16 通学路:わたしの話

 翌日。柔らかな光を放つ太陽が、気持ちのよい朝を運んできた。この時節、家を出て最寄り駅へ着くころ、ちょうど町並みの向こうに朝日が顔を出す。ホームに立って、正面から差す日光に目を細める。夏場は憎らしくて仕方のなかった太陽だが、今はそのありがたみを全身で感じていた。空気が暖まっていない今の時間は、日陰と日向とで体感温度がまるで違う。かちかちに固まった体がほぐれていくようだった。

 爬虫類気分で日光浴をしていれば、そのうちにいつもの電車がやってくる。電車に煽られた風は相変わらず冷たかったけれど、それすら心なしか常より温いように思われて、身を縮めることもなくぽけーっと電車が停車するのを待った。

 あふぅ、と大きく欠伸が漏れる。

 今日の運転士はへたっぴだったのか、そうでなきゃわたしと同じように陽光でとろけてしまっていたのか、ドアが乗車位置を大きく通り越してから止まった。必然、わたしの前に流れてきたのは車窓の一枚で、そこに映った、大口開けた自分の間抜けな顔に慌てて口元を抑える。随分と先に行ってしまったドアまで行こうとしたその一瞬、窓から車内へ、目の焦点が移った。無意識に真鍋の位置を探ろうとしたのだと思う。

 そして、その目的はすぐさま果たされた。

 なんせ、彼は真正面に座っていたのだから。それも向こう側の座席に。つまりわたしと真鍋とはばっちり向かい合う形だった。真鍋ははっきりとこちらを見ていた。

 かぁっと頬が熱くなる。確実に見られた。人目を憚らずにかいた欠伸を見られた。

 いそいそと身を縮めて電車に乗った。前髪越しにそうっと真鍋を窺えば、一瞬だけ目が合って、彼もまた気まずそうについっと目を逸らした。くそう、いっそ笑ってくれた方が恥ずかしくないわ。

「……おはようございます」

「おう、おはよう。なんか……、すまん」

 謝るなよう、恥の上塗りだよう。傷口に塩を塗るなよう。

 真鍋の謝罪には何も答えてやれなかった。引き結んだ唇はむっつりとした顰め面に見えたかも知れなくて、それは申し訳なく思われて、まともに顔も見られないままだったけれど彼の隣に腰を下ろした。ここのところ、真鍋は初めから荷物を抱えて座っている。そこに意味を見出しているわたしがいる。

 ドアが閉まる。電車が進み始める。車内は暑いくらいに暖房が効いていた。マフラーを解いて、抱えたリュックの上に置く。襟をつまんでぱたぱたと扇ぐ。

 隣でふいっと真鍋が顔を逸らした。もしかして汗臭かったかしら。それはまずい。乙女としてあるまじき失態だ。さっきの欠伸も大概だけれど。

 ……それとも煙草臭い?

 昨日の伊織との会話を思い出して、少しばかりブルーになる。あの後、どれだけ家の中で鼻に意識をやってみても、やっぱりあの大嫌いな臭いを感じることは出来なかった。仄かに甘苦いような香りがあるような気もしたけれど、それを不快に思うことが出来なかった。それがとても悔しかった。

 同時、気持ち悪くもなった。わたしの髪や肌、服が煙草の煙に燻されてヤニまみれになっているような気がしてならなかった。昨晩、そして今朝と、しつこいくらいにシャワーを浴びたけれどその気持ち悪さは拭えていない。日なたぼっこに現実を忘れ、浮かれて真鍋の隣に座ってしまったことを後悔した。心なしか詰めていた距離を離すべく、それとなくお尻をずらす。大丈夫かな、わたし臭くないかな。

 目の端に窺った真鍋は、腕を組んで頭上の吊り広告を眺めていた。ゴシップ記事の見出しは演出過剰な文字で過激な文句を並べ、大衆の興味を引こうと躍起になっている。アイドルの恋愛とか喧嘩騒動とか、そういうのが娯楽として楽しめてしまう人たちの気が知れない。そんなのどうでもいいだろうに。

 ふと、真鍋がわたしを振り向いた。

「そういえば、さ。……ん、どうした?」

 わたしは思わず身をのけぞらせていた。

「いや、あの、なんでも……」

 言いつつも姿勢を戻せない。もし真鍋に煙草臭いなどと思われたら、あいつら喫煙者と同じと思われたりしたら。それを考えると言いようのない不安に襲われる。この程度の抵抗では無意味な気もしたけれど、せずにはいられなかった。

 すると何を思ったのか、真鍋はついっと宙を見て、自分の体を見下ろす。コートの襟を持ち上げて鼻に近づけてみたり、口と鼻とを両手で覆ってはーっと息を吐いてみたりとどうやら自分の体臭を気にしているよう。

 ああ、真鍋からしたらそう見えるのか。わたしは慌てて否定する。

「先生、違うんです。そうじゃなくて」

「あ? いや、すまん、酒臭いとか、汗臭いとか、言ってくれていいんだぞ。一応気をつけてはいるつもりだが、自分じゃ分からない部分もあるだろうからな」

「だからそうじゃなくって」

「そうなのか?」

 真鍋は納得いかぬようで首を傾げている。それもそうか。んむぅ、妙なところで察しが悪いな! いや相手のせいにしても始まらないか。

 言うことにした。踏ん切りがついたのは、真鍋が先に言い出してくれたおかげだろう。

「あの、わたし煙草臭くないですか」

「あん?」

 真鍋の表情が曇った。すぅっと目が細められる。大人としての、教師としての目つきだ。隣に座っているのにずっと遠くにいってしまったような気さえした。真鍋がわたしへ疑惑を向けている。関わる機会が多くなってから、初めてこの教師をはっきり怖いと思った。こんな顔も、ちゃんとできるんだ。

 理由は分かる。わたしは首を横へ振った。

「違います。吸ってないですよ、本当です」

「……」

「ほんとですって。もし吸ってたら、わざわざ言い出さないでしょ?」

「……。それもそうか」

 ふう、っと真鍋が息を吐いた。途端に表情が緩んで、よく知る彼が戻ってくる。緩んで、って言っても強面なことには変わりないのだけれど、それでも随分と雰囲気は変わるものだ。

「よかったよ」

「そんな、大袈裟な」

「大袈裟じゃねえよ。大事なことだ。それに、注意するとか叱るとか、そういうの結構体力がいるんだ」

「そんなもんですか」

「そんなもんだ。んで、吸ってねえなら、なんでそんなこと聞くんだ?」

「それは、まあ」

 家がどうやら煙草臭いらしいこと、それに自分では気づけなかったこと、単身赴任から帰ってきた父親に指摘されたことなどをかいつまんで話す。話の中核であるはずの「誰が煙草を吸っていたのか」は言及できず、だから説明が幾らかぎこちなくなってしまった気もするけれど、そこは勘弁してほしい。とっさに嘘を吐くのは苦手なのだ。

 当然真鍋も違和感を覚えたようで、話を聞きつつ訝しんで目をすがめていたようだけれど、結局追及するような問いは口にしなかった。察しのよい彼のことだから、あえて口を噤んでくれたのかも知れない。

「それで、どうです?」

「……煙草臭さはねえな」

 目を逸らしながら真鍋は言う。さっき顔を逸らしたときと同じ表情。返答に安堵しつつ、煮え切らないその態度は幾らかの不安を残す。じゃあやっぱり汗臭いのか。

 しかし、よくよく冷静に考えてみれば、そも、わたしの問いが常識を逸脱していることを自覚した。女子高生が他人に、それも大人の男に向かって「わたしはどんなにおいがするか」とか聞くものではないな。真鍋は成人男性の倫理観によって、露骨に若い女の匂いを嗅ぐようなことはできまい。なるほどそれなら、さっきからおかしな態度であったことも頷ける。彼は教師であるから、煙草臭さがない、というのはひとまず真実だろう。

「すみません、変なことを聞きました」

「いや、いい」

 真鍋は肩をすくめた。ぎこちない様子であっても、恥ずかしがるわけではないらしいのがちょっとむかつく。

 ガタゴトと揺れる電車はやがて途中の停車駅について、アナウンスと共にドアを開ける。幾人かの社会人や中高生と見える人たちが乗車する。部活の為なのだろう、見知らぬ高校のジャージを身に纏う男子三人組が、わちゃわちゃじゃれ合いながら乗ってきた。もう少し静かにしろよ、電車だぞここは、と思ってしまったこれは八つ当たり。さっきまで自分たちも話していたではないか、と冷静な自分が指摘する。

 わたしたちのお喋りも、他人からしたら五月蝿かったのではないかと思い始めると、なんだかそれ以上は口を開きづらくなった。真鍋がさっき何かを言いかけて、それをわたしが遮るような形になってしまったのは覚えていたけれど、真鍋は黙ったままで、わたしからは言い出しづらかった。

 真鍋に触れている左肩が熱い。俯いたり、他の乗客へ視線をやったり、殊更に「意識していないこと」を装って。昨晩からの懸念が晴れて、ひとつ肩の荷が下がった思いだったわたしは、そうやってただ真鍋が隣にいることを感じていた。謝らなくちゃいけないことがあったし、訊いてみたいこともあったし、そういうのを忘れていたわけではなかったけれど、話し始めてしまったら、淡く輝く朝焼けも、暑いくらいな車内も、少年たちの談笑に沈む心地よい電車の足音も、無言でいられるこの時間の全部が全部無駄になってしまうような気がして口を開くことができなかった。

 読書をするでもないのに真鍋も声を発さない。それとなく彼を見上げれば彼もまたわたしを見下ろしていて、目が合うと彼は些細な疑問でも投げかけるみたいに片眉を上げた。意図が読めずわたしは首を傾げる。真鍋はやはり無言のまま首を横に振る。ん、なんだよ、よく分からんな。

 そのあと、わたしたちの間に会話らしい会話が生まれるまで結構時間が空いた。口火を切ったのは真鍋からだったのだから文句も言えないけど、電車が最寄り駅に着いて、電車を降りて、ふたりして改札を通り抜けてからだったのだ。ちょっともったいなかった気がする。会話のネタもないんだけれど。

 マフラーを巻き直しているわたしに、歩きながら真鍋は問う。

「それで、さ」

「はい」

「友達とは仲直りできたのか?」

「それは……」

 真鍋の話の始まり方はいつだって突然だ。おかげでいつも誤魔化すのに失敗する。もう少し考える間があったなら、そもそもわたしが友人たちとの距離を測りかねていることを直接彼に語ってはいないことにも気づけたかも知れないのに、わたしは言葉に詰まるしかなかった。

 俯くわたしに、真鍋はふっと鼻息を漏らす。

「昨日、お前、来なかっただろ?」

「すみませんでした……。わたしが行くって言ったのに」

「いや、責めてるわけじゃねえって。昨日はな、それはそれで俺も安心したんだ。仲直りできたのかも知れねえなって思ってよ」

「すみません……」

 無断で帰ってしまったことも、友達と仲直りできていないことも、謝るしかない。まさか心配されていたとは思いもせなんだ、なおのこと申し訳なかった。同時、わたしの居ないところでもわたしのことを考えてくれていたのかな、なんて自惚れた考えも浮かんだ。

 真鍋は彼なりの軽い笑顔で肩をすくめる。

「謝んなって。しかし、それならどうして来なかったんだ? まさか勉強したくなかったとか言わねえよな?」

「それは、違います。家に帰ってからちゃんとしました」

「ほう。そりゃ偉いな。じゃあ、んー、まあいいか。予定も色々あるだろうしな。来たくなったらいつでも来い」

「はい、その、ありがとうございます。今日、今度こそ、行きます」

「ん? いや、無理することねえぞ。よく考えたら、教師と勉強するとか、わりと面倒くさくねえか?」

「そんなこと……!」

 つい顔を上げて勢い込んで返事をしてしまって、珍しくも目を丸くする真鍋を見ていられず、すぐさま視線を足下に戻した。面白味のないアスファルトのボコボコと、左右順番に飛び出てくる自分の爪先とを見て心を落ち着けながら、それでも何かを言わなくちゃいけない気がして懸命に言葉を探す。

 意味がわかんないけど涙が滲んだ。頭にがぁって血が上っているみたいだった。ここで言うべきことがなにかある、きっとある。

「わたし、友達と居るの苦手だし、家にもあんまり居たくないし、弟はいい子だけど心配掛けちゃうのはやっぱり申し訳ないし……」

 えっと、えっと。

 真鍋は何も言わない。顔を見られないから分からないけど、たぶん聞いている。

「真鍋先生と居るの、その、」

 何か決定的な言葉は吐けず。

「落ち着くんです」

 そんな曖昧な台詞に逃げた。

 これで誤解(正解……?)されたら恥ずかしすぎる。マフラーの口元をぐにぐに握りながら返答を待った。

 ところがわたしの葛藤をよそに、真鍋の返答は早かったし、ずっと簡素なものだった。

「そうか、ありがとうな」

 心なしか嬉しそうな声色で、それに期待して彼の顔を見てはみたものの、真鍋が浮かべていたのは朗らかな笑顔だったし、視線も、多分意識もわたしには向いていなかっただろうし、つまりわたしの思っていた「うれしさ」とはまるで違う方向性のもののようだった。

 期待を裏切られた、などと被害者を気取るのはあまりに身勝手か。わたしは結論を望んでいないし、多分信用していない。だからたとえ望んだ返答を得られても、きっとわたしは不安になるのだろう。なぜそんなことを言うのかとありもしない裏を疑って、苛立って、真鍋と居るのが苦しくなるに決まっている。そうは思いつつも、望んだ返答にあっさり飛びついてしまう自分も容易に想像できるのだから呆れたものだ。自嘲の笑いすら浮かんでこない。わたしにはなんだかこう、信念みたいなものはなくて、常にぶれていて、そのときそのときの気分で「演じたい自分」を、「自分にとって都合のいい自分」を主張するような人間なのだ。好きとは違うのだと嘯いて、期待しているのがそのよい証拠。

 いつの間にか肩がぶつかりそうなくらい近寄っていた真鍋から、ほんの少しだけ距離を取る。

 真鍋はひとつ、息を吐いたようで。

 そのすぐあとには、真面目な顔に戻っていた。ふとこちらを振り向いた表情もやや硬い。

「いやだったら言わなくてもいいが……。家族仲は、悪いのか」

「え、どうしてそんなこと」

「ああいや、すまん。いいんだ」

 こちらを制すように片手をわたしへ向けて、真鍋は大きく首を横に振った。

 違う、言いたくないわけじゃない。そりゃ触れて回るような話でもないいけど、誤魔化すような言葉が口を突いたのは隠したかったわけではなくて、ただ単純に動揺しただけだ。なんでそれを知っているのか、と。友人たちにもしていないようなこと、そうそう口走った記憶もないのだけれど。

 苦い表情をしながら彼は言葉を選び、言う。

「ほら、いま。家に居たくない、って言ったろ? だから」

「あう……」

 言いましたね、そういえば。ついさっき言っていましたね。緊張すると自分が何を言っているのか分からなくなる。つい余計なことを口にしてしまう。でもまあ、真鍋になら言ってもいいかとも思うのだ。話題としては最悪だけれど、本当は違う話をしたかったのだけれど、彼の気を引けるかも知れないと思えば悪いことばかりではない。真鍋にとってわたしが、「どこにでもいる生徒のひとり」でないものになれるかも知れない。

 そんな図々しいこと考えられるなら、案外わたしは両親のことをなんとも思っていないのかな。どうでもいいのかも知れないな。そこにちょっとした安堵を覚えつつ、わたしは言ってみることにした。楽しい話ではないから、そしてそれを辛そうに話すのは馬鹿馬鹿しいから、軽い口ぶりを強いて意識して聞かせることにした。

 真鍋は黙って聞いてくれた。わたしを哀れむような顔もしなかった。それは少なからず意外だったけれど、それ以上になんだか嬉しくて、嬉しいと思える自分にもほっとして、ぺらぺらと気の向くままに話していた。わたしはかわいそうに思ってほしくて家族のことを真鍋に聞かせているわけではないらしい。真鍋はわたしをかわいそうな子どもとは思っていないらしい。

「なるほどなあ」

 ひとしきり話し終えると、真鍋はそんなふうに頷いた。彼は苦しそうに表情を歪めたけれど、それも僅かのこと。片眉を上げて、ふっと鼻から息を吐く。

「そういう家庭もあるわけか。とんでもない親だな」

「まったくです」

 あくまでわたしはおどけて言って、だからきっと真鍋も付き合って軽く肩をすくめてくれてる。あんまり驚かないのは、職業柄、こういう話はまあまあ聞き慣れているのかも知れないな、などとも思った。

 そうなるとわたしのもよくある話と片付けられてしまうのだろうか。それはちょっとばかし残念。かわいそうに思ってほしいわけではないけれど、だからといってなんの感慨もなく流されてしまっては意味がない。わたしは真鍋の気を引いてみかったのだ。それなのに結果は不発。わたしの不幸話など端から見ればどこにでもよくある話なのだと暗に言われたみたいで内心もやっとしたものが残った。わたしは特別じゃない。そんなことは分かっていた。わたしがわたしである必要はない、わたしにわたしらしさがないのだから。他より抜きん出た特徴なんかないと、そう自戒していたはずなのに。

 やっぱりどこか、期待していたのかも知れない。哀れみは侮辱のように思われただろうに、わたしのは不幸だが他にはない物語なのだと言われたかったのかも知れない。では真鍋にどんな反応を期待していたというのだろう、わたしは。

「話してくれて、ありがとうな」

 真鍋が前を向いたまま言う。

「いえ、別に……」

 なんだか話せば話すほど彼と距離が開くようだ。彼の言葉や表情からその内心が窺えない。ある程度の時間を共有していながら、わたしは真鍋のことが分からない。思い返せば、わたしがぐちゃぐちゃ自分の話をしているばかりで、これまで真鍋は何も語ってはいないのだと気づかされる。彼は話の滑りが良いように合いの手を入れてくれていただけだ。

 わたしは真鍋に、わたしの話をできるようになった。それくらい心を許していた。もしかしたらそれで、真鍋との関係が前に進んでいると勘違いしていたのかも知れない。真鍋のスタンスは一貫しているように思われる。

 真鍋が何も語ってくれない、というのは些か被害的すぎる。わたしが勝手に話したくなって話しているだけ。わたしがわたしの話を押しつけているだけ。関係の更新などとはほど遠い。わたしは真鍋のことなんか何一つ知らない。

 気が急いた。不安になった。真鍋にも色々話してほしくなった。

 いかにも純粋な、真鍋のことを知りたい、という気持ちではなかった。わたしが話したのに真鍋は話してくれない。見返りがほしい。そういう類いの懸念だった。何か、証拠がほしかったのだ。わたしと真鍋の距離が近づいている、わたしが真鍋に近寄ってもいい、そう思える証拠が。

 依存、なんていう言葉がふと頭に浮かんだ。なるほど、腑に落ちる言葉だった。わたしは真鍋に依存しているのか。今まで依存していた友人たちと切れたから真鍋の傍に居たいのか、それとも真鍋の傍に居たからこそ友人たちを切れたのか。どっちにしろ結論は変らない。

 すっと冷静になれた。確かにこれは、恋情などではないな。もっと醜いものだ。

 リュックの肩紐をぎゅっと握りしめた。真鍋に顔を向けられず俯く。「一緒に居て落ち着く」なんて言わなければ良かった。大きな溜息が出た。吐息が白く煙ってぬるい感触が頬を撫ぜていく。冷たい風がそれを流していったけれど、心まではすっきりしなかった。マフラーを緩めて中に籠もった熱気を逃がす。もう一度、深く息を吐いた。

 立ち並ぶ住宅の向こうに校舎が見えた。いくらもしないうちに住宅地が切れて、道の横手が学校の敷地を囲むブロック塀に変わる。もうすぐ学校へ着く。真鍋とも一旦お別れだ。それを惜しむべきなのか、安堵すべきなのか、今のわたしでは判断がつかない。

 でも、真鍋にこう言われると、やっぱり嬉しいのだ。

「それで。今日、昼休みは、結局どうするんだ?」

「あ、っと……」

 さっきすぐに有耶無耶になった話題だったけれど、向こうから改めて尋ねてくれるのであれば、答えることには思いの外抵抗がなかった。

「生物準備室、行ってもいいですか?」

「ん、分かった。だが友達とはなんとかうまくやる方法を見つけろよ」

 なんとかうまくやる。迂遠な言い方だな。

「仲直りしろってことですか?」

「んや、そうじゃない。それが出来るのならいいが、無理なら無理で、代替案を用意しろ、ってことだ」

「ふーん?」

 なんだかよく分からんな。

 わたしが首を傾げれば、真鍋は意味ありげににやりと笑って肩をすくめるのだった。深く言及するつもりはないらしい。意地の悪いことだ。

 校門をくぐり抜け、いつものように生徒玄関前で別れる。いつもと違うことといえば、今日は別れ際、明確に「またあとで」と言葉を交わせたことか。約束がある。友人とのそれは時にひどく重たいものに感じられるものだけれど、真鍋との約束はくすぐったいような、それでいて心地よいような、不思議な感触だった。

 手を振り合って、見送って。上履きに履き替える間にぽつり、呟いてみる。

「依存、か」

 まだ誰も居ない生徒玄関に、小声で口にしたはずの言葉は大きく響いた。廊下に上がって、誰も居ないをいいことにその場にしゃがみ込む。

「依存かぁ……」

 そんな言葉がまさかしっくり来てしまうとは。我がことながら結構ショックだった。わざとらしい身振りに恥ずかしくなってすぐに立ち上がる。ふらふらと酔っ払いのように教室まで歩いて行く。絶望に揺らめいているとか、そういう芝居がかったあれではなくて、全身にあるのはただただ脱力感だった。

 懸想して色気づいていることを必死に否定していたら、中から出てきたのはさらに陳腐なものだった。いやさ恋情と依存とを明確に区別しようなんて思わないけれど、それでも恋情という名前の方がまだマシだったような気さえする。なんだかなあ。

 リノリウムが上履きの底に張り付くようで、歩く度にピタピタと変な音を立てる。足が重い。呆れた溜息と自嘲の笑みと、どちらを出せばいいのか分からない。

 暗い心持ちにこそならないまでも、なんだか今までとてもつまらないことで悩んでいたのではないかと、そんなことが思われるのだった。落ち込む気持ちにすらならんのだった。

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