19 自宅:弟への違和感

 考査が始まる直前の土曜日には、父親は赴任先へ戻っていった。予定通り一週間の滞在で、わたしはほっと胸をなで下ろす。年末にはまた帰ってくるからな、とわたしや伊織へ笑顔を向けたが、わたしはもちろん無視を通した。帰ってこない方が好都合だ。家庭にも、わたしの心にも波風が立つ可能性が減ることだし。

 おしどり夫婦を演じきった母親は、永遠を誓ったはずの男への愛を思い出すこともなく、日曜日にはもう家を空けていた。いっそ清々しいくらいの変わり身に、わたしも弟も呆れ果てるのみである。

 そしてまた、我が家には姉弟ふたりの平穏が戻ってきた、と思ったのだけれど。

「お姉ちゃん、台所には絶対に立っちゃだめだからね」

 伊織は靴を履くと、振り返って重ね重ねと釘を刺す。わたしは両手をあげてひらひら振った。

「分かったってば。なんにもしないよ」

「洗い物もしなくていいからね」

「でも……」

「しなくていいからね!」

「はい、分かりました」

 ずいと顔を寄せて凄まれては、姉とは言え従う外ない。今やこの家を支えているのはこの伊織さんなのである。

 腕を組んだ伊織は、んむ、と大仰に頷いて、それからドアへ足を向ける。

「じゃあ、行ってくるね」

「うん、気をつけて」

 ドアが開く。眩しい日光が差し込んでくる。お昼前に差し掛かり、大分空気も暖められているはずだけれど、暖房でぬくぬくしていた体には身震いするような風が吹き込んだ。両手で肩を抱く。

 伊織は出て行きしなにもう一度首だけで振り返った。

「悠宇ちゃんは、今日は一日家に居る予定なんだよね」

「うん」

「いつも、お友達と勉強しているのに」

「それはいいの。お姉ちゃんだってひとりでお勉強できるのです」

「そう」

 伊織は一瞬何やら思い悩むように視線を落として、でもすぐにいつもの優しい笑顔に戻った。わたしと似た造形でありながら、弟には笑顔がよく似合う。何が違うのかしら、不思議なものだ。

 それじゃあ行ってきます、と伊織は出掛けていった。手を振って弟を見送り、玄関の鍵を閉める。振り返るとそこにあるのは、いやに広い我が家だけだった。リビングにも、キッチンにも、お風呂場にも、もちろんわたしや伊織の部屋にも誰も居ない。意味も無くそれらを覗いて回り(弟の部屋には入っていないけれど)、最後にリビングまで戻ってきて、ソファに沈み込む。向かいにあるテレビの真っ黒な画面にわたしの姿が映り込んでいた。わたしはひとりきりだった。

「こんなこと初めてだ」

 そうやって言葉にしてから気づく。こんなこと、初めてなのだ。いつだって伊織が家に居た。朝起きれば弟はもう何かしらの支度を始めているし、わたしが出掛けるときには見送ってくれる。帰ってくれば出迎えてくれる。休日は家に居て、忙しく家事をしたり、宿題をこなしていたり。ともかくわたしの中の自宅の記憶には、いつだってそこに伊織が居たのである。弟がわたしを置いて家を空けたことなんかなかった。

 姉弟ともに明日から考査が始まる、という日曜日。年甲斐もなく着飾って母親が家を出たあと。のんびりと朝食を終えたところで伊織はこう言ったのだった。

「今日、友達の家で勉強してくるね」

 台詞そのものはなんのことのないそれだけれど、口にしているのが弟であれば話は別だ。あの子は今まで、わたしを置いてどこかへ行ったことはなかったはず。それが、今日、初めて、弟は休日を使って友人とお勉強会をすることにしたらしい。

 喜ばしいことだ。お姉ちゃんと違ってしっかり交友関係を持てていることを、我がことのように喜ばしく思うぞ。弟を誰かに取られてしまった寂しさはちょっぴりだけさ。そうともさ。

 そんな日であっても抜かりなくわたしのお昼ご飯を用意してくれる弟には、もう頭が下がりっぱなしだ。まだ中学二年生なのに、遊びたいお年頃だろうに、夕飯時には帰ってくるからねって、そんな言葉まで置いて。いいんだよ、お姉ちゃんひとりでも、カップラーメンくらいは作れるんだよ。お弁当をコンビニで買ってきたっていいんだよ。そう答えてみても、伊織は頭を振って、僕が作りたいんだと譲らない。

 伊織はなんだか必死そうだった。わたしはどこにも行きやしないのに、今日に限って言えばどちらかというとどこかへ行くのは伊織の方だろうに、置いて行かれるみたいな顔をして手早く準備を済ませて出掛けていったのだった。

 どうしたのかしら、伊織は。テレビに映るわたしに問うても、首を傾げるばかりで答えてくれない。エアコンが温風を吹き出す音が静かに響いている。掃き出し窓に掛かったレースカーテンが、差し込む日をゆらゆらと揺らしている。

 それ以外、なんの動きも、なんの音もなかった。

 こんなこと、初めてだった。



 考査も二日目を終えた、火曜日の、ちょうど日も暮れた頃合いのこと。

「ただいまー」

 言いながらドアを開けて家に入る。手探りに壁を伝って上がり框まで辿り着き、靴を脱ぐ。廊下の灯りをぱちりと点ける。

 習慣として言っただけで、返事は期待していなかった。わたしが今しがた点けた廊下の照明の他は、どこにも灯りが点いていないようなのだ。家の中は真っ暗だった。母親はともかく、伊織も居ないらしい。まだ学校から帰ってきていないのかしら。ちらりとそんなことを考えたが、廊下にはかぐわしいカレーの匂いが漂っている。夕飯は既に用意されているようだ。それならばどうして伊織は居ないのだろう。

 聖火リレーみたいにあっちの照明を点けてはこっちの照明は消して、と灯りを繋ぎながらダイニングルームまで行く。駅からの道程にすっかり冷え切って縮こまっていた体が、暖房の温もりに触れて溶け出していくような感覚に襲われる。息を吐いて、すぐに食卓にメモが残されているのを見つけた。わたしの定位置に置かれていたそれを、寄っていって、まだかじかんでいる指でつまむ。そこには伊織らしい几帳面な字が並んでいた。

 そのメモによれば、今日は友人の家に集まって勉強をしてくるとのこと。どうやら明日は、難しい考査を出すことで有名な教師が作問者の科目があるということで、幾人かで集まって対策をするらしい。成績優秀者であるところの伊織には当然お呼びが掛かったというわけだ。だから友人の家に行ってくる、遅くなるかも知れない、と事情が子細に渡って書かれていた。簡単に「友達の家で勉強をしてくる」とそれだけ書けばいいものを、妙に丁寧に説明しているものだからちょっと笑えた。まるで隠し事の言い訳を連ねているみたいだ。

 妙といえば、そもそもこうやって、伊織が友人の家に行くというのも妙な話ではあった。一昨日の日曜日にも同じようなことがあったし、あの子の歳を考えれば訝るようなことでもないけれど、なにせこれまでにそういった話がほとんどなかったものだから違和感を覚えずにはいられなかった。それともやっぱりこのモヤモヤは、寂しさ故のものなのかね。

「どうするかな」

 独り言ちる。夕飯時に伊織が居ないとなると、少々問題があった。メールで教えてくれたらいいのに、とちらり顔を覗かせてしまった不満はあまりに身勝手なそれだ。シャワーを先に浴びてしまうか、夕飯を食べてしまうか。そうやって不満も不安も卑近な選択肢で塗りつぶしてしまう。夕飯を食べよう、そうしよう。

 一度自室に行って荷物を置いて、着替えを済ませてからダイニングに戻る。キッチンで弟お手製のカレーを盛り付けてテーブルまで運ぶ。もっと早くに帰ってこられたら良かったのに、というのは無意味だしあり得ない仮定だ。明日の考査に生物基礎があって、真鍋が直々に個別授業をしてくれたためにこの時間になったわけで、どうしたってこれ以上早くになんか帰ってこられなかった。

 手を合わせる。いただきます、と誰にともなく呟く。

 ひとりで夕食を摂ることもそうあることじゃないな、なんて、孤独と自由とが綯い交ぜになった奇妙な高揚感の中、ひとくち目を口へ運んだ。辛口のカレーはわたしの味覚に合わせてのもの。ゴロゴロ入った野菜の歯ごたえに幸せな気持ちになった。伊織に感謝こそすれ、不満を持つなんて間違っていた、そうとも、大間違いさ。

 そう、世の中全てに寛容になれた気がしたのも一瞬のことだった。

 がちん、と金属が撥ねる音が廊下に響く。聞き慣れたそれは、玄関の戸のデッドボルトが外れる音だ。

 伊織が帰ってきた、と膨らんだ安心感は脆くも崩れ去る。食卓につくわたしのもとまで甘ったるい声が聞こえてきた。

「じゃあ、またねえ」

 媚びを売って憚ることのない、身の毛がよだつようなおぞましい声だ。四十近い女の出すものとは到底思われない。ましてや、それが血の繋がったやつだなんて、想像するだけでも吐き気がする。母親やつが帰ってきた。今自室に引っ込めば廊下で母親と鉢合わせになること必至だ。逃げたみたいに思われるのは癪だし、用意した夕飯は今更片付けるわけにもいかない。時計を見れば一八時をまわったところ。思ったより早くに帰ってきた。くそ、こういうときばかりどうして。

 玄関ドアが閉まり、施錠される。ヤツが廊下を歩いてくる。それを分かっていながら、わたしはこの場を動けずにいた。口に含んだスプーンに歯を立てて苛立ちを抑えるしかなかった。

 伊織が居ないと困る理由がこれだ。余程時間をずらさない限り、夕飯どきにはどうしたって母親と顔を合わせざるを得ない。やつは夜中に帰ってくることも稀でないから、そうは言っても頻回に会うことはないのだけれど、一緒の家に住んでいる以上避けられないことだった。

 いつもは、伊織が居るから耐えられる。けれど今晩、あの子は家に居ない。

「ただいま。伊織、今日はカレーなのね……。って、あれ、伊織は居ないのね」

 廊下に繋がるドアが開く。母親が入ってくる。こじゃれた服と仄かな香水の香り。華美に過ぎない落ち着いた出で立ちなのが返って腹立たしかった。

 今日はカレーね、伊織がこの時間に家に居ないのは珍しいけど、出掛けたのかしら。わたしへの言葉とも独り言ともつかないそれらは無視をして、わたしは皿と自分の口との間でスプーンを往復させ続けた。母親も返答など期待してはおるまい。踵を返して、ヤツは部屋を出て行った。

 シャワーでも浴びてきてくれれば、わたしはその間に夕食を済ませることも出来たのに、母親は上着を自室へ置きにいっただけだった。すぐに戻ってきて、キッチンへ回る。どうやらヤツも夕食にするつもりらしい。

 不快感が胸中に渦を巻く。なんで今日は外で食べてこなかったのか、とかわたしと二人きりで食卓につくことに抵抗はないのか、とかその他関係ない罵詈雑言までもが頭の中いっぱいに駆け巡っていたけれど、結局わたしはどれをも口に出来ずにいた。そうする間に母親はわたしの斜向かいの席に着いた。特段、こちらに気を払っているように見えないのは、事実なのか演技なのか。

「いただきます」

 母親は手を合わせる。カレーを口に運んで、顔を赤くする。

「からっ。伊織のカレーは、いつもちょっと辛いわね」

 牛乳とってこよ。そう言って席を立つ。母親は食事中、話しかけているのか独り言なのか分からない言葉をぺらぺらと口にする。伊織が居るときには、あの子がちゃんと反応していたから会話が成り立っていたけれど、今は虚しく響くばかりだ。耳障りに思われて仕方がないけれど、これにいちいち反駁していたらこちらの身が持たない。無視を決めて、早く食べ終えてしまおう。そうは言っても、もともとわたしは食事に時間の掛かるほうだから中々お皿のカレーが減らない。だからって焦って喉を詰まらせでもしたら余計な会話を母親としなくてはならないかも知れない。無理に頬張ることもできなかった。

 黙ったままのわたしと、間を置いてはしゃべり始める間欠泉みたいな母親と。傍目に見れば均衡の取れているのかも知れない時間を崩すみたいに、隣の椅子に置いてあったわたしのスマホが振動した。同時、画面が点灯して、それがメールの着信であることと、送信者が伊織であることを知らせてくれる。

「ちょっと。食事中にスマホはやめなさいよ」

 初めて、明確に母親がわたしに声を掛けた。うるさい、お前に常識を語る道理なんかないだろ。それにわたしも相手が伊織でなければひとまずは無視をしていたさ。

 弟からの文面は端的なものだった。

『大丈夫?』

 その言葉は何を心配してのことだったのか。母親と鉢合わせすることを心配してだとしたら、いやにタイミングが良い。上着を置きにいったときに母親が連絡を取ったのかしら。

 ぶっきらぼうにすら見えるメールは、文字を打つことが苦手な伊織には珍しくない。これだけのことでもそれなりに時間を掛けたに違いなく、素っ気ない短文にもあの子なりの気持ちが詰まっている。それは分かっていても、今のわたしには冷たい問いかけに思われてしまった。大丈夫なはずないじゃんかよう。

 全然大丈夫じゃないし、本当なら今すぐにでも伊織くんには帰ってきてもらいたい。けれどそれをそのまま返信すればきっと伊織は本当に帰ってきてしまうから、絶対に言えない。

 せっかく楽しんでいるのだ。こんな機会、きっとそうそうないのだ。だからわたしは精々強がることしか出来なかった。

『大丈夫。カレー美味しいよ』

 送信して、スマホをまた椅子に置いて。カレーをひとくち。母親に気づかれぬようそっと息を吐いた。最近、伊織には強がりと隠し事ばかりしている気がする。単に姉として見栄を張っているだけなのだけれど、つまりわたしが勝手にしていることなのだけれど、少しばかり息苦しかった。わたしの隠していることに気づいてほしいような、でも本当に知られてしまったら恥ずかしいような、そんな気持ちだった。

 カーテンの引かれた窓の向こう、車のエンジン音と共にライトのすじが通り過ぎていった。わたしはそれをつい目で追う。横で母親もまたそちらへ視線を投げているのが目の端に見えた。

 ヤツが言う。

「伊織ったら、お友達と遅くまでいるなんて。どうしたのかしら」

 ちらり、わたしを見る。

「今までそんなことなかったのに、悠宇と違って」

「は?」

 かっと頭に血が上るのがわかった。こめかみの辺りが内側から圧迫されてどくどくと波打った気がした。最後の一言、必要あったか? わたしに当て擦る必要あったのか? ていうか、遅くまで家に帰ってこないのはお前も一緒じゃないか。

 唇が震えて言葉にならなかったけれど、自然、眉間が寄ってすがめられた目が母親へ向いた。その先で、ややたじろいだ様子の母親がぱっと顔を逸らす。

「なによ、お母さん間違ってないでしょ。お夕飯どき、悠宇はよく出掛けているじゃない。伊織はご飯を作ってくれたり家事の手伝いしてくれたりするのに、あなたはなんにもしないし」

「ふざけたこと言わないで。ご飯も家事も、あんたがしないから伊織が頑張ってるんでしょ」

「そうやってお母さんに全部押しつけるの? じゃあお母さんの時間はどこに行っちゃうの」

「そういうのは少しでも自分の時間を削っているひとが言えることでしょ」

「お母さんは今まで頑張ってきたじゃない! 悠宇と伊織を、お母さんひとりで育てたのよ。お父さんは全然家に帰ってこないから!」

父親あっちは仕事してる」

「悠宇はあの人の味方なのね。家のことなんにもしないもの同士、おやこって感じね」

「そんなこと言ってないでしょ」

「それに比べて伊織はいい子だったのに。やっぱりお父さんの影響かしら」

「わたしたちを放っておいたのはあんたも一緒でしょっ。ろくに顔も合わせない父親の影響なんかあるもんか」

「じゃあなに、お母さんが全部悪いって言うの? なんにもしない悠宇に何が分かるの、お父さんが悪いのよ!」

 涙でもこぼしそうな顔をしてやつが声を荒げる。論点をずらすなよ、このヒステリー女。父親に非がないとは言わないが、それだからってお前が悪いことには変わりないんだよ。よっぽどそう言ってやりたかったけれど、言ったってこうなった母親は逆上するばかりでこちらの話なんか聞きやしない。これまで幾度も同じようなやりとりがあった。そのたびにこうやって悲劇の主人公でも気取るみたいに叫んで、自分の主張を理解しない人間を悪だと決めつけて、それで耳を塞いでおしまいだ。自分の価値観が絶対だと信じて疑わない。一方に非があれば他方は善なのだと、父親が悪いやつだからそれを糾弾する自分は被害者なのだと馬鹿みたいな論理を振りかざして恥じることがない。

 くそっ、こうなるって分かっていたのに。なんで反駁してしまったのだろう。両手で顔を覆って肩をわなわなと震わせているヤツの頭をぶん殴ってやりたい衝動に駆られる。分かってる、まるで意味のないことだ。そんなことをすればより一層母親に被害者面をさせるだけだ。

 思い切り溜息を吐いて、残り僅かになっていたカレーをかき込んでわたしは席を立った。シンクまで使った食器を運ぶ。習慣でそのまま食器を置き去りにしようとしたけれど、先のやりとりの手前、それでは母親の言葉を支持するようで腹立たしい。すぐにでもこの場を去りたい気持ちとせめぎ合いになりながらも、わたしはスポンジを手に取った。大丈夫、これくらいわたしにだってできるさ。

 大分手間取りながら、どうにか皿とスプーンとを洗い終えた。もしかしたら洗い残しがあるかも知れない。もしあったらあとで伊織に謝ろう。そう誓ってわたしはダイニングを足早に出た。出て行きしなにちらりと母親を窺うと、まだヤツはテーブルに両肘をついて頭を抱えていた。まるで見せつけられているみたいで不愉快極まりない。腹いせに思い切り扉を閉めてやった。廊下を歩く。急いで食べたからお腹が重たくて気持ち悪い。不快感が胃の腑を中から押し広げて、吐き戻してしまいそうだった。

 苛立ちが募る。せっかくの伊織のご飯だったのに、美味しく食べることが出来なかった。指を噛む。いくら歯を立ててみても気持ちが晴れない。伊織はすごい、あんなやつと笑顔で話が出来るなんて。わたしが逃げてばかりだから二人きりになる機会も多いだろうに、それでもあの子は文句ひとつ溢さない。

 伊織は今、楽しめているだろうか、息抜きが出来ているだろうか。勉強をしているのだろうから一概には言えないけれど、でも、少しでもあの子のためになっていると思うと幾らか気が紛れるようだった

 自室に籠もっても気が休まるとは思えず、わたしは手早くジョギングの準備を整える。ルーティーンを外れることが苦手なわたしが朝の日課であるジョギングを今しようと思ったのは、きっとそれ相応の理由があったのだろうけれど、それを具体的に考える余裕すら今はなかった。いや、あるいは単にそれと認めるのが恥ずかしかっただけかも知れないが。

 そのさなか、またも伊織からメールが届いた。それだけでなんだか安心する。友人たちと勉強をしている中でメールを打っているのだと考えるとわたしがあの子の勉強を妨げているようにも思われたが、それはそれ。ささくれ立った心に伊織の優しさは沁みる。ついつい口角が緩んだけれど、隠さなければならない相手もいない。ニヤニヤしながらベッドに放っていたスマホを拾い上げた。

 ちょちょいとロックを解除して、メールのサムネイルを見て、違和感に首を傾げる。端にクリップのマークがくっついている。添付ファイル? あの子が?

 件名は『見て見て!』となっている。感嘆符がくっついているのも珍しい。

 メールを開けば、そこに添付されていたのは写真だ。手ぶれがひどかったけれど何を写しているのかは分かる。大皿に並べられたクッキーだ。本文が言うことには、一緒に勉強をしている友人のひとりが焼いてくれたものらしい。

 メンバーに女の子も居るのかしら、と少しばかりジェラシーを覚えながらも、違和感の中心はもちろんそれではなかった。

 わたしは、伊織に写真の撮り方を教えていない。いや教えはしたけれど、結局あの子は習得できなかったし、そもそもあまり必要性を感じていないようだった。それなのに伊織はいつの間に写真の撮り方も、それをメールに添付するやり方も身につけたのだろう。誰に教えてもらったのだろう。

 よくよく考えればそう不思議なことでもない。伊織は友人が多い。携帯の使い方ぐらい誰だって教えられるのだから、分からなければ友人に尋ねればいいのだ。もしかしたら、伊織は今回初めて写真を撮ったのかも知れない。姉に友人の焼いたクッキーを見せたくて、一緒に居る誰かに教えを乞うたのかも知れない。大いにあり得ることだ。けれどどうしてか、そんな当たり前の答えでは説明のつかないなにかがある気がした。だって、わざわざ写真に撮るようなものだろうか。他の誰かならいざ知らず、あの伊織がわたしに見せるためとはいえ、慣れない携帯操作をしてまで送ってくるほどの写真か? それも、考査の勉強中に。

 反論ならいくらでも思いつく。休憩中の出来事なのだろうし、友人が代わりに操作をしてくれたのかも知れない。わたしの教え方が下手だっただけで、案外簡単に伊織は操作法を覚えてしまったのかも知れない。だからわたしの内にわだかまるこの違和感は、単なる嫉妬であっさり説明のつくものでしかないのだ。

 首を振る。いくら考えたところでわたしひとりでは結論なんか出ない。とはいえわざわざ文面で伊織に問い質すようなことでもない。わたしは簡単に『美味しそう、よかったね』とだけ返信して、疑問も違和感も置き去りにジョギングへ出掛けた。

 余談だけれど、街灯に照らされた大通りに、結局わたしのよく知る顔は見当たらなかった。



 考査期間中、伊織は変わらずわたしのお弁当は作ってくれていたし、そのほか家事を怠ることはなかった。しかしどうしてか、家に居る時間は妙に減っていった。家に帰っても伊織が居ない。その違和感にはいつまで経っても慣れなかった。

 考査が全科目終わった金曜日のお昼過ぎ。開放感に沸く教室とは違い、生徒指導室は居心地の悪い淀んだ空気に満ちていた。言葉を継げないでいたわたしに、伊織からメールが届く。最近、伊織との会話はメール越しがとみに多くなった気がする。

『早く家に帰ってきて。面白いものが見られるよ』

 面白いって。正直そのときのわたしはそれどころではなかったし、到底面白い気持ちになどなれるとは思えなかったけれど、伊織からの連絡に従うことにした。この場から逃げ出せる口実がほしかった。

 スマホを鞄に突っ込んで、帰り支度を済ませる。生徒指導室を辞するとき、他にやりようもなく、わたしはただ頭を下げた。謝罪の言葉と、言い訳にメールの内容を簡単に口にして、踵を返した。追いかけるものもないのに、何かを振り切るみたいに家路を急ぐ。

 どうしたのだろう、伊織は。ここのところのあの子は、ちょっとばかり掴みづらい雰囲気がある。

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