18 真鍋の居るところ:真鍋の話
友人と疎遠になるのに反比例して、真鍋に対する依存度はみるみる高まっていった。友人たちと居た時間のほとんどを真鍋と過ごすことに充てていたのだから当然ではある。わたしはもはや真鍋依存症であった。……全く笑えない。
しかしそうと自覚してしまえば開き直るにさしたる抵抗もなく、わたしの真鍋への態度は露骨に気安いものへ変わっていった。登校中の会話量も増え、お昼休みや放課後になれば生徒指導室か生物準備室に自ら足を運んで彼へ会いに行く。これまでに増してわたしから色々と話すようになったし、わたしが自身の話をするばかりでなく、真鍋へあれこれと質問をするようになった。わたしの問いに、真鍋はあっさりと自己開示をしてくれる。真鍋は自分の話をしない、と不安になっていたのはなんだったのだろう。わたしと同じで、真鍋はただ話をすることが苦手なだけだった。
真鍋の下の名前は玲奈というらしい。女の子みたい、と笑ったら、いいじゃねえかと彼は苦笑いをした。誕生日は二月十五日で、バレンタインにニアミスなことも、わたしとぴったり半年違いなこともどきどきした。彼はやはりわたしの使う駅の隣駅から電車に乗っていて、自宅の場所もわたしが地理を把握している範囲だった。
「この前、夜、先生が走ってるの見たんですよ」
「夜? 朝じゃねえの?」
「え、なんで朝?」
「お前も朝、ジョギングしてるだろ」
……なんて会話もあった。話に寄れば、真鍋は朝晩と一日に二回、あの道を走っているのだという。真鍋もわたしをわたしとして認識したのはごく最近とのことだが、なるほど、わたしは毎朝のように彼とすれ違っていたらしい。
「声かけてくれればいいのに」
「対岸の歩道なんだよ、いつも」
ああー、そりゃ無理か。明日から反対側の歩道を走ろうかしらとも考えたけれど、そこまであからさまに接近することには恐ろしさもあってやめにした。邪魔になったらいけないし。
真鍋と距離を詰めていきながらも、勉強は疎かにしなかった。いや真鍋に近づこうとするからこそ疎かになどできなかった。真鍋は教師だったし、彼のもとへは勉強をするという建前の元に行っているのだから、そこをあやふやにはでようはずもない。真鍋の前ではいい顔をしたかった。真鍋に嫌われたくなかった。
とはいえ、いくら真鍋に依存していたとはいえ、彼とべったりだったかと言えば必ずしもそうではない。考査のための準備に追われ、そうでなくとも教師という仕事は多忙なようで、真鍋は席を外していることもあった。そういうときはひとり生徒指導室やらの椅子に腰掛けて、行きがけに自販機で買った甘い缶コーヒーを舐めながら、教科書を開くのだ。
週明けから始まった考査も三日目を終えて、残すはあと二日となった放課後。放課後、と言ったって考査は午前中で終わってしまってまだお昼そこそこの時刻。この日もまた、真鍋は生徒指導室には居なかった。ついさっきまでは一緒にお昼ご飯を食べていたのだけれど、食べ終わるや否や彼は「すまんな」と一言置いてどこぞへ出て行ってしまった。幾つか考査の準備もあり、採点もあり、受け持ちでない考査に試験監督として出張ってもいるらしい。これが真鍋に限った話でもないのだから教師ってのは大変ねえ。今日はどれなのかしら。
他に誰も居ないのをいいことに、上履きを脱いだなりにパイプ椅子に胡座をかいて長机に頬杖ついて、ぼけぼけ勉強をする。明日は日本史Aと数学Ⅰと英文法。嫌いな教科ばかりだけれど、翻って好きなものがあるでなし、どんな科目にしたってモチベーションはさして変わりない。唯一テンションが上がった生物基礎の考査は、好きだからというわけじゃなく真鍋がえらく饒舌に、かつ懇切丁寧に教えてくれたからで、今日、その考査は終わってしまった。相対的にモチベーションは下がっているくらいだ。
考査期間中とあって、残っている生徒は多いだろうにいつになく学校は静かで、それでいて緊張感が足下に冷たく淀んでいて、暖房で部屋は暖まっているのにどこかうそ寒いような気がする。時折生徒が廊下を過ぎる気配があるのは、すぐそこの職員室まで教師へ質問にでも来ているのだろうか。生徒同士、声を潜めて何事かを話し合っている。そういった、空気を小さく騒がせる音どもがより一層と沈黙を強要する圧力を強めるようだった。
静寂というのはむしろなぜだか耳に煩わしくて、頬杖をついたまま片手の人差し指と親指で耳たぶを挟んで擦る。わざとらしく溜息をつく。そうやってたてた音もすぐに立ち消えてしまった。ペンを片手に持って、教科書の太字になっている数学の公式をぐるぐると丸で囲ってみる。覚えようっていうよりは、ただの
だめだあ、と誰にともなく言いながら机に突っ伏す。ちょっと休憩しよう。
机に伏したまま、隣に置いたリュックから手探りにスマホを引っ張り出す。横向きになった画面を眺める。弟からメールが来ていて、これは帰りの時刻を問うものだった。伊織も考査期間中なのに律儀なものだ。もっともあの子は用意周到に物事を進めるたちだから、考査中だからと大きく勉強量が増えたりはしない。早く帰れて料理をする時間が増えると喜んでいるくらいだった。
『夕飯前には帰るよ』
とそれだけ簡単に返す。伊織には、いつも通り友人たちと勉強をしていると言ってあった。真鍋と居ることを正直に言っても良かったけれど、そうすると必然的にどうして友人たちとではないのかを説明しなければならなくなる。そうなれば、伊織のことだからあるいはわたしと友人たちの仲を取り持とうとしてくれるかも知れない。ありがたい話だけど、今はそういう気分ではなかった。
なんだかそういうふうに言葉にしてしまうと、弟の親切を迷惑と思っているみたいだ。いくら伊織でも考査中に心配事が増えたら、それもわたしに関する心配事となったら、落ち着いてはいられないかも知れないし。だからわたしはあの子の為もあって、口を噤むことにしているのだ。
……これはきっと、自己弁護なのだろうけれど。
少なからぬ後ろめたさにスマホの画面から目を逸らした。北向きの窓の外へ目を遣れば、空には灰色の雲が低く立ちこめている。今朝からこんな調子で、それでも昼前までは天気は保っていたはずだけれど、いつの間にか雨が降り出していた。風向きによってか、ふとした拍子に雨粒が窓を打つ。ぱつりぱつりと音が鳴る。見ているだけで体が冷えるような、うら寂しくなるような、色のない雨だった。
雨なんか見ていても気分が落ち込むばっかりだ。身を起こす。缶の底にたまってすっかり冷めてしまったコーヒーを呷る。両腕を上へ伸ばして思い切り体を反らした。肩が凝った、ちょっと体を動かしましょう。
上履きに足を突っ込んで立ち上がる。部屋の中をくるりと一周歩いて、それ以外にすることもなく、空いた缶を片手に廊下へ足を向ける。自販機に行くことにした。
気分転換ついでだったから、ふらふらとあてどなくほっつき歩き、遠回りに自分の教室の前を通ったりもした。幾人かの生徒がお喋りをしながらも勉強に励んでいたけれど、そこに若宮と須永の姿はなかった。この前の中間考査のときには三人で教室に残って勉強をしたものだったが、今回はそうではないらしい。彼女たちに会いたかったわけでもないのに、わたしから距離を置いたはずなのに、少しだけ寂しいような気もした。学校に漂う緊張した静けさとしとしとと降る雨のせいかも知れない。
逃げるみたいに早足に教室の前から離れて、目的通り温かいココアを買って生徒指導室へ戻る。戸を開けると、真鍋が戻ってきていて、椅子に座って本を読んでいた。本というか、わたしが開きっぱなしで置いていった数学の教科書を読んでいた。
真鍋が顔を上げる。
「ん、お帰り」
「先生も。お疲れ様です」
「おう」
答えて、彼は教科書をもとの場所へ置く。わたしが向かいに座ると、真鍋はにやりと口の端をあげた。
「ちゃんと勉強してたか?」
「してましたよ。先生こそ、ちゃんとお仕事してたんですか?」
「俺は……、試験監督していたんだが、どうにも眠くてなあ」
「寝たんですか」
「……ちょっとな」
「ダメじゃないですか」
「はははは」
真鍋は誤魔化しに適当に笑って、そのまま大きく欠伸をしている。お昼のあとすぐだったし、単純に疲れているのもあるのだろう。休憩は取れているのだろうか、と思って気づく。わたしがここに入り浸っているせいで休むに休めないのだろうか。ひとりであれば、こういう時間にひと眠りできるだろうに。
わたし邪魔ですよね、なんてメンヘラみたいなことは言えないし。彼は優しいから邪魔だと思っていてもおくびにも出さないだろうし。
椅子に斜に腰掛けて窓の外をぼうっと眺めている真鍋の横顔を、なんと言ったものかと悩み悩み俯き加減に見つめて「あの、えっと」とどもりながらも口を開く。
「先生、休みます? わたし、場所移します?」
すると真鍋が、彼にしては珍しく柔らかい笑みを作った。それが気を遣った作り笑いなのではないかと思われてならない。
「構わねえよ。好きなだけ勉強していけ」
「でも」
「気にすんなって。たしかに疲れちゃいるが、考査なんか毎回こんなもんだよ。話し相手がいて好都合なくらいだ」
考査中の生徒を話し相手にするのもどうかと思うがな、と真鍋はおどけて肩をすくめる。
彼にしてみればほんの冗談だったのかも知れないけれど、わたしは恥ずかしくなって顔を伏せた。ありがとうございます、とそれだけは口にする。
真鍋はわたしのほしい言葉をくれる。ここに居てもいいと認めてくれる、ここに居てほしいと頼んでくれる。それはまるでわたしの望むように物語が紡がれていくようで、胸がいっぱいになった。
……でもわたしは、世の中そんなにうまくできていないことを知っている。
束の間かっと熱くなった頬が冷えるにつれて、吐き捨ててしまいたいような嫌悪感が口の中に広がっていく。思春期だとか承認欲求だとかそういう聞きかじりの安直な言葉が思い浮かんだ。真鍋が偶然にもわたしのほしい言葉を口にしているわけじゃない。彼は教師だ。わたしと同じ年頃のやつらをずっと相手にして仕事をしてきているのだ。きっと真鍋はわたしがほしいと思う言葉を選んで口にしている。それもわたしを喜ばせようというのではなくて、仕事に対する責任感が故に。真鍋はわたしの事情を知っている。家族とのことも、友人とのことも知っている。そうなればわたしのような人間が何を言われてどう思うのか、推し量れないものでもあるまい。彼の幾たりかの教師人生の中で、わたしと似た境遇の生徒など何人も居たことだろう。仕事として、そういったガキへどう向かっていったらいいのかなどわかりきったことだろう。
真鍋にとってわたしは、よくある生徒のひとりに過ぎない。それはこの前も実感したこと。わたしの話を聞いても動揺ひとつしない真鍋を見ていればわかること。けれどそんな理屈で諦められるのなら、依存などではないし、これほど距離を詰めようとなんかそもそも思わないのだ。
面倒くさい事情を抱えたいち生徒ではなく、枯野悠宇として真鍋に認識してほしい。そのためにはどうしたらいいのだろう。わたしは真鍋に、何をしてあげたらいいのだろう。
……いや、いや待て。それは、元彼のときと同じロジックではないか? その末にわたしは何を差し出して、何を得た。いやまあ、もう同じものはどうしたって真鍋にあげることなんかできないけれども、そういう自虐めいた冗談はさておき、元彼に対して抱いていた感情と同じものをわたしは真鍋へ向けているらしい。中学三年生だったあの頃から多少の時間をおいて、今になって俯瞰してみれば、あのときも何か、焦燥感に駆られていたのかも知れなかった。嫌われたくなかった、わたしを見ていてほしかった。そんな思いは今のそれとさして変わるまい。
思い出したくもない苦い記憶が、綴じられた本を解いて散らかしたみたいに時系列もなく蘇る。掛けてくれた言葉、一緒に行った場所、告白されたときの顔、その他何気ないあれやこれ。その全てが、あの、最悪な夕方の時間へと集約されていく。
頭の中をぐしゃぐしゃにかき回して全て忘れてしまいたかった。自己嫌悪に奇声をあげそうだ。高校生になって少しは何か変われたと思っていた。それがどうだ、なにも変っていない。周囲に迎合するのが嫌で、そのくせ誰かに認めてほしくて、だけどわたしはひとに認めてもらえるようなものを何一つ持っていないから結局身を差し出すしかなくて。友人たちと言い争いをしたことを思えば、むしろ以前よりも悪くなっているくらいだ。昔は誰かを傷つけたりしなかった、周りに合わせて笑えていた。それはきっと良いことだったのだ。
これだからわたしは。進歩をしないどころか後退をしているわたしは。親しくしてくれた友人たちを遠ざけて、代わりと寄りかかった真鍋の邪魔をして、気を遣わせて、これならわたしなんか居ない方がいいではないか。
ココアの缶を持つ両手にぎゅっと力を込めた。非力なわたしではへこませることもできなかった。
「枯野は今、休憩中か?」
真鍋の声。我に返って顔を持ち上げる。真鍋がわたしを見ている。やめて、わたしの存在を認めないで。嬉しくなって、今のままのわたしでいいような気がしてきてしまう。居ない方がいいわたしのままで。
「そう、です。疲れちゃって」
目を合わせられなかった。
「そうか。まあ根を詰めすぎてもな。明日は数学か」
「はい。あと、英語と日本史です」
見せてくれよ、と彼は教科書を指差す。頷いて渡せば、彼は開いてあったページに栞代わりに指を一本挟んでぱらぱらとページをめくった。懐かしいなあ、と彼の目元が優しげに緩む。さっきも見ていたようだけれど、理系の先生なだけあって数学も得意だったんだろうか。
問うてみると、真鍋は肩をすくめて笑った。
「いや、数学はからきしだった。っつうか、得意な教科なんかなかったよ」
「生物もですか?」
「あーいやー、そりゃ、他の教科と比べたらできたけどさ。でもべつに、得意ってほどではなかったよ」
「ふぅん」
そう言うわりには、真鍋の授業はとてもわかりやすい。ひとにものを教えるって自分で勉強するのより余程難しいでしょう? 得意でなくても出来るものだろうか。そもそも、高校時代に得意科目もないのに教職に就こうなどと思うものか。
「どうして先生は、先生になろうと思ったんですか?」
「ん? そうなあ」
ありがとな。小さく言って彼は教科書をこちらへ向けてくる。受け取って、机の隅に置いて、わたしは真鍋の返答を待った。彼は腕を組み、視線を宙へ漂わせる。昔を思い出しているのかな、と思ったけれど、それにしては悩ましい表情をしていた。苦笑いに指先で顎を撫でている。
これは言い淀んでいるだけだな。隠したいことでもあるのだろうか。それとも距離感を違えてしまったのだろうか。質問の流れはそう不自然でもなかったと思うのだけれど。
気まずい間が生まれたように思われて質問を取り消す口上を探しているうちに、真鍋が「情けねえ話だが」と前置きした。話してくれるらしい。
「それらしい理由があって教師になったわけじゃねえんだ。あの先生に憧れて、とか誰かに勉強を教えるのが好きだった、とかさ。俺、こんなだから、そもそも教師向きの性格じゃねえしな」
「あー」
頷けば、真鍋が苦笑する。ここは「そんなことないですよぅ」なんて否定すべき場面だったのだろうか。
「ほら、お前が言ってただろ。得意なことないし、やりたいこともないって。俺も似たようなもんだ」
……確かにそんなことを語った気がするけれど、他人から改めて口に出されるといやに恥ずかしい台詞だ。芝居がかった大仰な物言いに聞こえる。恥ずかし。言うんじゃなかった。
「先生って、どんな高校生だったんです?」
「どんなって。普通の高校生だよ」
「漠然としすぎでしょ」
「漠然とした質問だからな」
そりゃまあ、たしかに。
「んー、じゃあ、部活は?」
「吹奏楽」
「え」
吹奏楽? 真鍋が?
「楽器吹いていたんですか?」
「そうだよ……」
似合わないなあ!
声にこそ出さなかったけれど表情を見れば一目瞭然らしい。真鍋はわたしの顔を見て苦笑する。だって、似合わなすぎでしょ。恋愛小説を読んでいたり、楽器を吹いていたり。こんなにも人当たりの悪そうな男が、その実、感情を大事にする趣味を持っている。いやまあ優しいひとなのは既によく分かっていることだけれど、それにしたって彼が楽器を吹いている姿など想像だにできない。
情熱的にトランペットを鳴らしている真鍋を想像して、ちょっと笑えてしまった。
「お前、笑うこたあねえだろう」
「ふふっ。だって」
「だってじゃねえよ」
「ごめんなさい……」
「にやにやしながら言われてもな」
わたしは両手で自分の頬を挟んだ。こねくりまわして笑みを消す。
いやしかし、吹奏楽部ね。真鍋も高校生だったんだなあ。若かりし頃の真鍋を想像する。外見はもしかしたらそう変っていないのかも知れない。目つきが悪くて、口下手で、でも不思議と周りには友人がいて。学生服を着た彼は、勉強はできなかったけれど部活は頑張っている。みんなで集まって練習をして、コンクールにも出て、きっと青春をしていたに違いない。恋愛もしていたのだろうか。強面だけれど真面目な彼のことだ、多くの異性に好かれているわけではないにしても、密かに数人の女の子に思われている、そんなタイプだったのではないだろうか。
眩しいくらいの青春だな。わたしと似たようなものだと彼は言うが、似ても似つかないくらいだ。得意なこともやりたいこともなくたって、きっとできることはあったのだろうから。楽器が吹けるなんて、それだけでもうひとつの特技といって差し支えないじゃないか。
それでもって、彼はそうした高校生活の間に高校教員になるというひとつの夢を持ち、こうして立派に実現させた。それらしい理由がないなんて謙遜していたけれど、それでいたってちゃんと大人になって、認められる仕事に就いている。その事実だけとっても、未だ自らを語るべき言葉を持たないわたしから見ればとても輝かしいことなのだ。今のわたしでは到底同じようには進み得ない、そんな風に思われるのだ。
「すごいですねえ、先生は」
真鍋の向こう、窓の外に目を遣る。雨は降り続いている。どこにもいけない閉塞感が胸の内でわだかまる。
「なんだよ、今更ごまをすっても遅いぞ」
「そんなんじゃないですよ。ほんと、すごいですって。先生は、ちゃんと先生になっているんですもん」
「ちゃんとはなれてねえよ」
「そんなことないですよ」
「あるよ」
珍しくも強固な姿勢。わたしは別段おべっかを言っているつもりはなかったのに、真鍋の表情はどこか無力感すら漂わせていて、彼は彼で、これは謙遜などではなさそうだった。
弱気な真鍋というのも珍しい。下卑た好奇心なのは自覚していても、訊かずにはいられない。
「なんでそう思うんです?」
「そりゃあ……」
束の間口を閉ざしたのは、何故だったのだろう。迷うように、訥々と彼は語る。
「俺は、教師になってから、まだ教師らしいこと、できてない気がするんだ」
「教師らしいことって。先生は勉強も教えられるし、生徒の話もちゃんと聞いてくれるじゃないですか」
「そりゃ、そうだけどさ。でもそれなら、別に学校の先生じゃなくてもできるだろ? それどころか、大人でなくたってできることだ」
「そんな。じゃあ先生らしいこと、ってなんですか」
「んー。なんだろうなあ」
「えぇ……」
なんだろうなあ、って。
真鍋はしばらく悩みながら、大人としてー、とか他人としての距離感がー、とかなんとか言葉を振り絞ろうとしていたようだけれど、うまくまとまらなかったらしい。最後には「まあ、そういうことだ」とひとりで頷いておしまいにしてしまった。端で聞いているわたしには、なにが「そういうこと」なのかさっぱりわからない。ちゃんとした先生になれていない、と断言するわりには、いやに不明瞭な理由だった。
それでも、真鍋が本音を語っていることはその様子を見ていれば疑いない。悲しげな、辛そうな顔をしている。
なにか、声を掛けてあげたいと思った。いつももらってばかりのわたしだけれど、今なら、何か言ってあげられるような気がした。
「わたしは、先生にたくさん助けてもらってますよ。教師だからできること、っていうのはよく分かりませんけど、でも、少なくとも、わたしは真鍋先生が居てくれてよかったと思ってます」
後から思い返せばまた恥ずかしくなるような台詞だったけれど、少なくとも今は、言わなければいけないという思いが勝っていた。真鍋がちゃんとした先生じゃないなんて、そんなこと絶対にないと言いたかった。わたしにとってあなたはそれだけ重要なんだと伝えたかった。
真鍋が目を丸くする。おう……と小声で言って、彼は目を逸らした。
「なんか、すまんな。ありがとう」
あの真鍋が、恥ずかしがっている。顔色にさしたる変化はないが、耳がゆでだこみたいになっていた。
うわあ、やめてやめて、そっちが恥ずかしがったら、こっちまで恥ずかしくなってくるじゃない。
「いやっ、あのっ、その。ほら、わたしは先生みたいに、なんとなくでもこう、立派な大人になれそうもないから。すごいなって思うんです。わたしは、わたしがここに居る意味みたいの、全然分かんないし、いっそ居ない方がいいんじゃないかとか考えちゃうし、でも先生はわたしと違って、ちゃんと先生をやってるなって思うんですよ。わたしは、ありがたく思っているんです」
その他もろもろをごにょごにょと。顔の前で思い切り振ったり、前髪を引っ張ったり、制服の襟を直したり、そうやって忙しなく動いている自分の両手を滑稽に思いながらわたしは思っていることを勢いのままに口にする。テンパっているから抑えが利かない、自分でも何を言っているのか分からない。
でも何か、真鍋には伝わってくれたらしかった。肩をすくめて、苦笑いをして。息を吐いたのはきっと照れ隠しだったのだろう。何故って、彼の耳は未だに真っ赤だった。真鍋は片手で自分の顔を撫ぜる。参ったな、と呟いた。
「ありがとな。ほんと、ありがとう」
そう言う真鍋の顔は、いっそ泣きそうな笑顔だ。
「は、い……」
わたしも頷く以外に取り得る選択肢がない。そのまま俯く。
それきり、言葉の接ぎ穂はどこかへ落として見えなくなってしまって、俯いた拍子に目に入った教科書で現実に引き戻されて……というか逃げ場所を見出して、「そろそろ、勉強しなくちゃです」とわざとらしい宣言のもと、わたしはペンを持つ。真鍋もそれを引き留めて会話を続けようとはしなかった。そうだな、と頷いて、のびをした彼は席を立つ。
思わずわたしが目で追うと、真鍋は扉へ向かいながら言う。
「俺も休憩終わりだ。さすがに、採点をお前が見えるところでやるわけにいかんからな。生物準備室に行く。なんかあったら来い」
「ああ。はい、分かりました。すみません」
「いいよ。頑張れよ」
「はぁい。先生も」
「おう」
真鍋は軽く片手を振って扉を出ていった。磨りガラスに透ける彼の姿はすぐに消え、足音も遠ざかりやがては聞こえなくなる。
部屋が途端に静かになった。真鍋が扉を開けたその一瞬に入ってきた廊下の空気のためか、ぐっと気温が下がったような気がした。微かに聞こえる雨音がもの悲しげにこの部屋を濡らしていく。わたしは机に肘をついた片手で額を支えて、溜息を吐く。教科書の文字を指でなぞる。
彼が居なくなっただけで寂しくなるのは、依存しているからだ。最後、わたしは寂しそうな顔をしてはいなかっただろうか。重いヤツだと思われなかっただろうか。わたしはおかしなことを言ったかも知れない。真鍋は喜んでくれたようだったけれど、後々になって不快に思ったりしないだろうか。
不安、不安だ。真鍋が傍に居ないのは不安だ。だけどこの気持ちは誰に打ち明けるわけにもいかない。こんなにも醜い思いは誰かに言っていいものじゃない。
ごつっ。額を机に打ち付ける。あうー、と言葉にならない声を出してみる。思い切り頭を起こして、また溜息を吐いて、ココアを飲む。窓辺に目を向ける。楽しい気分も、恥ずかしいのも、彼がいてこそのものだった。
雨は未だ、やむ気配はない。
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