空の色と君の色

天野蒼空

空の色と君の色

 空はいつも違う色を見せてくれる。晴れた時の青く澄んだ色。曇った時のどんよりとした灰色。月のない夜の深い闇色。夕焼けのあたたかなオレンジや、朝焼けの始まる前の淡い紫なんてものもある。そしてそれらはいつも少しずつ違う。同じ色はない。僕はそんな空が大好きだ。今日も空にカメラを向けて写真を撮る。


「こんな感じかな」


 好きな色を逃さないよう、いつも首からカメラを下げるようにしている。お気に入りの撮影スポットであるこの橋の上は、田舎であるゆえに人も車もあまり通らない。

 石の欄干の上に手をつくと、じんわりと熱さが伝わってきた。


「なにしているの?」


 突然後ろから声をかけられた。振り向くとそこには君が立っていた。前に君に会ったのは、確か桜が咲いている頃だっただろうか。古い付き合いではあるが、最近は合う機会が減っていた。こんなところで会うなんて奇遇だ。


「ねぇ、なにしているの?」


 僕はカメラを片手で軽く持ち上げて答えた。


「写真だよ」


「ふーん。何とっているの?」


「空を撮っているんだよ。ほら、こんな感じに」


 何枚か撮った写真を見せながら僕は言った。


「ふぅん」


 君は気のないような返事をした。


「ね、せっかくだからさ、そのカメラで私撮ってみてよ」


 人が被写体になるのは久しぶりだ。あまりうまく撮れる自信が無い。

 いや、だからといってほかのものがうまく撮れているという訳でもないのだけれど、と、心の中で少し付け足す。


「うん。いいよ」


 君は真っ白いワンピースの裾をつまんで西洋風のお辞儀をした。そしておどけたように言った。


「可愛くとってよね」


「わかったよ」


 白いワンピースと、つばの広い麦わら帽子。少し焼けた肌に、向日葵のような笑顔。ファインダー越しの君は、突き抜けるように青い夏の空によく似合っていた。風がふわりとワンピースの裾を揺らした。何も無い青い空に飛行機雲が落書きをしていった。


「じゃあ、撮るよ」


 ──カシャ。


 僕はその一瞬をカメラの中に閉じこめた。


「どう?うまく撮れた?」


「まあまあかな。見るかい?」


 君はかかとの高いサンダルを履いているのに、カッカッカッ、と、コンクリートをリズミカルに蹴り飛ばしながら小走りでこちらにやってきた。風を受けてなびくワンピースはまるで熱帯魚の尻尾のようだ。


「うん、可愛く撮れている」


 ディスプレイを覗き込みながら、嬉しそうに君はそういった。僕の肌が君の肌と触れるか触れないかの距離まで近くなる。花のような甘い君の香りに心臓が鼓動を早くする。


「よかったら後で印刷しようか」


「わあ、してほしいな」


 ぱっと笑ってそう君は言ったが、すぐになにか考えるような顔になった。太陽に雲が被り、少しだけあたりが暗くなった。


「折角だからさ、他にも写真、撮ってくれない?」


 君はもとの笑顔に戻り、そう言った。まるでさっきの表情が僕の見間違いだったかのようだ。


「いいよ」


 特に断る理由もないので、僕はそう答えた。




 近くの公園に移動し、僕は再びカメラを構えた。


 ──カシャ。カシャ。カシャ。


 ファインダーの小さな四角の中に君を入れて、一瞬一瞬を切り取る。

 小さな四角の中で、君はくるくると表情を変え、ポーズを決めていった。まるで空のようだ。同じ君なのに、目一杯の笑顔の君と下を向いて寂しそうな表情を作る君はまるで別人のようだ。


「君、モデルでもしていたの?」


「ううん。そんな目立つようなことするわけ無いじゃん」


「なんだかカメラ慣れしているような気がしたから」


 君は一瞬キョトンとしたが、すぐに向日葵みたいに笑った。


「撮ってもらうのは好きよ。だって、その一瞬が永遠になるんだから」


 ああ、なんだかわかるな、それ。


 切り取った写真はそこで一枚の永遠として完結する。まるで物語のように。空の色が変わっていくことは時が進んでしまうから。だから僕はその一瞬を残したいと思っていた。

 きっと今ここにいる君も同じなのだろう。今ここにいる君という存在は、一秒前とも、一秒後とも違うのだ。


「ね、喉乾いちゃった。自販機、行ってくる」


 君はそう言うと、僕の返事も聞かずに向こうへかけていった。


「ほんと、そういうところ、君はずっと君だよ」


 表情に表も裏もなく、自由で、まるで鳥のようだ。

 日陰になっているベンチに座って、さっきまで撮った君の写真を確認する。

 一瞬一瞬を丁寧に切り取ることが出来たと思う。人物写真はあまり撮ったことがないから、君のいいところをうまく引き出している写真ではないということはわかっている。どちらかといえば、ありのままの君だ。

 急に冷たいものが右頬にぴたっとくっついた。


「うわあっ」


 思わず大声を出してしまう。


「驚きすぎだよー」


 僕の背後に立っていた君が、冷えたメロンソーダのペットボトルを僕の頬に当てていた。


「これ、撮影料」


「一日で百五十円かー。ひどい低賃金のアルバイトだな」


 冗談めかして僕は言う。君から受け取ったメロンソーダはよく冷えていて、外側は結露で濡れていた。蓋を開けて、あまり体によくなさそうな緑色の液体を喉に流し込むと、ほんのりメロンの香りがして、口の中でそこまで強くない炭酸がパチパチと弾けた。甘ったるさが口の中に残る。


「あー、冷たい」


 一旦僕はそのメロンソーダのペットボトルの蓋をして、氷嚢のように額に当てた。

 君は片手にオレンジジュースのペットボトルをもって、僕の隣に座る。


「炭酸、まだ飲めないんだ」


 昔も苦手だと言っていたな、と思いながら僕はそういった。


「うるさいな。ね、最近何していたの?」


 君は少しだけ顔をしかめてそう聞いてきた。


「昔と対して変わらないよ」


「ふうん。なんだ、つまんない」


 そっぽを向く君はやっぱり昔と変わらなかった。


「何していたらよかったんだよ」


「世界征服とか?」


「そういうの、面倒くさそう」


 世界征服なら、僕よりも君のほうが楽しくやってしまいそうだ。


「相変わらず面倒くさがり屋なのね」


「そういう君は?」


 口元だけで君が笑う。


「昔と対して変わらないよ」


 その笑い方はまるで、しとしとと降る雨のよう。激しく音を立てることはないが、寂しさや悲しさといった、夜へ向かう空のような深い青色の感情が君の周りに静かに降りる。

 僕はなにか言ったほうがいいのだろうかと口を開きかけて、何もかけるべき言葉を自分が持っていないことに気づき、仕方がないので空いたままの口にメロンソーダを流し込んだ。甘ったるさが喉にへばりつく。


「私ね、好きだったのよ」


 突然の「好き」という言葉にどんな顔をすればいいのかわからなくなる。


「ちょっと、ちょっと。そんなに困ったような顔しないでよ」


 君はおどけたようにわらってそう言った。


「好きって、だって、そんなこと今まで聞いたことなかったから」


「だって、言ってないもん。それにね、もう、いいの」


 君は雲の向こう側を見つめるような、そんな遠い目をしていた。


「いや、でも……」


「さて、今のは全部空耳だよ。なーんにも聞かなかったことにして頂戴」


 今までの表情をくるりと一転させて笑う君に、僕は何を言えばいいかわからなくなる。


「ちょっと口が滑ったってやつだよ」


「それ、本音ってことじゃないか」


「きにしない、きにしない」


「気にするよ。そんな事言われて、気にしないなんて出来ないよ」


「だってさ、もう終わりにするんだ」


 君のその笑顔はどこか晴れ晴れとしていた。雲ひとつない青空のようだ。


「終わりにするって、なにを……?」


 君は僕の前にやってきて、人差し指を僕の唇の前にもってくる。僕の唇に触れるか触れないかの距離にある細くて白い君の人差し指は、ほんのり甘い香りがして、僕はそれから目を離せない。まるで催眠術みたいに。


「さて、と。もう帰ろうか」


 君の催眠術にかかった僕はうなずくことしか出来ない。

 そんな僕のことを見て、君は笑う。まるで夜の月のように、寂しそうに、面妖に。





 君の隣に並んで歩く。


 足元に長い影が落ちる。


 僕と君の間に沈黙が降りる。


 そこにあるのは、湿気を多く含んだ生ぬるい風だけ。


 君の甘い香りと、緑色の夏の終りの香りが鼻をくすぐる。


「今日、君にサヨナラを言いにきたの」


 君がその沈黙を破る。


「どこか遠くに行くの?」


 恐る恐る、僕は聞く。


「そう、ね。とっても、遠いところ」


 君はふーっと大きく息を吐く。


「そっか。本当に君は、君なんだね」


 鳥のようだ。自由で、楽しそうで、いつも空を見ている。


「だから、さよなら」


 君は立ち止まってそういった。


 二歩分、君は僕の後ろにいた。


「うん。さよなら」





 君に会った日から一週間が過ぎた。


 空一面に暗い鈍色の分厚い雲が敷き詰められて、空気が少し重たかった。窓の外の町並みはいつもと変わらないはずなのに、なんだか少し味気なかった。


 ──プルルル、プルルル。


 電話がなる。


「はい、もしもし」


 それは君の葬式を知らせる電話だった。


「では、失礼します」


 電話を受話器に置いた瞬間、何かの糸が僕の中でプツン、と、切れた。胸の真ん中に大きな穴が空いたようだ。心臓がねじれるような痛みがする。両方の目からは、開けっ放しの蛇口みたいに涙が流れ続ける。


 秒針が同じ速度で時を刻む。


 空から細い銀色の雨が降ってきて、檻のように僕のことを閉じ込める。ひんやりとした空気が足に絡みついて、僕はそこから動けない。


 あの向日葵みたいに笑う君が、もうこの世界のどこにもいないことが信じられなかった。


 いや、信じたくなかった。






「そうだ、写真」


 震える手でパソコンを操作する。


 ──カシャコン、カシャコン。


 プリンターから君の映った写真が出てくる。


 僕はその一瞬の君の色が色褪せないように、そっとそれを抱きしめた

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空の色と君の色 天野蒼空 @soranoiro-777

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