★★★急
結局、奇跡は起こらず。羽仁くんは負けた。
ゲームセットの声を聞き、私は校門へ足を向ける。うつむく視線の先には、砂ぼこりで汚れたローファー。家に帰ったらピカピカにみがかないと。足元を気にしていたら、後ろから声をかけられた。
「トーストくれないのか?」
振り返らなくても誰だかわかる。
「だって、負けたし……」
ちがう、もっと気の利いた事をいいたい。――お疲れ様。残念だったね。がんばったね。羽仁くん、すごいね――
なんて、黄色い声で言えたらどんなに単純で簡単で、清々しいだろう。
「負けたら、価値なし?」
あっ、この声。さっきのふにゃふにゃの甘えた顔をしてるはず。
あの顔をまた見てみたい。私だけが、見たい。誰にも見せたくない。私だけの羽仁くん。
ローファーをにらんだまま、後ろへ振り返る。そして、ゆっくりゆっくり顔をあげる。羽仁くんの額に傾いた日の光があたり、宝石みたいな汗がキラキラ輝いている。
あっ、美しいものがここにあった。
「トースト今ないから、明日持ってくるね」
「明日まで待てない。今食いたい」
そういって、彼は私の方へ一歩踏み込んでくる。
よっぽどお腹がへってるのね。カバンの中にお菓子が入ってるかも。留め金に手をふれようとした瞬間、肩へ彼の手がかかる。
手の重み分、私の心臓はおへそまで落下して、その勢いのまま喉元までせり上がる。
留め金を握り締めるはずだった手が、だらんと落ちた。
「今日の朝、トースト食った?」
はっ? なんで朝の話になるの。たしかにトーストは食べたけど。
混乱する頭を、それでもコクンと下げた。
「じゃあそれでいいから、くれよ」
えっ? どういうこと。もう、はっきり言ってくれないとわかんない。
羽仁くんのクセに。私を動揺させるなんて。悔しいったらありゃしない。
無視して駆け出しちゃえ! だめ、今走ったら叫びたくなる。大声出して、みんなの注目浴びて、バカみたいになっちゃう。そんな目にあったら、死んじゃう。
このままだと、アドバンテージを取られる。私にも意地ってものがあるんですからね。負けないんだから。冷静に返さないと。
「どういう意味?」
黄金色に輝く顔がくしゃりとゆがみ、甘い甘いとろけそうな顔になる羽仁くん。もう私の胸は夕日に焼かれ、焦げ付く寸前。
羽仁くんの顔がどんどん近づいてくる。
「待って! 五分ちょうだい」
お預けを食ったワンコは、首をかしげる。
「五分待ったら、していいの?」
何そのストレートな言い方。もうちょっと、ロマンチックな、オブラートにくるんだ言い方できないの。
女の子には、いろいろ捨て去らないといけないものがあるのよ。
過去の潔癖で
男子には逆立ちしたってわからない複雑な感情を乗り越えるには、五分いるの。だから、待って。
きっと、五分後には世界が変わってる。
*
扉のひらく音がして、僕は夢からさめた。後もうちょっとだったのに。世界が変わる瞬間を感じたかった。どんな世界が、夢の中の僕に訪れたんだろう。きっとこのうえなく幸せにちがいない。
そんな幸福な夢を引きずる僕は、暗くて快適な部屋から連れ出された。何時だって選択の余地はないんだ。なすがまま。致し方ない。だって僕には手足がないんだから。
久しぶりの外は、幾分気温が下がりあの熱気がなくなっている。季節が変わったのだろうか。僕は銀色の台に乗せられた。
久々に身を焼かれるのか。それが僕の運命なのだから、受け入れるよ。
でも、願わくは今日のパートナーは君であってほしい。どうせ、無理だろうけど……。
そんな自暴自棄な僕の視界の端っこに、君の影がちらついた。ああ、僕の胸は破裂寸前。
やっと君に巡り会えた。夢の中の羽仁くんみたいに無粋なことはしない。ありったけの愛の言葉を君へささげよう。
ささげたいのに、時間がないようだ。あの作業が始まる。ちょうど五分後。君とひとつになれるんだから、愛の言葉は取っておくよ。
僕は白い板に乗せられ、ナイフをこの身へ受ける。そして、あの機械へ。
カチカチっと音がしてから、細長い棒が僕の上と下で真っ赤になる。
夢にまで見たこの瞬間。この棒が僕の体をかたい黄金色の体に変えてくれる。
もうふにゃふにゃしたやわらかい白い体とは、おさらばだ。これで、君を受け入れる準備ができた。
三分半たって、チーン! この音を聞くとワクワクする。あとちょっと、あとちょっとだ。
丸い皿に乗せられ、黄色いクリームをたっぷり隙間なくぬられる。
さあ、いよいよだ。
とろけるような甘さを全身に宿した黄金色の君が、僕の体へ舞い降りる。表面はパリパリ、中はもっちりした理想のボディーを手に入れた。僕のすべてをささげ、君を受け止める。
ああ、まとわりつくような濃厚な君は、切れ目の入った僕の体の奥深くまで、しみ込んでくるよ。
きっちり五分。願いはかなった。さあ、フィニッシュだ。
持ち上げられた僕らは、再び暗闇に閉じ込められる。今度は人肌の温みの中、君とぐちゃぐちゃに混ざり合う。想いがひとつになった至福の時。そのまま深淵へ落ちていく僕の耳に届いた、声。
「賞味期限切れてても、ハニートーストめっちゃうまい。食パンと蜂蜜のマリアージュやあ」
了
愛しのハニー 澄田こころ(伊勢村朱音) @tyumei
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