17 教室:友人との関係

「昨日はごめんね」

 開口一番、若宮透はそう言った。

 HRが始まる直前の教室は、まるでそうしなければ生きていけないとでも言うように有象無象の生徒どもがお喋りに花を咲かせている。昨晩のテレビの話、恋人の話、ゲームの話、SNSの話。端から聞いているとまるで面白くない話でも、輪の中にいる彼ら彼女らはとても楽しそうに、勢い込んで話している。

 五月蝿いのは好きじゃない。でも教室を出て行くわけにもいかない。何も描かれていない黒板に目を遣った。黒板の向こうを透かして見ようとするみたいに、じっと見つめる。焦点がずれて視界全体がぼやける。そうするとあら不思議、教室の喧噪も遠のいていくように感じられるではないか。ひとつひとつの声に判別がつかなくなって、蝉時雨がそうであるように、ただの似たような音の集まり聞こえてくる。

 人混みとか喧噪とか、そういうのが苦手なわたしの常套手段。デメリットといえば、仲間はずれにされているような謎の孤独感が胸を圧迫することくらい。ああやって集まってないと居られない人間は嫌いだけれど、その一方で集まることもできない自分はヤツら以上に見劣りするのだろう。

 不協和音の大合唱の間を縫って、人影が近づいてくる。果たしてそれは若宮で、わたしの前まで来るや否や彼女の口から先の言葉があったのだった。

 若宮が教室に入ってきたことには気づいていた。騒音の中で、よく知る友人の声だけは簡単に拾い上げることが出来た。彼女の声は良く通る。その性格のために誰となく幾度となく四方八方へ挨拶を向けているものだから、いやでも耳に入ってくる。

 このときがきてしまったか、とかそういう、後ろ向きな気持ちが先行した。咄嗟に若宮から目を逸らしてしまう。返事はなんとか絞り出した。

「いや、悪いの、わたしだし」

 今回ばかりはそれが本心だった。

「そんなことないよっ。わたし、枯野ちゃんのこと知ってたらあんなこと……」

 言わなかったのに。と最後は消え入るような声だ。なんのことだと思ったけれど、たぶんわたしの元彼の話を須永から聞いたのだろう。ちらりと振り返ると案の定須永がこちらを見ていて、わたしに向かって両手を合わせていた。なに、謝ることもあるまいよ。むしろわたしのこと庇ってくれるつもりだったのでしょ。これこれこういうわけで、悠宇がああいう態度になるのも仕方ないんだ、と。

 須永へは小さく手を上げて応え、若宮に向き直る。若宮は悄然として俯いている。溌剌とした仕草言動の多い彼女だから、こうして意気消沈しているのは物珍しかった。なんだかかわいそうに思えるくらいだ。否応なしにこちらが下手に出なければならない状況になっている、と思うとなんだか癪だったけれど、そこはぐっと飲み込んだ。その程度の社会性はあった。

「言わなかったのはわたしだから。それに、昨日は、別のことでストレス溜まってて。そっちが原因だから、別に昔のことは関係ないよ」

「でも、ひどいことされたら、トラウマとか……」

「関係ないってば、もう」

 おどけて言ってみせたのは、内心を悟られたくなかったからだ。窺うようにわたしへ控えめな視線を向ける若宮が、そういう態度でいてその実わたしの話を面白がっているだけなのでは、と疑っていた。他人の不幸は蜜の味、とまでは言わないが、世の女性というのは大概そういう話が好きでしょう?

 若宮はそれ以上食い下がらなかった。ごめん、とまた項垂れる。ちょっと面倒臭いと思いつつも、こういう裏表のない態度が彼女の魅力なのかも知れなかった。

 こっちが猜疑心に駆られながら応じているのが申し訳なくなって、会話の接ぎ穂に悩む。まだ、わたし「ごめん」の一言も言えていないな、って気がついた。わたしもちゃんと、若宮に対して申し訳なく思っているはずなのに。簡単な一言すら口が重たくなってうまく声を出すことが出来ない。

 もしかして、ほんとは、自分が悪いなんて思っていないんじゃないの?

 そんな疑問が、胸の内に湧いた。

 もとはと言えば、若宮が嫉妬して余計なことを口にしたことが端緒にあろう。傍から見ればわたしが頭に血を上らせてしまうのもやむないことと思われるのではないか。わたしが元彼とどうだったとか、両親がどうしているとか、そういうことは関係なしに、彼女がわたしを責めるようなことを言ったのが始まりではないか。それをどうして、わたしまで謝らなければならない流れになっているのか。

 ……なんて。自己弁護を並べようとしている自分が居た。これが詭弁なのは考えるまでもなく自明のことで、だからもちろん本心ではないけれど、理屈っぽく屁理屈をこねている、高慢な自分が居ることも確かだった。

 そういうこと、若宮はきっとちらりとも考えないのだろう。だから底意無く謝ることができるのだろう。

 なにか、熱を持ったどろどろしたものが胸の内から込み上げてくるようで、息が詰まった。若宮を見ていられない。涙が滲む。どうしてわたしはこの子と一緒に居られたのだろうと、それが疑問でならなかった。

「……。ごめん。わたしの方こそ、ごめん」

 ようやっと、それを口にする。眉根が寄って、きっと口元だって歪んでいて、大凡謝罪を述べるやつの表情ではない気がするけれど、わたしにはそれが精一杯だった。若宮のように綺麗に謝ることなんて出来なかった。スカートの裾を皺になるくらいに握って、わたしは何かに耐え忍ぶ。被害者のような態度だな、と冷静な自分が指摘した。

「謝んないで、枯野ちゃんは悪くないよ」

 そんな態度だったというのに、若宮は大袈裟なまでに両手を振って早口にそう言う。

「いや、昨日のは、わたしが悪いよ。ほんと、ただの八つ当たりだったから」

「でも」

「若宮に謝られると、わたしの立場がないよ」

「ん……。ありがと、枯野ちゃん」

 声色に小さく笑みを浮かべたことが感じられ、そっと彼女の顔を窺う。儚げな、綺麗な笑顔だな、と思った。こういうとき、なんと答えたらいいのかがわからない。仕方なくわたしも笑みを返したけれど、若宮と違って不格好な表情だったろうことは、鏡など見なくともわかった。笑顔を作ることはどうにも苦手だ。そういうところにも若宮とわたしとの歴然とした違いがあるように思われ、立っている場所に厚い隔たりがあるような気がして、いたたまれなくなる。わたしは彼女のように、真っ直ぐに感情を表現できない。

 そうこうしているうちにチャイムが鳴って、担任教師がふらりと教室へ入ってきた。お喋りに興じていたクラスメイトどもが三々五々にそれぞれの席へ散っていく。若宮もまた、後ろを振り返って担任教師の姿を認めると、自分の席へ戻っていった。去り際、わたしへ小さく手を振って、もう一度だけ、「ごめんね」と小声で言った。そのときの彼女は既にいくらかの元気は取り戻したようで足取りに軽さがあったけれど、笑顔はまだぎこちなかった。そんな様子にも、躊躇うことなく青春いまを生きている様を見せつけられているようで、どうにも居心地の悪いものを感じる。

 疎外感、というのか。いっそ異物感とすら表現してもいいかも知れない。

 この教室に、よくしてくれる友人たちの輪の中に、わたしの居場所はないと思われてならなかった。



 この日から、二学期末の考査が明ける次の週の金曜日まで、結局わたしは友人たちとほとんど関わりを断ってしまった。初めこそ毎日のように声を掛けてきた彼女たちだったけれど、断り続けていれば次第にそれも途切れがちになる。考査が始まってしまえばお互い心の余裕も少なくなって、尚のこと、他人に無理してまで関わろうとする意思など削がれようというもの。考査二日目の火曜日には、言葉を交わすこともなくなっていた。

 お昼休みも放課後も、授業なりHRなりが終わると教室を出ていくわたしに、若宮が一度だけ問うてきたことがあった。

「いつも、どこに行ってるの?」

 こわごわと、腫れ物に触るような声音。

 どこだっていいでしょ、と言っては拒絶的に過ぎる。やや躊躇って、他に適当な言葉が見つからず事実を答えた。

「生徒指導室とか」

「そ、っか」

「うん」

「勉強、してるの?」

「うん」

 関係を断とうとしてなんだけれど、別段、彼女たちを邪険にしたいわけじゃない。輪に入れようとしてくれる若宮には感謝の思いもあった。わたしが居心地悪く感じているのは、わたしの勝手だという自覚もあった。だから、努めて平生の表情でもって、普段と変わりないように、簡単に頷いて答える。

 若宮は、人好きのする笑みを不格好に歪めた。あるいは諦念を押し隠していたのかも知れない。

「考査、がんばろうね」

「うん、がんばろ」

 短く答えて、わたしは教室を後にした。

 これが、月曜日の放課後のことだった。

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