つように身をすくめ、やがて天を仰いだのでした。結果的に、わたしの壺は無傷ですし、ボールが壺を外したわけでもないのですから、娘の留学は取り止めとはならないでしょう。八方丸く収まるこのような結果をもたらしてくれた神に感謝です。


 親戚の子供のひとりが身振り手振りを加えながら描写した様子はこうです。


「バウンドして、それからね、ちょっとだけスライスした。絶対に壺に当たるなって思ったんだけど、まるで空気の壁があるみたいにね、ボールは壺の手前でピタって止まった。それから、ボールは壺の周りのグルグル回り出したんだ! びっくりしたよ。で、最後には、取手の蛇がボールに噛みついたみたいだったよ。おじさん、あの壺はなんだい? どんな仕掛けがあるの!?」


 本当なら、ただならぬ事態だといえましょう。わたしを皆がかついでいるのではないかと疑いましたが、子供の眼はいたって真剣でした。この場に居ながら決定的な瞬間を見逃したもうひとりの人物であるミーナも魂が抜けたような表情で立ち竦んでいます。


 わたしは思い出したようにこみ上げた吐き気に耐えかねてトイレへと走りました。


「走れ走れ! 間に合わなかったら、壺に吐くんだよ」妻は場を和ませるつもりで言ったのでしょうが、誰ひとりとして笑いませんでした。四本の腕を持つ黒い女神さながらにバニヤンの枝がコートに濃い影を落としていました。

「これで決まりね」


 このような超常現象を相手にしたにも関わらず、娘は自分の負けを認めました。未来を諦めると言うのです。


 わたしは必死に説得したものです。


「壺に触れるというのが勝利条件なら、それは果たされた、おまえは夢を諦めることはない」

「いいえ、あくまで、わたしはあの壺を打ち壊すつもりだったの。パパをじゃない。それが、わたしがわたしに課した条件。ボールが壺に触れたんじゃないわ。あの子の言う通り、壺の方がボールに飛びかかっていったんでしょうよ。あの忌々しい蛇が。もう、あの壺は誰にも手が出せない」


 娘の言葉は不吉な宣告のように響きました。わたしは、壺の無事を喜びましたが、その事実そのものが何やら禍々しくもありました。さらにそれが娘の将来と引き換えとなれば、疚しさをおぼえずにはいられません。もし壺を破壊すれば、娘は考えなおしてくれるでしょうか。いいえ、自尊心の高い娘はいっそう傷つけられ、二度と心を開くことはなくなるでしょう。それに観衆が見たのが集団幻覚の一種だとしても、あの壺に物理的な打撃を加えるというのは、いまや恐ろしいことでもありました。たとえ、それを信じないわたしが許しても、あの光景を見たすべての人間が破壊を押し止めるでしょう。


 こうして壺は安全になったのでした。

 

 そうそう、忘れてはならないことがありました。ミーナとの運命的な勝負ののち、駆け込んだトイレの鏡の前で、わたしは自分の額に貼りついたあるものに気付いたのでした。それは小さな紙片でした。


 紙切れには、身におぼえのない住所が記されていました。


 それはわたしの住まいからさほど遠くないところです。その住所の住人らしき者の名も記されていましたが、かすれかけた文字のせいもあって、どうもちゃんと読み取れません。


 答えは妻からもたらされました。


「それ、あの壺を運んでいた男の住所よ。どうせ嘘よ。その場しのぎのデタラメに決まってる。ああ、わかってるわ。あなたはきっと行くのでしょ? なら行きなさい。行きなさいな、釘を打ち付けた空家の戸口に出くわすまでウロつき回りなさい」


 思い出しました。わたしは男から受け取ったメモを、壺に放り込んでおいたのです。ずっと忘れていました。いえ、忘れたかったのでしょう。あの壺について最も詳しいはずの人間をわたしはよりによって今まで避けていたのです。


 なぜでしょうか? あんなにも強く答えを求めていたのに!

 わたしは思い出すことができませんでした。あの壺の持ち主だった男のことを。忘れていた? いいえ、本当はあのどこか得体の知れない人物を恐れていたのかもしれません。とにかく、心のどこかで直接あの男を訪ねることだけはしまいと決めていたのです。


 しかし、人は最も恐れているものに直面するのがさだめ。ついにわたしはメモに出くわしただけでなく、記された場所へ出向くことになります。ええ、そうです。娘の覚悟を見せつけられたいま、わたしとこの壺との因縁にもそろそろ決着をつけるべきなのでしょう。


 というわけで、わたしは重く歩を刻んで、この埃っぽい通りを行くのです。男と出会った商店街から遠からぬあたり、ヒンドゥーとムスリムが混在する地区に、わたしはひとり頼りなく彷徨していました。寝そべる牛の尻尾にまるで蠅のように頬を叩かれたり、毛の抜けた犬に追われたりしながら、わたしはレンガ造りの貧しい家々を順番に訪ねました。


「それは通り一本向うさね」と魚売りの女はぶっきら棒に顎をしゃくり、

「ああ、その家なら、隣さ」と噛みタバコの警官は唾を吐きました。


 最後に、廃屋と見紛うばかりの古ぼけた家屋から出てきた少女が「それはここ」と言いました。


「ママ! お客さんよ」

「いや、パパに会いたいんだ。仕事かな?」とわたし。

「パパいないもん」と悲しげに少女が目を伏せると、細くて白い幽霊じみた首筋がわずかに震えました。

「どうして? お出かけかな?」

「ずっとママと二人」

「そんな、こんな体格で、髭のあるパパなんだけど」

「知らない。ママぁ!」


 娘が呼ぶと家屋の奥の薄暗がりから、女が現れました。わたしは手早く自己紹介し、事情を説明しました。


「ああ、騙されたのね。可哀想な人」この女もニーラムと同じことを言うのです。

「以前に住んでいたのかもしれない」


「昔住んでいた人ねぇ。あなたがお探しの人かどうかはわからないけど」女はいたずらっぽく笑いました。


「きっとその人だ」

「慌てないで。その人の名はカビール。ここに住んでいた人なの。貧しい機織職人にして偉大な聖者。誰にもでも分け隔てなく愛と真理を伝えたの。どんなカーストも、男も女も、聖者を囲んで座るのを喜びとしたわ。とっても人望があったからヒンドゥーからもムスリムからも慕われたといいます」

「……」

「またカビールは美しくもユニークな宗教詩を残したことでも知られています」


「ちょっと待って」わたしは女の言葉を遮った。「そのカビールって人がわたしの探している人かもしれないし、そうじゃないかもしれない。おそらく違うと思うんだが、その、参考までに教えてくれ。その人はいつまでこの家に住んでたんだ?」


「およそ五百年前まで」あっさりと女は言ってのけるのでした。


「説明したはずだ。わたしと壺のことは数年前が発端で」

「わかっています。でもあなたはカビールのことももっとよく知るべきです。テニスボールに噛みついた壺の話もいいですが」

「信じないのだな。わかった。尋ね方を変えよう。君たち親子はいつからここに?」

「聖者が現世という仮宿を後にした時から」


「もういい」おちょくられるのはうんざりです。それとも頭がおかしいのか、と言い掛けて、わたしは口をつぐみました。とてつもない虚脱感が押し寄せてきたのです。


「カビールは創造主の御足に安らいでいます」

「わかったぞ、君らはグルなんだろ。あの男と。壺の消息を求めてここへ来た人間を怪しげな宗教談義か何かで煙に巻いてせせら笑おうって算段だな。あいつが、どこかからか見てるんだろ。わたしの間抜けな姿を」

「彼は、彼に帰依する者をいつも見守っています」

「もういい! 君はなんだ、詐欺師の宣伝塔か」


 わたしはピシャリとドアを閉めた。と、すぐさまドアは開いて、中から女が「無礼な客を締め出すのはこっちの方よ」と言い、内側からドアを閉め直しました。


 憤然となったわたしは、もう一度ドアを開けたが、何も言うことがありませんでした。


 そこに一瞬、古ぼけた機織機と聖者の笑みを見たような気がしたのです。もちろん錯覚でした。そこにあったのは、赤いペンキで塗った化粧台と、映画のポスターでした。わたしは、乱暴に果実をもがれた樹木の枝のように寂しく揺れていました。そのまま帰るべきだったのです。


「怒りに満ちていながら、言葉が出ない。空腹だからね」ふいに表情を和らげた女が手招きし、わたしを招き入れました。少女はすでに席につき、ぶつぶつと食前のマントラを唱えています。わたしはナスのカレーと揚げたポテトで胃袋を満たし、デザートにヨーグルトまでご馳走になってしまいました。振り返って考えるに、あの食卓はとても居心地がよかったのです。女からこんな話を聞きました。


「ある時、ムスリムの弟子が、昼寝中のカビールを訪れたの。アッラーの敬虔な信徒だった弟子はカビールに言ったわ。師よ、あなたが足を向けていらっしゃるのはメッカの方角です。それはいけません。神への冒涜にあたります。すると眼を覚ましてカビールは答えたわ。では、君が、わたしを神のいない方角へ向けておくれ、とね」


 夕餉をご馳走になったばかりではなく、ルチやサモサの土産も持たされてわたしは帰路についたのでした。なんという一日でしょう。二階の窓からあの少女が歌っているのが聞こえます。聖者の詩の一節なのでしょう。


 ――不生女うまずめの胎に息子が生まれ、脚なく樹に登った。

 ――冠の上に花婿が乗り、えもいわれぬ睦言が話される。

 ――御馳走が逆さまに婚礼の行列を食べ、首尾うまくゆく。


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