かのエンドロール

夢月七海

かのエンドロール


 コンコンとガラスを叩く音がして、僕は読んでいた『十人の監督術』から顔を上げた。

 受付の外側に、男性の常連客の姿があった。三十代くらいに見える彼は、毎回髪型も服装も異なり、来る時間もバラバラなので、何をしているのか全く分からない人だった。


 マイクを付け直して、腰を浮かせる。

 にこやかに『いらっしゃいませ』と挨拶をすると、彼は仏頂面のまま頷いた。


『チケットのご注文ですか?』

「ああ」

『はい。承りました』


 彼は、いつも映画の名前を言わずに、見たい映画のパンフレットを代金と一緒に提示していた。この方法は初めて来たときから変わらなかった。

 僕は、チケットを渡して接客の常套句をなぞりながら、彼を観察する。今日の彼は、黒の革ジャンにオールバック、Tシャツの首元にはサングラスを掛けていた。二週間前に来館した時は緑っぽいスーツに軽くパーマをかけていたのに。


 彼が見たい映画の上映まで、時間がまだあった。いつも閑古鳥が鳴いているこの映画館には、今日も誰もいなかった。

 ちょっとくらい、彼のことを知りたい。僕は、『あの』と、初めて自ら客に話しかけた。


『映画、お好きなんですね』


 とりあえずの話題だったが、題材が可笑しいことに発言した後に気が付いた。こんな家族経営のミニシアターに来るくらいだから、映画が好きに決まっているのに。

 しかし、彼はゆっくりとアルカイックスマイルを浮かべて頷いた。


「ええ。生きるための糧と言っても過言ではありません」


 急に丁寧な口調になったことに驚かされたが、それ以上にその言葉がピカピカと光っているようだった。

 それは、七十年代に公開された『雪道にて』という映画の台詞の一つだった。咄嗟にその言葉で返すなんて、とてもおしゃれだし、映画が好きだということを十二分に表している。


『映画にお詳しいんですね』

「誰よりも上に立てるという自信がある」


 彼はにやりと不敵な笑みを浮かべた。この台詞も、『Zの殺し方』という映画の台詞だった。

 その知識の深さに感嘆しつつ、彼になら、僕が長年悩まされている映画に関する疑問を解決してくれるのかもしれないという希望が唐突に湧きあがってきた。


『あの、僕が小学生の時、十五六年前に公開されたもので、エンドロールしか覚えていない映画があるんですけど……』


 僕がそう切り出すと、彼は少しだけ体を前に傾けて、じっと耳を澄ましていた。いきなりの話でも、怪訝そうな表情はせずに、真剣に聞いてくれる。

 ぽつぽつと、何度か内容を組み立てようと黙りながらも、全部話した。


 このミニシアターの三代目として生まれてから、僕は暇さえあれば上映中の映画を見るようになっていた。うろ覚えの映画は、そんな風に見た一本だった。

 ただ、見てきた全部の映画を楽しく見ていたわけではない。小学生には難しくて退屈な内容もあり、その映画もどんな話だったのかは恐らく途中で寝てしまったため覚えていなかった。


 ぼんやりとしていた頭が、急にクリアになったのはエンドロールが始まった時だった。右側は真っ黒な画面に文字が下から上へ流れるエンドロールと同時に、夕日に海が沈んでいく様子を主人公の女性が砂浜から眺めている映像が左側に映っていた。

 そこの海を、僕はよく知っていた。母方の祖母の家の近くにある海水浴場で、毎年夏休みに泳ぎに行っていたためだった。


 自分がよく知っている場所がスクリーンに映し出されたという経験はそれが初めてだったため、僕はそのエンドロールをよく覚えていた。しかし、肝心のタイトルを覚えていなくて、大人になってからもう一度見てみたいと思っても、探し出すことができなかった。

 インターネットで情報を募集してみても、エンドロールだけではヒントが少なすぎて、これだという映画を見つけられなかった。


『……という話なんですけど、心当たりはありませんか?』


 自分でも無茶ぶりを話しているという自覚はあって、僕は苦笑しながら締めくくった。

 しかし、彼は顎に手を当てて、じっとカウンターを見るように考えて混んでいた。よく見ると、視線は一か所に留まらず、忙しなく何かを辿るように動き回っている。


「……百聞は一見に如かずというからな、一度見た方が早い」

『え? 見てみるんですか?』

「そこへ行ってみましょうよ」

『その、海水浴場に、ですか?』


 明るく弾むような声で提案した彼に、僕は戸惑って聞き返すと、さも当然と眩い笑顔で頷かれた。ぽかんとしている僕をよそに、何の前触れもなく真顔に戻った彼は懐から一枚の名刺を取り出し、チケット売り場の隙間に差し込んだ。

 受け取った名刺を見てみる。真っ白な紙に横文字で、「横溝 要」という名前とその上に「YOKOMIZO KANAME」とローマ字のルビ、一番下に小さく、携帯番号が書かれていた。


「時間があるときに電話してちょうだい」

『あ、分かりました……』


 とんとん拍子に話が進んでいるので未だ困惑しながら返答すると、彼――横溝さんは微笑しながら頷いて、そのままシアターの方へ行ってしまった。






   △






 約束の時間ピッタリに、横溝さんは駅前に現れた。

 今日の横溝さんは、グレーのシャツのボタンを全開きにして、その中に白いTシャツを着て、踵が見える紺色のパンツに白いスニーカーだった。髪は茶色に染めている。


 こんにちはと挨拶すると、パンツのポケットに右手を入れたまま、「おお」と返された。横溝さんは、一言ごとに態度特徴が変わるので、未だにキャラクターが掴めない。

 そんな人と一緒に、海に行くなんて。自分でも信じられないくらいの冒険だ。


 かなり悩んだが、やはり記憶の中のエンドロールの正体を知りたくて、僕は横溝さんに電話を掛けた。全然覚えていない映画ならこんなに悩まされなかっただろうけれど、中途半端な記憶だからこそ、喉に引っかかった魚の小骨のように、気になって仕方がない。

 横溝さんがいつでもいいと言ったので、それに甘えて、海に行く日時は僕が決めることになった。こうして駅前に集合して、横溝さんとエンドロールの海へ向かう。


 電車の中での無言に耐えられなかったので、僕はどうしても気になっていたことを横溝さんに訊いてみた。職業とか、年齢とか、どこに住んでいるのかとか。

 しかし、横溝さんはどれもはぐらかしてしまう。職業は「自営業」、年齢は「そこそこ」、住んでいる場所も「ずっと遠く」と。投げやりに血液型を聞いてみたけれど、「本当に知らない」と申し訳なさそうに言われてしまった。


 しょうがないので、映画の話にシフトした。僕が、自分の好きな映画はマイナーな方だったけれど、横溝さんはどれも知っていて、その中の台詞もそらんじた。

 「横溝さんが一番好きな映画は何ですか」と訊いてみると、「恋人か仕事か、選ぶくらいに難しいな」と苦笑していた。それくらい、映画全般が好きなんだろう。


 その間に、電車は目的の駅に着いた。僕が住んでいる所よりも、ずっと自然が多い町で、港町と言われるほど活気があふれているわけでもない。ただ、僕はこの落ち着いた雰囲気が子供のころから好きだった。

 海水浴場は、駅から歩いていける距離にあった。急にガリ股になった横溝さんを連れて、僕は真っ直ぐに向かう。


 駅に着いた頃は傾始めていた太陽だったが、視界に海が入ってきた頃に、空はすっかり夕暮れに染まっていた。天気予報や日没を調べてからこの日のこの時間を決めたため、これは予定通りだった。

 それから数分後、海水浴場に到着した。北からの風が強く吹いているため、今日の海も荒れている。夏も過ぎて、サーフィンにも向いていない砂浜には、誰もいなかった。


「ここが、そのエンドロールに出てきた海です」

「ふむ」


 僕の説明を受けて、横溝さんは右手をひさしのようにして、目を細めながら海を見つけている。眉間に皺を寄せて、眩しがるというよりも怒っているような表情だった。

 この海水浴場は、他と比べてもとても狭い場所だった。敷き詰められた砂も、濃い灰色で、じゃりじゃりとしている。正直、ここに泳ぎに来るのは地元の人くらいで、観光客も滅多に訪ねないだろう。


「一度降りてみます?」


 エンドロールに映っていたのは、もっと海に近い所だった。聞いてみると、横溝さんは無言で頷いた。

 僕らが立っている歩道から、石畳の段々を下りて、砂浜の方へ向かう。後ろから吹いてきた風には、夜の冷気がすでに混じっていた。


 ざくざくと砂を踏む音が、波音に掻き消されてしまう。荒々しい波の一つ一つが、沈みゆく夕日によって橙のグラデーションに染められていた。

 僕は、左側の視界に砂浜の崖が入ってくる位置で止まった。振り返り、ぼんやりと立っている横溝さんにジェスチャーを交えながら、改めてエンドロールを説明する。


「右の方に、女の人が立っているんです。長めの、でも腰までは届かないほどの黒いストレートの髪型をしていて、服装ははっきり覚えていないですけれど、確かロングのスカートをはいていました。それが、こう、西から風に吹かれて膨らんでいます。それで、太陽は確か、もっと左側にあって……」


 僕は自分の頭の中に残り続けていた映像を、必死に横溝さんに説明する。しかし、具体的な言葉に置き得ようとすると、そのイメージが霧のように消えていき、内心焦っていた。

 そんな僕を見ていた横溝さんは、ふいに、歩き出した。僕の位置を超えて、海の方へ向かって歩き出した。


「あの……」


 話しかけようとしたら横溝さんが、波打ち際の濡れるか濡れないかのギリギリで立ち止まった。そして、体を崖の方に向けて、顔は僕の方を見つめる。困っているようにも見える曖昧な笑みを浮かべて、存在しない後ろ髪を持て余した様子で撫でている。

 その瞬間、僕の脳内に電流が走った。


 金色の光を、海の上に道のように零したまま、ぼんやりと輪郭を揺らめかせて落ちる太陽。それとは反対に、影の濃さが増す水平線。スクリーンの上の方はまだ水色が残っている一方で、夜の先駆けのような雲の色。

 そんな雄大な風景から背を向けて、彼女はカメラと向かい合っていた。何か言いたそうだけど、決して言葉に出来ない思いを口の中に持て余したまま。


「横溝さん、その映画を知っているんですね」


 万感を込めた僕の一言を受けて、こちらと向き合った横溝さんは、暗闇を正面に受けた形で頷いた。


「覚えている。全部全部、覚えている」


 その台詞は、確か、僕が探し続けていた映画の最初の台詞だった。不意打ちを食らったかのようにそれを思い出した。

 未だ目を白黒させている僕を前に、横溝さんは口を開いた。


「水に流せなんて、言うのは簡単だよね。――うん。嫌いだよ。大嫌い。――なんで俺に付き合うんだよ。――じゃあ、ラーメン食べに行きたい。――明日、十一時に。――もしもし、お母さん? ――いいよ。いつまでもここにいるから。――平気なふりをし続けるのも、辛いんだろ。――何もかも嫌になった時、どうしてる? ――好きだ。好きなんだよ。――私にそんなこと言うなんて、変わっているね――」


 矢継ぎ早に、載せている感情をそれぞれ変えて、横溝さんが喋り続けている。僕は、訳も分からないままそれを聞き続けて……きっと、これは同じ映画の台詞の一部なんだと気が付いた。


「横溝さん」


 声をかけると、横溝さんはぴたりと黙った。

 波の音だけの沈黙の中、砂を乱暴に蹴散らしながら彼の元へ進む。興奮のため、体中が上気していた。


「その映画のタイトルは何ですか?」


 横溝さんは、海の方を見つめた。

 黄色く輝く太陽は、その体の半分以上を海に沈めている。僕らの頭上では、夜の気配が忍び寄り、星が瞬き始めている。


「海が、赤いね」


 優しい、しかし諦め交じりの声で、横溝さんが言った。

 僕は熱い溜息をついた。埋もれていた記憶の奥深くに、その言葉は確かに存在していた。






   △






 帰りの電車の中で、『海が赤いね』というタイトルの映画について調べてみた。

 この映画は、主人公の女性が過去のトラウマ(明言されていないが、レイプだと推測できる)によって恋愛に消極的になってしまった後に、一人の男性と恋人になる話らしい。恋人に対して愛情を抱きながらも、一歩踏み出すことができない彼女の心境を、美しい情景と間のある会話によって描き出している。


 ただ、『海が赤いね』は、監督がギャラ支払いの問題で会社と揉めたまま急逝してしまったため、現在までディスク化されていないと書かれていた。

 こうしてタイトルを思い出せたのに、もう二度と見れないかもしれないという事実に、僕は落ち込んでしまった。それと同時に、ネット上で探していても見つからなかった理由にも納得できた。


「横溝さんは、内容を全て覚えているのですね。羨ましいです」


 隣に座り、僕のスマホを覗き込んでいた横溝さんにそう話しかけると、彼は八の字眉とへの字口のまま、肩を竦めた。そんな風に覚えていても、あまりいいことがないと言いたげだった。

 それでも僕は、その能力が羨ましく思えた。どんな傑作を見て感動しても、記憶になってしまうと砂の像のように細部が崩れ落ちてしまう。言動や風景や音楽を、頭の中に焼き付けて、いつでも好きなように思い出すことができたならと、何度思ったことだろう。


「ディスク化されていない『海が赤いね』を横溝さんが覚えていることを、きっと監督は喜んでくれますよ」

「……そのように考えたことはありませんね」


 真っ直ぐ前を見据えて、ぽつんと横溝さんが呟いた。言葉には、その実感が滲みだしている。

 それからすっかり無言になってしまった横溝さんと、僕は心地良い電車の揺れに身を預ける。日が暮れて外は真っ暗だが、映画館のある町に近付くと、少しずつ街の灯りが増えていく様子を見つめていた。































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