20 わたしの居場所:結末

 考査期間中といえども、わたしより早くに学校へ来ている生徒は見当たらなかった。見当たらないだけで、もしかしたら誰かしらは居るのかも知れないけれど、少なくとも、校内で誰かとすれ違ったことはなかった。

「今日で最後だからな。頑張れよ」

「はい。先生も」

「おう。まあ俺はここからが本番だがなあ」

 採点とか成績とかな、と真鍋は肩をすくめて溜息を吐く。芝居がかった仕草にわたしはくすくすと笑って返す。

 そんなやりとりをして、生徒玄関の前で彼と別れた。玄関をくぐり、上履きに履き替え廊下を歩く。

 冷え切ったがらんどうの廊下は、中庭に面した北向きの窓から、未だ夜気を孕む青い光が差し込んで底知れぬ静謐さを湛えていた。窓の外に窺える中庭は時が凍りついてしまったかのように、冬枯れの枝についた枯葉一枚とて揺らがない。わたしの足音ばかりが空気を乱してどこか追い立てられているような気持ちになった。それでも、その圧力さえ伴うような沈黙がどこか心地いいのは、今日という日をようやく迎えられたからだろう。真鍋の言の通り、今日は金曜日で、考査の最終日だった。この午前中でようやく開放されるのだ。

 教室も未だ思い切り息を吐けばそれが白く染まるような気温でしかなかったけれど、それも毎日のこととなればいくらか慣れるものだし、対策も思いつくというもの。わたしは上着を脱がないまま席に着く。リュックに入れていたブランケットを取り出して膝に掛けた。お尻の下に手袋を脱いだ両手を敷いて座布団代わりにする。木製の座面は最初こそ冷たかったけれど、すぐに体温に温まった。

 しばらくそうやってじっとしていて、やがていそいそと両手を机の上に出す。かじかんだ手は相変わらず動かしづらかったものの、勉強するにさしたる支障はない。どうせ教科書を開いたら、またこの両手はお尻の下へ行ってしまう。

 勉強の準備をする間に、足音があることに気がついた。そう大きな音ではなかったけれど、静かな校舎にはよく響いて聞こえた。はじめ、真鍋かとも考えた。でも廊下を穏やかなリズムを保って進むそれは大柄な男性のものにしては軽やかだ。もう登校した生徒が居るのだろうか。

 足音はどうやら近づいてきているよう。クラスメイトならば挨拶をすればいいし、そうでないなら横目に廊下を窺いつつも無視するだけだ。気にするのはやめにして目的の教科書をリュックから探すうち、教室の後ろ側の引き戸がガラリと開いた。どうやらクラスメイトだったらしい。

 一拍おいて、振り返る。誰だろうか。誰にしても、クラスメイトと普段からあまり関わりのないわたしとしては、挨拶をするというのは幾らか気まずい。

「おは、よ……」

 果たしてそこに居たのは、須永涼だった。まるでそこに居ると初めから分かっていたみたいに、まっすぐにわたしを見て入り口に立っていた。

「おはよう、悠宇」

「うん。早い、ね」

「おう、少し早めに来た」

 頷いて、彼女は自身の机へ向かう。最後列の真ん中あたり。そこへ鞄を掛けて、上着も机上に雑に畳んで置いて。それからまた、わたしを見るのだった。

 何というわけではないが、何かあるのだろうということだけは、教室に入ってきたのが彼女だったという時点で予想がついていた。この時間に須永が登校することは、考査期間を含めてこれまでになかったことだ。いつだったか若宮も早くに来ていたことがあったな、と思い出す。あのときとは彼女たちとの距離感が随分と変ってしまったものだ。

 そして、変ってしまったからこそ須永は今日、こうして朝早くに登校したのだろう。

 わたしはついと視線を逸らす。案の定、須永がこちらへ歩み寄ってくる。俯くわたしの視界に、彼女の足が入り込む。

「なあ、悠宇」

「……なに?」

 なに、なんて。白々しい。

 ただでさえ身長差がある彼女に間近で話しかけられると、わたしは座っているものだから、まるで真上から声がするようだ。その声で、わたしを押し潰そうとしているようだ。

「透のこと、まだ怒ってるのか?」

「ううん、怒ってない。そもそもはじめから怒ってないよ」

「じゃあなんでわたしたちと距離を置きたがるんだよ」

「それは、でも、わたしも色々思うところがあってさ」

「思うところってなんだよ」

「……」

「透の話も聞いてやれよ。あの子、お前に嫌われたって泣いてたんだぞ」

「それは、その……」

 唇を噛む。そうか、若宮、泣いていたのか。罪悪感が込み上げる。いや、分かっていたことだ。こうなるって分かっていて、わたしは態度を改めなかった。だからこんな気持ちはきっと嘘っぱちだ。わたしは憂さ晴らしがしたかったのだ。若宮を傷つけたかった。それと同時、わたしが必要とされてるって実感したかった。わたしが居ないだけで若宮が泣いたらしい。それを聞いて、わたしは今、少しも喜ばなかったと断言できる? できないでしょう?

 黙ったままでいたら、須永がふと息を吐いた。わたしは彼女の顔を見られなかったから、そこに苛立ちが含まれているように思われて体が強ばった。

 ところが須永の語気はむしろ弱くなっていた。

「すまん、今のは、責めているみたいだった」

 はっとして、前髪越しに彼女の顔を窺い見る。今にも怒り出しそうな険しい顔をしていたけれど、そこに本来あるべき熱は宿っていない。視線が足下に落ち込んで揺れている。もしかしたら、それが彼女の泣き顔なのかも知れなかった。

 須永は続ける。

「わたしも、透も。また悠宇と前みたいに話せるようになりたいって思ってる。それは、ほんとだからな」

 彼女が踵を返す、その背中へ掛けるべき言葉が見つからなかった。わたしは項垂れて、須永が自分の席に座るまで身動きも取れずにいた。

 須永に気づかれぬよう、そっと前へ向き直る。友人をふたりとも傷つけていることは分かっているつもりだった。それなのにこうして改めて突きつけられると動揺を隠せない。わたしはやはりどこか、被害者のつもりでいたのだろうか。しかし今のやりとりを思い返してもみろ。須永の言っていることがどう考えたって正しくて、二の句が継げないでいるわたしは、謝罪の言葉すら口に出来ないわたしは加害者そのものではないか。わたしにはわたしの理由がある。確かにそうだが、それは他人を傷つけてまで通さなければならない理由ではない。友人の笑顔が怖いのも、優しさを疑いたくなるのも、わたしの勝手だ。彼女たちと一緒に居ると自分の小ささをまざまざと見せつけられているようで悔しくなるのもわたしの勝手なのだ。そう思うのに、どうしてわたしは友人たちを拒絶することしかできないのだろう。わたしひとりが我慢すれば、薄っぺらい笑顔を浮かべていればそれで済む話なのに。

 それが嫌で今わたしはこの高校に居るわけだから、そんな疑問や仮定に意味はないか。結局わたしはこうするしかなくて、つまり友人を傷つけることしかできなくて、わたしは悪者にしかなれないのかも知れない。こんなわたしに友人らしい人間関係が築けていたことがまず間違いだったのだ。

「透のやつな、」

 ふと背後で声が上がる。教室に須永とわたしの他に人は居ないから、わたしに向けた言葉なのだろうか。

「お前に話さなくちゃいけないことがあるんだ」

 振り返るべきか迷った末、わたしは机上の教科書に目を落としたままでいた。彼女の言葉は独り言を呟くような声音で振り返るのが躊躇われた。

「もしかしたら悠宇はもう知っているのかな? でも、勘違いするなよ。話さなくちゃいけないから、悠宇と仲直りしたい、っていうわけじゃないんだからな」

 口ぶりが妙に迂遠で何を言いたいのか分からない。勘違いもなにも、わたしは、若宮に話してもらわなくてはいけない事情など心当たりがないぞ。

 だから返答のしようもなく、そもそも返答を求めているのかも疑わしくて、わたしは黙ったままでいた。須永もそれ以上何を言うでもなかった。もしこの話題をもう少し掘り下げていたならば、後々の話がまだわかりやすかったのかも知れないけれど、まったく、後悔は先に立たないのである。



 考査が全て終わると、クラスメイトどもの様々な思いのこもった声で教室はざわめきに満たされた。席を立ち戦友と互いに勇士を称え合うというか、むしろ傷をなめ合おうとする者も少なくない。ざわめきの大半は呻き声や自身の過去を呪う怨嗟の声なわけだけれど、それらも含め、全体として開放感や安堵の入り混じる気の抜けた音色だった。わたしも疲労感に机に伏す。試験監督をしていた教師と入れ替わりで担任が入ってきて、生徒を席に着かせるでもなく雑にホームルームを始める。うちの高校はアホの集まりではないから、どんな態度ではあれ、席に着いていようとおるまいとある程度教師の話は聞いているものだ。担任もそれが分かっているからルールを強制しない。労いの言葉と、羽目を外すなよと簡単に釘を刺し、それでお開きにしてしまった。

 疲れを滲ませていたクラスメイトたちは、しかしすぐにでも気分を入れ替えてしまったのか、ファミレスに行こうだのカラオケに行こうだのと教室が次第に騒がしくなる。中間考査のときには、わたしたちもその流れに乗ってファミレスに行ったのだったか。思い出すと惨めな気持ちになった。いつまでもこの場に居たら、まるで誰かに……友人たちに声を掛けてもらいたがっているように見えるかも知れない。後ろに座る友人たちの動向は窺えない。背中に視線を感じた気がして、さっと帰り支度を済ませて足早に教室を出た。声を掛けられるかも知れないという想像は、そのまま声を掛けてほしいという自分の願望に直結しているに相違なく、それを自覚してますます惨めな気持ちになった。拒絶しておきながらそんなことを願うのはあまりにムシのいい話だ。

 たくさんの生徒の間を縫って真っ直ぐに生徒玄関へ向かったけれど、玄関のすぐ手前、校内に設置された自販機の前で足が止まった。缶コーヒーに目が向く。

 お世話になったし、という思いはどこまでが本音だったのか。わたしはホットの缶コーヒーを、ブラックと甘いの一つずつ買って、帰途につかんとする生徒の波から離れた。自然と歩調が早くなる。考査後で忙しいかも知れないとか、疲れているかも知れないとか、そういうことも考えなかったわけではない。でも、聞いてみなくちゃ分からない、顔を見られるだけでもいい、そう言い訳を並べて、わたしは歩を止めなかった。

 階段を上り、廊下を進み、生徒指導室の前に立つ。ちょっと緊張しながら戸をノックした。数瞬の間を挟んだのち、返答がある。真鍋の声。それを聞くだけでも何故だか吐息が漏れた。入室の許可が出たから、そっと戸を引きながら名乗って部屋に足を踏み入れる。

「しつれいしまーす……」

「おう、おつかれさん、枯野」

 パイプ椅子に座ってこちらを見ている真鍋は、今しも昼食を摂ろうとしていたところだったらしい。長机に蓋の開いたコンビニ弁当が置かれていたが、彼の右手にある割り箸はまだ割られていなかった。

「先生もお疲れ様です。お昼、一緒してもいいですか?」

「ん。構わねえよ」

「やった。先生、はいこれ」

 わたしは真鍋の傍に寄っていって、さっき買った缶コーヒーの一本――もちろんブラックの方――を手渡した。

「どうしたんだ、これ」

「考査期間、お世話になったから。そのお礼です」

「ああ。まあ大したことしちゃいねえけど。ありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 深々と頭を下げる。姿勢を正して、真鍋をじっと見つめた。

 なんだか珍しいことだった。背の高い真鍋の目線が、わたしのそれよりも下にある。真鍋の旋毛が見える。固めの髪質らしく、髪の毛がつんつんと立っている。まだ頭髪に薄いところはない。でも、

「なんだよ。まだハゲてねえぞ」

「白髪がある」

「え、どこだ」

「どこって……」

 自分の頭に指差すよりも早いかと思って、恐る恐る真鍋の頭に手を伸ばした。触って分かるわけもなかろうに真鍋は自分の頭をなで回して探そうとしている。そう頭が揺れていてはどこと触って教えてやることが出来ないではないか。

 がし、と彼の頭を鷲づかみにしてみた。髪が手にチクチクと刺さる。これがなかなかどうして、少しばかり心地いい。伊織の髪はさらさらだから、それとは全然違って新鮮だった。わしわしなで回してみる。

「おい、白髪はどこだ」

「ああすみません。ここです」

 一度両手を引っ込めて、改めて一点を指でつついた。旋毛の少し左よりに、ひょろっと白いのが一本生えている。

「抜いちゃいます?」

「やめろやめろ。毛が減る」

「あはは、はぁい」

 おまけと最後にぽふぽふ頭を撫でてからわたしは彼の傍を離れて、今や定位置となりつつある真鍋の斜向かいに座った。しばらく真鍋は白髪のある辺りを触っていたけれど、はあ、と溜息をひとつ吐いて手を下ろした。

「寄る年波には勝てねえ」

「ふふ、何それ」

 笑うわたしに、真鍋はもう一度簡単に礼を言って缶コーヒーを開けた。わたしもお弁当を取り出して、それぞれ昼食に入る。

 考査の労いとその推移を問うた他には、真鍋が口を開くことはなく、相変わらず会話のない時間だったけれど、それでも心は穏やかだった。真鍋が忙しそうでなくてよかった。彼とお昼を食べられなかったら、わたしは行くところがなくなってしまうところだった。……この言い方ではまるで誰でも良かったみたいだ。違う、そうではなくて、わたしは真鍋に会いたかった。会って話がしたかった。

 ……果たしてそうだろうか。だって、わたしはさっき、何も考えず家に帰ろうとしたではないか。それを、自販機を見つけたときに思い出して行く先を変えた。はじめは真鍋のもとへ行く気などなかった。忘れていた? あれだけ毎日のように通っていながら忘れることなんてあるか? 違う。わたしは真鍋のことが……好きだ。彼と一緒に居るのは居心地がいいのだ。だから、これは依存なのかも知れないけれど、他の誰でもなく彼のもとに居たいと思っているのだ。

 いつにも増して気合いの入った伊織のお弁当を食べながら、わたしは真鍋の顔をそっと見遣った。箸の持ち方とか、口への運び方とか、見た目にそぐわず丁寧だ。彼と一緒に居ると心地いいはずなのに、見ているとどうしてか不安になった。わたしが真鍋のことを好きな、明確な根拠がほしかった。わたしの気持ちであるはずなのに、いやそうであらばこそ疑わしい。もしも他の誰でも良くて、偶々真鍋がそこに居たからというだけで彼にこうして寄りついているのならば、それは、わたしの嫌いな人間のやることだ。

 わたしは、わたしの意思でもって、彼に何かをしてあげたかった。同じ轍を踏んでいると笑わば笑え。どうせわたしはあのときから何一つ変われていない。それならば、滑稽でも、醜くても、彼の傍にいる理由がほしいじゃないか。彼でなければならないと信じられる何かがほしいじゃないか。あのときとの相違点をあえて挙げるのならば、あのときは受け身だったけれど、今度は自らの意思で。わたしが望むからこそ。

 そう。だから後悔なんかしてやらない。

 ちょうどお互いに昼食を食べ終えた頃合いだった。真鍋は片付けも終えて、缶コーヒーをちびちびと舐めている。わたしもお弁当を片付けながら、口を開いた。

「ねえ、先生」

「あ? どうした」

 真鍋がこちらを向く。目が合う。それだけでもドキリとするのは、わたしが真鍋を好きだからだ。そうに決まっている。

「このあと、どこか一緒に行きませんか」

 手を繋ぐだとか抱きしめるだとか、そういうことがしたいわけではない。ましてやキスやセックスがしたいわけでもない。身を差し出せば気持ちを証明できるなんて嘘だ。そんなことではなくて、ただ一緒に居たいと、そう思うのだ。一緒に居て、わたしを見ていてほしいと思うのだ。彼と一緒に居るために、彼にわたしと居たいと思ってもらうために、どんなことだってしようと思えるのならば。

 それはきっと、わたしが彼のことを好きだという証明でしょう?

 真鍋が訝しげに片眉を上げた。

「どうしたんだ、いきなり」

「いいじゃないですか。あ、でも忙しいですか? それなら、明日とかでもいいですけど」

 わたしの答に、その真意をはかるみたいに彼はわたしの目を覗き込む。それから、すい、と視線を外してどこか遠くへ向けた。コーヒーをひとくち。真鍋の表情は何やら悩むみたいで、怒っているようにも見えて、どんな返答が来るのだろうかと緊張した。同時、少しだけ後悔した。彼にとったらいきなりの提案だったかも知れない。それに、拒否されることなど考えていなかった。

 もし、拒否されたらどうしよう。告白するとか、好きとか嫌いとか、そういう話でもなし、断られることなどないと高をくくっていた。デートに誘っているみたいだったかな。いやまあ、あながち間違っちゃいないけど。

 緊張に重くまとわりつくような沈黙の中、真鍋が僅かに息を吸う音がいやに大きく響いた。

「忙しいが……、まあ、行ってもいい」

 そう言って彼は小さく頷いた。

 知らず、わたしの顔に笑みが滲む。咄嗟に口元を片手で覆った。顔を見られたくなくてちょっと俯く。こんなに露骨な態度、見せられないし見せたくない。

「そう、ですか」

 言葉がうまく出てこなくてそれだけ口にした。どこに行こうとか何を話そうとか、そういうことが頭をぐるぐる駆け巡る。あ、でも真鍋と一緒に居るところを誰かに見られたらなんと言い訳しよう。伊織にも連絡しておかなくちゃな。夕飯は一緒に食べられるだろうか。制服だとまずいかな。私服なんてわざわざ持ち歩いていないし。

「だが、」

 わたわたと巡る思考を断ち切るように真鍋が言った。はっとして顔を上げる。

 真鍋の表情は、苦しげだった。

「お前の目に俺は、教師として映っているのか?」

 質問の形をとった言葉だったけれど、それはきっと質問ではなかった。そういった声色だった。

 わたしは彼から目を逸らせなかった。ここで頷いてしまえればどれだけ良かっただろうか。いや、頷けたところで意味はないのか。真鍋の問いには確信があった。それにきっと、本当にわたしが彼をただの教師だと思っていたのなら、そもそも質問の意図が読めなかったはずだ。答えに詰まった時点でわたしは内心を明らかにしているも同然だった。

 何故だろう。涙が滲んだ。慌てて掌で拭った。真鍋もまた、悲しそうな顔をしていた。

「すまん。俺のせいだ」

 どういうことか、と問おうとして、喉が詰まって声が出ないことに気づく。今何か言おうとすれば、出てくるのは言葉にならない嗚咽ばかりだろうという予感があった。

 真鍋はついと目を逸らす。

「お前が他人のような気がしなかったんだ。俺も、両親が離婚していてな。やりたいことがないとか、友達とうまくやれないとか、そういうのもなんだか分かる気がして。だから……」

「もう、いいですよ」

 か細くだけれど、それだけは言えた。

 もういい。真鍋の言いたいことは分かる。それ以上言われたら本当に泣いてしまう。

 真鍋は口を噤み、俯いて。もう一度だけ「すまん」と言った。わたしは何も返してやれなかった。

 継ぐべき言葉は既になく、会話は途切れた。率先して沈黙を埋めようとする力動は、そもそもわたしたちの間には初めから存在しなくて、それでも共有する場を狭苦しく思うことなど久しくなかったのに。今はただ気詰まりで、何か口を開かなくてはならないような気がした。そうしてしまったのは他ならぬわたしであるのに、悲しくて仕方がなかった。

 もうここには居られない。それが今日だけなのか、もう二度とここに来られなくなってしまうのか、それは今のわたしにはとても考えられなかったけれど、少なくとも今は、この場を立ち去らねばならない。

 体のいい口実を探した。無理に辞してしまえば、本当に彼との関係を断ち切ってしまう気がした。

 そのときだったのだ、伊織からメールが来たのは。スマホは鞄の中にあったのにバイブレーションの音がいやに大きく響いて、わたしはこれ幸いとリュックを漁る。

『早く家に帰ってきて。面白いものが見られるよ』

 まるでわたしの内心を察したみたいなメールだった。これで、帰る理由が出来た。

 スマホを仕舞って、立ち上がって。控えめにわたしへ視線を送る真鍋へは、謝罪とメールの説明とを残して。

 わたしは家路についたわけである。



 家に辿り着くまでの間、色々なことを考えた。真鍋と一緒に居た、決して長くない時間を思い返した。

 やはり真鍋はわたしのことをひとりの生徒として見ていた。そこに含むところなどなく、彼は真摯なまでに職務を全うしようとしていただけだった。けれどもそうかといって、どこにでも居る生徒のひとりとしてわたしを扱っていたわけでもなかった。他人のような気がしなかったと。彼はそう言ってくれた。彼の目に、わたしは他の誰でもなくわたしとして映っていた。

 分かっていたことではないか。真鍋は生徒に向けて不埒な感情を抱いていない。教師として、大人として、わたしたちを大切にしてくれている。わたしが何を思ったところで、どう振る舞ったところで、それがぶれたりはしない。

 そんな彼だからこそ、わたしは真鍋の傍に居たいと思えたのだ。真鍋を……好きになったのだ。

 それならば、距離感を違えたのはわたしだ。わたしだけだ。真鍋は謝る必要なんかなかった。彼の行いは正しかった。きっとあの場でわたしを受け容れていたら、そのときこそわたしは真鍋を疑っただろう。怖くなっただろう。そうして最後には、また拒絶して、傷つけて、それなのに自分が傷つけられた気になって。そんなことを繰り返していたに違いない。

 振られた方が嬉しいなんて馬鹿みたいだ。明確な答を聞いたわけではなかったけれど、それはわたしが断ったからだし、期待を抱く余地はない。わたしは振られたのだ。そして同時、わたしはひとつ、信じられる居場所を失った。わたしをちゃんと見てくれていたのだ、という確信を得たと同時、失ってしまった。

 どうしようもなく自業自得だけれど。

 わたしは人の居ない細道で、少しだけ泣いた。



 ここ数日、すっきりしない天気が続いている。雨が降ったのは週の初めだけだったけれど、どんよりと黒い雲が行き場所もなく空の低いところに留まっている。風は微かに湿っていて、肌にまとわりつくようで気持ちが悪い。

 門扉を出た道路で、伊織はわたしを待っていた。

「あ、悠宇ちゃんお帰り」

 寒そうに上着の襟へ顎を埋めながらも、弟は手を振った。わたしも振り返す。

 その頃には凍えるほどに冷たい風がすっかり涙を乾かしていた。瞼の腫れぼったいのも、伊織は寒さにやられたと勘違いしたらしい、特に言及されなかった。

 この子はわざわざ外でわたしを待っていたのだろうか。着ているのは私服だし、わたしとほぼ同時に家に帰り着いたという線は薄そうだ。メールで言っていた「面白いもの」は、そんなにも急いで見せなければならないものなの?

「よかった、今いいところだよ」

 近年まれに見るいい笑顔、いただきました。ここ最近は顔を合わせる機会も少なかったから、伊織のそんな表情を見られるだけでも安心する。涙がまた戻ってくるような気がして鼻をすすった。

「いいところ?」

「うん。早く早く」

 弟に先導されて門扉をくぐる。ふと横目に映った駐車場にわたしは顔をしかめた。

「あいつ、また来てるの」

「ん? あ、お父さん。そう、帰ってきてるよ」

 駐車場には車が駐まっていた。普段は空っぽのそこだが、父親が居るときだけは役目を果たす。うちは母親が免許を持っていなかった。

 玄関先の階段を駆け上がった伊織が、扉の前でくるりと振り返る。何がそうさせるのか、いたく上機嫌な様子で、軽快な足裁きはさながら歌劇のようだ。両手を腰の後ろにやって腰を折り、階段下のわたしを見下ろす。わたしもなんだか明るい気持ちにさせられて笑顔を返せば、弟は、それはそれは楽しげな顔で言う。

「僕が、呼んだんだ」

「あいつを?」

「うん」

 頷いて、伊織はポケットから携帯を取り出した。片手で簡単に操作して、こちらへ画面を向ける。映っているのは写真だった。

 母親が、若い男と寄り添って家に入っていく、写真だった。

 もう一度、伊織は言う。笑顔のままで。

「僕が、呼んだんだ」

 そうして後ろ手に玄関の戸を開けた。中から女の――母親の、金切り声が聞こえる。上階の奥の部屋、寝室から響いてきているのだろう。内容は定かではない。だが確かに母親の声だ。

 あまりのことに物も言えないわたしを、伊織は手を引いて家の中へ導く。相変わらず伊織の顔には笑みが宿っていて、わたしは弟が気を違えてしまったのかと恐ろしくなった。靴を脱ぎ、廊下を過ぎて、階段を上がる手前になってようやく伊織の手を振りほどく。

 首を傾げて、伊織は振り返った。

「どうしたの?」

「どうしたって……。なんでこんな……」

 なんでこんなことをしたの? と言い切るより前に、上階で動きがあった。乱暴に扉を開ける音。同時にどたどたと慌ただしい足音が上階の廊下を渡って近づいてくる。扉が開いたせいだろう、母親の声が一際大きく聞こえた。

「――!」

 何か、聞き慣れない名前を呼んだのだろうと思った。男の名前だ。そしておそらくはその名の持ち主だろう男が、着崩れた衣服を必死に戻しながら階段を駆け下りてくる。呼ばれても振り返るでなく、わたしたちにも目をくれず、すれ違って、男は玄関へと消えた。「なんで旦那がいるんだよ」と悪態を吐いているのだけは聞き取れた。

 男の様子を、滑稽なものでも見るようにくすくす笑って、伊織が見送っていた。男が玄関を出て行くのを、音だけで確認して、それから弟はまたわたしを見る。上からは相変わらず母親の声が響いてくる。言い争っているような調子なのに、父親の声は不思議と聞こえてこない。

「それで、なんだっけ」

「なんだっけじゃないよ、なんでこんなことしたの。わたしたち、ここに居られなくなるかも知れないのに!」

「『なんで』? 『なんで』って、悠宇ちゃんが言うの?」

 伊織は初めて、僅かに顔を顰めた。それが伊織の正気を示すようで安心したのも束の間、今度は一転、眉間にきつい皺を寄せて、顔を赤くし、怒りも露わに声を荒らげる。

「悠宇ちゃんのせいじゃないか! 悠宇ちゃんは、もう僕なんか要らないんでしょ!」

「え、え?」

「悠宇ちゃんには真鍋先生が居る! 僕、なんにも知らなかった。先輩から告白されてたことも、透さんたちと喧嘩していたことも。なんにも知らなかった。悠宇ちゃんが相談してくれないから! でもいいんでしょ、悠宇ちゃんには真鍋先生が居るもんね。僕は要らないんだもんね!」

「なに、なにを言っているの、伊織」

 理解が追いつかない。それはほとんど聞いたことのない伊織の怒声にすっかり萎縮してしまっていたというのもある。だけれどそれよりも、どうして伊織が友人との不仲を知っているのか、真鍋の名を知っているのか。わたしは言っていない。絶対に言っていない。それなのにどうして。そういった疑問が頭の中で膨れ上がって、まともな思路を阻害していた。

 言い切った伊織は、肩で荒く呼吸をして、それから口を噤んだ。すっと表情が静かになる。そして次の瞬間にはにへらと笑みを浮かべて見せた。まともな表情の変化とは思われない。ちょっとだけ、気味が悪いと思ってしまった。

「でも、いいんだ。僕ね、好きな人が出来たんだ」

「え、ほんと? 誰? クラスメイト?」

 それは至極わかりやすい話だったから、すぐに反応できた。内心ではまだ動揺が収まっていなかったのだけれど、そうやって伊織の話に食いついてやらないと、またいつ怒り出すか分からなくて怖かった。

 わたしが聞くと、んーん、と伊織は首を横に振った。昔の弟を思い出すような幼い仕草だ。

「悠宇ちゃんも知ってるひと」

「え、伊織の友達でわたしに知り合い居たっけ」

「透さんだよ」

 誰だろう、と思い出す間もなく伊織は名前を口にしていた。

「え? とおるさん?」

「うん」

「とおるさんって……」

「若宮透さんだよ」

 それを聞いても、すぐには友人の顔が出てこなかった。だってそうだろう。伊織が、まさかその名前を口にするとは思えなかったし、呼び方にも受け容れ難い違和感があった。透さん。いつだったかの一度の顔合わせだけでは成立しないだろう親しさが、伊織の声には宿っていた。

 いや、あのとき、伊織は若宮と連絡先を交換していた。定期的にメールのやりとりをしているようなことも、若宮が言っていた。

 一度だけではないのか。あれから、何度も会っていたのか。

 伊織が、わたしは伝えていないはずの学校でのあれこれを知っている理由が分かった。若宮たちから聞いていたのか。会っていることを、伊織も、若宮たちもわたしに黙っていたのか。

 いや、黙っていたなどと被害者を気取るのはわたしの悪癖だ。だってわたしは、自分から若宮たちと距離を置いていた。拒絶していた。彼女たちがわたしに何を話す機会もわたしから断っていたのだから、知らされていないのは当然だ。

 そしてきっと、伊織はずっと待っていたのだ。自分から口を突っ込んでは煙たがられるだろうと予想して、いつか打ち明けてくれるだろうと待っていた。口を出してくれて構わなかったのに、だなんてとても言えない。だってわたしは、それを嫌って伊織に相談せずにいたのだから。むしろ弟の予測は大当たりしていたくらいだ。それなのに何を責められようか。

 そうか、若宮のことを。あの子はいい子だものなあ。伊織が好きになるのも頷ける。

「僕が、この一週間、誰の家にお邪魔していたと思う?」

「え、友達の……。若宮の、家だったの」

「うん。涼さんも居たけどね。一緒に勉強してた。合間にいろんな話をした。悠宇ちゃんの話もね。クッキーを焼いてくれたのも透さん。お菓子作り、先輩に教えてもらっているんだって。僕も透さんから教えてもらってるところ」

「そう」

「まあ、悠宇ちゃんはどうでもいいと思っていたみたいだけど」

「そんなことない!」

 思わず反駁して、すぐに後悔した。伊織がまた不機嫌そうに目を細めたのだ。この子に、こんなふうに睨まれたことなんか一度もなかった。目鼻立ちがつんと整っているから、睨んだ顔は温厚な弟からは考えられないくらいに怖い。肩が震えてしまう。

「どうでもよかったんでしょ。だって、僕がどこへ行っているのか、悠宇ちゃん気にしてなかったじゃん」

「それは……。だって、お友達の家に行ってるって言っていたじゃない」

「今まで一度もなかったのに、毎日だよ? 急に仲良くなったとでも? そんなことあると思う?」

「それは、そうだけど……」

 おかしいとは、そりゃ考えたよ。でも弟に仲良い友人が出来るとはいいことじゃない。そう思ってわたしは余計な気遣いをさせまいと、たまには自由にやったらいいと、黙っていたのに。……本当にそうだろうか。どうでもいいとは思わないまでも、都合がいいとはちらりとでも考えなかったか。だって伊織が居なければ、余計な詮索はされずに済む。わたしの帰りが遅いことも、結果的にその理由は伊織に筒抜けだったわけだけれど、わたしは伊織に隠し事をせずに済んでいたじゃないか。

 伊織の断定的な物言いに、弱腰になっているだけかも知れなかったけれど、わたしに非があるのも確かなことに思われた。わたしは、わたしの行いで大切な伊織まで傷つけていた。

「まあ、そんなことはどうでもいいんだけどさ」

 軽い調子で伊織は言う。

「それでまあ、僕は透さんのこと、好きになったわけ。だから、告白したんだよ。そしたら、なんて言われたと思う? 今は、悠宇ちゃんと仲直りしたいから答えられないって言われたんだよ」

 そこで一度言葉を句切って、伊織は大袈裟に肩をすくめてみせた。傾げた首でわたしを見て、呆れたように続ける。

「悠宇ちゃん、邪魔だなって思った」

「……っ」

「だって、さ。それって、断るつもりならいらないじゃん? ってことは、僕のこと、憎からず思ってくれているけど、悠宇ちゃんのせいで答えられないってことじゃん。仲直りできないのは、透さんなんにも悪くないのにさ。それなのに悠宇ちゃんは、真鍋先生と仲良くやってる。おかしいでしょ? ずるいでしょ。なんかすごく、悠宇ちゃんのこと邪魔だなって思ったんだよ」

 弟の目がわたしを真っ直ぐに見つめている。先のようにあからさまに怒声を発してはいなかった。それどころか怖い顔もしていなかった。平然と、感情を昂ぶらせるでなく伊織はそれを口にしている。激昂してくれればまだ反駁のしようもあっただろうに、わたしは何も言い返せなかった。

 言い返せないどころか、碌々呼吸も出来なくなっていた。喉が詰まって苦しい。足に力が入らず、わたしはその場に頽れる。喉元に手をやるけれど、それで楽になるようなものじゃなかった。

 伊織がわたしを見下ろしている。冷たい目なのに、口の端には笑みすら浮いているようだった。

「そこに居なよ。僕、まだお母さんに、お父さんが不倫していたことは言ってないんだ。ちょっと伝えてくる」

 まるでちょっと散歩に行くような気軽さで伊織は踵を返した。背中が遠くなる。同時、視界が暗く翳っていくのを感じた。体を支えているのも難しくなって、わたしは壁にもたれかかる。五月蝿いくらいに聞こえていたはずの母親の金切り声が遠くなる。息が苦しい。視界が滲む。伊織にも、わたしは必要とされていない。わたしなんか、居ない方がいいのだ。このまま、消えてしまえないだろうか。

 情けない話だけれど、わたしはそのまま気を失ってしまって。

 気絶している間に、全てが終わってしまった。

 当然の成り行きとして、両親は離婚した。



 わざわざ言葉にするまでもないことなのかも知れないけれど、年末のレジャー施設はべらぼうに人間が集まるものだ。平時でさえ圧倒的な人気を誇るテーマパークなら尚のこと。どこを見ても人、人、人。老若男女を問わずたくさんの人間がひしめき合い、蠢いている。アトラクションに並ぶ者、食事へ行く者、パレードの場所取りに忙しい者、中にはトイレへ急ぐものも居たりして。これだけの人間が、それぞれの意思でもって行動していて、そこに統一性はなく、好き勝手に動き、騒ぎ立てている。

 そういう空間が、苦手だった。情報の取捨選択が出来なくなって、結果、気持ち悪くなる。昔から人混みは苦手なのだ。だからこの日も、わたしは途中で参ってしまって、隅の一角でベンチに凭れていた。手の中にあるお茶のペットボトルに口をつけて、息を吐く。顔を上げれば相変わらず向こうには群衆が思い思いに動き回っていたけれど、わたしの座るベンチの周りは特に見るものもないためか、いやさ寒空の下にあるベンチなんてそもそもこの季節に大した需要も生まれないからだろう、それらの喧噪からはやや遠かった。

 一日を一緒に過ごす予定だった友人たちとは、今は別行動をしていた。人酔いしたわたしを心配してさっきまでここに居たけれど、さすがに申し訳なくて、好きに見てきていいと行かせた。わたしの為にと企画してくれた遠出だったのに、企画倒れさせてしまったことについても申し訳なかった。

 友人たちとは――若宮と、須永とは、考査明けにようやくちゃんと話をして、謝ることができた。若宮も須永も、すぐに許すと言ってくれた。ぎこちなくも再び会話をするようになって、やがてはほとんど変らないやりとりが出来るようになった。

 両親の離婚の話は、すぐに彼女たちやクラスメイトに知れることとなった。無論隠し立てするつもりもなかったのだけれど、だれの目にも明らかな変化がわたしにあったものだから、ちょっとした衝撃と一緒に知れ渡ることとなった。

 わたしの苗字が変ったのだ。離婚後、わたしは母親に付いていくことにした。

 あれだけ嫌っていた母親についていこうと思ったのは、それだからと父親を好いていたわけでもなかったのと、離婚調停中の母親の憔悴っぷりが目に余ったからだ。わたしの選択に母親は少しだけ、驚いていたようだった。いいの? とわたしに問うてきたのが印象に残っている。我が子にひどい仕打ちを強いてきた、その自覚はあったらしい。それが分かっただけでもめっけものだった。

 わたしと母親は、もとの家から少し離れたところにアパートを借りて引っ越した。高校へは、それまでよりもさらに遠くなった。だからといって転校するような距離でもなかったから、まあよしとした。

 母親は今も、若い男とよく一緒に居る。ことここに至ってしまえばむしろ人目を憚る必要などなく、母親はついに腹を決めたと言って、わたしにその男を紹介してきた。開き直ったみたいな態度だったら軽蔑しただろうけれど、なかなかどうして、これがいたって生真面目な様子なものだから拍子抜けした。紹介された男は、あのときに見た男と同じだった。今まで気にしたこともなかったけれど、母親は、ずっと同じ男と付き合っていたのだという。それでも不倫だったろうと言えばそれまでだけれど、その中にも、幾らか誠意があるように思われた。

 だからって、別に母親を許したわけじゃない。そんな簡単に良い形に収まるわけじゃない。わたしたちは未だ冷戦の中にあった。でも、いつか解決できたら、と思えるようにもなっていた。

 伊織は、弟は、父親と一緒に居る選択を取った。父親の方がマシだと思ったのか、わたしと一緒に居たくなかったのか、それは訊けていないから分からない。伊織とは、あれからほとんど会話をしていない。離婚が決まってからもしばらくは一緒に住んでいたのに、話せなかった。伊織はあの日を境いに、早起きするのをやめた。わたしのお弁当を作らなくなった。それだけなのに、どうしてか生活リズムは全く合わなくなって、顔を合わせることもほとんどなくなってしまった。わたしが若宮と仲直りしても、それは変らなかった。

 若宮を介して伝わってくる話に寄れば、今、父親は家に戻ってきて一緒に住んでいるらしい。仕事の都合をどうやってつけたのかは知らない。伊織は父親と、それなりに仲良くやっているらしい。何故そんな話を若宮から聞けるかと言えば、それはもちろん、伊織ははれて若宮と恋人になったからだ。若宮は随分と躊躇していたみたいだったけれど、それはつまり、伊織のことを好きだという証左に他ならない。なら付き合ってしまえ、とわたしが思い切り背中を押してやった。伊織に報いてやりたいという気持ちもあった。

 この二人が恋仲になるにあたって、どうしてもわたしの話題が扱いづらい厄介ごとになっている向きはあったけれど、これも後々、いつか解決できればと思う。「なんとかうまくやる方法」を、仲直りできなくとも、見つけたい。

 わたしの恋に関しての続報は、特にない。正面から玉砕したわたしだが、未だ、やっぱり真鍋を諦められずにいた。実は、なんの因果かわたしの引っ越し先は真鍋の家にほど近く、つまり登校中はほとんど一緒に居られるようになった。なんだかストーカーのようだと自身を俯瞰してみたりもしたけれど、まあいっか、とか投げやりになったりして。

 真鍋は相変わらず、わたしには優しくしてくれる。ただ、生徒と教師の関係を越えて踏み込みすぎた自覚はあったみたいで、お昼休みに生徒指導室に来るのはもうやめておこう、と提案してきた。それだけで、わたしとの関係をまるきり帳消しにしないのであれば、それはむしろ好条件だとすら思え、二つ返事で頷いた。友人たちと仲直りできていたことだし。わたしはこの頃、近所のファストフード店でバイトを始めたのだけれど、そこに真鍋が頻回に客として来ているのが分かったから、今度はその線で攻めてみようかと考えている。生徒と教師ではなく、客と店員として。それならば、真鍋の倫理にも反しなかろう? 知らんけどさ。

 まあ、そんな感じで。わたしの両親の離婚と、真鍋に振られたことと、ついでに若宮に恋人ができたということも含めて、最早慰めればいいのか祝えばいいのか分からん区切りになったけれど、三人でお出かけと相成ったわけである。早々にリタイアしてしまって、本当に申し訳なかった。今頃ふたりは楽しんでいるだろうか。

 友人たちと一緒に居るのは、今でも怖い。ふたりはわたしなんかよりもずっとしっかりしていて、ちゃんと色々なことを考えていて、前に進もうとしている。何も考えていないわたしが一緒に居ることの違和感は、きっと今後も消えないのではないかとすら思う。でも、少なくともあの二人は、そんなわたしでも受け容れてくれているようだから、不安でも、怖くても、一緒に居てもいいのだろうと思うことにした。バイトを始めたのも、若宮に倣うことで何か変われればと期待してのことだった。

 それにしても、寒いなあ。

 さすがに耐えかねてわたしは立ち上がる。ベンチの周りをくるくると歩く。そんなことが出来る程度には余裕を取り戻していた。何か買いに行こうかしら。でも慣れない場所をこの人だかりの中歩いて、元の場所まで戻ってこられる自信はあまりない。スマホを使えば友人たちと連絡は簡単に取れるけど、自分の現在位置を見失っては合流のしようもない。

 どれくらいで一度戻ってこられそうか、ふたりに連絡を取ろうとしたところで。

「よ、ただいま」

「ごめんね、置いていって」

 人波をかき分け、友人たちが現れた。二人はバケツみたいに大きな入れ物のポップコーンを抱えている。それと頭には動物の耳を象ったカチューシャが乗っかっていた。若宮は黒い鼠、須永は黄色い熊。そして若宮の手にはもう一つ。

「これは……のです!」

「ありがと。それと、別に無理して呼ばなくていいよ、枯野のままで」

 わたしは兎のカチューシャを受け取りながら言う。お金はあとで払うから、と言い添えることも忘れない。

「だめだよ、名前は大事。わたしは頑張って自然に呼べるようにする」

 ささせささせ……と呪文のように繰り返す若宮の律儀には苦笑い。横の須永は周囲を窺いつつ彼女を急かす。

「ほら、透。これ結構恥ずかしいから。さっさと写真撮ろうぜ」

「恥ずかしくないよ、須永ちゃんかわいい!」

「それが恥ずかしいってんだ! ほら、悠宇も着けろ」

 わたしもこういうノリは慣れなくって恥ずかしい。唯一ノリノリなのは若宮だけだ。怖ず怖ずと頭にカチューシャを乗せて、ちょいちょい髪を直す。大丈夫だろうか、変じゃない? こんなの着けるのいつぶりかしら。

「うん、笹瀬ちゃんもかわいい」

「あはは、ありがと……」

 恥ずかしいなあ。

 そうする間に須永がスマホを既にインカメで構えて、自撮りの準備を整えていた。ほらこっち寄れ。そう言われてわたしも若宮も須永にくっつく。一番小柄なわたしがふたりに挟まれる形となった。

「撮るぞ」

 須永が簡単に言う。わたしは慌てて笑顔を作った。似合わない、ぎこちない笑顔。あんまり好きじゃない、わたしの笑顔。ちゃんと笑えないなら、お前なんて居ない方がマシだ。邪魔なんだよ。そんな声が脳裏に響く。誰もそんなこと思っちゃいない。それは分かっていても、やっぱり怖い。

 わたしは、わたしでない方かいいのではないかと、そんな疑問はいつだってついて回る。わたしはわたし以外の何者かであればよかったのにと、節目節目に思うことは変らない。

「いえーい」

「い、いえー」

 でも、今、ここに居るのはわたしだから。

 笑おうとしてるのは、わたしの意思だから。

 パシャリ、安っぽいシャッター音と共に写真が保存される。

「撮れた撮れた?」

「うん、いい感じじゃねえか?」

「ほんとだ。ありがと」

 きらきらな二人に挟まれて画面に映るのは、相変わらずつまらない顔をしているわたしだったけれど。色々あったはずなのになんにも変っちゃいないわたしだったけれど。

 結局、わたしはわたし以外の何者かになんかなれないのだから。

 きっとそれでいいのだと、そう思えるようになりたい。

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わたしは何者かになりたかった。 茶々瀬 橙 @Toh_Sasase

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