後編

 それからしばらく、部屋に閉じこめられた時生は平穏に過ごしていた。昼も夜も分からない室内には、どこからともなく長月彦が現れる。

 彼がいるだけで、部屋には不思議と良い香りが広がり、空気が明るくなった。彼は来るたびに、時生が食べたことの無い和菓子や綺麗な花をくれる。

 長月彦は、何をしても怒らなかった。親の機嫌をうかがいながら生活していた時生は、迷惑をかけないようおとなしくしているクセがついている。

 そんな時生の頭を撫で、膝に乗せ、手ずから菓子を食べさせて、長月彦はとことん甘やかしてくれた。それに、彼とは言葉が通じるから、話すのが楽しい。


「長月、ずっとここにいて」

「私も、そうできたらいいんだけどね」


 蠖シ隹キに来て一週間。何もない部屋に閉じこめられ、ひたすら退屈でさびしい。長月彦だけが、時生にとって心の支えだった。彼の膝はもはや時生の定位置だ。

 最初に会った時の長月彦は、七歳ぐらいに見えた。でも今は十歳ぐらいのように思える。別の日は自分と同じ歳ぐらいに。だけど、何歳に見えても彼は彼だった。


「時生、明日はまたきみのお浄めが行われる」


 ぎょっとして思わず彼の服をつかんだ。初めて会った時から変わらない、いつも同じ真っ白な着物。一方の時生は、相変わらず女の子の着物姿だ。

 さっと体中の血が下がって、手足が恐怖できゅうっと冷たくなる。


「や、やだ。あれもう、やだ。たすけて、長月!」

「ごめん。きみのお浄めを止めることは出来ない。ただ、楽にはしてあげられる。明日はきっと、前みたいに痛くはないよ」

「ほんとうに?」


 返事の代わりに、長月彦は優しげな微笑みを返した。胸の中が温かくなって、とくとくと高鳴る心臓が新しい血液を体中に送り出す。冷たくなった手足に体温が戻って、足元が抜けるような恐怖心が消えてなくなった。

 実際、次の日にお浄めを受けた時、痛みは時生でも耐えられるほどに小さくなっていたのだから驚きだ。痛さよりも退屈さの方が辛かった。

 週に一度お浄めは行われたが、それが十回続くと、ぴたりと行われなくなった。

 長月彦の柔らかな手が、そっと時生の頬を撫でる。


「私はまだ子どもだから、力が弱い。でも、時生が私と契りを結んでくれれば、そのえにしをたどって私はもっと強くなれる。そうしたら、もっと早くきみを助けられるよ」

「ちぎりって?」

「この家の神さまじゃなくて、私のお嫁さんになる。ってこと」


 自分が神の花嫁になるために連れてこられた、ということはなんとか時生も理解していた。しかし、花嫁というのは女性がなるものではなかったか。

 そして、花嫁になった後、どうされるのかもよく分からない。


「お嫁さんになったら、いつでも、どこでも、いつまでも、私と一緒にいるってことだよ。心も体も一つにして、お互いを一番大切にするんだ」


 そんな素敵なことがあっていいんだろうか? 溶けたキャラメルのような、熱々の濃いココアのような、甘ったるくて抽象的なイメージが浮かんでは消える。

 長月彦は頬を撫でていた手を顎に添え、時生の顔を上向かせた。


「私は時生のことを気に入っているよ。お嫁さんになってくれるなら嬉しいけれど」


 どうかな? と目で訴えかけられ、もはや否やはない。


「なる。長月のお嫁さんになる!」

「じゃあ、誓って。約束の印に、私と口づけを交わそう」


 よく分からないでいると、口づけとはキスのことだ、と捕捉された。長月彦の頬にちゅっと口づけると、そこじゃないよと苦笑される。

 ではどこに? と眉根を寄せると、彼は自分の唇を指さした。


「何を誓うか、先に言ってから口づけてね」

「うん。ぼく、時生は長月彦のお嫁さんになると、誓います」


 目を閉じて、長月彦と唇を重ねると電気が走った。回路と回路がつながるように、口を通り道にして彼から何かとてつもない力が流れこむ。

 竜巻の中に放り込まれたような巨大な何かが自分を翻弄し、立っているのか逆さまになっているのかもわからない。同時にかあっと下腹が熱くて、頭がくらくらした。

 気がつくと両の肩を長月彦につかまれて、互いの唇が離れている。息を吐くと、予想外に長い長いため息になってしまった。

 長月彦は目を閉じる前よりもお兄さんの姿になっている。十歳ぐらいのはずだったのに、今は十五歳ぐらいの少年だ。これが、契るということだろうか。


「よし、縁はさらに強く結ばれた。正式な契りはいずれまた交わそう」

「正式? 今やっちゃだめなの?」

「きみの体には小さすぎて苦しいよ。時が来るまで待って欲しい」

「うん」


 正式な契りを結んだのは、十年後のことだ。

 長月彦がやってきたのは、おそらく夜だったのだろう。彼は嵐の海のように激しく、そして甘やかすように優しく、時生の体のすみずみまでを愛した。

 その頃にはもらった絵本や、女中たちとの会話で、契りや婚姻がどういうものか知識もついている。相変わらず、長月彦以外に時生の言葉は通じないが。

 改めて、この不思議な青年とずっと一緒にいるのだと思うと、幸福感でいっぱいになった。長月彦はきっと、普通の人間ではないのだろう。

 彼は誓いの口づけを交わして以来、年齢が変化しなくなった。

 こちらは十年で大きくなったというのに、だ。座敷牢に閉じこめられ、女物の服を与えられて育てられた時生は、すっかり華奢な少年に成長していた。

 長く伸びたまま、腰のあたりで切りそろえられた白髪はどうにも異様だ。

 頭髪だけではなく、全身の毛が白く変化しているが、それは通常の白髪とも違う。漂白して白く染め直しでもしなければ、こうはならないだろう純白の色。

 時生が第二次性徴を迎えたあたりから、女中や老婆たちの態度は軟化していた。それまでは淡々と身の回りの世話をしていただけなのに、不自由な言葉なりに頼めば「内緒ですよ」と言いながら、こっそりオモチャやお菓子をくれる。

 風呂はいつも女中に体を洗われていたが、なんだか顔を赤くしたり、変な所を触りたがるようになった。以前とは何となく嫌だったが、長月彦と契りを交わした後だと、それがどういう意味か分かる。

 そのことを長月彦に話したら、触ってきた女中たちは二度と現れなくなった。他の者との口ぶりから、どうも突然消えたり、死体が見つかったりしたらしい。

 彼が何をしたかは知らない。だが、時生は知りたくもなかった。長月彦が自分を守ってくれている、という実感だけがただ嬉しい。

 時生は自分の誕生日がいつかは知らない。親から祝われた覚えなどないから、正確にはいくつなのかも実はよく知らなかった。

 だから、時生が蠖シ隹キに連れてこられた日が便宜上の誕生日として扱われ、家の者が年齢を計算している。そして、十六歳の誕生日前日。

――お前は明日、蠖シ縺ョ陷倩に捧げられるのだと老婆が告げた。



 蠖シ隹キで奉られている神は蠖シ縺ョ陷倩と言う。

 その名前の意味は何度聞いても分からない。大きな蜘蛛の姿をしているらしく、いつの時代も蠖シ隹キに富と繁栄をもたらしてきた。

……と言うより、逆らうと滅ぼされる、と言った方が近いのかもしれない。まったく益がないわけではないようだったが、神の寵愛に対する代表的な対価が贄だった。

 普段は定期的に鹿や牛など買ってきて、その命を捧げている。だが花嫁が欲しいと言われたら、大急ぎで第二次性徴前の男児を見繕わねばならない。

 お浄めでもって瀕死にし、そのまま死ねば次の候補探しに。生き延びれば贄として見込まれたことになり、後は年頃まで育てる。

 その子が成長するまでの間、蠖シ縺ョ陷倩は何度か逢瀬にやってくる……と老婆は言った。それでは、蠖シ縺ョ陷倩とは長月彦自身ではないのか?


「いいや。私はもっと違うものだよ」

「ふうん」


 それ以上のことは時生の興味の範疇では無い。正式に契ってからは、長月彦の正体がなんであっても、もう構わない気持ちだった。けれど、と彼は付け加える。


「蠖シ縺ョ陷倩が蜘蛛なら、私は蛇さ。白い蛇」

「蛇は好き」


 十年変わらぬ特等席、長月彦の膝の上で時生は甘えるようにじゃれついた。この家の神が何をしてきても、彼ならきっと自分を見捨てないだろうと信じている。



 翌日。時生は浴室で念入りに体を洗われ、白無垢の花嫁衣装に着替えさせられた。この十年でずいぶんと老け込んだ老婆、叶内が重々しい声で言う。


「いよいよお前さんのお役目だ。何、部屋に入って一晩待つだけのことさ。心配することは無い。せいぜい、神さまに気に入られるようがんばりな」


 神のもとへ行く。それが死を意味することを、両者はとうに承知していた。


「うらうかわ、決めたての指が五本、ぬそのたてがえり」

「お前が何をしゃべっているのか、最後まで分からないままだったねえ」


 老婆も女中たちもめかしこんでいた。そして初めて会う男たち。年齢はさまざまだが、座っているのも怪しいほどしわくちゃに老いた男が、蠖シ隹キの長らしい。

 老人はあれやこれやと時生に話しかけていたようだ。主にこの家の歴史と誇り、お前は名誉な役を任されたのだ、これまで育てられた恩によく報いろ……。

 とかいう噴飯物の内容だった。

 時生は文字通り籠の鳥で、学校にも通わなければ教育も受けさせてもらえなかった。言葉が通じない彼に読み書きを教えても無駄だと思ったのだろう。時生が読めるのは、幼児向けの絵本がせいぜいだ。

 それ以上に、屋敷の一室に閉じこめられて一歩も外に出されていない。

 いつか長月彦と並んで太陽の下を歩き、新鮮な風や光を感じて、様々な音や色彩を楽しむのが夢だった。

 けれど、この者たちは時生に人生のすべてを諦めさせておきながら、それに感謝してこの後の命も諦めろと言っている。彼らのために死ぬつもりはなかった。


 屋敷の最奥は紫の垂れ幕で扉が飾られていた。部屋の正面奥には一段高い場所があり、五色の布や垂れ幕がある。そしてご神体と関係があるのか、歴史を感じさせる桐箱が安置されている。部屋の中央には精緻な縫い取りのある座布団があった。

 奥の祭壇を向いて座るように促されて従うと、背後で扉が閉められる。がちゃりと重たい、かんぬきと鍵がかけられる音。たった二つの燭台だけが照らす真っ暗闇だ。

 それから十分もしないうちに。


――ぞたびわち待、かた来


 ずるりと、長くてぬらぬらした何かを引きずるような音がした。ロウソクの光の外、無限に虚空が広がっているような闇の中で大きなものが動いている。

 突然、時生の角隠しが引き剥がされ、床に押し倒された。手足を硬質な何かがつかんで動きを止めている。服の中を、肌の上を、一斉に虫のようなものが這い回る。

 時生は悲鳴を上げたが、何者かの声を悦ばせるだけだった。


――いしら愛可、おお


 持たされた懐剣を取ろうにも、身動きが取れない。燭台が生暖かい風に吹き消され、真っ暗闇の中で白無垢が大きく引き裂かれた。そして……


――?はれこだんな

――う違はれこ

――!だとこてんな !だとこてんな


 相手は困惑したように多重の声を上げた。複数体いるのか、それとも一体で同時にしゃべれるのか、時生には判断がつかない。

 ただ、向こうが困惑し、怒りを覚えているのは分かる。その証拠に、押さえつけられた手足がびんと引っぱられ、嫌な予感がした。

 生臭く温かい息が顔に吹きかけられる。巨大な獣の口がすぐ目の前にあるイメージ。ぎりぎりと手足の圧迫が強くなる。


「悪いが、その子はもう私のものなんだ」


 長月彦の涼やかな声と共に、凄まじい悲鳴が上がった。生臭い息が消え、清涼な風と共にかぐわしさが漂ってくる。長月彦の芳香。

 真っ暗闇の中でさえ、彼の姿はほの白く光ってはっきりと見えた。


「まったく、処女おとめでないものまで食おうなんて、浅ましいな」


 何かにつかまれた感触を残したまま、手足が自由を取り戻す。身を起こそうともがいている間に、つかんでいる何かは落ちて、結局よく見えなかった。

 その手を長月彦が取った。


「遅くなってごめんよ、時生。この家の人たちにご退場願うのに手間取ってね」

「退場って?」

「花嫁がもらえなかったら、守り神が暴れるだろう? そうなっても心配がいらないよう、彼ら自身を片付けてあげただけだよ」


 つまりあの人たちは死んだんだなと思ったが、特に感慨はない。ふわりと長月彦に抱き上げられるまま身を任せ、彼の首に腕を回す。


「ぼくら、もうどこにでも行ける?」

「野に咲く花びらの上でも、葉に光る朝露の中でも、空に輝く月でも、海の底でも、きみが望むならどこへだって。きみが居てくれたから、私もこの世界に顕現できた」

「よくわからないけど。ぼくが長月の役に立ったなら良かった」


 長月彦は微笑んで、伴侶の顔に唇を落とす。落ちていたロウソクは、止められた時間が動き出したように、急激に炎を広げた。

 その中に二人の――否、二柱の姿が消えていく。

 炎は蠖シ縺ョ陷倩の亡骸を、蠖シ隹キの屋敷を飲みこみ、所有する山ごと舐め尽くして、ことごとくを灰にした。長月彦と、時生の行方はようとして知れない。

 つまりは、めでたしめでたし、だ。

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いつかかみさまのふところへ 雨藤フラシ @Ankhlore

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