古猫

月浦影ノ介

古猫




 私の母方の本家は、自宅から車で四、五分ほどの距離にある。母は車の免許を持っていないので、子供の頃、母にくっ付いて本家を訪れるときは必ずその道のりを歩かされた。

 左手に鬱蒼とした山の斜面が迫る、川沿いの細い一本道である。頭上を覆う木々の枝が陽の光を隠すので、道の先は昼間でもなお暗く、母と一緒とはいえひどく心細い思いがしたものだ。

 母は東京の出身であったが、空襲を逃れるため父親(私の祖父)の実家である本家に疎開し、戦後もそのままこの地に住み着いた。 

 若い頃はこの道を歩いて、勤め先と自宅を往復したという。帰りが遅くなるときなど、山の木立の間に青い狐火がゆらゆら揺れるのを、ときおり目にすることがあったそうだ。


 母方の本家は今ではほとんど見掛けなくなった、茅葺き屋根の古い農家であった。私が小学生だった昭和五十年代、数は減っていたとはいえ、地方の農村にはまだまだ同じような家が残っていたと記憶している。

 土間の奥に流しやかまどが据えられ、沓脱くつぬぎ石を上がった板敷きの居間には囲炉裏があって、高い天井の梁から吊された自在鉤には、必ず薬缶か鍋が掛けられていた。

 開け放たれた縁側は明るい陽光が差して心地良いが、背後を振り返ると座敷の壁や柱に、長い歳月が染み付いたような静けさが仄暗くわだかまっていて、その奥の襖に閉ざされた仏間には、誰かがそっと佇んでいるような幽かな気配がする。

 子供心に少し怖ろしくも感じたが、それでも私は何故かこの家が好きだった。


 私が母のお供として、飽きもせず本家を訪れた理由の一つに、この家で飼われている古猫の存在があった。

 どこにでもいるような焦げ茶色の毛並みをした雑種である。年老いているせいか、面倒臭そうにのそりのそりと歩く。猫らしい敏捷さなどまるでなく、縁側で日向一日丸くなっている。

 「おめぇも寝てばかりいねぇで、たまには鼠でも獲ってこい」と曾祖母にぼやかれていたが、古猫は我関せずとばかり呑気そうに眠たい目で欠伸を繰り返していた。


 小学生の私にとって、猫など動く縫いぐるみのようなものであった。

 父が動物嫌いの人だったので、我が家では一度もペットというものを飼ったことがない。なので母方の本家を訪れるのは、小動物と遊べる数少ない機会の一つだった。

 しかし古猫からすれば、子供の相手などさせられるのは迷惑な話だったろう。また来たかという顔で私をねめつけ、のそりのそりと歩いてどこかへ行こうとする。私がそれを追い回し、行く手を塞ぐと、怒って爪を立てるような真似はしないが、やれやれといった表情で私に身体を触らせるのを許し、一通り気が済むのを待って、またのそりのそりと歩いてどこかへ隠れてしまう。

 本家に自分と同じ年頃の子供はいないので、そのあと仕方なく一人で遊んでいると、またいつの間にか部屋の片隅に現れて、陰の中に潜むようにじっと私の様子を見守っている。そんな奇妙なところのある猫だった。


 あの猫はいつから飼っているのかと、当時高校生だった本家の従兄伯父に訊ねたことがある。

 「俺が小学生の頃にはすでに居たなぁ」と、従兄伯父は答えた。

 なんでもふいに家の庭先に現れ、気まぐれに餌をやったりしているうちにいつの間にか住み着き、そのまま飼うことにしたのだそうだ。

 「そのときにはすでに年寄りだったと思うけど、そう考えるとずいぶん長生きだよな。うちの婆さんより生きるんじゃないのか」と従兄伯父は笑った。



 確か私が十歳のときだったと思う。何かの用事で母にくっ付いて本家を訪れ、一人庭先でボール遊びをしていた。囲炉裏端の方から、母や本家の大人たちの話す声が聞こえる。

 縁側では古猫が相変わらず丸くなって日向ぼっこをしていた。

 空は晴れて明るかった。すでに夏は終わり、秋風が庭の梢を揺らして通り過ぎてゆく。棚引く雲が風の形を表すように流れ、そろそろ赤や黄色に色付き始めた山々が、西に傾きかけた陽の光を受けて輝くようであった。

 ボール遊びの手を止め、ぼんやりとその風景を眺めていたそのときだ。


 「良い天気だなぁ • • • • • 」


背後からふいに、そっと呟くような少し高い声が確かに聞こえた。

 縁側を振り返ると、さっきまで丸くなっていた古猫が頭をもたげ、じっと空を見つめている。

 今のはひょっとして古猫の鳴き声だったのだろうか。しかし私にははっきりと人間の言葉に聞こえた。聞き間違えでも空耳でもない。

 長く生きた猫は人語を話すことがある。何かの本で読んだ知識がふと頭をよぎった。


 こちらの視線に気付いたらしい古猫が、私の顔を見て、それから「しまった」という表情をした • • • • • ように思う。

 そしてふいに立ち上がり、面倒臭そうにのそりのそりと歩いて、奥座敷の方へと姿を消した。私は追い掛けなかった。

 囲炉裏端からは大人たちの声が聞こえる。彼らは自分たちの会話に夢中で、古猫が人語を喋ったことに気付かなかった。なので、これは私だけの秘密だ。



 それから間もなく、母方の本家の古猫がいなくなった。

 猫は自分の死を悟ると、飼い主の前から姿を消す。母は私にそう話したが、しかし私はそれを信じなかった。あるいは人語を喋ったのを、私に聞かれたためではないかとも思ったが、それを確かめる術はない。

 

 あの古猫はきっと今も生きている。人語を喋る猫はおそらく、普通の寿命を超越しているであろう。私はそう信じている。

 風の吹くまま気まぐれに旅をして、ある日ふいにどこかの家の庭先に現れ、いつの間にかそこに居着いてしまう。

 そして縁側で丸くなりながら、高く晴れ渡った空を見上げて、こう呟くのだ。

 

 「良い天気だなぁ • • • • • 」と。



                 (了)


 

 


 

 

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