高良瀬川で夕食を君と

成井露丸

高良瀬川で夕食を君と

 地下鉄の駅から高良瀬川沿いへと浮上。群青色の夜空が出入口の先に広がっていた。重い仕事鞄を持って階段を駆け上がったのに、汗一つかいていない。日が沈むのも早くなったし、随分と涼しくもなった。もう秋らしい。

 地下鉄の出入り口と繋がったビルの一階には古本屋のチェーン店があって、蛍光灯の明かりが店内から人通りを白く照らしている。自動扉の前に立つ君の姿も。

 少し膨らんだ腰回り。ゆったりとしたニットに、裾の広がったワイドパンツ。二週間前はまだ残暑で夏服だったから、君の秋服を見るのは初めてかもしれない。


「――待った?」

「そうでもないよ。スマホで更新見てたし」


 問いかけると、君は首を横に振って、スマートフォンを鞄に仕舞った。

 明日那あすな、それが彼女の名前。名字は知らないし、本名かどうかも知らない。多分、ハンドルネームかペンネームか、そういう類のもの。


「じゃあ、ご飯行く?」

「その予定だったけど? 無理ならいいけど? 八雲さん忙しぃだろうし?」

「いや、ていうか、もう時間作って、来ているわけで。大丈夫だよ。さすがに九時か十時頃には撤退だけどさ。明日も仕事はあるから」

「あー、私も、明日提出の書類終わってないんで、夕食だけくらいで大丈夫ですよ」

「そっか。じゃあ、丁度いいや。行こうか?」


 僕がポケットに手を突っ込んだまま頭で道の先を指し示す。明日那あすなは了解を表すようにセーターの袖口を指で摘んで持ち上げて、一つ頷いた。

 計算しつくされたような上目遣いはどこかあざといなと思う。ダボッとしたニットも可愛らしさがどこか無邪気で刺激的で暴力的だ。

 そんな評論的な見方をしてしまうなんて僕は年を食ったものだとも思う。二〇代の頃の自分だったらきっとこうじゃなかった。女の子にこんな仕草で距離を詰められたら、単純に魅惑されて、簡単に舞い上がって、後戻りできない恋の沼に落ちていたに違いない。


「八雲さん、何か食べたいものあります?」

「何でも」

「私も、何でも」

「決まらねー」

「決めてくださいよ、先輩」


 とりあえず歩きだして、地下鉄の出入り口を離れて、大通り脇の歩道を行く。どちらにせよ夕食を食べるなら東の高良瀬川に掛かる橋の向こう側なのだ。

 群青色の空の下、右側を車のヘッドライトが通り過ぎていき、左側をボブヘアの君が連なって歩く。君の身長は僕の肩くらいの高さで、サラサラした髪が揺れる。

 ちょっと触れたくて左手を伸ばしそうになった。


「イタリアン? 和食?」

「なんでも。ラーメンでもアリなくらい」

「うわー。……でも、逆にありかも。私、ラーメン好きですよ」

「いや、突っ込めよ」

「突っ込んで欲しいんですか?」

「ん、まぁ、そうかな」


 突っ込みを期待するなんて、僕は君に甘えたいのだろうか。十歳以上年下の君に。

 甘やかしたい、というのはどうやら違う気がする。年下だけど対等な関係が所望だ。

 突っ込んで欲しい、突っ込みたい、そういう言葉が頭の中で多義的に反響する。

 まぁ、そんなことを口にはしないのだけれど。


 平日の夜に時間を作って君と会う。明日那は年の離れた友人。それ以上でもそれ以下でもない。趣味の創作関係のコミュニティサイトで知り合った。作品に現れる地名があまりにご近所で、偶然同じ街に住んでいると知った。ひょんなきっかけから直接オフで会った。それ以来の付き合いだ。創作関係のことを話せる友人なんてリアルにはいなかったから、彼女と会って話すのは楽しい。学生時代はそんな仲間も居たのだけれど、この年にもなれば皆仕事だの家庭だので離れ離れだ。

 

「今日は家でご飯食べなくて良いんですか〜?」

「ん? ああ、食べてくるって言った」

「外食、多いんですか?」

「それほどでもないけれど、仕事上の付き合いとか、いろいろあるから、まぁ、無くはないよ」

「今日は仕事じゃないですけどね」

「今日は仕事だとは言ってないよ。友達と食べてくるって」

「――間違ってはいない、ですね」

「間違ってはいない」


 君は顎を上げて鼻を膨らませた。鼻を膨らませる仕草は明日那の癖らしい。最近、気付いた。ネット越しで知ることのない、生身の人間としての存在感は、そんなところにも転がっている。

 明日那は友達。だから間違ってはいない。だから妻に隠し事をしているわけでもない。でも夜の街に繰り出す二人は、他人の目にはどう映るんだろう。誰か知り合いと遭遇して尋ねられたら、僕はどう言い訳――じゃなくて説明をするんだろう。

 明日那は友人。趣味の合う年の離れた友人。ただそれだけ。だから本当は単純にそう説明すれば良いだけなのだけれど。でもそれが言い訳みたいに聞こえてしまいそうなのが、妙に厄介に思われるのだ。

 煌々と照らす街の光が妙に明るい。刹那立ち止まり、周囲を見回す。人はたくさんいるけれど、知り合いは誰もいなかった。


「何?」

「何でもない」


 橋を渡りきったところで、アコースティックギターを掻き鳴らして女の子があいみょんを歌っていた。何故にあいみょんかは知らないけれど。アイラブユーの言葉じゃ足りない、と歌う彼女は明日那と同い年くらいだろうか。隣を歩くショートボブの横顔を覗いた。彼女はそれに気づかず、てくてくと歩いていく。颯爽と前に進むパンツスタイルの明日那は、やっぱりなんだか若いなって感じがする。橋の袂に立つ昔風の街灯が、そのあどけない横顔を照らしていた。

 君も僕が知らない場所でアイラブユーを歌っているんだろうか?


「やっぱり、八雲さん、決めてよ」

「まぁ、右折して北か、左折して南かくらいは、決めないとな」

 

 信号機を目前にして、ひと思案。

 少し北で西の支流と東の本流の二本に分かれる高良瀬川。その西側は小川みたいに細い。その西の高良瀬川に沿って飲食店が並んでいるのだ。

 だから北の店に行くか、南の店に行くかで、右折か左折かが決まるわけだ。


「八雲さん、優柔不断?」

「それほどでもないけどね」

「書く男性キャラクター、大体、優柔不断ですよね?」

「あ、その傾向はあるかも」


 思わずそこから広げて創作談義で盛り上がりそうになるけれど、それは店に入ってからの方が良いだろう。だから会話を運ぶ思考を一旦打ち切って、とりあえず店を決める思考を再起動した。


「北に行ってイタリアンか、南に行って創作居酒屋か」

「んー、じゃあ、イタリアン?」

「ピッツァか?」

「ピザね。カッコつけなくていいから、おじさん」

「おじさんて言うなよ」


 やっぱり彼女といると、時々年齢は意識してしまう。


「じゃあ、私も、おばさんじゃないからね?」

「誰も思ってないよ。明日那は若いだろ?」

「えー、二十代半ば超えたら、もうおばさんだよ〜。若い子には負けるよ〜」

「おまえ、今、人口ピラミッド上の相当数を敵に回したからな」


 面倒くさそうに肩を竦めてから、明日那は俺の左に「うりゃ」と体をぶつけてきた。


「ちょ、やめろよ」


 重くて柔らかい感触におどけてみせると、彼女はニンマリとした笑みを浮かべる。僕はそれをちゃんと冗談として受け入れているのだと明瞭に分かるように、何食わぬ顔で笑って受け流しながら、左右の道を確かめた。その程度の触れ合いは慣れっこな大人なのだという了解を確かめて、ことさら平静をアピールするように。


 妻との新婚旅行はイタリアだった。フィレンツェ、ベネチア、ミラノにナポリ、首都のローマにバチカン市国。ちょうど今の明日那くらいの年齢だっただろうか。だからピッツァもパスタもパニーニも嫌いじゃない。ただイタリアンには妻とのまだ若かりし頃の淡い記憶が結びついているというだけだ。


「とにかく、イタリアンで」

「分かったよ。じゃあ、北だな」

「うん、それで。あ、私、ワインも飲むかも」

「いーんじゃない? 僕は飲まないけど。明日、仕事あるし」

「えーっ、付き合い悪い~、って飲めないんだっけ? あ、言ってたっけ?」

「そうそう、体質。ちょっとでも飲むと二日酔いで次の日、仕事にならないんだよ」

「下戸ですね、下戸。お子様ですね、お子様」

「ほっとけ」

「じゃあ、私だけ飲むのも悪いかなぁ?」


 首を傾げる明日那。高良瀬川沿いに北に歩いてすぐの場所に目的地のイタリアンはあった。和風の民家を改修して作られた町家風の店構え。ガラス張りになった入り口からは店内の温かそうな明かりが漏れて、川沿いの道を照らす。


「それはいいよ。気にしないで。こっちはジンジャエールなりノンアルコールのカクテルなり飲んでるし」

「うーん、じゃあ、遠慮なく」

「でも、酔いつぶれても、介抱はできないからなー」

「飲みませんよ、そんなに! 草生えるわ」

「冗談だよ。草生やさなくても」


 でも、想像はしてしまう。酔っ払って、僕にしなだれかかっかってくる君の姿を。君の温度が肩に触れ、くすぐったいボブヘアの髪が僕の頬に触れる、夜を。


 ――私も、明日提出の書類終わってないんで、夕食だけくらいで大丈夫ですよ。

 ――じゃあ、丁度いいや。


 君は酔いつぶれたりなんてしないだろう。僕だって無理に飲ませたりなんてしない。君も僕も、いい大人なのだ。大人同士なのだ。大人同士の夜なのだ。

 二週間ぶりに友人である君と夕食を一緒にして、趣味の話に興じる気分転換の時間。この関係は隠し事なんかじゃないし、特にやましいものでもない。ただ妻には、言っていないだけだ。


「あ、空いてる席あるみたいですね。セーフ、セーフ」


 明日那は店内をガラス越しに覗き込んでいる。


「じゃあ、入るか?」

「はい、じゃ、それで」


 僕が一歩前に出て、入り口の取手に手を掛ける。引き戸を開くと、店内の喧騒とイタリアンの香りが僕を包んだ。妻と訪れたナポリで入ったレストランのイメージが蘇る。振り向くと、嬉しそうな顔で奥の厨房を覗き込んでいる明日那がいた。


 ウェイターがメニューを持って近付いてきて人数を聞くので、僕は二名だと告げた。案内されるがまま賑やかな店内を抜けて、僕と明日那は自分たちのテーブル席へと腰を下ろす。ウェイターはグラスに水を注ぐと一礼して去っていった。


 店内にはムードの良いジャズピアノの曲が流れていて、テーブル席からは店の外の高良瀬川が見えた。視界の中に浮かぶ君の笑顔は無防備で、その視線は開いたメニューの上で気忙しそうに動いている。


 秋の夜は夏の夜よりも、ずっと長いのだ。

 僕はグラスの水を一口含んで、飲み込んだ。


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