うつくしい壺と三人の男

十三不塔

第1話



 ある日、わたしは市場で買い物をしておりました。市場は週末の賑わいで混雑しており、どよめく群衆の人いきれ、くわえて埃の臭いで路地は充満しています。活気というやつが一触即発の殺気と紙一重なのは幾星霜変わらぬ神の都の慣わし。ここは、黄金の街ヴァナラシ、聖なるガンガーの岸辺、ここで死ねば解脱を得られるという希望の地。


 ああ、しかし、それにしても。

 見れば商人も客も通行人も誰もが怒号を上げています。唾吐きかけ合うように罵りわめくあれのどこが商談なのでしょう? 北緯二五度二〇分、東経八三度の太陽は強烈で、降り注ぐ熱線に焼かれてみんなこんがり真っ黒焦げになってる、ああ、嫌だ、嫌だ、とわたしはぼやきます。なにもかもが嫌になる。そう例えば……


 ――背後からのしのしとどこまでも追いすがってくる巨大な肉の塊、あれは一体なんだ? 


 ――答え、おまえが終生添い遂げるべき妻である。ご愁傷様、あの肉をもっともっと肥え太らせることがおまえの務めでありカルマなのだ。


 わかりきっていることを自問自答するのが長年の癖になりつつある。妻のニーラムは我が家の祭神へのお供えに、粗末なサンディーシュと萎びた果物しか手に入らなかったことが気に入らないらしく、ぷりぷり怒りながら、太った身体で乱暴に人波を掻き分けていきます。機嫌が悪いのは妻だけではありません。わたしだってお世辞にも喜色満面とはいきません。たぶん、ぐっと眉をひそめ、眼を眇め、陰険な眼差しであたりをねめつけていたはずです。


 ええ、わたしもまた、この油断ならない街の、喧騒と悪徳の立派な一部というわけです。


 自分の人生はこんなはずじゃなかったという気がするものの、どんなはずだったのか、それについちゃいまだはっきりした手がかりはありません。ただ、とわたしはチラリを背後を振り返って思うのです。こんな見栄えの悪いものを引き連れて人生の行路を歩む羽目になったのはつくづくやりきれない。わたしとて前世で相応の悪行を積んだのだろうが、しかし、それにしても、とまた思わずにいられません。そう、もっと別の展望があってもよさそうなものです。


「もう、さっさと行きなさい。また、ぼぉっと役にも立たない物思いにふけって、ちんたら歩いてると踏み潰すわよ」


 我が家の象が背後から喚きます。凶暴な鼻息はわたしを震え上がらせるに十分でした。実際、彼女の体重はわたしの倍近くあり、毎夜の寝返りのたびに亭主を圧死の危険に晒していたのです。


「そう慌てなくたって、店は閉まったりしないよ」とわたしはおずおずと反論します。


 今日は彼女の末の妹の結婚祝いに贈るドレスの生地を選びにいく予定なのでした。


「何度言わせるの? ギリシュのやつは昼食前だと気もそぞろで駆け引きがルーズになるの。反対に満腹になるとあの守銭奴は目一杯張り切るのよ」


「ああ、わかったわかった」わたしは首を振ります。全身汗だくのうえ、目玉が飛び出しそうな形相でニーラムはぎゃあぎゃあと文句を言い立てます。ああ、うんざりする。


 わたしは妻の心配をまともに取り上げませんでした。しかし、人生というものはわからぬもの。車輪の外れた運命の押し車は、道を逸れて蛇行していきます。インド亜大陸では、人間のささやかな意志や計画など、容易に流動化し、あっけなく消息を絶つのです。ええ、この日、わたしは、わたしの人生を大きく変える出来事に見舞われることになるのでした。


 まずはこうです。

 わたしはニーラムを引き離すように早足で歩きました。やがて、妻の罵声が遠ざかり、その音量が臨終間際の象の気息ほどになった頃、わたしは、よろよろと頼りなさげに歩くひとりの男を見かけました。通りの先に佇むなんの変哲もない男。愛すべき我が同胞、聖なる都で人生の荒波にもだえる哀れで、それなりに抜け目のない男。どこにでもいるヴァナラシ市民。いいえ、そうではありません。わたしが真っ先に注意を引かれたのは、男ではなく、男が抱えた二つの壺だったのです。


 それはそれはなんとも美しい壺なのでした。エメラルドさながらの透き通った肌色、絶妙に均整を欠いたプロポーション、肉感溢れる口縁、どれもが眼を見張るものでしたが、なによりわたしが驚いたのは、それほど美しい壺が、なんと瓜二つの姿で無骨な男の腕に抱えられていたことでした。このような美しい壺が世に二つも存在していること自体が驚きでしたし、それがこのような惨めな喧騒のただなかに置かれるとは、わたしに言わせれば、ひとつの奇跡なのでした。


 わたしは見惚れてしまいました。陶器を愛でるというような高尚な趣味を持ち合わせているのでもなければ、目利きでもないわたしがどうしてこんなことになったのか。まったくわけがわかりません。


 エメラルド色の双生児は男の万力のような腕に締め上げられ悲鳴を上げているように見えました。思わず胸が苦しくなり、その場にへたり込んでしまいそうになりました。わたしには、この薄汚い市場の路地で、唯一あの壺だけが、穢れない無垢の存在であるように思えたのです。


 そこへ妻の声が鳴り響きます。動物じみた無粋な声、その遠慮呵責ない金切り声は、もうすぐあの繊細な壺に亀裂を走らせ、粉々に打ち砕くに違いありません。


「あんた、あんた! 急に早足になったと思ったら今度は棒杭みたいに突っ立って」


「うるさい。黙るんだニーラム」結婚このかた妻にこんな物言いしたことはありません。


 妻はは呆然と立ちすくんだまま、

「何ですって? いま何て?」


「黙れニーラム」わたしは繰り返しました。


「おお、ハリよ、なんてことでしょう!」妻は神の名を唱えるとグリグリわたしの足を踏みにじります。「さあ、もう一度おっしゃい。今私の耳に飛び込んできた上等な言い草が聞き間違いであればいいのだけど」


 わたしは痛みで眼が覚めました。「ああ、なんでもないんだ。すまない。ちょっと陽射しでのぼせたみたいだ。もう大丈夫だ」


「あらそう!」そう言う妻はブレーキを離せばすぐさま急発進するジープのようにエネルギーを溜め込んでいました。「うん、さあ、行こう」わたしは骨の二三本をへし折られる前にぎこちない笑顔を浮かべました。


 すでに男は雑踏にまぎれて見えなくなってしまいました。壺も消えています。あれは贅沢で美しい幻だとしておこう。憤懣やるかたないといった妻の顔。こちらこそが現実。おお、ニーラム。わたしの碧い宝石よ!


 わたしはサッと婦人服の店に飛び込んで、妻に似合うサリーの品定めをしました。隣の宝飾店では指輪を手にとって値切り交渉に入りました。のちのちの面倒を勘案して、あれやこれやのご機嫌取り。悲しいかな、家庭の平和を維持するため、こうやって男は駆けずり回るのです。


 その時です。背中にドンという衝撃が走りました。続いて、彫金師ヴィシャールであるわたしは、ガシャンという物悲しい音を耳にすることになります。それは、取り返しのつかない音、物体が不可逆の変化を被った音です。市場中の視線が集まりました。


 どうやら、わたしが値切り交渉に熱を入れたあげく「そりゃべらぼうだ」と大げさに仰け反ったその拍子に、さきほどの男を突き飛ばしてしまったようなのです。そう、あの壺の抱えた男です。見ると、はたして男の足元には無残にも砕け散った壺の破片が散乱しているではありませんか。片方の壺がどうやら無傷であるということだけが不幸中の幸いですが、それも気休めにすぎません。もう一方は見る影もなく粉々です。


「おいおいどうしてくれるんだい? この壺はとてもめずらしくて、そして、ややこしい壺なんだよ」


 男は言いました。どこか芝居じみた口調で話す不審な男でしたが、その時のわたしは、それどころではありません。囃したてる野次馬たち、まるで、みんなが結託してわたしを陥れようとしているようでした。


 それにしても、なんてことをしてしまったんでしょう。このような美しい壺を割ってしまった罪悪感もありましたけれど、自分のようなケチな職人がそれをあがなえるかも大きな不安です。


「何言ってんだい? よそ見してたのはそっちじゃないのよ」とニーラムが抗弁しますが、情けないことに当事者であるわたしときたら、これぽっちも加勢できませんでした。あいつだ、あいつが悪い、と野次馬がわたしを指差してがなり立てます。あいつが、ここいらの狭い界隈をまるでノミみたいに跳ね回ったのさ。しきたりってもんがわかってねえんだ!


「悪いが弁償してもらわねばならん」男は言いました。なんでもひとつの壺は三百万ルピーもの値打ちがあるそうです。しかしもう一方の壺はわずか十五ルピーもしない安物だというのです。壊してしまったのが安物の方ならよかったのですが、男の話によると、どちらが高価な壺で、どちらがそうでないのか誰にも区別がつかないというのです。


 仕方なくわたしたちは、銀行から金を下ろして三百万と十五ルピーを支払い、無傷な壺も引き取ることに。まったくとんでもない出費でした。「おお、ハリよ、なんという厄日!」わたしは嘆きました。妻は顔面蒼白で、ぷるぷると全身を戦慄かせています。ほつれた前髪が汗だくの額に貼り付いて、なんともしれない凄みをかもし出しておりました。


「この壺について」と最後に男は言いました。「なにか不都合なことや不明な点があれば、訪ねてきてくれ。これは詐欺でもなんでもない、逃げも隠れもしないから」


 溺れる人が流木にしがみつくみたいに、わたしは渡された壺を必死に抱きかかえていました。男は壷を手放してせいせいしたかのように大きく伸びをしたかと思うと、あっという間に雑踏に消えてしまったのでした。


 さて、大変だったのは、それからです。わたしはその壺をどう扱ったらいいのか見当がつかず困り果ててしまいました。見栄えよく玄関に飾ってみたりもしましたが、こいつがただの安物だったらどうでしょう。とんだ笑いものです。ガラクタだと思って、痰壺にでもしてやろうと決心すれば、今度はとても高価なもののように見えてきます。どうも落ち着きません。


 それからというもの何年も何年もわたしは壺のことに頭を悩ませました。

 くる日もくる日も壺の本当の価値を考えて、あれこれと置き場所や扱いを変えました。寝室に、テラスに、キッチンに、階段脇に、どこに置いても壺は我が家の調和をかき乱します。


 まったくそれは一筋縄ではいかない代物でした。


 外からは内が透けて見えそうなほど澄んだエメラルド色なのに、口縁から内側を見れば墨を流したように黒々と底知れぬ空間をのぞかせるのです。また、横に寝かせて持ち上げようとすれば純金のごとく重いにも関わらず、逆さに抱きかかえれば風船より軽いときている。


 妻は壺を眼にするたびに忌々しげに吐き捨てます。「あんたの頭といっしょにカチ割ってやりたいわ!」


 妻の罵声が予言めいた真実性を帯びていることが、つまり壷と頭を同時に叩き割るチャンスがやってくることが、近い未来証明されるのですが、それを語るのはもう少し先のようです。


 わたしは、何人もの好事家に相談を持ちかけました。それは、いたって凡庸なわたしの生涯に吹き荒れた稀なる情熱の嵐。この頃のわたしは、壺の正体について、その真の値打ちについて示唆を与えてくれるなら、たとえ狂犬病の犬にでも着いていったでしょう。壺に対する思いはそれほどに募っていたのです。


 ある専門家はこう言いました。


「これは高名な陶工の作品である。値段のつけられないほどの価値がある」


 また別の評者によると、

「惜しいかな、これは作風は似ているが、あなたが名をあげたような匠の手によるものではない。むしろ後年比較的大量に生産された弟子の作品と見える。悪いものではないが、凡庸な出来栄えだな。ふむ、うちにある中古の韓国製洗濯機と交換でなら引き取ろう」


 近所の骨董趣味のじいさん曰く、

「師と弟子の合作じゃ。気まぐれに作られた珍品だな。いまは二束三文だが、百年後には国宝級の価値になるかもしれん」


 さらには、

「これは壺などではない。信管を外した古代のミサイルだ。ラーマーヤナの時代の殺戮兵器に違いない」


「熱帯魚を入れて飼うといいでしょう。あなたには心のゆとりがない」


 などなど。


 この頃のわたしは仕事もそっちのけで、まるでとり憑かれたように、西へ東へとヒントを求めて走り回りましたから、もちろん商売は立ち行かなくなりました。心労のため妻は別人のように痩せ細りました。子供たちはまるっきり父を軽蔑しきっていまではいくら呼べども返事なしです。


 それでもわたしは構いやしなかったのです。何を失ってもへっちゃらでした。あの美しい壺がすべてだったのです。じいさんから受け継いだ店も、妻子もなにもかも、あの壺の取手ひとつの値打ちもないように思いました。


 ある時から、妻もわたしに感化されたのか、常軌を逸した振る舞いに及ぶようになりました。壺をぞんざいに無価値のもののように扱うのです。大切な壺を、傘立てにされたり、雨漏りした納屋の雫受けにされたりすれば、わたしが心中穏やかでいられるわけがありません。


「あら、あなたの宝物の壺じゃないですか。思いがけなく、ちょうどいいところにちょうどいいものがあったので、うふふ、ごめんなさいねぇ」


 妻のわざとらしい猫撫で声にわたしは気が狂いそうになります。ニーラムに手を上げそうになったのはその時ばかりではありません。わたしの自制心がいつまで持つのか、わたし自身にもわかりません。それでも愚かにも、まだ、わたしは自分ではなく、壺への情熱を理解しない妻や周りの人間たちがおかしいのだと思っていたのですから、まったくおめでたいものです。


 娘のミーナが驚くべき提案を持ちかけたのは、クリシュナの聖誕祭の直前のことでした。


 マドゥライの大学に寄宿していた娘が祭に合わせて帰郷するのを待ち構えていた妻は、娘が玄関のドアを開けるやいなや、まるで人攫いのようにミーナを台所に引き込み、数年分のたまりにたまったうっぷんを並べ立てたのでした。ひと通り母の訴えを聞いた娘は、すっくと立ち上がり、いつも身辺から離さないご自慢のテニスラケットをケースから取り出しました。そして、穢れたものを見るように、ガット越しにわたしと、わたしが抱きかかえた壺を冷たい眼で眺めやるのでした。


「パパ、話があるの。お願いよ、受けて立って」


 女らしく大人っぽく、しかも凜とした成長ぶりをみせる娘に、決闘じみた挑戦を叩きつけられた父親はどう振舞うのでしょうか。祖父の格言にも、宗派の聖典にも、そのあたりの事情は詳らかにされていません。娘には心に思い定めた何かがあるようで、わたしはごくりと唾を飲み込みました。


「決戦よ、パパ。逃げないで、幻滅させないで」

「な、なんだかわからんが、よろしい。そうしよう」


 わたしは内股で舌足らず、しかもその夜は、洗濯物のローテーションの関係で、肥満時代の妻のパジャマをダボダボのまま着まわしていました。まったく父の威厳など、とっくにガンジスの藻屑というわけです。

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