酔芙蓉の君

田所米子

酔芙蓉の君

 広い下宿先の、これまた広い庭の手入れは容易ではない。しかしこれもまた、蜘蛛の糸のごときか細い縁故を頼りに頼って、片田舎から上京した貧乏書生の務めである。

 物心つく前に母を喪った子供の常として、草太は庭師である父の広い背を見上げながら育った。だから庭仕事は特段の苦にならないはずなのだが、流石に量が量である。しかも、夏の暑さはいよいよ盛りに近づいていた。

 このところぎらぎらと照りつく太陽に肌のみならず、学問への意欲を焼かる日ばかりが続いていて、草太はいささかどころではなく辟易としていた。

 今日こそは早朝の涼しいうちに実のところ承諾した覚えはない務めを終えんと、剪定鋏を片手に下駄をひっかける。すると、ふいに風鈴の音が鼓膜をくすぐった。

「こんなに朝早くから、ご苦労様なことねえ」

 いや、違う。聞こえたのは、下宿先の主人の愛娘である文子あやこの、鈴の音を振るような声だった。

「お母さまに言いつけられたの? それとも、お母さまの心象を少しでも良くしようっていう魂胆なのかしら?」

 くすくすと笑うその声のみならず、文子の容姿そのものが美しく愛らしいのは、草太だって認めている。だけどその見てくれに似合わず、文子はとんでもない不良娘だった。彼女は、草太の他に三、四人いる書生たちと情けを交わしてさえいる。近頃は下宿生の一人である辰巳に首ったけであるらしいことは、草太さえ度々小耳に挟んでいた。

 この屋敷で起居してはや四ヶ月余り。朝方は姿を見かけることすら稀な彼女がこんな時間に出歩いているのは、辰巳の腕の中から自分の褥へと戻る途中だったのだろう。白い項には薄紅の花弁が一片張りついているが、この季節によくもまあ見事に桜を咲かせたものだ。いくら辰巳が近隣の娘をも騒がせる、長身かつ白皙の美男子であるとはいえ、嘆かわしい事この上ない。

 文子の父は草太も尊敬する、立派な学者であるというのに。その娘がこの体たらくとは。いくら本当の母親を幼い時分に病に奪われたとはいえ――今の教授の妻は、親類の勧めで娶った後添えなのだった――あんまりではないだろうか。

「まあ、どちらでも同じよね。あなた、学生さんの中では一番お母さまにこき使われているもの。もっと、他の皆さんみたいにお母さまと上手く・・・やればいいのに」

 世話になっている方の息女でさえなければ、いつのまにやら猫のごとく草太に近寄って来た彼女に一切応えず、この場を立ち去れもしただろう。

「ねえ。あなた、植物には詳しいんでしょう? だってあなたが来てから、通いで庭師に世話させていた頃よりも、お花が綺麗になった気がするんだもの」

 これまでになく近くで眺める面の、艶やかな頬は白桃もしくは酔芙蓉すいふよう

 酔芙蓉の花弁は、夏から秋の朝から夕にかけて、雅やかに色を変える。透き通った白磁から、酩酊した手弱女たおやめはだえのごとき紅へと。加えて、夕暮れには萎む儚さを愛して、教授は庭中を酔芙蓉で飾った。薄紅の絽を纏った文子が物思いに耽れば、酔芙蓉の化生の風情が漂うのは、満開の酔芙蓉を背にしているからなのだろう。

 白魚の指でまだ色づいていない花弁を撫でながら、娘は長い睫毛をそっと伏せる。

「私、酔芙蓉は白より赤いのが好きなのよ。なのに、朝は白いのしか咲いていないなんて、残念だわ」

 もしも朝から赤い酔芙蓉が咲いていたら、もっと早く起きれるかもしれないのに。草太ですら判ぜられる戯言を嘯きながらも、文子の潤んだ大きな瞳は真剣だった。

「一度でいいから、見てみたいものだわ。朝一番に。真っ赤な、血のように赤い酔芙蓉を」

 冗談にしては声音に熱がこもり過ぎ、本気にしては荒唐無稽な願望を吐きだして、麗しい娘は踵を返す。その嫋やかな後ろ姿をいつまでも見つめていたものだから、草太は結局その日も、首筋を焦がすこととなった。次の日も、また次の日も。文子が再び通りかかりはしないかと、ほっそりと優雅な姿を探したから。触れれば折れそうに線が細い文子だが、天性の華やかさゆえに、一重や二重よりかは八重咲きの酔芙蓉を連想させる。


 日中の遅れを夜分に取り戻そうとの、もう何度目になるかは分からない試みは、此度も実を結ばなかった。涼しい夜風に頬を撫でられ、草太が重い目蓋を開いた折には、煌々と照る月は既に頂きから落ちている。

 既にあやふやな記憶が正しければ、夕餉を済ませた後すぐに机に向かったはずなのに。それから今に至るまでの経緯は、泡沫のごとく消え失せてしまっていた。今宵草太が得たものがあるとすれば、酔芙蓉の精との邂逅の喜びのみ。だがそれすらも、所詮夢路でのことなのだ。

 ――それもこれも昨日、奥様が他の奴らと遅くまでどんちゃん騒いでたからだ。特に、辰巳の騒ぎようと言ったら……。

 自らの意思の弱さへの、あらゆる意味での怒りを他者へと擦り付け、青年はのそりと立ち上がる。

 今宵は月が明るい。厠にでも行ってすっきりすれば、まだ幾ばくかは勉学に励めるだろう。と、考えを改めたのだ。しかし染みついた習いゆえに抑えた足音も、幽かに聞こえる苦しげな女の声ゆえに、ぱたりと止まってしまって。

 この屋敷に住まう女は、文子とその義母たる教授の後添えのみだが、夫人の部屋はここから正反対と言っても良い位置にある。それに夫人は今日も今日とて、夫が目を瞑っているのを良いことに、草太を除く学生と酒盛りの真っ最中のはずだ。草太の地味で冴えない容貌は、美男に目がない奥方の眼鏡には適わなかった。ゆえに草太は、淫婦の毒牙に掛からずに済んでいるのである。

 熟しきった果実さながらの色香を放つ奥方と、瑞々しい美貌の文子。二人に取り合われていると専らの評判の辰巳も、今晩は奥方の室にいるはずだ。なのに、このか細い声は一体どこから聞こえてくるのだろう。

 煌々と照る月の明かりを頼りに、鼠か泥棒になりきって青年が歩を進めると、怪しい声はどんどん大きくなった。誰のものなのか、直ちに判ぜられるぐらいには。

 教授の亡き先妻の位牌を置いているという、よほどのことがなければ夜半には近寄るのを遠慮したい一室。その畳の上で、故人の夫と娘がまぐわっているのが、僅か開いた戸の隙間から垣間見えた。

 赤い縄で手足のみならず、形良い乳房や腿までも縛められた文子は、虚ろな目をしている。月光とたった一本灯された蝋燭の炎に晒された素肌は、肉の亀裂を舌でいじられているというのに、今にも消え入りそうに白い。さながら朝一番の酔芙蓉だった。それでも草太が尊敬していたはずの人物は、自分の唾液で湿らせたそこに後ろから押し入って、肉と肉がぶつかるおぞましい音を奏で始めたのである。

 あまりにおぞましい光景に、庭仕事によって多少なりとも鍛えられていた足腰の力は萎えた。しかし、ここで崩れ落ちて物音を立てたら、口封じにどんな目に遭うか分からない。ただちにその場から立ち去らんとした草太だが、狼狽えるあまり足音を殺すのを失念していた。

 男にしては小柄な草太であるから、抑えずとも大して足音は響かない。だが、我が子の尻に腰を打ち付けるのに熱中するけだものはともかく、組み敷かれた娘の耳にその音が届かなんだかどうか。

 草太は己に割り与えられた室に帰ってから失態を悟り、無論一睡もできずに残り僅かな夜を明かした。もしかしたら昨夜の狂態は、自らの内に巣食う不埒な何かが見せた夢だったかもしれない。などとなけなしの勇気を奮い立たせて戸をそろりと開けば、独り酔芙蓉の前に佇む若い娘の姿が真っ先に眼に入って。

 しなやかな指で昨夜萎んだ酔芙蓉を弄ぶ文子は、草太が再び戸を閉めるよりも早く、匂やかな唇を開いた。

「……夜、通りかかったのは、お前ね?」

 夢であれば、との草太の幽き希望を、白い花と共に引きちぎる文子の面には、一切の表情がない。

「これで、だいたい察しがついたでしょう? 本当に辰巳とできているのは、新しいお母さまの方。お父さまは、私とのことを世間に口外しない見返りとして、お母さまに好きにさせてるってわけ。私に関する噂も、お父さまがあえて流したの」

 今日は涼しい藍色を纏っているがゆえに蒼ざめて見える娘の、ちらと除く手首には、確かに昨夜の縄の痕。

「私の本当のお母さまはね、身体の病で死んだんじゃないのよ。お父さま――あの人が私にしたことを知って、心を病んで、終いには首を括って死んだの」

 早朝の涼しい風が、真っ直ぐに降ろされた緑の黒髪をたなびかせる。

「赤い縄だったわ。赤い赤い、血のように赤い縄で、お母さまは首を吊って死んだ。あの人がまだ七つだった私を縛るのに使った縄で」

 何の感情も宿らぬ声は、歌うように囁いた。

「どうして、酔芙蓉は朝には赤くならないのかしら。朝、赤い酔芙蓉が咲いていたら、とても綺麗でしょうに。血のように赤い、赤い、赤い……」


 明くる翌朝の、鶏がようやっと起き始めたかという刻。草太は朧な記憶を頼りに文子の部屋へと急いだ。

「文子さん」

 弾む声で名を呼べば、くぐもった声が応える。

「ついてきてください。赤い酔芙蓉が咲いたんですよ」

 何事かと細い眉を顰める彼女をせかし、登りたての朝日に照らされた庭へと案内する。もはや見えなくなった星さながらに白い花を付ける木の根元では、この家の主人の首が転がっていた。白いものが混じる髪を血で濡らし、同じく紅に濡れた手足に紛れて。

 胸を、腹を、手足を。滅多刺しにされ、ばらばらに解体された男の身体から吹き出た潮は、雪のごとく白いはずの花を真っ赤に染めている。漂う鉄さびの臭気やはみ出たはらわたに脳髄、飛び交う蝿もものともせず、足取りも軽やかに赤い花へと近づいた娘は、頬を真昼の酔芙蓉にして感嘆の声を上げた。

「まあ、なんて綺麗なの!」

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酔芙蓉の君 田所米子 @kome_yoneko

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