いつかかみさまのふところへ

雨藤フラシ

前編

 時生ときおが覚えている最初の記憶は、暗い家の中で「どうするよ、これ」とうんざりした様子でつぶやく男から始まる。当時はおそらく、四歳か五歳だった。


「ぼくは、すいようび、です」

「黙ってろ」


 男はいかつく、派手なスーツと金ぴかのアクセサリーは、後で思い返すとヤクザ者のたぐいだったのだろう。

 覚えている限り家の中はひどい有り様で、時生はいつもゴミためと悪臭の中でひもじかった。両親には叩かれたようにも、頭をなでてもらったようにも思う。

 ただ、気がつくとある日二人ともいなくなっていて、時生は灯りもない家にひとりぼっちだった。外へ出たことはなく、なすすべもなくアパートの一室で二日が経ち、三日が過ぎると、食べものはなくなって、意識がもうろうとしていた。

 そこへ現れたのがあのヤクザ者だった……と思う。


「ついてこい」

「るるこらとっとう?」

「……置いて行かれるわけだ、こりゃ」


 男は事務所に時生を連れ帰ると、食パンや牛乳を与えると、乱暴にシャワーを浴びせた。その時に「なんだ、男かよ」と言われたが、放ったらかされて髪が伸びっぱなしだったから、女の子と間違えていたのだろう。

 両親がどこか何度も聞かれたが、そんなことはこっちが知りたい。



 二、三日したところで、男は時生を車に乗せて長い旅に出た。と言っても、一日と半か、せいぜい二日ほどだったろう。ひたすら車を走らせて、がたごとと揺れの激しい山道を行き、くたくたになってたどりついたのは、昔話に出てくるような古くさい農村の、そのまた奥に建つ立派なお屋敷だ。

 城の入り口のような門に見える「蠖シ隹キ」という表札がかかっていた。


「いいか、ここは〝かや彼谷〟って家だ」

「蠖シ隹キ?」

「そうだ。後はここの連中の言うことを聞け」


 そうして、男は時生を置き去りにして去って行った。入れ替わりに、奥から複数人の老婆と中年の女性が出てくる。皆、和服だった。

 世界中から蜘蛛の巣をかき集め、うず高く頭に乗せたような老婆が口を開く。


「あんたが時生という子かい」

「ちぢ」

「はい、とお言い!」


 ぴしゃりと怒鳴られ、震えあがる時生の腕を、老婆は爪を立ててつかんだ。痛くて声を上げるが、爪はますます強く食いこむ。


「いいから、こっちへ来な。今日からここがあんたの家だ。といっても、家の子どもってわけじゃない。お前は〝蠖シ縺ョ陷倩〟のよめっこになるんだよ」


 老婆がなんと言ったのか、時生には理解できなかった。


「よめっこ、つまり神さまの花嫁さ」


 そんなことを言われても分からない。とにかく痛いのは嫌なので、老婆に必死でついていったが、相手は幼児の時生よりずっと歩幅が広く、足が速かった。

 時生がこけても老婆は構わずひきずっていき、やがて立って歩くことを諦めると、後ろからついてきていた中年女性の一人が時生を持ち上げて運んでくれた。

 だが、安心するのはまだ早い。一行はどんどん暗い廊下の奥へ進んでいって、やがて行き止まりに来ると、誰かが壁で何かをいじった。

 ぎぎぎぎ、ぎぃ……と悲鳴のようなきしみ音を立てて、床がぽっかりと口を開ける。地下の入り口へ、老婆は躊躇なく降りていった。

 女の腕に抱かれながら、時生は「こわい」と訴えたが、誰も取り合うことはない。たぶん、時生の言っていることが分からないのだ。いつもそうだった。

 とん、とん、とん、と急斜面の階段を降りていく。

 真っ暗な空間に、先行する女たちがロウソクで灯りを点けていく。それでも小さな火は重たい闇にはあまりにか細くて、かえって不安をかき立てられた。

 たどり着いた先は、かび臭い小部屋だ。奇妙なことに、入り口の壁は木の格子が組まれていて、壁と言うよりは牢屋のようだった。

 しかし、中には木板の床と畳、布団や文机もあって、時生がテレビの時代劇やアニメで見かけた「牢屋」のイメージとは合致しない。

 老婆は二人の女をともなって小部屋に入る。時生は自分を抱えていた女の腕からおろされると、部屋に入るようにとそっと背中を押されて従った。

 そのことを、すぐに後悔することになる。


「これからお前に〝お浄め〟を行うよ」

「せんさんびゃくはちじゅうまんてんです」

「服をお脱ぎ」


 女たちは有無を言わさず、二人がかりで服をつかんだ。ヤクザ者が買ってくれた安物のパーカーとズボンが、乱暴にはぎとられる。その次には下着まで。

 乱暴な扱いにびっくりしていると、肩を押されて膝をつかされた。女たちはそれぞれ時生の手首を握り、左右に分かれる。

 老婆は、部屋に置いてあった細くしなやかな竹の棒を取った。お浄めとは、痛みを与えて穢れを払うという理屈の拷問だ。

 それを理解したのはもう少し後のことだったが、初めてお浄めされたこの時は、何も分からないままいつ終わるとも知れない百叩きにさらされ、一番苦しかった。

 小学校にも上がらない幼児にする仕打ちではない。

 実際、過去にはそれで死者が出たこともあるのだろう。そんなことだから、その筋の者から子どもを「買って」来るしかないのだ。

 背中の皮が裂け、血まみれで痙攣が始まると、ほどなくして時生は気絶した。手当てをすることもなく、老婆たちは部屋の鍵をかけて去る。

 この部屋は、神に捧ぐ生け贄を閉じこめるための座敷牢なのだ。


(いたい。いたい。いたい)


 目が覚めた時、体は焼けた砂を詰めこんだずだ袋になったような気がした。

 喉が渇いて、でも動こうにも力が出ない。頭はものを考える力を失ったように麻痺してしまって、自分が置かれた状況への絶望や苦痛から必死で身を守っていた。

 その時だ。


「どうしたの?」


 近くで、小さな男の子の声がした。さらさらと流れる川のような、初めて聞くのにどこか懐かしい、安心できそうな声。

 ぺた、ぺた、と裸足の足音がして、声の主が現れる。と言っても、起き上がる力のない時生に見えたのは、白く綺麗な素足だけだった。

 泣き叫んで涸れきった喉は、それでも動かすとまだ声が出る。


「とても、いたいの」


 不思議と、時生の言葉は相手に通じたらしかった。


「うん、これはひどいね」


 ひんやりとした手が背中に触れる。傷だらけのはずなのに、痛みは一切感じることはなく、ただ体にこもった嫌な熱が抜けて心地よかった。

 意識をぎっしり占領していた、割れガラスのような苦しさが消える。


「楽になった?」

「ありがと」


 男の子が何をしたかは分からないが、時生にとってはどうでもいい。ただ、心の底からありがたく思った。とたんに、ぽろぽろと涙がこぼれて、力が抜けていく。

 傷ついて脱力していたのとは違う、安心のための脱力だ。苦痛を覚えている間は、体に力が入らずとも、痛みと苦しみに耐えるため見えない力を費やし続けている。

 それがようやく無用になって、心地よい眠気が襲ってきた。とろとろとまぶたを閉じながら、男の子の涼やかな声だけははっきり聞こえてくる。


「きみ、名前は?」

「ときお」

「ときお。時生、か。うん、きみはどうして、こんな所にいるの?」

「わかんない。おばあさんが、お前は神さまのよめっこになるんだよ、って」


 ははあ、と男の子は得心が行った声を出した。


「そうか、きみは蠖シ縺ョ陷倩の新しい贄に連れてこられたんだね」


――〝?贄いし新〟


 ざわっ、と。幾千もの木々の葉が、一斉に風になぶられたように、空気がざわめいた。狭い地下の小部屋から、嵐が吹きすさぶ空へ放り出されたような。


――〝だうとんほ、おお〟

――〝あだ贄〟


 数本のロウソクだけが照らす室内は、そこかしこに闇がわだかまっている。その中から黒いもやが細長く伸びて、床にちらばる時生の髪をつかんだ。


「うわっ」


 ぴん、と引っぱられる感触は、決して夢や錯覚ではない。それに、このくぐもったような声はどこから響いてくるのだろう。時生はびっくりして身を起こした。


「ああ、うっとうしいな」


 ふうっと男の子が息を吐くと、もやは情けのない悲鳴をあげてちりぢりに消えてしまう。ぽかんと床に座りながら、時生はようやく男の姿を認めた。

 真っ白な着物を着た、少し年上の子ども。黒く短い髪はさらさらとして、今まで見たことがないほど綺麗な顔をしていた。特に、眼が星空みたいにきらめている。


「いまの、なに?」

「つまらないやつだよ」


 土産物を渡す時の謙遜のようなことを言って、男の子は肩をすくめた。自分が羽織っている上着を脱いで、素っ裸のままの時生に被せる。


「今ので、当分あいつらはここに近づけないからね」

「きみは、だれ? どうしてこんなに優しいの?」

「あ、そうか。名乗ってなかったね」


 羽織らされた上着は良い香りがした。なんとなく、お寺か何かで焚かれていそうなお香みたいな感じがする。


「私は、長月彦ながつきひこ。長月でいいよ。可哀想に、きみは殺されるところだったね」

「ころされる?」

「この家は、人や獣を殺しては、一族の守り神に食べさせているのさ。きみみたいな子とかね。そろそろ邪魔してやろうと思って来てみたけど、ちょうど良かった」


 殺す、なんてテレビで聞いたような言葉だ。けれど長月彦が嘘を言っているようには思えないし、さっきのお浄めからして、本当のことだと思う。


「時生、きみをここから出してあげたいけれど、今はそこまで出来ない。ぼくが大人になるまで、待ってくれる?」


 長月彦は少しだけ年上に見えるとはいえ、自分と大して変わらない子どもだ。大人に対してどうこうできるとは、時生もあまり期待してはいない。


「長月が来てくれただけで、うれしい」

「時生は良い子だね」


 そう言って頭をなでる長月彦は、大人の男の人のように見えた。みんなこんな風ならいいのに。優しくて、時生の言葉をちゃんと理解してくれたら。

 気がつくと長月彦はおらず、自分は床の上に寝転がっていた。裸の上に、白くさらさらと柔らかなものがかかっていて、長月彦の着物かと思って抱きしめる。

 だが、それは服でも布でも無く、大量の白い糸の房だった。

 身長より長く伸びて、時生の素肌を守っている。しかも――どうやら、これは自分の頭から生えているらしい。髪の毛が白く、長く変化しているのだ。

 やがて老婆たちがやってきて、時生の様子に仰天した。


「お前、なんだねその姿! いや、それより生きて……ううむ」


 泡を食った老婆は咳払いして落ち着きを取り戻すと、連れてきた女中に時生の体を改めさせた。髪の変化も気になるが、問題は毛に隠された体だ。


叶内かなうちさま、傷がほとんど消えております」

「おお! おお!」


 歓喜を隠せない様子で、老婆は大口を開けて笑った。黄色く濁った歯が、なんだか海辺の岩につく得体の知れない貝か何かの仲間のようだ。


「神さまがようやくお見染めあそばした! はははは! これでひと安心だよ」


 女中の手で時生は色鮮やかな着物を着せられた。上等な仕立てだが、女物だ。間違いでも間に合わせでもなく、男児に女装させて育てるのが贄のならわしだった。

 陽の存在である男が、陰の存在である女を装うことで、陰陽相合わせる、と。

 それから時生は地下の小部屋を出され、広い屋敷をさんざん連れ回された後、一つの部屋を与えられた。畳があり、桐箪笥や文机がある、立派な和室だ。

 ただ、そこには窓がなく、出入り口もやはり木の格子で覆われていた。


「蠖シ隹キで食べる最初の膳だ、おあがり」


 膳という言葉を時生は知らなかったが、それが食べ物のことなのは分かる。新しい部屋で用意された食事は、時生には生まれて始めてみる豪華なものだった。


「かえしたらすっぱいんです」

「いただきます、も言えないのかね」


 言っているけれど分かってもらえない。やはり時生のことが分かるのは長月彦だけらしかった。あの少年はまた来てくれるだろうかと切望しながら膳をもらう。

 小さな机のようなものにたくさん食器が乗って、色々入っていた。幼児の舌には訴えかけない和食だが、ひもじい思いをしてきた時生にはありがたい。

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